Chi-On

王冠の下僕

希望的観測

 迷わない人間なんていない。
 四捨五入すればもう不惑に手が届いてしまう年齢になった今も俺の中には常に迷いがある。俺の上司である宮藤莞爾(かんじ)はその自己不全感に満ちた独白を聞いて笑う。あっけらかんと笑った。

「馬鹿だなぁユミちゃん」

 僕でも迷うのに不惑ぐらいで悟った気になられたんじゃ立つ瀬がないじゃない。
 そんなことを言って宮藤は俺の前に香ばしい匂いの立ち上るカップを置いた。
 年に二回ある業務査定の秋の回だ。この査定の結果次第で来期の給与と今期の賞与が決まるとあって、俺は一週間前から書類を作ったり、音源をまとめたりするのに奔走していた。
 王冠の査定面談は丸一日を要する。朝、提出帳票を持って事務所に出社。そのまま応接に入る。中では宮藤が待っていて、帳票を受け取る。それらにざっと目を通しながら、宮藤の疑問点に俺が答えていく。今期の反省と来期への意気込みだから、突っ込まれて困ることは少ない。今年、俺の業績は右肩上がりだったから、帳票に書く実績には困ることがない。その反面、来期の目標の設定が苦しかった。宮藤はそこを抜け目なく指摘してきたので、ホウレンソウで応える。

「半期で納品二百曲、を上回るとそろそろ俺が過労死しそうなんだが」

 それに加えて今期は黒崎蘭丸のバックバンドに参加もした。音楽を作る時間が圧倒的に足りなかったから睡眠時間を削った。来期も黒崎は俺のドラムを推す、と言っている。慢性的な睡眠不足は来期も続くだろう。
 そのことを暗に含ませて答えれば宮藤は苦笑する。

「だから目標を下方修正したんだね。現状はわかるし、ユミちゃんがそろそろ若くないのもわかってるけど、でもね、ユミちゃん」
「限界に挑戦し続けるのが音楽家の仕事、だろ?」
「わかってて愚を犯す、だなんて君らしくないなぁ」
「現状維持、に直すかどうか相談したかったんだ」
「ユミちゃん、現状維持もアウト」

 胸の前で宮藤が両手を交差させて否定の意を表す。
 社会人として当然の指導に俺は苦笑を漏らしながら「何パーセント上げたら納得してくれるんだ」と答える。宮藤は更に笑みを深くした。

「ユミちゃんがどれだけ頑張りたいか、によるんじゃないかなぁ」
「カンさんが何パーセント給与を上げてくれるか、によるんだ。その結論は」
「ユミちゃん、その台詞は前の査定のときにも聞いたよ? 結果はわかってるよね?」
「基本給は据え置き。手当でイロを付けて結果純増一割。俺の業績は純増五割」

 おかげで来年は地方税で泣くことになりそうだ。現状維持が出来なければ来年は苦しくなる。それが目に見えているから昇給を求めた。結果から言えば手取りで一割も昇給してくれた宮藤の気持ちに応えたかったから俺は必死で音楽を作った。その努力が実を結んだ。
 今になってみれば大分無理をしたものだ。
 骨惜しみをせずに身を削って限界と対峙したなら六か月で二百曲納品出来る、という実績を残してしまった。今後、俺はこの実績を根拠に戦っていかなければならない。
 最初からそれはわかっていたが、俺は俺を評価してくれる関係者の期待を上手く躱すことが出来なかった。反省することがあるとすればそれだけだろう。
 溜め息混じりに自分の業績を振り返ってみれば宮藤は眦を眇め、俺に微笑んだ。

「うん、そうだね。優秀な社員を持つと嬉しいね。純増五割だなんて僕も経験したことないなぁ」
「そもそもカンさん。俺には専属のマネージャーがいたはずなんだが?」

 五年前のことだ。王冠――クラフトクリアクラウンズがシャイニング事務所の子会社になった。そのときに俺たち王冠の下僕には専属マネージャーが付く、という話だった。実際、担当のマネージャーとも顔を合わせたし、最初の何か月かは面倒を見てもらった。
 だが、それも昔の話だ。
 結局、今では俺と松本御前(みさき)の二人のマネジメントは宮藤がやっている。

「というか、そもそもシャイニング事務所のアイドルたちが自由すぎるんだな」

 彼らは自分の仕事の都合を最優先にして俺たち王冠の音楽家のところへ直談判しにやってくる。マネージャーがいても、コンペに出すときぐらいしか音楽家のマネジメントをする場面がない状態にしたのは他でもない親会社の看板タレントたちだ。
 結果、閑職を任じるぐらいなら、と宮藤が代行し現在に至る。
 その現状に不満はない。俺も松本も元はと言えば宮藤がフロントだった。今更宮藤に不必要な遠慮をすることはないし、宮藤もそれを承服している筈だ。シャイニング事務所のマネージャーにそれと同じものを求めることは出来ない。俺たちの中に少しずつ遠慮を強いられることによるストレスも溜まっていた。
 そういう意味では宮藤の采配は適切な落としどころだった、と俺自身も認識している。

