Chi-On

王冠の下僕

帰りたくない帰りたくない、帰りたい

 俺はコミュニケーションがあまり得意ではない。
 兄弟はいないし、父親は叱ることしか知らない頑固者だった。自分の価値観が全てで、俺の意見を容れる余地などない。俺と父親の間には対立しかなかったが、十八年間という長い時間をあの家で暮らせたのはひとえに母親の器量がよかったからなのだろう。俺の言いたいことも、父親が押し付ける一方的な価値観も、上手く取り持ってくれた。母親には感謝している。だのに父親から絶縁を宣言され、実家に帰ることもなく、仕送りをすることもない。不孝ものだという自覚はあったが、俺が家に帰ればまた父親と口論だ。
 王冠がシャイニング事務所の子会社になった頃、高校時代にバンドを組んでいた仲間の一人から父親が掌を返したように俺を自慢の息子だと吹聴している、と聞いて俺の帰郷の思いは潰えた。俺の会社を――王冠や宮藤を侮蔑されたことは絶対に忘れないし、音楽家という職業を否定されたこともまだ忘れていない。
 それでも八年ほど俺は実家に年賀状を送り続けた。返事はとうとう一通も来なかったのが父親からの答えなのだろう。未上場企業の不安定で不規則な仕事。九時五時でカレンダー通りに休みがあり、ある程度、名の通った会社への就職以外は全て下賤だと言い切った。その凝り固まった価値観がそう簡単に覆される、だなんて夢を見ていたわけではない。ただ、母親に無事を知らせることが出来さえすれば、俺の方も満足だった。
 王冠が買収された次の冬。俺は最後の年賀状を実家に送った。この年に返事が来たら帰省しよう。来なかったら俺は故郷を忘れる。
 そう決めていたことを父親は知りもしないだろう。
 当然、返事はなかった。
 その次の冬が来る前に俺はシャイニング事務所借り上げのマンションに引っ越す。郵便物の転送手続きは敢えて取らなかった。新しい住所は殆ど誰にも伝えていない。だから、俺の現住所を知っている相手は事務所と役所の関係者だけだと言ってもいい。普段の連絡など携帯電話があれば十分事足りた。
 父親がかつて俺を一刀両断したのと同じことを俺は父親に返した。シャイニング事務所の名を聞いたことがない、だなんて国民は多くはないだろう。勿論、俺の父親だって幾ら硬派を気取っていても知っているに違いない。その、シャイニング事務所でそれなりの仕事をしている、というのは彼の名声欲を十分に満たすものだということも俺は知っている。知っていたから敢えて切った。俺はもう父親の道具でいるのはうんざりしていた。
 そうして俺は望郷の念と決別した。
 黒崎蘭丸がライブツアーのドラムをやらないか、と言ってきたのはそれから数年後のことだ。

「嫌だとは言わせねえ」

 シャイニング事務所の応接室の一つ。そこで企画書の案をまとめたレジュメを俺に叩きつけて黒崎が言う。CM音楽が三本。深夜バラエティの音響が一番組。ドラマの音響が一本。それだけ入っているから難しい、と答えた結果がこれだ。黒崎には妥協点などない。彼は彼の望みを全力で叶えるということを俺も知っている。その望みの一つに俺の存在があるのが望外の喜びだ、と告げれば彼は不敵に笑った。

「おまえもいい加減諦めるんだな」
「参考までに何か所ぐらい回るか、聞いておきたいんだけれど?」
「東京、名古屋、大阪、福岡、広島、浜松、横浜、新潟、仙台、北海道、東京」

 黒崎がいとも簡単に口にした興行先の一つに俺の故郷が含まれていた。そう言えば、何年か前に政令指定都市になったという知らせを受けたことを思い出す。十年と少し、帰ってもいないうちに随分大都市になったのだな、などと陳腐な感想を抱いたのだが、黒崎にはその少し奥までが見えていたらしい。

「帰りたい、って面してるぜ、おまえ」
「えっ?」
「どこ出身か、なんて野暮なこと聞く気もねえけどよ。おまえ、今、どんな顔してるかわかってんのか?」

 わからない。俺は平静を装っているつもりだから、黒崎が何をどう看破してその結論になったのかを理解することも出来ない。人生を少し長く生きているだけでは黒崎には勝てないのだな、だなんてどうでもいいことをぼんやり思う。
 その結果。

