Chi-On

王冠の下僕

そこにある未来

宮藤莞爾(かんじ)が連れてきた新しい王冠の下僕候補と対面したのは四月十日になってのことだ。
 親会社であるシャイニング事務所の新人研修を受けていた、ということは対面の当日に宮藤の口から知らされた。それに至るまで新人が来ることすら忘れていた俺が言うのも何だが、もう少しホウレンソウをしっかりしてほしい、とぼんやり呟いたら「ユミちゃんも一緒に研修に参加したかったの?」という斜め上の回答があったので、俺はそれ以上宮藤に業務の効率化を求めることを断念した。
 取り敢えず、今日から出社するという新人のプロフィールだけでも目を通しておこうと資料を要求すると作成日が十日前の簡潔な人事資料が手渡された。ポケットファイルに入った四枚程度の資料の表に大きな文字で「入野修」と書かれている。宮藤のことだ。既にこの新人には彼の独特なセンスで愛称が付けられているのだろう。俺の「歩」と同じ一文字の名前。読み方によっては男性名とも女性名とも取れる。ということは遊び心に富んだ宮藤のことだ。付ける愛称が男性名なら女性、女性名なら男性、と見当を付けていると俺の心中を察したのか宮藤が零れ落ちそうな笑顔で告げる。

「はい、これ。サム君のスタジオの鍵」

 言って宮藤は俺の持っているのと同じデザインのICカードを取り出した。このカードはスタジオのマスターキーで、普段は使うことがないが、パスワードの再設定を行う際には必要になるので紛失しないように留意しなければならない。それ以外、平時にスタジオのフロアに入るには社員証で解錠することになっている。個々のスタジオの扉も社員証を翳すと開き、自分のスタジオ以外に入室する際にはスタジオ脇のインターホンで部屋のあるじを呼び出し解錠してもらう必要がある。但し管理者である宮藤の社員証だけは特別でどのスタジオでも開くことが出来る。
 という説明すら俺にさせようとする宮藤の意図が透けてみえるやり取りに俺は一つ嘆息して、そして彼が俺に示した暗黙のうちの宣言――「サム君」は男性名だから新人は女性なのだろう。ならば「修」の読みは「おさみ」だということだ。一見すると理解が及ばないと思わせがちなこの命名ルールだったが、慣れると法則性を見出せるのだから、宮藤は合理主義者だと言えるだろう。

「で? 入野君は何時に本社から戻って来るんだ?」
「お昼が出るって聞いてるから早くても14時ぐらいなんじゃないかなぁ」

 その返答に俺は事務所の壁にかけられた時計の盤面を見やる。まだ11時前だから、あと三時間ほどの余裕があった。
 宮藤がそういう采配をしたのか、それは俺の預かり知るところではないが、偶然にも今日の俺の業務にはゆとりがある。新人に王冠の常識を説くには十分な時間があると言えるだろう。

「じゃあそれまでの間に事務所の準備をしておけばいいんだろ?」

 俺が新人を迎え入れるのは正真正銘初めてのことで、正直なところ何をすればいいのかはよくわかっていない。

「僕も手伝うよ。デスクはユミちゃんの隣でいいよね?」
「いいも悪いももう決めてることだろ?」

 王冠の采配は宮藤に一任されている。その宮藤が俺の隣の机を新人に与えるというのなら俺にそれを拒否する権利はないはずだ。そう言えば宮藤は微苦笑して「ユミちゃんが向かい合わせのデスクがいいって言うならツモ君に代わってもらおうと思ってたよ?」と答えた。十五年前、俺が入社したばかりの王冠の事務所は今の事務所の半分以下の面積しかなかった。デスクは壁際に一列に並び、それ以外の配置は不可能だったから自然、俺は松本の隣に座った。応接室もない、会議室もない三人だけの事務所。それが今では倍以上の面積を与えられ、応接も会議室もきちんと用意された。俺たちのデスクは島状に配置され、一人で二つのデスクの使用権が存在する。宮藤はその面積の維持してくれるつもりなのだろう。新人が来るにあたって先月半ば二つのデスクが配送されてきた。そして宮藤はその二つのデスクを島の両側に配置し、横に二人ずつの音楽家が並ぶ構成にした。宮藤、松本と俺、入野、という並びだ。島の中央にはパーティションが置かれているから向かい合わせに座ってもお見合いになることはないし、俺たちは暗黙の了解的にはす向かいの席に座っている。入野を向かいに座らせる方がいいのか、それとも隣に置くのがいいのか逡巡して結局俺は宮藤の采配を肯定した。

