Chi-On

王冠の下僕

名前を呼ばない理由

 神宮寺レンの次の主演作品が決定した翌日のことだ。
 このところ徹夜が続いていて今日こそはベッドを抱きしめて離さない、と思っていたのにドアベルが来客を告げる。枕元に置いた目覚まし時計を見る。八時を少し過ぎたぐらいだ。遮光カーテンの隙間から眩しい光が漏れている。
 この春から俺が起居しているシャイニング事務所借り上げのマンションはセキュリティが厳しく、関係者以外は基本的に立ち入ることが出来ない。インターホンが鳴るのならいざ知らず、ドアベルが鳴るということはオートロックのエントランスを通ることの出来る人物――つまりは事務所の誰かが俺の部屋の前にいることを意味している。
 俺が今日から三日間有休を取っている、ということを知っているのは事務所の最高責任者である日向と俺の直属の上司である宮藤だけだ。そのどちらかが貴重な休日をつぶすような真似をするとはとても思えない。
 毛布と別離したくない、とベッドの上でぐずぐずしてるとドアベルがもう一度鳴った。続いてドアを叩く音が響く。随分と忙しない客だ、と思いながらドアまで走った。
 がちゃがちゃと音を立てながらドアチェーンを外す。ロックを回すと、扉の向こうに満面の笑みを浮かべた神宮寺が立っていた。

「君(くん)さん、ドライブに行こう」

 昼ご飯はハニーが持たせてくれたから心配ないよ。言って神宮寺が器用に片目を瞑る。例によって例のごとく、その愛嬌は俺の視線をスルーして背後の空間に消えた。
 問題はそこではない、と反論したくなって指摘すべき点が多すぎることに心が折れた。
 俺が出社するのは10時だ。その代わり、どんなに仕事がなくとも退社時刻は世間より遅い。俺がこの時間帯に自宅にいるのはシャイニング事務所の人間なら大体誰でも知っている。有休を取っていなければ今は出社の支度に追われているだろう。
 だのに、神宮寺は愛妻弁当を片手にこの部屋に来た。
 彼が俺の休日を知っていることは疑いようがない。
 日向にも宮藤にも口止めをした覚えはないが、彼らがそう易々とプライバシーを侵害するような真似をするとも思えない。では誰が神宮寺に教えた。
 それを一人で考える労を考えてやめた。
 俺と神宮寺の間にある距離でそれを独行する必要はない。

「神宮寺君、誰から聞いたんだ」
「何言ってるんだい、君さん」

 君さんのスタジオに行ったら向こう三日留守にするって貼り紙があったよ。貼ったのは君さんじゃないのかい?
 そんな文言が聞こえて、朝日が上がるより僅かに早く、スタジオを後にしたときのことを思い出した。
 そうだ。黒崎蘭丸だ。彼が27時を過ぎた頃にやってきて、今日の収録が終わったらまた来ると言うのでその刻限には不在であることを告げるとしかめっ面をした。王冠の下僕の癖に休暇を申請するのかとか、おれが来てやってるのに留守にするなとか色々あった最後に、彼がこう言った。

「三日も留守にするなら貼り紙でもしろ」

 でないと体調でも悪いのかと心配をする、と言外に含まれていて俺は睡魔と闘いながら没になった楽譜の裏に書置きをして、それをスタジオのドアに貼ってから帰宅した。
 神宮寺はそれを見てここに来たのだろう。
 芸能人のいうのは概ね自由人を気取っているがその実誰よりもスケジュールに追われている。その一人である神宮寺が七海春歌――今では入籍しているのだから神宮寺春歌と呼ばなければならないのだが、当事者である彼らのどちらも否定しないから俺は今も彼女を七海と呼んでいる――の作った弁当を持って俺のマンションに来る、ということは俺が28時にスタジオを退出してから今までの間に一度スタジオを訪れたのだろう。
 忙しいだろうに、と言えば「君さんと一緒にいるとオレも楽しいからいいんだよ」と返ってくる。その言葉に込められた優しさに、俺は一つ大きな欠伸をして睡魔と闘うことで誠意を返す。神宮寺は穏やかに笑った。