「業務の平均化を求める、だなんてユミちゃんも一人前の社会人になってきたんだねぇ」
「カンさん、それは何も褒めてないと思うんだが?」

 業務の平均化を求めることの何が一人前なのか、俺にはわからない。サラリーマン音楽家として音楽を作ってきた。五年前から俺の作った楽曲の著作権は俺のものになった。それでも、利権の行使に伴う諸手続きをする時間などなかったから、俺と松本は相談の末、宮藤に管理を一任した。結果、俺たちの生活水準が少し上昇して、残った印税は会社がプール金として借り上げてくれた。プール金には利息が付くから俺たちは何も困らないし、経費で落とせない高額支出に憂うことはなくなったし、俺たちの老後は保証された。
 宮藤には感謝している。
 それでも。
 スケジュールが過密気味になるにつれ、俺は自らの衰えと対峙する。
 今はまだ土を付けることなく戦い続けているが、いずれ俺は年老いる。それが平均より早いか遅いかすら俺たちは知らされていない。誰も知らないのだから知りようのないその不安要素を抱えたまま、純増五割を何年も続けるのは無謀が過ぎるだろう。
 だから、俺は現状維持を提示する。宮藤はそれを拒否する。
 お互いにお互いの言い分がわかっているから、俺たちのホウレンソウは結論に辿り着かない。
 そして。
 俺は知っている。宮藤は業界随一の王冠の下僕で、音楽を何よりも愛している。愛しているから、音楽を蔑ろにするものは決して許さない。同じ王冠の下僕である俺にも彼の水準と同じレベルで音楽を愛するように求める。
 それ以外の要求をされたことは一度もない。
 どれだけ好みに偏りがあっても、どれだけ荒削りでも、宮藤は黙って受け入れる。
 そして彼は淡々と評価を付ける。それでも宮藤が俺を否定したことは一度もない。
 だから。
 俺は知っているのだ。
 宮藤の事務所に飛び込んだ以上、王冠の下僕という呼称を得た以上、俺には音楽と生きる道しか残っていない。純増五割を目標に掲げるのははっきり言って無理だ。それでも、たとえ数パーセントでも上昇意識を持ち続けることを宮藤は俺に求めるだろう。そして、俺自身がその要求を容れる為の段取りを無意識のうちに始めていることも、俺は知っている。
 黙り込んで何パーセントまでなら多少の無理でこなせるだろうと計算を始めた俺の正面で、宮藤が俺が提出した今期納品した楽曲の一覧表に目を落とし、言う。

「ユミちゃんに言い訳することなんて何もないから、僕は言うけど」
「何だ? カンさん」
「来春に新卒を採ろうかなって思ってるんだ」
「新しい王冠の下僕候補? まだそういう奇特なやつ、いるんだな」

 俺が音楽を作り始めて十三年。まだ王冠が独立した会社だった八年の間にも飛び入りで音源を持ち込んだ学生は何人かいた。その悉くは宮藤と半日に及ぶ面談の末に夢を諦めて帰路につく。多くの学生は初任給――諸手当が一切付かない最低の号俸からのスタートラインの額を知って、人間は霞を食べて生きるわけにはいかないことを察する。情熱が有り余っているものは副業をする許可が出るか、と宮藤に問うらしい。宮藤はその問いに首を横に振る。前途ある有望な若者の貴重な時間を小銭稼ぎに費やす業の深さを知っているからだ。
 じゃああの人たちはどうやって生きているんですか。
 面談をしている応接からその手の文句が漏れ聞こえてくることもある。
 その度、俺と松本は顔を見合わせて笑った。
 俺たちが王冠の下僕候補だった頃、それはそれは貧しい生活を送ったものだ。
 その、しなくてもいい苦労と向き合って、それでも真摯に音楽を追い求められるものだけが王冠の下僕足り得る。その辺りはタレントたちと何も変わらない。
 だから。

「今だったら早乙女学園でも出れば箔が付くと思うんだが」

 王冠――クラフトクリアクラウンズはシャイニング事務所の子会社になった。シャイニング事務所には直営の専門学校がある。成績優秀者は即デビュー。そちらを志す方が余程現実的だ、とぼんやり返すと宮藤は苦笑した。

「流行りの音楽には興味がありません、って言われちゃったよ」
「へぇ。それで? ご本人さんはどんな高尚な音楽を作ってるんだ?」
「アコギとハーモニカのちょっと個性的なフォーク。歌もそれなりに上手いけど、売れても二、三曲かな」
「どれを聴いても大差ないわけだ」
「ないねぇ」

 それでも、宮藤はその王冠の下僕候補を受け入れる腹積もりをしている。
 得意な楽器やジャンルが異なる以外は、かつて俺と松本が辿った道と同じだ。王冠の音楽家というのは等しく自尊心が強い。松本は古典を、俺はロックを気取って宮藤と面談した。思えば似たような音楽ばかり詰め込んだサンプルを持って、その程度でよく個性派を気取ったものだと失笑するしかない。今になれば苦い思い出だが、ポップスのような軟弱な音楽は好きではない、と高尚めいたことを俺たちもかつて宮藤に言ったことは忘れることはないだろう。
 だから。

