Chi-On

王冠の下僕

同病相哀れむ

王冠には暗黙のルールが数え切れないほど存在する。
 社員が三人しかいなかった時期が長すぎて、一つひとつを明確に線引きすることすらままならない。
 タイムカードすら存在しない時点で、俺たちは新入社員にそれに代わる手続きがどう行われるのか、という説明をどうするのかで小一時間の打ち合わせが必要だった。王冠には就業時間という概念がない、と言ってしまうと新入社員が労働基準局に相談に行くのは想像に難くない。この性善説で成り立った就労条件は、俺たち三人の中ではフレックスタイム制だという認識で通っているが、平成の世を生きる若人にはそれでは通じないことぐらいは一応認識している。認識しているが、今更コンプライアンスだのと言われても俺たちにそんな余裕もないのが現実だ。
 結論から言えば代表である宮藤莞爾(かんじ)は暗黙的に順応してもらおうという形で俺に丸投げした。多分こうなるような気はしていたから、苦笑で流す。隣で末廣の海鮮どんぶりを一緒に食べていた神宮寺レンが「王冠って実はブラック企業なのかい?」と笑っていたが今までの就労環境を鑑みるととてもホワイトだとは言えないことを俺自身よく知っているから聞かなかった体で無視した。

「服装規定なし――の実態がオフィスカジュアルをベースにカンさんの価値観からはみ出ない、っていう一番難しい配分。通勤手段も規定なし――の実態が徒歩推奨。だって駐車場もないし定期券の清算手順もないし。会社所有借り上げ住宅有――の実態が一体幾らの家賃なのかも知らされずにぽんと鍵だけ渡される。挙句、家賃水道光熱費は給与明細上雑費で引かれるからこれも一体幾らかかるのかわからない」

 俺や黒崎蘭丸には自分で部屋を借りていた経験があるから、そこから大体雑費の内訳がどれぐらいかを割り出せる。だが、この春大学を卒業し、上京してくる新社会人にそれと同じことをしろというのにどれだけ無理があるか、俺は承知している。それでも彼女――入野修は王冠の下僕候補に手を挙げた。君には無理だと弾くのは簡単だ。相手の為を思っているという体で彼女の言葉を全て切り捨てればいい。
 ただ、十五年間頑なにそれを続けてきた宮藤が入野を受け入れることを決めたのなら、多分そこには何らかの意味があるのだろう。
 だから。

「君さん、オレが言うのもなんだけど、今までその待遇でどうやって生きてきたんだい?」
「爪に火を灯して? っていうのはまぁ冗談だけど手取りが二ケタ万円になるまでは長かったなぁ。本当に死ぬかと思ったこともあるし」

 ユミちゃんはこう見えて倹約家だから大丈夫だよ神宮寺君。
 反対隣りで宮藤は笑うが、十五年前の俺からすれば笑いごとではない。社会保険が差っ引かれ、正社員で採用されたはずなのに学生時代のアルバイトと変わらない程度の年収しかないから手元には本当にあぶく銭しか残らない。なのに査定は年二回やってきて名目上だけは昇給する。そして雑費が差し引かれ、地方税も差し引かれるようになって俺はもうこれ以上は無理だと思った時期もある。
 それでも俺が今、王冠の下僕として生きているのは実家に頼らないと決めた矜持と音楽への情熱が本物だったからだ。売れる曲が作りたいのではない。俺の音楽を売りたかった。ただそれだけのことだが、それは天賦の才能がなければ不可能だということを七海春歌と出会って俺はようやく知った。

「後学の為に聞いておきたいんだけど、君さんって年収幾らなんだい?」
「君の年俸とは比べ物にならないぐらい少ない」
「結婚相手の候補から外されるくらいかい?」
「そうだな。多分、婚活パーティーに行ったら場違いすぎて泣きたいぐらいだ。まぁ、君の会社に吸収合併されてからは随分高給取りになったな、とは思うよ」

 それでも俺の年収は三百万と少しだ。本当はもう少しあるらしいが、宮藤と本社の日向龍也がいざというときの為にプールしてくれているから、どの道俺の手には入らない金だ。プール金は俺の為に使われるが、俺の目に現金として見えることはないから年収のうちに考えるだけ無意味だろう。
 その辺りのことをぼかして伝えると神宮寺が不意に沈痛な面持ちになる。

