Chi-On

王冠の下僕

眠る君に口づけを

 人というのは幸せに巡り会う為に生まれてくる。
 かつて宮藤がそう教えてくれた。
 二十三の俺にはその言葉の意味がよく分からなかったのだが、三十三になった俺には少し分かる気がする。
 ハイハットと愛の関係性をひとしきり説いた後、神宮寺は時間があるならば付き合ってほしい場所があるのだと言った。神宮寺と俺で出かける先など音楽関係か服屋ぐらいのものだから、二つ返事で了承する。今頭の中にあるラフのメロディーラインを譜面に落とせば今月のノルマは達成だった。
 今月の百番。寒風の中、凛と咲く小梅がモイーフの五音音階。主旋律は琴の歌謡曲調。上手く行けば聖川の次の舞台の背景音楽になれるかもしれない。コード進行を書き付けながらタイトルの案を思い浮かべる。寒梅の海。違う。梅林の妙。違う。吹きすさぶもの。イメージには近いが違う。

「『フロる・で・シロる』」

 タイトルがしっくりこず、譜面を書く手が止まる。隣からそんな聞いたこともないフレーズが聞こえたのは突然だった。

「ん?」
「スペイン語で『梅』。綴りは、こう――」

 言って神宮寺の流麗な字が譜面の上に踊る。「flor de ciruelo」と書かれたその意味は理解出来た。更に言外にこのラフのラテンアレンジを求めているのだと伝わり苦笑する。

「何だ? 俺、独り言でも言ってたのか?」
「言ってたね。聖川には桜があるんだから、他の花はオレがもらったっていいと思わないかい?」

 桜も桃も梅も。春の名花は皆聖川のものだなんてずるいじゃないか。
 大らかに笑って神宮寺が器用に片目を瞑って見せる。この曲、オレは好きだよ。王冠らしさがぎゅって詰まってる。そう言われて俺は苦笑した。

「君は梅のような可憐な花には興味がないだろう」

 桜も桃も彼の花ではない。そういう「和」の花は彼が言う通り聖川真斗の花だ。俺もそう思っているし、七海も、事務所もそう思っている。
 だから、俺は梅をモチーフにしたとき、聖川が使うことを大前提にした。
 だのに。
 神宮寺は今更物分かりの悪い少年ぶった態度で駄々を捏ねる。そういうことは彼の作曲家である七海に求めるように助言したけれど、オレは君(くん)さんの曲が聞きたいんだってと退かない。
 それどころか。

「じゃあオレは何だって言うんだい、君さん」
「世間一般ではアンダルシアの薔薇だな。でも」
「でも?」

 情熱を歌い、恋情を捧げる。そんな神宮寺に一番似合っているのは深紅の薔薇だ。世間は彼にそれを求めている。
 けれど。

「俺には君はクリスマスローズに見える」

 厳しい冬の寒さに耐え、俯いて咲く花。花弁の色は落ち着いたトーンが多く、遠くから見ても気が付かない。近寄って花のことを意識して見るとようやくその美しさに気付く。それでも、手入れさえすれば何年も同じ場所でずっと咲いている。
 神宮寺レンというのはそういう純粋さを持った人間だと暗に含めれば彼は困ったように笑った。

「そんなこと言うの、君さんぐらいだよ」
「七海君に訊いたらもっと可憐な花に喩えると思うけど」
「言い過ぎだよ、君さん。ハニーはもう少し格好いい花に喩えてくれるさ」

 そんなことをひとしきり言い合い、結局俺の中でのタイトルは「フロる・で・シロる」に決まった。来月にラテンアレンジをするのを予定に入れておく。俺自身がクリスマスローズに喩えた青年の願いを一刀両断するのは罪深い気がしたから、だなんてつまらない理由ではない。彼の美しい文字に音楽を付けてみたくなったからだ。
 デスクの上に散らばった何枚かの譜面を封筒に仕舞い、ペンケースと一緒に鞄に放り込む。ノートブックとイヤホン、それから打ち込みの終わったラフを入れた携帯オーディオもついでに仕舞って、俺は席を立った。

