Chi-On

王冠の下僕

正しい誕生日の祝い方

 俺は誕生日にあまり興味がない。
 生まれ育った俺の家では父親が強権的に支配し、誕生日を祝う、などという腑抜けた行事は許されなかった。級友たちが誕生日プレゼントに一喜一憂する様を指を咥えて見守るうちに、均衡を取る為だったのだろう、俺は誕生日が持つ価値を手放した。
 その損失が持つ意味を痛感したのは高校時代だ。
 付き合った女子の悉くに恋人の誕生日を忘れる薄情ものとして認識され、別れを切り出された。大学に進学しても就職してもそれは続き、俺は「記念日」を重視しない「楽」な女性を選ぶようになった。当然そんな女性は少ない。その証拠に、今も俺は結婚という一つの終着点に辿り着けずにいる。
 そして、俺はいつの間にか音楽を愛し、愛しすぎた王冠の下僕になっていた。
 王冠――俺の就職した小さな音楽事務所、クラフトクリアクラウンズが芸能界最大手のシャイニング事務所の子会社になって五年の月日が流れた。王冠の岸田、と言えば字面ぐらいは何らかの媒体で目にしたことがある、というぐらいには名前も売れた。コンペに出す楽曲と先方から指名されて納品する楽曲の割合が半々ぐらいになっても、俺の上司である宮藤莞爾(かんじ)は毎月に百の原案を求める。目まぐるしく移り変わっていく日々の中心が音楽であることに僥倖を感じながら、その日も俺は自らに与えられたスタジオで黙々と作曲を続けていた。
 譜面上でだけの作曲には行き詰まり、そろそろ音を鳴らしてみようか、という頃合いでスタジオの中に軽い電子音が響いた。王冠がそれぞれの音楽家の為に借り切ったこのフロアは非常階段やエレベーターホールとの間が強化ガラスで区切られ、社員IDを通さなければ入室出来ないようになっている。来客があると壁面に設置されたインターホンでスタジオの内線を鳴らす、という決まりになっていた。カメラ付きのインターホンだから、室内の端末で相手の画像を見ることが出来る。今日、来客の予定はあっただろうか。記憶の底を探ってもその結論は否で、俺は戸惑いながら端末の応答ボタンを押した。ディスプレイが切り替わり、エレベーターホールの画像を映す。
 そこにいたのはよく知っているが、思ってもみない客だった。

「神宮寺君――と七海君?」

 神宮寺レンと彼女の愛妻である七海春歌。七海が画面の右端で見切れているところを見ると彼らが大切にしている子どもたちも一緒なのだということを物語っていた。
 端末のスピーカーが神宮寺の声を紡ぐ。

「君さん、今からそっち行って大丈夫かい?」

 彼らとは六年近い付き合いがあるが、神宮寺が未だかつてこの手順を追って俺のスタジオに入ってきたことは一度もない。神宮寺は王冠の親会社であるシャイニング事務所の社員IDを持っているから、インターホンを鳴らす必要がないからだ。
 それは神宮寺に同道している七海にしても変わりがない。
 だのにインターホンは鳴った。
 どういう心境の変化だろう。戸惑いながら、俺はスタジオの中をぐるりと見渡してご多分に漏れずとっ散らかっているのを確認して、苦笑した。今から五分で片づける、だとか見栄を張れる状態にない。神宮寺夫妻が客なら、笑って許してくれるだろう、だなんて勝手に見当を付けて俺はインターホンの開錠ボタンを押した。
 このフロアには四つのスタジオがある。廊下に沿って順に並んでおり、王冠では末席にあたる俺のスタジオが一番出入り口に近い。アクセスの容易さと紙一重、つまり人の出入りが一番激しく、ともすれば集中力を途切れさせる要因になるかもしれないスタジオを選んだのは俺の意思だ。宮藤が中ほどのスタジオを配分してくれるつもりだったのを俺の一存で入り口を選んだ。
 理由は簡単だ。
 王冠がまだ宮藤と宮藤の友人たちの持ち株会社だった頃、俺たちには専用のスタジオがなかった。必要に応じて俺は先輩である松本御前(みさき)と共用していたのだが、神宮寺が俺の音楽を推して以来、彼や彼の友人たちが何かと理由を付けて王冠の事務所を訪ねてくるようになった。松本はそれを一度たりとも咎めたりしなかったが、クラッシックを愛する松本は清閑を好んでいることを俺は知っている。俺と俺の来客を拒まないのは松本の懐の広さの発露で、俺は都合一年半ほどそれに甘えていた。
 だから。
 俺に専用のスタジオを与えてもらえる、という段になったとき俺は決めた。
 俺は騒がしいのには耐性がある。だから、俺のスタジオは出入り口に近い場所でいい。
 その判断を知ってか知らずか、シャイニング事務所の若手アイドルたちは一番アクセスのいい俺のスタジオへ頻繁に訪ねてくる。会社の規定で、社員IDさえあれば無条件で入ることが出来るのだから、彼らの来訪を拒む理由はどこにもなかった。
 寧ろ、今のようにインターホンを鳴らされ、入室の許可を仰がれることの方が違和感を覚える。
 そんな少しピントのずれた感想を抱きながら、悪あがきで部屋を少し整頓する。打ち合わせ用に設えたサイドテーブルの上の譜面だけでも片付けば、居場所が出来るだろう、という馬鹿考えからだった。
 その、馬鹿考えが当然のことながら実を結ぶよりずっと早くにスタジオの入り口がノックされる。
 そして。

