Chi-On

王冠の下僕

月明かりの下、交わした誓い

 申請した三連休の初日を終え、マンションの地下駐車場で神宮寺レンと別れを告げる。機会があれば神宮寺の住まいへ遊びに行くことを約束して、俺はエレベーターに乗り込んだ。部屋のあるフロアに到着すると機械音声が階層を読み上げる。共用の廊下を通り、自宅へ辿り着くとそこには半日前と何も変わらない黒崎蘭丸の姿がある。倹約家で有名な彼はデビューし、安定した収入を得られるようになってからも、ずっと安アパートで暮らしていたのだが、社長がこのマンションの全フロアを一括で借り上げたときに腹を括って引っ越ししてきた。黒崎の部屋があるのは二つ上のフロアで、時折お互いの部屋を行き来する間柄だ。
 独り者同士というのもあって、俺と彼とは割と親しい。
 親しいが、お互いのメールアドレスも知らないし、当然SNSのアカウントも知らない。知っているのは携帯電話の番号だけだ。
 連絡を取る必然性がない。俺は王冠の下僕で、王冠のオフィスか事務所のスタジオにいることが殆どだ。彼が俺に会いたいと思うとき、そのどちらかに行けば俺を捕まえることが出来る。
 けれど、今日は有休を取って一日家を空けた。幾ら彼と俺が親しいと言っても神宮寺とドライブに出かけていたことなど知る由もない。
 どのぐらい前からここにるのか、という疑問が脳漿に湧く。
 黒崎君、と声をかけると彼は大袈裟に舌打ちをして、不服を全身で表現した。

「ユミ、てめー休みで寝るんじゃなかったのかよ」
「その予定だったんだが、七海君の弁当に負けたんだ」
「またレンか」
「そういうことになるな」

 ユミ、そのうちおやじにレンの専属にされっぞ。
 言って黒崎は大きな溜め息を吐いた。俺は曖昧に笑って流す。取り敢えず部屋に上げろ、とせがまれたので俺は開錠して可も不可もない整然とした部屋に彼を招いた。
 帰り道の途中でSAに立ち寄った。夕食を奢る、と神宮寺が申し出てくれたのだが、奢られる理由がない、と固辞し、結局売店で田舎饅頭を一袋買った。白いビニール袋に入ったその饅頭をサイドテーブルの上に置くと何とも言えない、食欲をそそる匂いがして、話題がそちらに流れる。

「晩飯は食ったのか?」
「まだだよ。何か有り合わせで作ろうか?」

 冷蔵庫の中は四日前で時を止めている。スタジオで三徹したのだからそれは必然だ。
 王冠がシャイニング事務所の傘下に入ってから、こういう過密スケジュールに遭遇するようになり、俺は賞味期限の短い食材を買い控えするようになった。野菜の類を買ってきたときはその場で加熱調理して冷凍保存している。その作り置きが冷凍庫の中にあるはずだ、という記憶があったから俺は黒崎に夕食の準備を申し出る。
 その提案は溜め息一つで却下され、黒崎が後頭部を強くかき混ぜた。何かに焦れている。原因が何か見当もつかない、などとは言わない。俺の不甲斐なさが彼に焦燥を生ませた。
 そこまで理解出来たから、俺は冷蔵庫には向かわず、サイドテーブルの横に腰を下ろす。
 それとは対照的に黒崎が立ち上がり、食材買ってくる、と言い残して玄関へと向かった。その背が俺の追従を頑なに拒み、そして慈しみでもって留守番を指示する。

「てめーはそこで今日のニュースでも見てろ」

 その不器用な優しさに応じるのは否定の言葉ではないだろう。君の手料理は久しぶりで楽しみだ、と返すと黒崎はたりめーだと不遜に笑った。
 結局、黒崎は最寄りの高級食材を取り扱うスーパーで買い物をして帰ってくる。節約癖が抜けない彼にとってそれは想定外の出費だっただろうから割り勘にしようと言ったのだが、何でも金で解決出来ると思ってんじゃねえと一喝されてしまった。世の中は金が全てだと豪語している彼だが、その実誰よりも金銭の持つ意味合いを敏感に受け取っている。
 野口英世四人との決別は受け入れられたが、もう一人と桐一株を余分に支払うことに抵抗を覚えた俺の感性も概ね黒崎のそれと似通っていて、だからこそ俺は彼と適切な人間関係を築けるのだと帰結した。
 そんなことを茫洋と考えながら黒崎の作ったボンゴレロッソを食べていると、彼は不意に少し硬い声で俺の名を呼ぶ。

