Chi-On

王冠の下僕

扉一枚分の距離

 最後に恋をしたのはいつだっただろう。
 青春と呼ぶにふさわしい時期はずっと売れもしないバンドを組んでいた。別のバンドの女性ヴォーカルに恋をしたこともあるし、大学を卒業して王冠に就職した後も業界の女性スタッフとそういう関係になったこともある。二十代の頃は合コンに呼ばれていたし、今でもそれほど隠遁した生活を送っているわけでもない。
 でも、と俺は思うのだ。
 俺の中に音楽より大事なものなんてない。
 恋の歌を作りたかったから恋をしてみたり、女性と付き合ってみたり、女性の趣味を調べたりしただけで、「本当の」恋なんて一度もしたことがないんじゃないか。
 なんてことを最近つくづく実感する。
 ハイハットを小刻みに鳴らしながらバスドラをしっかりと効かせていく。スネアをリズミカルになぞればそこは無限の世界だ。俺の俺だけの世界にどっぷりと浸かっている。耳のインカムからはシンセに打ち込んだラフのメロディーが流れる。
 この瞬間だけ、俺は生きているのではないか、と思ったりする度、世間の評を思い出す。
 王冠の音楽家は音楽を愛しすぎている。
 それの何が悪い。シンバルを高く鳴らした。鳴らした後で、ここはハイハットの方がよかったな、なんて頭の中にメモ書きを残す。
 王冠がシャイニング事務所の子会社になってから半年。宮藤が社長だった頃には夢だった自分専用のスタジオが手に入った俺はいっそう音楽の虜になっていた。最初は必要最低限のドラムセットとシンセサイザーだけを置いていたのだけれど、今ではロックバンドを一組結成出来るだけの機材が揃っている。シャイニング事務所の黒崎を中心としたメンバーがそれぞれのオフの日に自分の楽器を持って遊びに来ては、俺の手が空いた時間でお遊びの音合わせをしている。黒崎がメンバーを連れてくるので、大体はロックになってしまうのだけれど、俺も元々その畑が出身だったので特に苦労はしていない。
 そんな、音楽に恋をしている俺のある日に神宮寺レンは小さな幸せと曖昧な疑問を持ってやってきた。

「君(くん)さん、父親ってどういうものかわかるかい?」
「一般論的解答で? 俺の体験談で? それとも君の願望の暗黙的な肯定で?」

 神宮寺が俺のスタジオのブースの中で、最近始めたというアコースティックギターを抱えながらマイク越しにそんなことを尋ねてきた。その小さな質問のうちに彼が彼の愛する七海との間に二人目の子どもを授かったのだということを理解し、問いに問いを返す。神宮寺は苦笑いを浮かべ、相変わらず一足飛びなんだね、と答えを濁した。

「息子か娘かを訊いた方がよかったのか?」

 藪をつついて蛇を出す質問だとわかっていて言った。皮肉のつもりだったのだけれど、この切り返しは神宮寺に幸せを思い浮かべさせる要素しか持っていなかったらしい。甘い顔立ちに万遍なく充足を浮かべて、にこりと笑った。

「娘、だからハニーに似て可愛い子になってくれるといいな」

 七海に似た娘なら幼い頃は神宮寺の取り合いだろう。わたしはおおきくなったらパパとけっこんするの。そんなありきたりで陳腐な台詞が浮かぶ。その小さな自己主張に神宮寺は残念だけどパパはもうママと結婚しているからごめんね、と返す。不貞腐れたお姫様をふた親が柔らかく、大切に慈しむ姿が容易に想像出来て、俺も不意に温かい気持ちになった。
 神宮寺に似た娘なら、彼はきっと相手にもしてもらえないだろう。今度はきっと七海の取り合いだ。どちらにしても幸せな光景だと言える。
 そんな二人の傍らにいることを許された現実がまるで夢のようで、俺は少しだけ彼らを羨ましいと思った。
 だからだろうか。
 アコースティックギターを抱え、不安など一つもないような顔をしている神宮寺にほんの少し、残酷なことを言ってみたくなった。