「君さん、王子様たちが触っちゃいけない譜面だけ片づけてくれればいいよ」

 神宮寺が苦笑しながら家族を伴って入ってくる。
 七海が彼の後ろで、それは全部だと思いますよ、と更に苦笑していた。同じ音楽家同士ということもあり、七海の意見の方が的を射ている。没にした原案すら俺は貧乏性でストックしているから、書き損じを除けば触ってもらっていい譜面など殆どない。七海の指摘に神宮寺がそれもそうだと明るく笑う。七海の後ろから男の子と女の子がひょこりと顔を出した。

「幸春(ゆきはる)君、楓恋(かれん)ちゃん、久しぶりだね」

 七海に似た長男――幸春は大人しい性格で、あまり進んで前に出てこようとはしない。彼が物心つく前から両親と交流のある俺にですら人見知りをするような控えめな少年だ。口数は少ない。もうそろそろ五歳になるはずで、ピアノを弾いているときだけは自信が持てるようだった。
 神宮寺に似た長女――楓恋は性格も神宮寺に似て少しませたところがある。レッスンを口実に実の父親と、母親――七海の取り合いをしては神宮寺をへこませていた。彼女はまだ何の楽器を選ぶのか決めかねている、と神宮寺から以前聞いた。取り敢えず音楽を味わってほしいから、と七海は娘にもピアノを手解きしている。
 その二人から見るとドラムという楽器を選んだ俺は埒外なのだ、ということは何とはなしに理解している。埒外だが、それでも母親のピアノとセッションすると音楽が一気に華やかさを帯びることを彼らは知っているから、子どもたちの希望を叶える為に俺の電子ドラムが神宮寺邸に置かれた。電子ドラムは精密機械だが、子どもが遊んだぐらいでは壊れたりしない。好き勝手なリズムを叩いては楽しんでいる子どもたちに混じって神宮寺が見様見真似でドラムを叩き、子どもたちから不興を買った、という愚痴をこぼしたときには彼にも不得手があるのだな、だなんて軽く感動したのは俺だけの秘密だ。

「君さん!」
「ユミちゃん!」

 俺の姿をみとめた兄妹がそれぞれの呼び方で久しぶりの挨拶をする。
 そして。

「ユミちゃん、あのね。きょう、ユミちゃんのたんじょうびなんでしょう?」
「だからね、ぼくたちからプレゼントがあります!」

 王子様とお姫様が自信満々の笑顔で母親の後ろから飛び出してきて、後ろ手に隠していたその「プレゼント」を差し出す。
 先に部屋に入っていた神宮寺と、子どもたちを後ろから見守っている七海に視線を投げれば、受け取ってやってほしい、と表情で言っていたので俺は腰をかがめた。
 子供たちの手のひらにはそれぞれ子どもらしく可愛らしい絵柄の入った封筒が収まっている。

「開けてもいい?」

 二通の封筒を受け取って、子どもたちに問えば「どうぞ」がユニゾンした。
 二つを同時には開封できないから、仕方なしに兄妹の序列に従って開ける。幸春の封筒からは乗り物の柄、楓恋の封筒からは花柄のそれぞれの性格を反映したたどたどしい文字で書かれた「おてつだいけん」が姿を現す。
 それを見た瞬間、俺の胸の内側に温かいものが込み上げてきた。
 俺は二人の親ではない。親類でもないし、近隣の住人でもない。
 ただ、両親が懇意にしている会社の同僚だ。いや、俺は子会社の社員なのだから、同僚ですらない。
 それでも、子どもたちは俺の誕生日を素直に祝してくれる。


「ユミちゃんにはいつもおせわになってるから」

 だから手が足りなければいつでも手伝う、という彼らの申し出をありがたく受け取り、俺は封筒をそっと手帳に挟んだ。
 四歳になるかならないかで、一人前の大人のように「お世話になっているから」と言う楓恋に何とはなしに神宮寺の幼少期が想起されて苦笑いする。ふとした瞬間にそういうつながりが見える、というのは何だかこそばゆくて少し羨ましかった。

「ありがとう、楓恋ちゃん。そうだな、確かにいつもお世話させてもらってる」

 今度、新しい曲が出来たら持っていくから感想を聞かせてくれると嬉しい。そんなことを口約束していると幸春が居ても立っても居られない様子で立ち入ってくる。

「君さん、おしごともうおわった?」
「そうだな。神宮寺君が来たら仕事は終わりだよ」
「じゃあね、いっしょに行こう?」
「どこに?」
「おうかんのじむしょ!」
「えっ?」