「カンさん、俺は王冠の流儀で入野君に接したいと思うんだけど構わないか?」
「僕は君の判断にお任せしようと思ってるけど、でもねユミちゃん、人を育てるのに責任を一人で背負い込むことはないんだってことだけは忘れないでね」
「大丈夫だって。俺は自分だけで人を育てられるほど有能だとは思っていないよ。それでも、カンさんが俺を選んだのなら何か意味があるんだろうし、まぁ最善は尽くそうかな、とは思ってる」
「ユミちゃん、その時点で間違いがあるから教えておくけど、人を育てるのに最善なんて答えは存在しないからね?」

 俺の中の理想的な結果を否定するわけでもなく、肯定するでもなく宮藤は確かに俺に釘を刺した。
 音楽は自分自身を偽らない。天性の才能には到底敵わないがそれでも努力をすればそれだけの手応えはある。俺が生み出しうる最善が世間の最善と一致しないこともあるが、それでも俺は自己満足の海に浸かることは出来る。
 人を育てるというのは、或いは人と接するというのに最善の答えはない。
 それを認識しろと言われた。今から俺が接するのは自己を確立した一人の人間だ。俺の理想や思考とは相入れない部分もあるだろう。俺の中の既成概念とは違う何かを持っているかもしれない。だから、結果がいいにしろ悪いにしろ、それを俺一人が負えると思うのは傲慢だ。
 宮藤は松本を、松本は俺を彼らの最善で育てたと思っている。そう認識するのは俺の自由だが入野にも同じことを求めるのはやめろ、と言外に告げられた。そこまで見抜いているのに宮藤は俺に入野の教育を任せると言った。要は俺にもまだ成長するべき伸び代が残っているということだ。

「君のどういう考えでサム君を育てるのか、そこに僕は口を挟むつもりはないよ。僕は一人の新しい音楽家に出会えるのが純粋に嬉しいし、君の世界が少しでも広くなればいいと思ってるだけだから。でもね」

 と宮藤が前置く。
 君という音楽家を失うぐらいなら僕は新しい音楽家との出会いを捨てる覚悟があることだけは先に伝えておくよ。
 その、辛辣な宣言に俺は両目をこれ以上ないほどに見開く。俺はまだ入野に出会ってすらいない。彼女と言葉を交わしたこともない。俺の言葉を彼女がどう捉えるのか、その結果すら知らないのに宮藤は何十手も先の最悪の結末を見越している。
 宮藤のことだ。俺が入社したときには松本に同じことを言ったのだろう。宮藤が認めた松本という音楽家の将来は俺の可能性を遥かに凌駕した。
 その暗黙の重圧を受けて、それでも松本は俺が育ててくれた。果たして俺はどうにか一人前の音楽家になり、今では松本が聞いたのと同じ言葉を聞く立場になった。
 それは多分宮藤の信頼の証なのだろう。そこまでを漠然と理解して宮藤の不器用な思いやりに苦笑する。

「カンさん、俺は一人前の王冠の下僕だから何が一番大事かはわかってるつもりだよ。俺は俺を殺してまで入野君に肩入れするつもりはない」
「そう? なら僕も安心だねぇ」
「でも、カンさん。入野君は黒崎君のツアーに連れてかなきゃならないから、俺はその点で妥協しないけど、構わないだろ?」
「君がそう思うのなら僕は口を出したりしないよ」

 じゃあまぁこの話はここで終わろうか。言って宮藤は話を原点に差し戻す。俺と宮藤は入野が事務所に来るまでに業務が出来るように取り図らなければならない。人事、総務、経理の一切をその身で引き受ける宮藤の指示を求めれば、彼は穏やかに笑って「ユミちゃん、もうすぐ全部届くからもう少し待ってようか」と言った。

「届くって、何が?」
「文房具とか色々?」

 筆記用具とかファイルとか王冠の備品で足りない分とか。
 言われて俺は納得した。

「ああ、みらくる?」

 「オフィスサポーター・みらくる」という会社と王冠は契約している。俺や松本も備品が足りないときには事務所の端末から注文することがあるので、それは把握していた。王冠の事務所は確かに大きくなり、キャビネットの数も倍増したがあくまでも社員は三人の会社だ。備品の数はそれほど多くはない。入野が新しく入社したということは一から全てを揃えなければならない。だから、多分ここで待っていたらみらくるの配送が来るのだろう。
 そう、返せば。