「流行りの音楽を笑うやつは大体流行りで泣く。言ってやらなかったのか、カンさん」
「言ったけど聞こえてなかったんじゃないかな」

 そんなところまで君たちにそっくりだったから。
 宮藤が眦を眇める。その向うに十数年、二十数年前の俺たちが映っているのだろうことは想像に難くない。芸能界に定年退職はない。宮藤は還暦を越えたが、今も現役の音楽家だ。それでも彼の視界にはどの作品で生涯を閉じるのか、という命題が映っている。
 だから。

「いいんじゃないか。カンさんが雇うって言うのに俺たちが反対する理由はないよ」

 新しい王冠の下僕が生まれることは吝かではない。性別すら尋ねなかったが、俺の中では勝手に同性だろうと思っていた。王冠の門戸を叩く度胸があるような女性がいるとは考えなかった、と後日七海春歌に零すと、彼女から「私がジェンダー論者だったら今頃ユミさんは吊し上げでしたよ」と苦笑された。七海自身も女性で、尚且つ結婚、出産、子育てというステージの上にいて、それでも音楽を紡ぎ続けている、という事実が俺の頭の中から欠落していた。
 そんな俺の既成概念との戦いはもう少し後のことで、取り敢えず現時点で、俺は宮藤の言う新卒の存在をそれほど大きく認識してはいなかった。
 宮藤はそれを見抜いていたのだろう。悪戯そうに笑って、そして言った。

「うん、だからね。ユミちゃん」
「まだ何かあるのか?」
「君の来年の目標は現状維持でいいから、その子の面倒見てあげてほしいんだ」
「はぁ?」

 思ってもみないことを言われた、というのを感嘆詞の中に盛大に込める。宮藤はそれは織り込み済みだったのだろう。俺の躊躇などお構いなしで話を勝手に先へ進めた。

「ツモ君だと年が離れすぎてるし、ユミちゃんのが幾らか愛想いいし、後進を育てるっていうのも大切な仕事の一つだよ」

 宮藤、そして松本の両名が俺を育ててくれた、というのを忘れたわけではない。
 王冠の主力ジャンルはジャズだ。だから、俺は王冠に入社してからというもの、ずっとジャズを勉強している。本音ではロックがやりたい、と思っていたが、松本が親切丁寧にクラッシックを学ぶことがどれだけ他の音楽の土台になるか、と説くので新人の看板が取れるまで、俺は彼らから学び続けた。
 その、恩を忘れたわけではない。
 いつか恩返しがしたい、と言ったら二人とも声を揃えてそれを次の子に返すのが最大の報恩だと言われた。
 だが。

「でも、カンさん、俺は来年の春からまた黒崎君のライブツアーなんだが?」
「それは一緒に連れて行ってくれればいいよ」
「カンさん、黒崎君は信用の出来るスタッフしか随行させないの、知ってるだろ?」
「大丈夫だよ。『ユミの後輩なら大目に見てやんねーこともない』って言ってくれたから」

 なるほど、その返答の具合ならば問題にはなるまい。宮藤が認め、俺が全責任を負う、というのに黒崎が論外だと突っぱねることはないだろう。
 ただ。

「そういうのは俺に話したうえで確認することだろ?」
「だって、ユミちゃん、そんなこと言ったらスタジオで天岩戸じゃない」
「人を勝手に女神扱いするのはやめてくれ。俺だって正式に反論出来ただろ」

 俺は天照大神ではない。現実にちょっと絶望したぐらいで引きこもって人の気を引きたいだとかそんなことを思うほど子どもではない、と自分では認識している。
 きちんと筋道を立てて説明されたことを、それでも自己の好悪で左右するほど俺の人格は信用できないのか、と返せば宮藤は苦笑した。

「ユミちゃんが、そうやって思い詰めるから中々言えなかった、ってのはあるかなぁ」
「それで? その高尚なフォークシンガーさんの面倒を見たら何の手当が付くんだ?」
「うーん、名目はこれから僕が考えるけど、金額的に言うと本社の係長手当ぐらい?」

 悪くない話でしょ?
 宮藤が悪童めいた顔で告げれば交渉終了だ。宮藤はこれ以上もこれ以下も譲るつもりがない。
 だから。

「取り敢えず来期は10パーセント上昇、で手を打たないか?」
「うん、じゃあ春まではそれで行こうか」

 あとは実績の確認だね。
 言って宮藤が応接のソファから立ち上がる。
 これから行く先は俺のスタジオだ。そこで宮藤が無作為に抽出した楽曲を演奏する。その実技を評価されて、俺たちの査定は終了だ。
 まだ会ったこともない、未来の後輩に聴かせて恥ずかしくない音楽、を目指しているかどうかはわからないが、俺は今の最善を尽くす。その最善がどんな意味を持つのかを知るのはもう少し先のことになる。
2014.09.23 up