Chi-On

王冠の下僕

準・完璧主義者

 一ノ瀬トキヤに隙はない。
 まずもって容姿端麗。アイドルに相応しく、気品のある外見をしている。それでいて頭脳明晰。博識で、理詰めでものを言うから業界において若輩ながら侮られることは少ない。だからと言って気取ってるだとか、居丈高だとかそういう評判は聞こえてこないところに彼の人徳を感じる。演技力も歌唱力も勿論申し分ないし、トークも聞いていて面白い。
 完璧な偶像を演じ続ける一ノ瀬だが、楽屋裏ではそれなりに人間味を感じさせる、というのも魅力の一つかもしれない。少なくとも、俺はそういう一ノ瀬を好意的に受け取っている。俺よりも遥かに出来のいい弟のように感じる、といつか漏らしたときには「褒め言葉として受け取っておきますよ」と自信たっぷりの笑顔が返ってきた。
 神宮寺レンも俺にとっては年下で、放っておけない弟のような存在だが、一ノ瀬とは少し種類が違う。出来がいい、という部分がカットされるし、今では年齢差など大きな意味を持っていないぐらい親しくなったからかもしれないし、本当の理由はもっと別なところにあるのかもしれない。
 そんな些細な問題を取り沙汰すような無駄な余裕はない毎日の中で、一ノ瀬がその書類を持ってきたのは二度目のことだった。

「岸田さんにとっても悪い話ではないでしょう?」

 俺にとって分の悪い話を彼が持ってくる道理がない。
 わかっている。一ノ瀬の持ってきた次の主演映画の音楽という仕事は俺にとってこの上ない利がある。映画監督の方からも岸田なら安心だ、と太鼓判を押されているのもこの会話の中で何度も聞いた。曲調はフレンチジャズが中心、筋書きは一ノ瀬演じる喫茶店のマスターが謎解きをしていく形式のミステリ。緩急は勿論要求されたが、注文の多くはゆったりとして、決して音楽が主役とはならない。つまり、ストーリーの添え物。俺にとってこれ以上得意な分野はないし、一ノ瀬の方もそれを理解して名指してきたのだろう。
 この話のどこをどう取っても悪い話と判じる理由がない。
 それでも、俺の口からは溜め息が漏れた。

「君は俺を過労死させたいのか」

 一之瀬の仕事が始まるのは二か月後だ。
 それまでに今持っている15秒CM三本、深夜バラエティの音響と、シルクパレス出身の外国人アイドル・カミュの出演が決まった恋愛ドラマの音響約30曲を終わらせなければならない。そのうえで俺の上司たる宮藤は王冠の義務――月に百の原案の提出を求めた。
 CMとドラマの方は納期が決まっているから、あとは作曲するだけなのだが、バラエティの方はそうも行かない。ゲストが変わるごとに、ごく短いフレーズではあるが新曲が求められる。
 それだけならまだ何とか許容範囲内だろうが、つい先日も黒崎蘭丸からライブツアーのバックドラムのオファーがあった。ツアーは年が明けて3月から始まる。神宮寺も黒崎も、一ノ瀬もカミュも大切な親会社の看板タレントだ。そこに優劣を付けるつもりはない。それでも、俺の体は一つしかない。全てに応えることは不可能だ。だから無理やりに優劣を付けるしかない。そして俺はオファーがあった順をその根拠に選んだ。
 溜め息の理由は一ノ瀬も理解しているのだろう。聞き分けのない子どもに説いて聞かせるように穏やかに笑った。

「ですから、他の軽微な仕事は他の音楽家に回す許可を取ってきた、と言ったじゃありませんか」
「それは出来ない」
「音楽家にとって音楽に重いも軽いもないから、というのは散々聞いたので繰り返さないでくださいね」

 それが子どもの理論でも、一ノ瀬の理屈がどれだけ正しくても、俺は頑として首を縦に振る予定はなかった。俺に要望を出す相手は俺の音楽を評価してくれたから、俺にオファーを出した。目の前で困った顔をしながら、それでも自分の主張を引っ込めるつもりのない一ノ瀬もその点では何ら変わりがない。
 だから。
 だからこそ、俺は仕事に優劣を付けたくない。況して、後になって勝手に担当を変えてほしい、などと手前勝手なことを言うつもりなど毛頭なかった。

「岸田さん、あなたはもう少し仕事を選んだ方がいいのでは?」
「大作映画の音響なら諸手をあげて歓迎されると本気で君が思っているのなら、君は王冠に仕事を頼むべきじゃない」

