Chi-On

王冠の下僕

この熱の意味を教えて

 神宮寺が無事ガーベラの花束を手にし、お互いが帰路に着いてしばらく経った頃のことだ。
 俺は不意に現在使っているスティックが摩耗してきたことを思い出し、今来た道を引き返した。時計を見ると閉店時間が迫っていたので早足で店へ向かう。随分と陽が長くなったものだ、なんて思いながら空を見上げた。
 楽器店に着いたのはそれから五分後のことで、熟考するには足りないが、それなりに吟味するだけの時間は残されていた。スティックの並ぶスペースでああでもない、こうでもないと目につくものを片端から降っているとその声が聞こえた。

「おい、ユミ」

 てめぇまたスティックかよ。
 そんなことを言う知り合いは俺の交友関係の中では一人しかいない。

「黒崎君」

 スティックを空中で回転させ、右手に収める。この使い心地ならば大丈夫かもしれない、なんて思いながら後ろを振り返ると案の定、黒崎蘭丸が呆れた顔で立っていた。
 その手にはスチール弦の袋が収まっていて、彼の方こそまた弦かと返したくなる。
 俺と彼がこの店で顔を合わせるときは概ね現状に近い。俺がスティックを、彼が弦を求めている。もっとも、黒崎の方は俺よりも頻繁にこの楽器店に訪れているらしいので、「また」という表現は彼の為にある。

「いつも思うんだが」
「何だよ、ユミ」
「どうして君ほどのミュージシャンが態々小売店へ弦を買いに来ているんだ?」

 事務所にはこの楽器店の行商が来る。その時に望んでいるものを伝えれば、事務所の経費できちんとオーダーメイドしてもらえるはずだ。俺のスタジオにも同じく行商が来るので、人のことを言えた義理ではないのだけれど、不意にそんなことが気になって問うてしまった。
 そうすると、黒崎は眉間に皺を寄せ、てめぇに言われたくねぇ、と顔を背けてしまう。

「で? 気に入ったのは見つかったのかよ」

 顔は横を向けたまま、器用に視線だけで俺を射る。その眼光に鋭いものはなく、俺は軽く笑って答えた。

「もう一本、探さないといけないみたいだ」

 右のスティックは今決まった。これでいける。けれど、左はまだ一本も試していない。ちら、と左手にはめた腕時計の盤面に目を走らせる。閉店まで残り十五分。多分、十五分では余程幸運でない限り、俺に合うスティックには巡り会えない。明日、マネージャーに百曲のラフを提出してからもう一度この店に来なければならないだろう、と曖昧に言えば黒崎は大きく鼻で笑った。

「てめぇ、腕の割に拘りがありすぎんだよ」
「そうかな。君以上に音楽にシビアな人は社長しか知らないんだが」
「王冠の音楽家のくせに何言ってんだ」

 てめぇら全員、拘りの塊だ。ま、そうでなきゃおれはおまえらの音楽なんて認めねぇけどよ。
 言って黒崎は奥へ――カウンターの方へと消えていく。彼の用件は済んだのだろう。精算を済ませるようだった。
 その間も、俺は左のスティックを探してよさそうなものを次から次へと振り続ける。残り十分になってもこれという一本に出会えない。このディスプレイの中に俺の運命の一本はないのだろうか、だなんて泣き言を漏らしそうになる頃、その声は帰ってきた。

「おい、ユミ」
「うん? 帰ったんじゃなかったのか、黒崎君」
「店、閉まったら地下のスタジオに来い」

 おれも一緒にスティック選んでやる。ありがたく思え。
 それだけ一方的に告げると彼はまたも踵を返し、店の奥へと消えた。シャイニング事務所に所属してわかったことなのだが、この大通りに面した楽器店の地下には三つのスタジオがある。シャイニング事務所に所属しているアイドル、作曲家だけが使える特別のスタジオだ。
 黒崎の肩には愛用のベースがあった。その彼がスタジオに用事がある、と言うのなら多分今から弦の張替えでもするのだろう。そして試しに音を鳴らしてみたい、といったところだろうか。
 ついでに俺のスティックも選んでくれる。但し、代償として彼と音を合わせるよう強要された。とは言っても、俺としても新しいスティックの使い心地を早く知れるのに越したことはない。要するに誰も損をしない駆け引きだ。
 俺はとっくの昔に消えた背中に向けて小さな笑みを送った。
 十分後、店はつつがなく閉店処理を終え、俺は結局左のスティックを見つけることが出来なかった。黒崎からの指示を聞いているだろう店員が俺を地下へ先導する。
 果たしてそこには新しい弦のチューニングをしている黒崎がいて、そこまでは納得出来た。想定の範囲内だ。
 ただ。