「ユミ、てめー熱あっただろ」

 突然の指摘に俺は目を白黒させる。
 熱があった? 誰が?
 思考を巡らせるが身に覚えがない。正直にその旨を伝えると黒崎はパスタを食べている手を止め、フォークを皿の上に置いた。
 そして。

「自覚ねーのかよ。今もあるじゃねえか」

 黒崎の紅い眼差しが至近距離から俺を射る。額と額を合わせられているのだ、と気付いた頃にはゆっくりと彼が俺から離れていく。触れていた温もりが去り、俺は一拍遅れで苦笑を浮かべた。

「随分原始的なやり方だな」
「だったら体温計出しやがれ。ない自信があるんだったら問題ねえだろ」
「ちょっと待ってくれないか。俺も君も、まだ食事が終わっていないだろ」

 発熱の有無を判じるのは彼が作ってくれたパスタを最後まで食べ終えてからでも十分に間に合うと反論すれば、黒崎は鼻で笑う。食事を取っている場合ではない、と言外に言われた気がした。黒崎が俺に向ける視線に困惑が浮かんでいる。黒崎蘭丸の辞書に後悔という項目があったのだな、ということを俺は茫洋と理解した。
 そして。
 後悔の項目のあるその辞書に譲歩と妥協の文字はない。
 今度は俺が短く嘆息する番だった。
 黒崎は一度言い出したことを譲らない。
 だから。

「体温計、取ってくる」
「おう」

 俺はサイドテーブルの傍から立ち上がり、廊下に面した収納を開く。そこには百円均一で買ったコンテナが幾つも積んである。その一つからデジタルの体温計を取り出した。十年前、王冠の新入社員だった俺は事務所で前後不覚になるほどの高熱を出した。その折、宮藤が薬局で買い求めたものだ。値が張るはずもない。どこにでもある体温計だが、この十年間で役目が回ってきたのは後にも先にもその時以来、今が初めてだった。
 それを手にサイドテーブルに戻ると、検温を始める。発熱などしている筈がない。一分ほどでアラートが鳴る筈だ、と信じていた俺を科学は非常にも否定する。
 二分ほど経過して電子音がした。手元に持ち直し、デジタルの数字と差し向う。

「『38.5度』」

 その数字を読み上げると、手元の体温計がばっと奪われる。黒崎もその数字をまじまじと見て羅刹の表情をした。

「だから言ったじゃねえか、このボケ! てめえ体調管理も出来ねえのか!」

 何年社会人やってんだ。そんなことだからてめえは一人前の音楽家になれねえんだよ。
 罵詈雑言が雨あられと降ってくる。その怒涛の叱責の一つひとつを真摯に受け取るだけの余裕は今の俺にはない。もう一度立ち上がり、収納の中にある別のコンテナを引き出す。風邪薬を最後に買ったのはいつだ。有効期限は残っているか。残り二日で完調しなければならない。つらいだとか苦しいだとかそんなことよりもひたすら気が急いた。
 その背に厳しくてその実誰よりも優しい叱責が飛ぶ。

「ユミ、混乱してんじゃねえよ、ボケ」

 飯は食えるな。食ったらこれを飲め。そんで二日間寝てろ。明後日にはおれのロケが終わるからそれまで何とか生きろ。
 そんなことを言いながら、黒崎はテーブルの上に次々に栄養ドリンクや風邪薬などを並べ始める。それに感謝の意を呈しようとするとさっさと食えと更に叱責が浴びせられた。
 パスタの最後の一口を平らげると、黒崎はすっと立ち上がる。

「おれは収録があるからもう行くぞ」
「黒崎君、本当に助かった」
「一日寝ても変わらねえならレンにでも連絡しろ。責任取って医者に連れて行かせるんだな」

 ま、何とかは風邪ひかねえって言うし、問題ねえだろ。
 じゃあな、と黒崎はどこから取り出したのか帽子を被るとそのまま部屋を出て行った。五つも年下の黒崎に風邪を引いたぐらいで世話を焼かせた恥ずかしさと、不器用ながら行き届いた優しさに感謝しつつ部屋着に着替え、ベッドに倒れ伏した頃、携帯電話が着信を告げる。
 発信者を確認する労すら疎ましくてそのまま通話ボタンを押す。
 受話口の向こうからさっき部屋を出て行った黒崎の乱暴な声が聞こえた。