「それで? 花の話がしたいわけじゃないだろ?」

 言いながら壁のハンガーに掛けていたジャケットを回収する。神宮寺のコーディネイトで先月買ったばかりの夏ジャケットだ。生地と同色の糸で細かいレースが襟元や袖口に使われている。一見するとレディースにしか見えないので着回しに困る、と遠回しに購入を辞退したのだけれど、じゃあ他の着こなしも教えてあげるから、と強引に購入させられた。
 多分、これから行く先でもシャツだのボトムだのを俺の経済が破綻しない程度に買わされるのだ。最初の内は戸惑いしかなかった神宮寺先生のファッション講座だったが、最近では存外悪くもないと思っている自分自身も決して嫌いではない。
 十人並みの容姿だけれど、適度に着飾れば二割ぐらいはましに見えると知ったからかもしれない。
 手際よく出発の準備をする俺の隣で、神宮寺はアコースティックギターをハードケースに仕舞う。そしてそのまま、スタジオの壁に立てかける。ここに置いておく――と言うよりは明日も来るぞ、という言外の宣言を肌で感じた。
 そして彼は椅子の背もたれにかけていた上着を羽織り、品のいいサングラスを装着してから、ちら、と悪戯気に目配せをする。

「最後に一つだけ、いいかな、君さん」
「まだ花に未練があるのか」
「君さんにとってハニーは何の花だい?」
「さあ、何だろう。七海君の曲を作ったことはないから考えたこともない」

 ただ、漠然と彼女に喩えられる花なんてこの世にないのじゃないかと思う。
 そう、率直に告げれば神宮寺は我がことのように喜び、そして帰るまでに考えておいてよ、と言った。
 その意味を俺が知るのはもう少し後のことになる。

「で? 今日は何を買いに行くんだ」

 俺のスタジオがあるのは地上七階だから階段で降りるのは流石に遠慮したい。エレベーターホールで箱の到着を待ちながら札入れの中身を確認する。王冠がシャイニング事務所の子会社化してから、俺の給与は見違えるほどになった。それでも札入れの中身には大して違いはない。貧乏性が染み付いている、と自嘲した。
 俺の嘆きを知らない神宮寺が「買い物で身構えないでほしいな」だなんて穏やかに笑う。俺は彼のこの自然な笑顔をことのほか気に入っている。ステージの上の獰猛な彼も十分に格好いいのだけれど、親しい人間にしか見せない気負わない彼の笑みは見ているこちらも幸せな気分にさせるからだ。

「本当は君さんのシャツを買いに行こうと思ってたんだけど、今着てるので十分似合ってるね。君さんのその眼鏡って近視? 伊達?」
「コンタクトして伊達」

 だから彼の問いはどちらもイエスだ。
 まどろっこしい真似をしていると揶揄われるかと思ったけれど、それはない。
 ディファインとかには興味ある? と訊かれたので首を横に振って否定した。男の黒目が大きくて喜ぶやつは少ないと思う。
 そんなことをやり取りしている間に軽やかな電子音がホールに響き、固く閉ざされていた扉が口を開く。先客も次の客もなく、エレベーターは操作した通り、ゆっくり地階へ向けて降下し始めた。
 一番奥の面が鏡になっているので自分の今の格好を改めて見る。