「帰りたいんだけど、帰ってがっかりしたくないんだ」

 多分、俺の心境を正確に表現するとそうなるのだろう。生まれてから十八年、俺を育んでくれた故郷に未練がないと言えば嘘になる。坂ばかりで体力勝負には弱い俺にはつらい街だと思うこともあった。それでも、十八年の重みは決して軽くはない。地元民だけが知っている抜け道。俺に音楽を教えてくれた個人レッスンのピアノ教室。土産物として有名になった菓子。時折全国ニュースで耳に入る祭り。その一つひとつを捨てたつもりでいたのに、それらは突如望郷の念として俺を襲う。
 帰りたい。十年以上帰っていないその街がどう変わって、どう変わっていないのかを確かめたい。
 でも、と俺は思うのだ。
 旧友と唯一俺の味方だった母親をも切り捨てて、そうして決別した父親が何かの間違いで俺に関わってきたら、俺は心底落胆するだろう。会いたくない。だってそうだろう。彼の脳漿に俺と言う個人はいないのだ。俺ではなく、俺の肩書と収入しか眼中にない。そんな相手に会ったらがっかりする、以外の何の感想を抱けるだろう。
 その仔細を告げずに曖昧な返答を黒崎に投げると彼は心底面倒くさそうな顔をした。
 面倒くさそうな顔をして、馬鹿かてめえ、と苦々しく吐き出した。

「おれがおまえにそんなつまんねえ思い、させるとでも思ってんのか」

 その疑問の形をした強い断定に俺は張っていた気持ちを少し緩める。知っている。黒崎蘭丸という人間の特性を俺はよく知っている。彼は人を傷つけることを過剰に恐れている。だから、特定の人間以外とは不必要に親しくしないし、一度親しくなったのなら彼の全力で守ってくれるだろう。
 俺が、一体いつ彼の仲間になったのか。その決定的な答えを俺は知らない。知らないがゆえに俺は知っている。

「君はいつもそうだ」

 黒崎が今俺を見る視線には強い憤りが混じっている。俺が彼を軽んじたことに対する怒りだ。そしてその怒りが俺に暗黙のうちに告げる。おまえ一人を守れないほどおれは弱くない。
 その、不器用で強引な優しさを俺は好ましく思っていた。
 だから。

「君は不思議なやつだ」

 俺の身の上を探ることはしない。俺の本音を探ることもしない。それでも、黒崎の中には俺がいる。音楽業界最大手の音楽家だからだとか、年収がどれぐらいだからだとか、黒崎は決して俺に求めてはこない。金、金と口走ることも多いが、それを俺に求めたことは今まで一度だってなかった。
 彼が俺のドラムを欲するのは真実、俺の音楽を欲しているからだ。黒崎のバンドメンバーに入りたいドラマーなんてこの業界、石を一つ投げただけで大洪水が起きるほどいるだろう。それでも俺を選んでくれるのは、俺と彼の音楽性が適合しているからだ、ということを今の俺は知っている。
 俺も彼もコミュニケーションが苦手で、ともすれば喧嘩のような言葉の応酬をしているときもある。不器用と不器用だから、時々は本気で喧嘩をすることもある。
 それでも、俺たちはお互いを頭ごなしには否定しない。否定する、という行為の意味を知っているから、安易にそうしようとは思わない。

「君を信じるのに理由は必要ないな」

 黒崎は口にしたことを必ず行動に移す。それを疑わなければならないほど、俺たちはもう弱くはない。
 だから。

「連れて行ってもらえるのなら、これ以上などないだろ? 是非、参加させてほしい」

 俺は黒崎に向けて頭を下げた。黒崎がふっと息を吐き出す。むず痒いような顔をしていたが、俺は短くはない彼との付き合いで、黒崎が心底喜んでいることを実感した。

「ユミ、てめえがこれ以上ねえほど自信満々で幸せになるのが最大の復讐だと思え」

 俺の育ってきた境遇について話したことがあるのは神宮寺が最初で最後だ。俺は故郷を捨てた。その時点で、俺は過去とは決別したつもりだったからだ。
 だから、黒崎が暗に俺の父親の話をするのは、彼が神宮寺から何らかの情報を受け取ているからに外ならない。それに対して嫌悪感は自然と湧かなかった。神宮寺がぺらぺらと他人の私情を喋り歩いたりしない、ということを知っているからだろう。
 黒崎が俺と俺の父親との間の確執を知っているのなら、敢えてそれをどこまで知っているのか、などと問い質すのは藪から蛇を突いて出すことになる。
 俺は曖昧に笑って、それを受け流した。

「俺は別に報いなくてもいいと思っているんだが」
「甘え。てめえがそいつを完璧に無視出来るならおれだって何も言わねえ。けど」
「けど?」
「一生引きずって罪悪感に押しつぶされる前に、てめえの方から切り捨てろ」

 それが出来ないのであれば、これ以上周囲の同情を買うかのようにナイーブさを顕わにするな、と言外に含まれている。黒崎の世界は常に0か1かしかない。受け入れるか、拒むか、どちらにせよ態度をはっきりしろ、と言われて俺の苦笑はもう少し深くなった。