 王冠は――クラフトクリアクラウンズは仕事の大きさやギャランティで音楽に優劣を付けない。そうしなくてもいい、そうすることを拒むだけの自尊心を俺と松本は宮藤に許されている。かつて宮藤と彼の友人たちの会社だった頃も、シャイニング事務所の子会社になった現在も、それは俺たちの中では不文律だった。
 だから、俺たちは一つひとつの音楽に真摯に向き合う。その結果、王冠の音楽は一定の水準で評価される。
 それを失したとき、王冠からは輝きが消える。
 俺も、松本も、宮藤も。それを誰よりもよく弁えている。
 勿論、目の前の一ノ瀬がそれを知らないとは思わない。知っていて、それでも俺の音楽を欲した。だから、彼は社長であるシャイニング早乙女に自直談判した。そして、俺の仕事を都合させる許可を得て来た。
 わかっている。
 俺がこの仕事を引き受けられたらそれ以上の結末などないし、多分会社的にはその方が多くの利を得るのだろう。その結果として俺の音楽はまた一つ評価を上げるし、王冠の名は燦然と輝く。
 わかっている。
 それでもどれか一つ、手前勝手で済ませなければならないのなら、俺は一ノ瀬の申し出を辞退することを選ぶ。
 その決意が俺の顔面に映っていたのだろう。
 一ノ瀬が重い溜め息を吐いた。

「こういうとき、私はいつも思うんです」
「何を?」
「あなたのような頑固者の首を振らせるレンは偉大だな、とか」
「それは隣の芝というやつだ、一ノ瀬君」

 それでも、と一ノ瀬は言葉を重ねた。

「それでも、同じ仕事を持ってきたのがレンならあなたは断らないでしょう?」

 その場面を脳裏で思い描く。神宮寺が俺にとって最も有効である愛嬌を以ってこの仕事を持って来たら俺はどうするだろうか。多少は無理だと断る。その結果、俺はもしかしたら無茶を通して神宮寺の願いを叶える、という未来があるかもしれない。
 その無茶が俺にどんな不利益を運んでくるかは一応計算に入れるだろうが、それでも私情を優先してしまうかもしれない。
 一ノ瀬が言っているのそこの情けの部分なのだと察した。
 それでも。

「君の推察力と客観性には恐れ入るよ。でも」
「でも?」
「君は一つ、大事なことを計算していないだろう」
「ほう、それは何なのか後学の為に聞いておきたいものですね」

 一ノ瀬は一番大切な大前提を計算していない。
 かつて彼の胸中に強く根付いていたその感情と、彼が求めてやまなかった結論。それを苦難の末に手に入れたのが一体誰だったか、というとてもシンプルでその分大きな前提が一ノ瀬の仮定からは抜けていた。
 真実その前提が足りないことに気付いていない風の一ノ瀬に俺は苦笑を禁じ得なかった。それだけ、俺の音楽は一之瀬の中で居場所を持っている。その事実が何だか無性に嬉しくて同時にむずかゆい感触を生む。

「君の方がよく知ってることだ」

 神宮寺君の音楽は七海君が作るから、俺にお鉢が回ってくることは絶対にない。
 そう、何でもないことのように告げれば一ノ瀬は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして硬直し、そして瞬き二つの後にこれ以上ないほどばつが悪そうに顔を顰めた。

「万事完璧主義の君らしくもない。忘れてたのか?」
「……不本意ですが、そういうことになりますね」

 心底居心地が悪そうに一ノ瀬は視線を彷徨わせる。
 その、滅多に見られない光景が何とはなしに俺の胸中を温める。神宮寺に甘えられるのとは違う、それでもどこか似たような懐かしさと穏やかさを覚えるこの感覚を幸福と呼ぶのだということを今の俺は知っている。
 知っているから俺は敢えて意地の悪いことを尋ねた。
 純粋にずっと疑問に思っていたからかもしれない。

「どうして、君は俺を選んでくれたんだ?」

 ぽろりと、零れるように口にした問いに一ノ瀬は切れ長の瞼を閉じて、しばし居心地が悪そうにしている。話してくれる気はないのだろうか、と思うほどの間を置いて、その双眸が俺を捉えた。いつも通りの気高い論理主義者の顔で一ノ瀬は「理由を話せば受けてくれると言うのなら答えます」と言う。その駆け引きの強引さに俺は苦笑して、それでも頭の中で少しずつ段取りを考え始めていた。一ノ瀬の依頼を引き受ける、というデスマーチを引き受ける為の段取りだ。