 胸を張って告げられた目的地に俺は軽く目を瞠る。王冠の事務所ならここから歩いて五分の距離にある。知らない筈がない。わかっている。
 ただ、その単語が幸春の口から、今、出てくることに驚いた。
 どうして王冠の事務所なのだろう。そんなことを考えていると返答が遅れる。
 その一拍の動揺に楓恋が「えー」と口を挟んだ。

「ユミちゃん、おうかんのじむしょだよ? わかるでしょ?」
「カレンちゃん、君さんだってわかってるよ。びっくりしてるだけだよ」
「ハルちゃんにいわれなくてもわかる! ね、ユミちゃん、おうかんのじむしょ、いくよね?」

 などと俺を挟んで兄妹が言い合いを始める。適当に言うだけ言わせると七海が微笑みながら二人を止めた。

「二人とも、そこまで。今日の主役はユミさんでしょう?」

 その締め括りに二人の子どもたちは僅かの不服を残しながらも口を噤む。
 母親を困らせてはならない、と神宮寺が口を酸っぱくして教えたのだろうことは想像に難くない。

「君さん、オレたちが来なかったら、君さんは今年も誕生日忘れっぱなしだっただろ?」

 その問いに反論の余地はない。
 神宮寺たちと出会うまで、俺は自分の誕生日を身分証明書を確認しなければ思い出せないぐらい軽んじて来た。別段誕生日を祝ったところで何にもならない。祝わずとも俺は齢を重ねるし、大した損失でもない、と今でも思っている。
 だから。

「今更誕生日を祝うって歳でもないだろ?」
「歳は関係ないさ。オレたちが祝いたいだけだから、君さんは事務所に来てくれるだけでいいんだ」

 その言外に含まれた部分が心の琴線に触れる。
 誕生日を祝おうとしてくれているのは神宮寺夫妻だけではないのだろう。社会に出て十三年。神宮寺たちと出会って五年。俺の人生は少しずつ豊かになりつつある。
 それを僥倖だとか奇跡だとか仰々しい言葉で飾らなくてはならないほど、俺の内側は餓えていない。

「『たち』の内訳は君たち親子だけじゃなさそうだな」
「王冠とオレたちST☆RISHとランちゃんたち」
「神宮寺君、君は本当に派手好きだな」

 ありがとう。そう言って俺は彼の心遣いを受け入れる。
 神宮寺はそれを聞き届けると少年らしさの残る笑顔で七海を振り返り、そして。

「ハニー、よかったね。君さんもオッケーだって!」
「はい、よかったですね!」

 まるで出会った頃と何も変わらない純朴な笑みで彼らは俺の誕生日を祝せることを祝す。俺もこんな両親の子どもに生まれたら何かが違っていたのだろうか。だなんてつまらないことを考えて一人打ち消す。
 シャイニング事務所の運営している早乙女学園の入学試験。ある年の試験日、都内では珍しく雪が降った。その雪の中出会った二人は原点を忘れないように息子の名前に思いを託した。ゆきはる、というのはそういう名だ。
 その、一見すれば重いような名前を与えられた少年が俺のシャツの裾を不意に引っ張る。

「君さん、しってる?」
「何を? 幸君」
「君さんといるときのおとうさん、すっごくカッコいいんだよ?」

 知っているとも。神宮寺は常に格好のいい存在だ。容姿や服飾センスは勿論、人あしらいがとても上手い。その神宮寺が人を悪し様に罵る場面は少ない。当然のことだ。人は負の面を見ることを本能的に拒む。自分に直接関わりがなくても、悪感情を露呈すると人の心は一歩引く。
 その、神宮寺が言った。黒崎のバックバンドに参加すると伝えに行ったときに確かに言った。
 
「運命を全部背負わなきゃ大人じゃない、なんて思わないで。君さんを頭ごなしに否定するような、そんな乏しい人間性しか持っていない人の為に傷つかないで。オレもランちゃんもきっと君さんを守れるから。だから、ツアーは楽しんできてほしいな」

 その言葉がどれだけ俺を救ったのか多分彼は知らないだろう。
 けれど、俺も彼の愛息子もきちんと彼の本質と出会った。神宮寺に守られなければ音楽の一つも作れないほど脆弱だと思われていたのは些か心外だが、それでも助けてくれるという申し出を固辞する理由はない。
 だから。

「行こうか、幸君」
「うん、君さん」

 今日はこのスタジオに戻ってくることは出来ないだろう。そう判断して荷物を手早くまとめる。その様子を察知した神宮寺夫妻が楓恋の手を引いてスタジオの外で待っている。
 王冠の事務所が未だかつてなかった手作り感満載の飾りを纏い、俺を待ち受けていることはまだ俺の知るところではない。
 誕生日を祝う意味はまだわからないし、来年になれば俺はまた誕生日を忘れるだろう。
 それでも。
 俺が何度忘れても、何度素通りで済ませようとしても神宮寺夫妻がいる限り、俺の誕生日は祝われ続ける。それを当然のことだと受け入れられるのが幸福か、それとも一度一度に幸福を知るのが僥倖か。俺に課せられた命題は多分生涯解を得ることはないだろう。
2014.09.23 up