「君さん。君さんの車、貸してくれる?」
「俺の? 国産車のミニバンなのは知ってるだろ?」

 俺の車ならマンションの地下にある。地味で特筆すべき点の一つもない、この国で割とよく売れたミニバン。同じ色、同じ車種が公道を走っているのを見ない日はない。
 そんな有り触れた車は神宮寺が乗るには役者不足だ。
 そう、言外に主張すると神宮寺は苦笑した。

「だって、君さん、オレの車に乗るの嫌だろ?」
「それは、君の車で行ったら不必要に目立つからだ」

 神宮寺の車は派手な色の外国産。クーペタイプで屋根はない。息子が生まれてから、ワゴン車を買ったと聞いていたが、元からある車を売ったという話は聞かないし、その必然性もない。
 どこにいても、誰が見ても目を引き付ける。まるで車全体でそのあるじが神宮寺レンだと主張しているようで、正直なところ、彼の車に乗るのは気が引けた。
 それを端的な言葉で告げれば、神宮寺は「だから君さんの車で行こうって言ってるのさ」とあっさり半身を引く。着るもの、飾るもの、持つものの全てに自負がある彼がこうも簡単に自己主張を引っ込めるのにはどこか驚きを覚える。
 大きく目を見開いた俺の前で神宮寺は悪戯そうに笑った。

「君さんは寝てていいよ。着いたら起こしてあげるから」
「どこに行くのか、聞いても答えてくれる気はないんだな」
「勿論。そんなの楽しくないだろ?」

 その問いには静かに横に首を振って否定する。
 神宮寺が先に言ったことを返す。俺も彼と一緒にいると楽しい。行き先が洒落たレストランでも、野暮な銭湯でも、苦しくて厳しい登山でも、彼と一緒なら楽しめるということを今の俺は知っている。
 だから。

「それでも、ミステリ―ツアーが君の趣向ならそれもまぁ悪くないか」

 敢えてブラインドを受け入れた。神宮寺は悪戯が成功した子どものようにくしゃりと顔を歪ませる。この笑顔の前では俺の拘わりなど何の意味もないことを知っていたから、黙って受け入れた。

「じゃあ決まりだ。君さん、準備する間、ここで座ってるから」

 ゆっくりでいいよ、と言われたが可及的速やかに準備を整える。神宮寺とオフを楽しむときの暗黙の了解、最低限は着飾った服装を身に纏って、本当に玄関で座り込んでいる彼に声をかけた。
 そして二人で連れ立って地下の駐車場へと向かう。果たしてそこに停めてある俺の愛車の運転席に神宮寺が乗り込み、まるで自分の車のように慣れた手つきで発進する。俺には到底真似出来ないような操作に素養の違いを感じた。

「君さん、寝てていいんだよ?」

 助手席に座った俺が眠る気配がないのを察した神宮寺が苦笑しながら言う。彼の運転技術に感動していた、と言うのは自分の格を下げるようで憚られ、俺も苦笑しながらそのうち寝る、と返した。

「君さん、昨日テレビ見た?」
「この三日、スタジオから一歩も外に出てないんだ」

 今日中に楽曲を納めなければならないという仕事が降って湧いたのは四日前のことだ。何でも担当の音楽家が虫垂炎になったとかで、その事務所内の代役を探したが、先方が王冠を指名したとかいう流れで、俺のところに回ってきた。宮藤が言うには俺向きの仕事らしいのだが、どう考えても王冠向きの仕事ではなかったのに俺が指名された、ということは伸びしろなのだろうと解釈して三徹した。先方からの指示でweb納品だったから、リテイクが来るのもすぐだ。結局、全ての曲が仕上がったのが28時前で、その間、俺は譜面とシーケンサー以外は認識していない。
 その旨を端的に告げれば神宮寺は意外そうな顔をした。

「おチビちゃんが遊びに行ったって聞いてるけど」
「翔君が?」
「記憶にないの? 君さんももう物忘れをする年代?」
「黒崎君が来たのは覚えてる」
「君さん、それって最後しか覚えてないじゃないか」