「じゃあ、今日は眼鏡屋に行こうか」
「似合ってないのか?」
「いかにも優等生っぽいよ。君さん、嫌いだろ? そういうの」

 嫌い、と言うよりは苦手なのだ。印象を押し付けられているようで何とも居心地が悪い。音楽しか詰まっていない頭の中に勝手に「知的」だの「理性的」だのとレッテルを張られるのが好きではない。というより、それらは過大評価なのだ。そんな期待をされても困るし、俺の本質はもっと別の場所にある、と声を大にして言いたくなる。そしてその度に俺は音楽を作ってきた。
 神宮寺はいつからかはわからないけれど、それを知っている。
 だから、完璧を二つほど外して生きる術を奇特にも伝授してくれているのだろうと俺は思っている。多分、彼が軽薄そうだの短絡的だのと評されるのが嫌なのだと根源的に似ているのだ。
 取り留めのないことを考えているうちに箱は俺たちを地上へと送り届けた。軽い電子音と共にドアが開く旨を告げる音声が流れる。
 俺に似合って優等生然としていない眼鏡に今から出会えると思うと心が少し軽くなる。神宮寺が見立てるのだから今月も貯金は出来そうにないな、と諦観して二人箱を出た。
 その後は神宮寺に連れられるがままに二軒ほど眼鏡屋を巡り、結局最初の店で個性的なセルフレームを買った。結局、ついでだからと新しいフレームに合うシャツも買うことになって俺の経済は貧窮したが、まだ生きていける許容範囲内だ。
 更についでだから、と行きつけの楽器店に立ち寄り、趣味と実益を兼ねた買い物を済ませた頃、神宮寺はそろそろ答えを聞かせてもらえるかい、と言う。

「答えって、何の」
「ハニーを喩える花は何かって話」
「ああ、それか。まだ有効だったのか」

 この長い買い物の間に有耶無耶になったとばかり思っていた問いを投げかけられて俺は返答に詰まる。

「七海君の花、ね」
「ちなみに、オレの中ではたんぽぽになってるから」
「その心は?」

 雑草だけどしゃんと背を正して陽の光を受けている。雑草だから、どこにでも誰の心にでもすぐに芽吹く。どんな苦境でも下を向かない。上っ面を踏みつけても何度でも立ち上がる。そして花が終われば軽やかな綿毛を纏い、天高く飛び立ってく。遥か、遠く。どこまででもそのかけらが届く。

「ハニーにぴったりの花だろう?」
「そう思うのにどうして俺の答えが必要なんだ?」

 俺の前を歩いていた神宮寺が不意に足を止めて振り返る。自信に満ちた声を発していた彼の口元に苦汁が満ちていた。サングラスを少しだけ下へずらす。困惑がその瞳を照らした。

「花束に出来ないからさ」

 夏の日射しは俺たちを今も照らしている。たんぽぽの花はとっくの昔に綿毛を飛ばし、枯れた。花束にするには時期があまりにも遅すぎる。
 神宮寺の苦悩はもっともだ。けれど、どうして急に花束が必要なのだろう。

「今日は何かの記念日なのか?」
「ハニーが明日から出産休暇なんだ」

 だから、事務所に顔を出すのは今日で一旦最後になる。産休を取るけれど、可能な限り自宅で作曲は続ける。どんな理由があったとしても、七海から音楽を取り上げるのは苦痛しか生まないだろう。だから、仕事は続くし、神宮寺も今まで通りだ。
 それでも。

「ハニーから音楽を取り上げるのはオレだから。ごめんねとありがとうを伝えなくちゃならない」
「相変わらず変なところで馬鹿だな、君は」
「君さんほどじゃないよ」

 泣きそうに細められた眼差しが彼の幸せの葛藤を伝える。神宮寺は時々変なところで引っかかって前に進めなくなる。素直に幸せになればいいのに、無条件に愛されることに身構えてしまう。七海といるときの彼はカリスマアイドルの神宮寺レンではない。ただ一人の不器用な青年だ。
 だから。

「オレンジのガーベラだ」
「うん?」
「オレンジの、ガーベラ。君の祈りを表すなら七海君はオレンジのガーベラだ」

 オレンジのガーベラの花言葉は「我慢強い」だから七海には相応しいだろう。オレンジ色の――神宮寺のパーソナルカラーに染まった彼女の境遇も暗示している。
 そう、端的に告げれば神宮寺はぱっと顔を輝かせた。