『ユミ、どうせてめえのことだから鍵かけてねえだろ』

 オートセキュリティだからって油断してんじゃねえよ。
 それだけを一方的に告げるとぶつりと終話された。
 どうしてそれを知っているのだ、と感心すらしながらベッドから這い出す。そしてどうにか施錠を施してもう一度居室に戻った。38.5度を示したままの体温計とスポーツ飲料を途中で回収する。風邪薬が効きはじめたのだろう。意識が拡散していくのを感じながらベッドの上に倒れる。
 次に目が覚めたときにはカーテンの向こうで燦々と陽が照っていた。
 無意識的に枕元に手を伸ばし、目覚まし時計を掴む。文字盤は午前十時を指していた。半日眠っていたのかと思うと同時に、俺の体から若さが失われつつあるのを実感する。
 身を起こして、カーテンを開く。
 十分な睡眠を取ったからだろう。体が軽い。これなら残った一日も休息に充てれば十分だ。
 そんな計算をしながら黒崎の残していったゼリー飲料を口にする。
 と。
 突如、携帯電話が着信メロディを奏でる。休日の朝に誰が何の用だ、と思いながらも受話した。そのスピーカーの向こうで怒声が飛んだ。

『ユミ、てめえ人の話を聞かねえのも大概にしろ』
「黒崎君、何の話だ――」
『おれは言ったよな? 一日寝ても変わらねえなら医者に行けっつっただろうが』
「医者に行くまでもなかったよ。君の買ってきてくれた薬で十分効いたんだ」
『あ? だったらどうしててめえはスタジオにいねえんだ』
「いや、だから三日休むって」
『本っ当に救いようのねえ馬鹿だな、てめえ』

 今日はてめえが休暇を申請してから四日目だ。
 その言葉に俺の全身から血の気が失せる。
 四日目? 四日目だ?
 つまり、俺は無断欠勤をしていることになる。眠っていたのは半日ではなく、二日半だったという衝撃の事実が俺の身に降りかかった。脳内は混乱を極める。それでも、今から何をするべきかを判じられたのは俺にも三十数年を生きた経験があるからだ。年の功、という単語が思い浮かぶ。

「医者に行くまでもないから、今から出社す――」
『それで明日も体調不良で休むんじゃ意味がねえだろ。馬鹿か。てめえそれでよく社会人面出来たもんだな』
「面目次第もない」
『カンさんと日向さんにはおれから連絡しておいてやる。てめえは医者に行ってからもう一日寝てやがれ』

 正論に次ぐ正論の嵐で論破され、俺はぐうの音も出ない。
 受話口の向こうで黒崎が心底呆れた、という溜め息を吐いた。

『レンがてめえに謝ってたからそのうちそっち行くだろ。ついでに医者に連れて行ってもらえ。じゃあな』
「黒崎君、何から何まで済まない」
『馬鹿言ってんじゃねえよ。ウチの音楽家の尻拭いしたてめえが体調崩したんじゃ後味が悪いだけだ』
 それだけを簡潔に言うと黒崎は今度こそ本当に終話した。
 神宮寺がドアベルを鳴らすのはもう少し後のことなのだが、黒崎蘭丸という人間の深みを知って、尚更彼に惹かれたような気がした。多分、彼は俺のスタジオでトロイメライを爪弾いていた時からずっと俺のことを気遣ってくれていたのだろう。
 それを恩に着せるでもなく、当然のことのように振る舞える彼は一流の人間だ。年の功、などという戯言に酔っている俺とは比べるべくもない。
 世の中の広さと狭さを同時に実感しながら、俺の意識は再び微睡んでいく。
 失われた若さを嘆く時間があるのなら、一歩でも先に進もう。
 そんな決意にも似た何かが芽生えたある日。三日前と同じくドアベルが来客を告げるまで残り四十五分。偶には体調を崩すのも存外悪くはないのかもしれない。
2014.05.06 up