 27時にスタジオに来た黒崎は編曲に悩む俺を放置して一人、ブースで気が済むまでベースを鳴らして俺がスタジオを出るのに合わせ、帰った。エレキベースでトロイメライを弾くのは俺への労りなのか、それとも新手の嫌がらせなのか、或いは彼自身への挑戦なのか。答えを聞きたかったが彼はエナジードリンクの缶を俺の鞄の中に勝手に押し込んで、明け方の街に消えた。
 来栖翔が来たかどうかは覚えていない。本当にそんなことがあったのだとしたら、埋め合わせが必要だろう。その原因が神宮寺の言う「経年劣化」なのだとしても謝罪を免除されるわけではない。

「知ってる? 君さん」
「俺がもうそろそろ若くないことなら知ってる」

 昔は五徹出来た。でも、もう今の俺にはそれは出来ない。体力も集中力も持たないからだ。
 若さとは失われるものだということを三十路になってようやく気付いた俺は誰かに言われるまでもなく馬鹿だ。
 そんな感想を胸の中で転がしていると神宮寺はおかしそうに笑う。

「そうじゃなくて」
「うん?」
「困ったら皆王冠に頼ればいいって思ってるのさ」
「王冠に?」
「そう。カンさんとマッツさんと君さんに。君さんたちなら理想の音楽を作ってくれるって皆信じてる」

 だから、シャイニング事務所が絡む仕事で不手際があれば王冠が指される。世界の一隅って思ってたよりも狭いんだね。言って神宮寺はフロントガラスの向こうに意識を向けた。
 神宮寺の言うようなことが本当にあるのかどうかはわからない。彼のリップサービスなのかもしれないし、事実の指摘なのかもしれない。
 それでも、馬鹿な俺にでもわかることがある。

「それは多分、君もそこにいるからだろ」

 世界の一隅と呼ぶべき場所。或いはもっと広域の世界でスポットライトを浴びている彼だからわかることだ。そして、その場所にいる彼は舞台装置の一つを演じ続けることを拒んだ。女性たちから遍く好意を受け取る為だけの偶像ではなく、彼も一人の人間だと主張したいから神宮寺は俺たちに愛称を付ける。

「神宮寺君、これは寝言だから気にしなくていい」

 言って瞼を伏せる。閉じられた薄暗闇の隣で榛色の眼差しが俺を射た感覚を受け取る。

「本当の君がどれなのか、俺にはわからないけど、君に『君さん』と呼ばれるのは嫌いじゃない」

 俺のものとは違うけれど、世界の一隅を必死に照らしている彼の誠意がいつか一隅を超えて全世界に知られるといい。そんな願いを口にすると神宮寺は緩く笑ったような気がした。
 かつて誰よりも真摯に愛を求め、上辺だけの情愛を流すだけの日々を送り、そしてその最後に真実を手に入れた彼になら出来るだろう。俺の音楽が、プリンスの王冠がそれを輝かせるのならそれはきっと音楽家冥利に尽きるとしか言いようがない。
 影と日向、どちらが優れているのかだなんて優越を付けるのは自己満足だ。そんな線を引かなければ保てないような自尊心ならさっさと折れてしまえばいい。
 俺は俺に与えられた世界の一隅から、光を浴び続ける神宮寺の足もとを照らそう。
 それが、王冠の下僕たる俺の宿命だ。
 だから、神宮寺の器用に見えて不器用な親愛の情に触れることを拒まない。
 七海君の弁当が楽しみだ。
 最後にそう告げて、俺の意識は心地いい振動に沈み込んでいく。
 隣でハンドルを握っていた神宮寺が慈しみを込めた笑みを浮かべていたのを俺は未来永劫知らないけれど、それでも、俺と彼との間にあるものは何も変わらないだろう。
 行き先不明の旅はもう少し続く。
 神宮寺が俺に示唆しようとした何かと対面するのはこの旅の目的地でだということも、まだ知らない。
2014.05.06 up