「えっ? ユミちゃん、みらくるに発注したの?」
「カンさんが発注したんだろ? 俺は入野君のことはさっきカンさんに言われるまで全部忘れてたんだが」

 驚く宮藤に寧ろ俺の方も驚く。
 みらくるが来るのでないのなら誰が来るのだ。
 新しいオフィスパートナーと契約したという業務連絡は聞いていない。幾ら俺がスタジオに籠りきりだと言ってもその類の連絡が回ってこないのは問題がある、と言外に含ませると宮藤はおかしそうに笑って「発注してないならいいんだ。今日は特別な人にお願いしたからね」と手のひらをひらひらと舞わせた。

「特別な人?」

 特別な人という存在に心当たりがないが、俺とは違って毎日事務所に顔を出しているはずの松本が不在だから彼だろうか、と思う。ただ、彼が自ら事務用品店に出向いて買い物をしてくる、というのは不合理だ。合理主義者の宮藤の好む展開ではないだろう。
 では誰だろう。親会社の一切を取り仕切っている日向龍也だろうか。
 そんなことをぼんやり考えていると事務所のチャイムが鳴る。

「来たみたいだね」

 言って宮藤は壁面に設置された開錠ボタンを押す。間を置かず出入り口が開き、朗らかな顔をした神宮寺レンの姿が現れる。そして俺は「特別な人」の正体を知った。

「やあ、君さん」

 後輩が出来る気分はどうだい、と大らかに笑った彼に釣られて俺もまた笑う。華やかな空気に不釣り合いな不愛想な段ボールの側面に書かれた文字列を認識したからだ。シャイニング事務所の内部でよく使うシャイニングレコードのロゴ。その横に縦書きで書かれた「ノートPC」の文字。
 王冠がシャイニング事務所の子会社になってからこちら、備品の管理は親会社と同じ水準を求められるようになった。俺たちの自前の楽器以外の機材は管理番号を振り当てられ、使用者を登録しなければならない。新調の際には稟議を通す必要があるので、王冠の代表である宮藤をしても自身の決済では購入出来なくなった。
 神宮寺が持ってきたのはその稟議を通した備品――業務管理を行う為の端末だ。なるほど、これではみらくるで発注することは不可能だろう。
 そして、それを神宮寺が持ってきた、ということは彼も俺の後輩に興味があるということだ。日向とは親しい彼が備品の配達を名目に王冠へやってきた。考え得る結末はその辺りだ。
 溜め息を一つ吐く。

「神宮寺レンが自分のマシンを配達してきた、って聞いたら普通の新人はそれだけでパニックになるだろ」
「君さんの後輩ならそんな心配はないよ」

 何せカンさんとリューヤサンが選んだ新しい王冠の下僕候補なんだから。
 言って神宮寺は俺の隣のデスクまで歩いてきて段ボールを置く。彼の言う王冠の下僕という響きには慈愛が籠っている。王冠が業界で確かな評価を得ていることをトップアイドルであることを彼は言外に肯定した。宮藤にはその評価を受けるだけの自負がある。そしてその自負によって選ばれた俺も入野も最低限の水準を満たしている。だから、彼らは俺たちを評価する。たったそれだけのことだったが、俺が今まで歩いてきた道も肯定されたようでほんのりと胸中が温かくなった。

「会ってから戻る、んだろうな君は」

 段ボールを置き、誰の裁可も仰がずに神宮寺は勝手に荷解きを始めた。その無言の宣言の意味を俺は知っている。そんなことを一々尋ねなければならないほど俺と神宮寺の間に距離はない。神宮寺が機械の操作には疎く、ノートPCのセットアップを始めようとしたはいいが、手順が一つもわからずに黙って難儀していることも、俺と彼の間では言葉で伝えるまでもない。俺は彼との間にあった四歩の距離を埋め、神宮寺が手順書を探して覗き込んだ段ボール箱を引き寄せた。その中からLANケーブルと電源ケーブルを引っ張り出して真新しいマシンに接続すると神宮寺はひゅっと口笛を鳴らした。
 王冠の序列では最下位にあり、逆に言えば一番若く、新しい技術に馴染みがあるというだけの理由でIT関係の業務は俺に一任されることも少なくはない。本社からの指示書があればPCのセットアップは俺の担当だから迷うことなく終えられるだろう。
 二本のケーブルを接続し、マシンの電源を入れる。最新型のマシンは音も立てずに静かに読み込み中の画面を表示した。
 それを隣で見ながら神宮寺が慣れたものだね、と意外そうに感心していた。
 帰るつもりはない、というその態度からにじみ出る雰囲気に俺は苦笑する。

「俺とカンさんはセットアップが終わったら昼休憩に出るけど?」
「ならオレもご一緒しようかな。いいだろ、カンさん」
「カンさんは王子様たちの小さなわがままを一々拒絶したりしないよ」