「黒崎君、その段ボール箱は?」

 黒崎が腰かけている中ぐらいの大きさの段ボール箱の側面には大きな文字で「ドラム(在庫)」と書かれている。説明されるまでもなく、その箱の中には店頭には並ばないスティックが入っているのだろうと理解した。そして、同時に黒崎が十分前に言ったことは夢でも幻でもないのだと知る。彼は彼のベストを尽くして、俺のスティックを選んでくれるのだろう。

「見ての通りだ。財布の中身は気にすんな。明日、事務所に請求する」
「俺の名義で?」

 それは困る。今月、俺に割り当てられた予算はシンセサイザーの修理で綺麗に飛んでしまっている。だからと言って俺が自腹を切るには余裕がない。俺の今月の予算は今日、神宮寺との買い物でかなり減ってしまった。
 だのに、黒崎が座っている段ボール箱の側面に書かれたメーカーはそこそこ値の張るものばかりで、確かに質はいいだろうが、俺には少し贅沢が過ぎる。
 そんなことを瞬時に顔色に浮かべると黒崎は弦を弾く手を止めて溜め息を吐いた。

「馬鹿か。レンに付き合ってすってんてんの癖に強がってんじゃねぇよ。事務所の経費に決まってるだろうが」

 その正鵠を射た指摘に俺は眼を大きく見開く。

「俺は君にまだ言い訳もしていないと思うんだが」
「救いようのねぇ馬鹿だな」
「何が」
「その袋。レンが気に入ってる店のだろうが。隠してぇならもっとこそこそやれ」
「それを一目で看破出来る君もそれなりだと思うよ、俺は」

 うっせぇ。と言って黒崎が手元のベースに視線を戻す。
 照れ隠しなのだろう。箱から立ち上がって俺の隣に来る。四弦のどれもが調律を終えているようだった。神業のような速さで黒崎が爪弾いた。アンプに繋いでもいないのに下腹に響く。きちんと機材を通せば聞き惚れるような音になるだろう。その予感が俺の心の中をさざめかせた。

「で? 何でまたロック用のスティックなんざ探してやがったんだ」

 そこの箱に集めさせたけどよ、てめぇの本職はジャズだろうが。もっと丸い音の方がてめぇに向いてるんじゃねぇのか。
 そう言われて、そこまで彼が把握しているのなら偽る方がいっそ業が深い。そんな気がして真実を告げた。

「聖川君と神宮寺君のアレンジが思いついたから、どうせなら君の分も、と思って」
「けっ。セット扱いかよ。心配して損したじゃねぇか」

 色違いの双眸が薄らと曇る。その曇りを払えるのは時間や言葉ではないと俺は知っている。
 だから。

「今、鳴らすことも出来るんだが?」
「あんだって?」
「今、君だけの為のアレンジを演奏することも出来る、って言ったんだ」

 敢えて煽るように言った。黒崎の矜持に相応しいだけの音を鳴らせるのだと、その為に俺はスティックを探していたのだと返す。元々俺はロック出身だ。王冠で松本と出会ってジャズやフュージョンも手掛けるようになったが、本質的にはロックが身についている。黒崎とは決して理解しあえないわけではない。
 そのことを、俺は彼に証明して見せなければならない。
 彼が俺のドラムスティックを選ぶ手伝いをしてくれる見返りとして、彼が歌うに相応しい音を鳴らして見せなければならないのだ。
 その、俺の幼稚な挑発に乗って、黒崎は鼻先で俺を笑う。

「即興の速さだけは一流だぜ、おまえ。おれだけのアレンジだって? 聴かせてもらおうじゃねぇか」

 主旋律はどうする、と問われたので十分くれと返す。スタジオに当たり前の顔をして置かれているシーケンサーの前に座り、返答を待つことなく音を打ち込み始めた。
 十分の間、黒崎は俺の行動をじっと見つめながら待っていた。無言の圧力をひしひしと感じたけれど、そんなことを気にかけている場合ではない。俺は、彼の為に音楽を作ると宣言したばかりなのだから。
 殆ど一発取りに近い粗っぽい主旋律を打ち込み終え、ヘッドホンを外す。黒崎が丁度、十分だと苦く笑った。

「これが元のモチーフだ」

 鞄の中から今日の午後、書いたばかりの「フロる・で・シロる」の譜面を取り出し、提示する。黒崎はそれを無言で受け取り、五線譜に目を通す。一分ほどで彼は三枚のラフを読み終え、一人で頷いた。
 そして。