「神宮寺君、理想の父親になりたいのなら、それは最初から諦めた方がいい、と忠告しておく」
「理由は?」
「カンさんの恋愛遍歴は有名だろ?」
「ああ、そういうこと」

 宮藤莞爾(かんじ)の恋の経歴と、彼の血のつながった三人の娘との確執は芸能界では有名な話だ。音楽を愛しすぎた音楽家である宮藤は三度の結婚を経験しているが、どの女性よりも音楽を優先してしまう性格が災いして、三度の離婚を経験している。かつての妻との間に三人の娘がいるのだけれど、妻よりは娘の方が大切らしい。娘たちへはそれなりの関心を持ち、接してきたが、結局彼女たちの誰一人、音楽を愛してくれることはなかった。
 宮藤は今も何が悪かったのかを理解していない。ただ、もう結婚をするだけの情熱は残っていない、とぼんやりと零すぐらいには落ち着いている。
 理想の父親を演じようとして失敗した代名詞として、宮藤の名は芸能界では有名だ。
 子どもを育てるのは教本通りにはいかないし、模範解答もない。試行錯誤が後になって結果を見せるだけで、その瞬間の最適解なんて誰も知らない。
 それでも、子どもは親を見て育つ。
 だから、多分神宮寺の「父親」としての人生も艱難辛苦に満ちているだろう。一年前、彼らの間に息子が生まれたときから、神宮寺の人生は彼だけのものではない。姉妹のいない神宮寺にとって女の子の父親、というのは理解の範疇を越えているのだろう。だから、彼は仲間たちや先輩に小さな自慢を装って助言を求めている。
 俺のところに来たのもそうだ。結婚していないどころか、現在進行形で恋人のいない俺にだって、俺が存在する以上父親がいる。その話を聞かせてほしいのだろう、と見当をつけた。
 だから。

「一般論なら一ノ瀬君辺りに聞かせてもらっただろうし、今回は俺の父親の話をしようか」

 本当は思い出と呼べるだけの何かなんて残っていない過去を振り返る。
 神宮寺の中に父親とのいい思い出が残っていないのと同じように、俺の中にもそのジャンルに分けられる記憶はない。
 せめて恨み節にならないように、なるべく平静を装って俺はぽつりぽつりと口を動かし始めた。

「君さんの父親ってどんな人なんだい? やっぱり音楽が好きなんだろ?」
「寧ろ大の苦手だったよ。楽譜も読めない人で、俺が家でピアノの練習をしていると癇癪を起すような人だった」

 俺の父親はカレンダー通りに働いていたので学校が休みの日は必ず家にいた。
 そして、俺がミュートをかけずに練習をしていると決まって怒り狂う。子どもの頃の俺には父親の怒りの理由がわからなくて随分困惑したのだけれど、今になって思えば、あれは多分俺を妬んでいたのだろう。ピアノの練習をしていると、音楽が好きな母親の興味は俺に向く。楽譜の読めない父親はその会話に入ってくることが出来ず、疎外感を感じていた。
 男が音楽なんてなよなよしたものを習う必要はない、と何度か言われたけれど、俺は中学を卒業するまでピアノを続けた。中学二年の時に宮藤の音楽に出会っていたから、高校では軽音楽部に入部してロックバンドのドラムを始める。ピアノは月に一度、個別指導に通うだけになった。
 その当時のことは今もよく覚えている。
 けれどその全てを語るには時間が足りなくて、俺は要旨を語るに留めた。
 苦笑いを浮かべた俺に、神宮寺は呆気にとられた顔をしている。

「それでよくドラムなんて出来たね」
「ローランドと母親には感謝してもし足りないぐらいだよ、本当」

 電子ドラムが普及し、比較的安価で供給されていたから、俺はドラムと出会うことが出来た。
 ドラムの練習は平日にしかしない。練習の時は必ずヘッドホンを使ってスピーカーからは鳴らさない。学校の成績は落とさない。ちゃんと大学を卒業する。
 そんな数え切れないほどの約束を母親が父親と交渉してくれて、俺は音楽を続けることが出来た。多分。父親の中で、いつの間にか音楽そのものが憎悪の対象になっていたのだろう。何が彼にそうさせたのか、結局俺はその答えを知らない。それでも、俺は音楽を愛していた。父親はそれを受け入れることが出来なかった。
 ただ、それだけのことなのだ。
 自嘲気味に笑みとも困り顔ともつかない表情を浮かべれば、ブースの中で神宮寺が困惑していた。こんなに立ち入った話をするのは初めてのことだから、距離感と解釈に戸惑っているのだろう。