 そうだろ、カンさん。
 苦笑しながら俺は俺の上司に振り向く。宮藤は穏やかな笑みを浮かべ、じゃあ今日は特別に僕のおごりだねぇと目を細めた。神宮寺に向けられたその柔らかな眼差しの意味を俺も彼も理解している。俺たちは幾つになっても多分宮藤からは息子扱いなのだろう。
 その居心地の良さを肯定するかのように神宮寺もまた笑う。
 
「だってハニーが『入野さんは立派な王冠の下僕候補ですよ』って言うんだから見ておきたいなと思ってね」

 王冠を作るレディには一言挨拶をしなくちゃ。だなんて気障ったらしく締め括られた言葉の向こうに俺はもう一つの事実を知る。

「七海君はまた今年も講師を引き受けたのか」
「オレもハニーも受けた恩は忘れない主義だから」

 シャイニング事務所の新入社員は幾つもある部門の業務内容を把握する為にそれぞれの現役社員から講義を受けることになっている。七海――今では入籍し二児の母なのだからきちんと神宮寺春歌だと言わなければならないが、彼女は今も七海の名で音楽を紡いでいるからあながち間違いではないと言い訳をして俺は彼女をそう呼んでいる――は去年、一昨年と作曲家に課された講師の役を引き受けた。彼女が新人たちに教えるのは曲を作ることではない。作曲家は縁の下の力持ちに徹するのが一番だとかそういうことでもない。ただ、この会社にいる以上、全ての人間の存在には意味があり、そうやって支え合ってアイドルたちを輝かせているということをもっと柔らかい言葉で伝える。見習いアイドルも見習い作曲家も、大学を卒業し、入社試験を受けて社員となったマネージャー候補生や内勤者も同じようにそれを聞く。それを聞いて意味を見いだせたものは一年、三年の壁を越えていくが意味を捉えられなかったものは年次を追うごとに脱落していく。
 七海はその研修の中で入野を見たのだろう。
 大の付く音楽馬鹿である彼女が入野に意味を見出したのなら、宮藤や日向の決定にはやはり価値がある。そのことを俺に伝える為に神宮寺がここに来た、というのを遅ればせながら理解して俺もまた表情を緩めた。

「なるほど、カンさん。これは確かに特別な人だな」
「でしょ? ユミちゃんにはいい刺激になったみたいだし、セットアップももうすぐ終わるし、僕は何を食べに行くか決めなきゃいけないなぁ」
「悩む体はもういいよ、カンさん。どうせ末廣だろ?」
「すえひろ? 何だい、それ」
「カンさんと俺で見つけたお値打ち価格で最高の品質が保証される江戸前寿司屋」
「ランチタイムだけ海鮮どんぶりを売ってるんだ」

 王冠の事務所から歩いて五分の距離にあり、オフィスビルの谷間にひっそりと建っているから知るものぞ知るという穴場だ。大将が気前のいい人で何回か通ううちに俺たちはすっかり常連になってしまった。
 そして。

「祝いごとだって言えば今日のとっておきを握ってくれる、っていうおまけも付いてくるな」

 それはサービスだから料金を上乗せされることもない。
 そんなことを説明しているうちに俺はマシンのログインIDとパスワードの設定を終え、オフィスソフトのユーザー登録も完了させた。あとはメールアドレスの発行と設定が終われば普段の業務は差支えなく行えるが、その手順書は14時に顔を出す入野自身が持っているから、これ以上俺がこの場で出来ることはもうない。
 開いていた画面を全て閉じ、マシンの電源を落とすと宮藤と神宮寺は既に上着を羽織っていた。

「君さん、終わったのかい?」

 尋ねる神宮寺の隣の宮藤は俺の上着を持っている。ロッカールーム――この事務所になってから私物を仕舞うロッカーが一人一つずつ貸与されたが誰も施錠しないという性善説で成り立っている――から持ってきたのだろう。
 宮藤も神宮寺も俺の作業が終わったのを確かめ、目配せをしている。神宮寺の少年らしさの残るその笑みの意味を言葉で表すのなら楽しみで待ちきれない。その、彼の純朴な一面が見られる特権階級にいる今が何だか無性にかけがえのないものに感じられて俺は静かに一瞬だけ瞑目した。

「終わったとも。行こうか、カンさん」
「神宮寺君の口に合えばいいんだけどなぁ」
「ま、庶民のランチも偶にはいいだろ?」

 そんな悪口を交わしながら俺たちは春の日射しの下へ出て行く。
 俺と神宮寺が噂の新人と対面するまで残り二時間と少し。新人が神宮寺を一蹴し、彼をして流石は王冠の下僕候補だと闊達に笑い飛ばされる未来はもうすぐそこに見えている。
2014.12.27 up