「君さん、やっぱり君さんに相談して正解だった」

 ありがとう。これで買いに行く花が決まった。
 だなんて零れ落ちそうな笑顔で神宮寺が近づいてきて肩を叩く。
 そのあまりの喜びぶりに驚いて、俺は少し困惑した。

「そもそも、どうして俺に相談したんだ、君は」
「聖川には借りを作りたくなかったし、ランちゃんは相談とか聞いてくれるタイプじゃないだろ?」

 ラジオのMCであれだけ傍若無人に振る舞っていれば言われなくともわかる。黒崎は優しい本音を隠すために粗暴を装っているが、それでも面倒に関わり合いたくないと思っているのも事実だ。神宮寺流の気障な演出など天地がひっくり返らなければ受け入れてもらえないだろう。

「その二人以外に頼る相手はいないのか、君は」
「君さんがいるじゃない」
「一ノ瀬君とか翔君とかに相談しようとは思わなかったのか?」
「嫌だよ。イッチーやおチビちゃんに相談したら、ハニー争奪戦の再発じゃないか」

 ST☆RISHは皆ハニーの音楽に惚れてるから態々一緒に美点を振り返ったりするなんて藪蛇だろ。さも当然のような顔で彼は言う。それとも、君さんはST☆RISHが揃って仲良くハニーのいいとこ探しをするような純朴な男ばかりだと思っているのかい。問われて静かに首を横に振った。

「その点、君さんは心配がないだろ?」
「王冠の音楽家だから?」
「そう。恋より音楽を選ぶ王冠の音楽家だし、それにね」
「それに?」
「君さんはオレとハニーの大切な友だちだから、人の心に土足で踏み込んで来たりしない。君さんなら、きっと、ハニーのことを大事にしてくれるって信じてる」

 なんて、ちょっと気障だったかな。言って神宮寺が後頭部をかく真似をした。

「そう思うのなら、神宮寺君」
「何だい、君さん」
「さっさと花屋に寄って、君は一秒でも早く家に帰ることだ」
「でも、君さん。君さんに似合うハットがまだ買えて――」
「神宮寺君。俺は君と違って容姿で生きていないから、それは別に明日でも来週でも来月でもいい。勿論、君がその未来まで俺の友人でいてくれるのなら、の話だが」
「君さん、だったらオレも君さんに一つ言っておくよ」
「何を?」
「そんなに人を試したりしなくても、オレは君さんから離れて行ったりしないよ」

 ハニーとの結婚を祝福してくれた。娘が生まれるって聞いて言いにくい思い出の話を聞かせてくれた。そんな誠実で真摯な君さんのことを馬鹿にするやつがいるのならさっさと切り捨てたらいいんだ。オレは君さんから離れて行ったりしない。君さんがオレの友だちでいてくれる限り、オレは君さんの友だちだからね。
 それだけを一方的に言い切ると神宮寺はサングラスを深くかけなおして、踵を返した。
 その背中を見ていると、不意に不甲斐なさが込み上げてきた。人から試される痛みを知っている神宮寺を試そうとしていた自分が恥ずかしくなり、俺は慌ててその場を駆けだす。
 茨の森の向こうで来るものを拒んでいた眠り姫。王子の情熱で目を覚ました彼女はそのあと、どうしたのだろう。
 俺たち王冠を輝かせるシャイニング事務所のプリンスたち。代わる代わる彼らは王冠を磨いていく。
 磨かれた王冠なら。目覚めた眠り姫なら。
 多分。
 いや、きっと。

「神宮寺君、俺も行こう」

 神宮寺は俺だけの王子ではないけれど。それでも、彼と過ごす時間を快いと思うのならば、この場所を守る努力をしよう。
 そんな決意を込めて俺は神宮寺の隣を歩く。
 帰り道の岐路まで残り三十分。神宮寺は満更でもない顔で俺に似合うハットの話を始めた。
 
2014.03.09 up