「ギターを呼んで来い」

 壁面に取り付けられた内線で彼は楽器店に勤めているギタリストを呼びつける。彼は今日もいつも通りに隣のスタジオで残業をしている、という答えがあり、間もなく俺たちのスタジオに顔を出した。不平不満をこぼすことなく、今日は何の曲ですか、と淡々と尋ねてくる辺りに黒崎の傍若無人ぶりが垣間見える。黒崎はそれを一切気にすることなく、俺のラフをギタリストに押し付けた。

「五分後に合わせる。いいな」

 ギタリストは苦笑し、最近は王冠のロックが流行っているんですか、と言いながらも譜面を読んでいく。その中に不調和を見つけて、俺はぽつりと呟いた。

「王冠でロックを書くのは俺だけのはずだけど」
「いえ、ツモさんが先日来られて、今度のコンペに出すからと仰るんで試しに僕が弾きましたよ」
「ツモさんが?」

 松本と言えばジャズとクラッシックだ。それ以外にも時折お遊びで曲を書くこともあるが、基本的には先の二つしかコンペには出さない。
 その、彼がロックを書いたと言う。
 音楽家としてその譜面が喉から手が出るほどほしくなった。
 その、気の迷いを黒崎は看破する。

「ユミ、余裕だな。王冠の下僕も随分と偉くなったもんだぜ」
「俺の中じゃ、もう譜面は決まってる。あとは」
「あとは、何だよ」
「左のスティックがまだ決まっていないんだ」

 閉店を告げられた時にレジスターを精算しなければならないから、と右のスティックは支払いを済ませた。ただ、単純な話だが、まだ決まってもいない左のスティックを買うわけにはいかず、俺はスティックを一本だけ持って地下へ降りてきている。ドラムは一本では演奏出来ない。
 そのことを告げると黒崎は小さく溜め息を吐いた。

「手持ちは?」
「チップが随分とすり減ってる。ただ」
「何だよ。相変わらずまどろっこしいやつだな、てめぇは」
「手に馴染んでる分、今ここで初めて新しいスティックに変えるより、いい音が出せる」

 だから、あとはキレのある音を新しいスティックで出すか、それとも微妙なニュアンスを古いスティックで出すか、どちらかを選ぶのかだが、それは黒崎の自由だ。今から演奏するのは黒崎の為のアレンジだから、彼自身が選ぶべきだ。そう、告げると黒崎は鼻先で笑った。

「だったら、最初に手持ちでやって、てめぇが納得した新しいのを探してもう一回やる。それでいいじゃねぇか」

 何をぶつくさ言ってやがんだ。簡単なことだ。
 黒崎は言うなりベースを抱え直し、ざっとストロークする。いつの間にかアンプに接続されていたらしく、スタジオの中に心地のいい重低音が響いた。この、豪快でいてその実とても柔らかな音が俺は好きだ。この音を活かすための主旋律、リズム。そのどちらもが幾ばくかは俺の中にあることが誇らしい。
 壁際に置いた鞄の中から、摩耗したスティックを取り出す。チップの先端が削れ、もう随分と丸い音になっているがそれでも多分、黒崎の耳に届けられる。彼ならきっとその音を受け取ってくれると信じられた。
 腹の底から上ってくる情熱に任せ、俺はシーケンサーのスイッチを押す。
 ドラムの前に座り、黙ってスティックを握りなおした。
 そして。

「ユミ、てめぇ、五音音階で16ビートとか頭狂ってんだよ」

 そんな悲鳴を聞きながらハイハットを刻む。黒崎は泣き言を口にしない。黒崎なら、このリズムに付いてきてくれる。その期待通りベースが走り出した。
 王冠で十年音楽を作ってきた。その音が本物のベーシストの足もとを揺らす。
 俺の胸の内に湧く、この熱の意味を教えてくれたのは黒崎だ。
 だから。
 滅茶苦茶でいい。出鱈目と言われてもいい。
 とびきりロックで、尖って、ぶっ飛んだ音を鳴らそう。
 三つ子の魂百まで、なんて言葉があるけれど、俺はきっと一生ロックからは離れられないのだろう。ドラムを諦めて十年。それだけの歳月を経たのちに、この、黒崎と出会ったこともきっと運命の一つだ。
 額に無数の汗を浮かべながら全身でリズムを刻む。この瞬間、俺は音楽家としてかけがえのない幸福を感じている。
2014.03.09 up