「話の内容による」
「では私があなたを納得させればいいんですね?」
「君と理詰めで話して勝てるとは到底思えないんだが?」
「だったら質問を撤回しますか?」

 今なら、私もまだ諦めることも吝かではありませんが。
 そんな挑発めいた言葉が聞こえてきて、俺は苦笑する。
 頭の中で微塵も思っていないことを、こうも整然と口にされると却って冷静に受け止められるのだな、だなんてぼんやり思った。
 その曖昧な笑みを勝手に否定の意味に受け取った一ノ瀬が、照れくさそうな顔で語りだす。その内容を要約するとこうだ。いい意味でも悪い意味でも俺の音楽には癖がなく、受け手からすればニュートラルな受け止め方が出来る。その割に味があるから、派手さはないものの、何度も繰り返し聞くのに向いている。その評価は一ノ瀬の思い描くタレント性と上手く噛み合っているから、俺が音楽を作るのなら、一ノ瀬は演技だけに集中出来る。

「こんな音楽家がフリーでいるのを知っていて無視出来るのなら、それは無能だと私は思っています」

 その証拠に、と一ノ瀬はシャイニング事務所のタレントの名を次々と列挙する。その一つひとつに音律を重ね合わせることが出来る時点で、俺の命運など決まっているのだろう。
 王冠の音楽家は音楽を愛しすぎている。その評価が今一度脳内で響いた。

「随分と俺を買ってくれるんだな、君たちは」
「クラフトクリアクラウンズの音楽家、というのはそれだけの価値があると思いませんか?」

 宮藤莞爾(かんじ)、松本御前(みさき)、そして俺――岸田歩。クラフトクリアクラウンズの音楽家はこれで全部だ。この世に三人しかいない王冠の下僕。一ノ瀬は――或いは彼が列挙したタレントたちは俺たちの輝きに価値を見出した。
 この世の全ては生み出すものと評価するものの両者が成り立たなければ何の意味もない。それは音楽も例外ではなく、俺たちが音楽家として生きていくのならば誰かからの評価を得なければならない。その、糧となる評価を一ノ瀬は俺に与えてもいいと思っている。
 少しだけ重くて、その分実入りがあって、この世の何にも代えがたい祝福を感じた。

「でも、君が選んだのはカンさんでもツモさんでもない」
「岸田さんが一番順応力が高い、と私は見ていますが?」
「それは自己形成が不十分だと言いたいのか?」
「いいえ。あなたの個性はきちんと音楽にも表れていますよ」

 誰にも合わせることが出来る、というのはその実誰よりも強く自己主張しているのと代わらない。そう言って一ノ瀬は今日、初めて心の底から笑った。
 その笑顔が決定的だった。
 俺は人を幸せにしたくて音楽家を志した。人の気持ちに沿う音楽を作りたくて王冠の門戸を叩いた。その、努力を一ノ瀬は受け入れてくれた。
 まだまだ未熟で、ともすれば何十回のリテイクを受けることもままある俺の音楽が必要だと言ってくれた。
 これ以上の言葉を望むのは強欲で傲慢だろう。
 だから。

「一晩くれないか?」
「と、言うのは?」
「今からCM3つを作る。三本とも明日中にOKが出たら君の仕事を受けるが、出なかったら今回の話はなかったことにする」
「その前提を聞いて、私が広告代理店に根回しする、とは思わなかったのですか?」
「君はそういう卑怯なことをしないだろう」

 というか、と俺は言葉を続ける。

「それぐらいのことが出来る音楽家じゃないと、君の要望は満たせていないんだろう?」

 敢えて挑発的に返した。一ノ瀬が屈託なく笑う。あなたは本当に期待通りの人だとまで言われて今度は俺が赤面した。

「では明日、この応接で待っています。朗報を期待していますよ」

 言ってこの上なく満足そうな顔で一ノ瀬が立ち上がる。映画の企画書の入った封筒を机の上に残して。
 この書類に目を通すのは明日以降になるが、当面それを心配する必要はないだろう。今はCM三本と戦わなくてはならない。
 応接室を出て行く一ノ瀬の背を見ながら、俺は穏やかな気持ちで目の前の問題と向き合う。
 一ノ瀬トキヤに隙はない。
 それを改めて実感しながら、俺も応接室のソファから立ち上がった。最悪の事態が来たら一ノ瀬にも手を貸してもらおう、だなんて冗談みたいな言い訳を考えながら。
2014.09.23 up