「その命題に対する答えなら、もう決まってるんだ」

 決まっている。あの年、年賀状の返事がなかったときに俺は身を切る思いで決断した。
 父親のことはそれ以前から、多分、諦めていたんだろうと思う。
 俺と彼とは相容れない。だから、父親を諦めることに罪悪感なんて少しもなかった。
 それでも、母親のことがずっと気がかりだった。母親だけは俺の味方だ、なんて少年期は思っていた。それを疑うのが怖かった。
 でも、俺は多分知っていたのだろう。十年間、年賀状の返事が来ない、という現象が持つ真意を、俺は多分わかっていて目を逸らしてきた。年賀状なんて一枚数十円だ。母親が父親に隠れて返事を送ることはそう難しいことではなかっただろう。それでもただの一度も返事は来なかった。母親は俺よりも俺を切り捨てた父親を選んだ。そういうことだ。
 向こうはとっくの昔にその結論に辿り着いているのに俺だけが女々しく現実から目を逸らしてきた。親不孝だとか言いながら、実家に仕送りしたこともない。それだって俺がその気なればいつでも出来ただろう。
 だから。
 俺の中ではもう決まっているのだ。
 ただ、言い出すきっかけがなかった。踏み越える機会がなかった。その言い訳の一切を許さず、黒崎は一刀両断する。

「だったら迷ってんじゃねえ」
「黒崎君、神宮寺君には俺がこんなこと言ってる、なんて絶対に言わないでほしいんだけど」
「はぁ? 言うかよ、ガキじゃねえんだ」
「うん、知ってる。でも、俺は今から物凄く人の道に悖ることを言うからあくまで予防線ってことで」
「ああ、もう、てめえは相変わらずまどろっこしいやつだな!」

 言いたいことがあるならさっさと言え、と黒崎が癇癪を起したところで、俺はすっと息を吸った。
 人道に悖ろうが、傲慢だと罵られようが、そんなことはもう些事でしかない。

「黒崎君、俺の両親はもう死んだと思ってる」

 だから、この先もしも彼らの生活が困窮し、俺が必要になっても、俺は彼らに一切の助力をしない。今まで育ててもらった恩は父親が自らの手柄のように俺の肩書を吹聴するのを黙認することで帳消しだ。母親もそれを止めないのだから腹は同じなのだろう。遠慮をするだけ無意味だ。俺にはもう両親などいない。俺の父親は宮藤莞爾だ。
 だから。

「君のお荷物になるようなら現地で捨てて行ってくれればいい」

 断腸の思いでそう言った。黒崎がその決断を聞いて乱暴に後頭部を掻き毟る。

「わかってねえな、おまえ」
「何を?」
「おまえの中で、おれはその程度の男か? レンにしてもそうだ」

 おまえが必死に悩んで罪悪感に魘されて、それでも選んだ答えがおれの価値観と違う、だなんてつまんねえ理由で切り捨てるように見えるのか。
 そこまで言われて俺は自らの失言を知った。

「おれはおまえとは違う。レンもおまえになれない。そんな当たり前のことをなんでてめえがわからねえんだ。馬鹿も大概にしろ」

 それでも、そんな馬鹿な俺でも黒崎は見捨てないのだということを漠然と知る。音楽だとか人徳だとか色んな言葉が脳裏をよぎった。その全部がかつて宮藤に告げられた言葉を彷彿させる。
 ユミちゃん、強がんなくていいんだよ。全部捨てるのも全部拾うのも、そんなの神様が選んだ少しの人しか出来ない。僕たち大半の人間は中途半端にしか生きられないから、肩肘張る必要はどこにもないんだ。
 その言葉の意味を数年を経てようやく理解した。
 理解したことを自覚した瞬間、俺の眦からは水滴が零れる。眼前の黒崎が彼にしては珍しく狼狽えていた。

「なっ、何も泣くことねえだろうが」
「いや、生理現象というか、俺にもよくわからないんだ」
「ったく、どうしようもねえやつだな、おまえは」

 言って黒崎はその大きな掌で俺の頭をわしわしと撫でる。乱暴だが優しく、労りを大いに含んだその温もりをされるがままに受け入れた。黒崎は最後に二度、俺の頭を軽く叩き、そして言う。

「そういう顔の方が、おまえには似合ってると思うぜ」

 俺もそう思う。だなんて自慢げに返せば、黒崎の指先が俺の額を軽く弾いた。

「言ってろ」

 取り敢えず、一回目のライブの打ち合わせ――顔合わせが来週ある、ということを言い残して黒崎は応接を出て行った。
 俺はコミュニケーションがあまり得意ではない。
 それでも音楽は俺を雄弁に語る。俺は音楽に関しては神様から少し恵まれている。だから、音楽家である俺の人生は少しずつ豊かになろうとしている。
 黒崎のライブで故郷の空気を十年余年ぶりに吸った俺がもう一度感涙するのはもう少し先の未来の出来事だ。
2014.09.23 up