「今はもう怒ったりしないのかい?」
「さぁ。二十一の冬に『音楽家になりたい』って言ったら縁を切られたからよくわからないな」

 就職用のリクルートスーツを着て、俺は実家に戻った。関東地方ではそこそこの偏差値と学閥を持つ大学に進学していたから、父親は俺がそんなことを言うだなんて思ってもみなかったのだろう。一流企業に入社して、順調に出世していく。不肖の息子と謙遜しながら賞賛される。そんな、甘い夢を見ていたのだろう。
 クラフトクリアクラウンズ、だなんて聞いたこともないような未上場企業に就職することも、その職種が音楽家であることも、父親は許さなかった。もう内定はもらっているから、と言った俺に煎れたての煎茶を浴びせ、言った。二度とうちの敷居を跨ぐな。お前とは親子の縁を切る。
 何が彼にそうまでさせるのか、二十一の俺には理解出来なかった。三十三の俺にも、まだ全部は理解出来ていない。ただ、俺は彼の理想の息子になりそこなったのだ、ということだけを茫洋と理解している。
 俺にとっての父親、というのはそういう存在だ。
 一方的で、強権的な何かを押し付けてくる相手。そういう父親だと漠然と理解出来ていたけれど、俺もまたそれを受け入れることが出来なかった。寂しいからと寄り添わなければならないほど弱くはないし、寄り添えばお互いを傷つけあう。そういう関係しか築けなかった。
 だから、本当のところ、俺は父親が何だかよくわかっていないのだ。
 抽象的で漠然とした答えを返せば、神宮寺の方が余程傷ついた顔をしている。
 彼も父親とは上手く行っていない。嫌なことを思い出させてしまったのか、と思案して、マイクのスイッチに手をかけ、押そうとした刹那、ブースの中から「君さん」と彼が俺を呼ぶ声がした。

「君さんは、父親にはもう会いたくない?」
「さぁ。これ以上、もう俺のことを否定しないのなら会ってもいいけど」

 それはきっと叶わない望みだろうと知っている。
 だから俺は恋をしない。恋の次の愛を知りたくないからだ。
 三十三にもなって何を馬鹿なことをやっているんだろうと自分自身に呆れ返る。それでも、俺の中にあの父親の血が半分流れている以上、俺は彼のような父親になる可能性を五割も持っているのだ。

「君さんを見てるとハニーに出会う前のオレみたいでむずがゆいよ」
「『本当の愛を知れば怖がらずにいられる』とか?」
「でもそれはオレがどれだけ説明したって君さんには届かない」

 だから。

「オレとハニーの歌を聴いてて。きっと、君さんにもいつか届けてみせるから」

 神宮寺が自信に満ちた声でそう告げたとき、俺の唇は無意識のうちに返答を紡いでいた。

「楽しみにしてる」
「言ったね? 覚えておいて。きっと、きっと君さんにも運命の人がいるはずだから」

 その若さが持つ希望の光の眩しさに目を眇める。
 恋なんてあってもなくてもいい。
 それでも、扉一枚分の距離の向こうにいる彼が数多の恋の果てに真実の愛を見つけたように。俺にも巡りあうべき誰かがいるのなら。
 その日が来るまでに俺だけの愛を見つけていたい、だなんて思って苦笑した。
 重なり合い、ときに激しく、ときに小さく鳴り響くハイハットシンバルのようなそんな人生を望んでいる。あってもなくてもいい。一つしかないバスドラムとは違い、二つ以上並ぶときもある。それでもある以上、曲をいっそう華やかにする。一曲の間にたった一度しか鳴らないかもしれない。
 それでも、俺はハイハットでありたい。
 そんな俺を鳴らしてくれる誰かと巡り会えたのなら。
 そのときは俺もこの扉の向こうで、懸命に音を紡ごう。その結果がどうなろうと受け入れるだけの覚悟を決めて。
 神宮寺の小さな幸せを祝福し、曖昧な疑問に更に疑問符を投げつけ、それでも俺の人生は続いていく。俺のドラムが俺の孤独が誰かに届くその日はいつなのだろう。
2014.03.09 up