「君さん。オレ、もしかして君さんに迷惑かけてたのかな」

 明言されることはなかったが、彼と俺の空き時間が重なる度に繰り返された高額の買い物のことを指しているのは問うまでもない。ただ、俺は俺の判断で買えると思ったものを買っただけで、神宮寺が俺に何かを強要したことは未だかつて一度もないし、たとえそうだとしても決済をしたのは俺自身だ。今更それについて取り沙汰すつもりはない。
 寧ろ、彼の貴重なオフを俺の為に使ってくれたと感謝すらしている。

「俺は一度も迷惑だなんて思ったことはないよ」
「でも、君さん」
「神宮寺君。それ以上何かを言いたいのなら、まずは君の細君に同じことを言って迷惑扱いされてからにしてもらいたいな」

 彼の妻――七海は俺と同じ庶民出身のサラリーマン音楽家だ。彼女も一人前の音楽家になって以降は実家の援助を辞退している。その感覚で神宮寺の「親切」が迷惑だと判じられたのなら、俺も彼に迷惑をかけられたと認める。そう言えば神宮寺はくしゃりと表情を崩して「ハニーは絶対にそんなこと言わないよ」と言った。

「そりゃあそうだろ。七海君も俺も君と出かける買い物を迷惑だなんて思ったことなんかないんだから」

 ピンストライプのカッターシャツ。その上に羽織る無地のカーディガン。今は椅子の背もたれにかけられた仕立てのいいジャケット。腰周りのベルトにウォレットチェーン。ボトムは色合いの濃いデニム。その尻ポケットに長財布とパスケース。足もとのトラッドシューズ。
 どれも神宮寺との長い付き合いで順番に購入したものや、彼の意見を参考に俺自身が選んだものだ。その一つひとつが調和し、宮藤の許容するオフィスカジュアルの領域に納まっている。全部を高級品でまとめる必要がないことを教えてくれたのも神宮寺だし、どのアイテムなら廉価でも見劣りがしないかを教えてくれたのも彼だ。
 彼の適切なアドバイスのおかげで俺は業界人として相応しいだけの身なりをしている。先方からの指名で打ち合わせに赴いたときのアウェー感はここ数年一度も感じたことはない。それも、全部ぜんぶ、神宮寺が俺にくれたものだ。
 だから。

「神宮寺君、今更だろ? それとも君も年収で友人を選ぶ歳になったのか?」
「違う! オレは絶対にそんなことしないさ」

 その答えを即時聞けるだけで俺の人生は以前とは比べ物にならないほど満ち足りている。
 だから、神宮寺は誇るべきだ。
 価値観を強要しなかったことも、俺の身の上を顧みることが出来る心配りも、その結果が俺を「育てた」のだという事実も。彼は誇りに思うことこそあれども、決して恥じたり後悔したりする必要はどこにもない。
 そんな小さな心配は神宮寺レンの器には必要ではないのだから。

「ならいいじゃないか」
「後悔、してないんだね?」
「する理由があるのなら教えてほしいぐらいだ」

 それでも俺も宮藤も知っている。神宮寺が今何を思い悩んでいるのかも、どういう結末を欲しているのかも、それらが明日の神宮寺をどう生かすのかも。知っているから俺たちは何も言わない。言わないという沈黙の圧力が彼にどういう影響を与えるのかも知っている。
 それでも俺たちはその圧力を行使する。
 神宮寺レンという花はその程度で折れることなどあってはならない。

「君さん、変わったね」

 昔の君さんなら今頃顔色を変えて慌ててたのに、という言葉の裏に哀愁を感じる。多分彼は今、出会った頃の垢抜けない俺を思い出しているのだろう。自分の音楽だといえるものを作っていた。なのに自信がなくて評価されるのに怯えていた。「売れる」という現象がどういう波及効果を持っているかも知らなかった。
 それでも。
 俺はまだ王冠のノルマ、一か月に百の原案を作り続けている。冒険の意味を知った。安定の価値も知った。それでも俺は王冠の下僕でいたかったから宮藤の決めたルールには従っている。そしてこれからもそれは続いていくだろう。
 だから。

「俺は君の方こそ変わったと思うんだが?」
「ほら、随分言うようになったじゃないか。君さんもちゃんと大人になってきたんだね」

 君に言われたくない、という反駁が唇から漏れ出る前に押し留め、飲み下す。
 神宮寺が世の中の全てに価値などないという冷めた顔でファインダーに納まっていたデビュー当初のグラビアを俺は知っている。音楽番組のトークで司会者に振られるどんな話題にも愛想よく振る舞っていたがその目には何も映っていないからこそ、その態度を貫けたのだということも俺は知っている。
 不器用でそれに見合うだけ純粋で傷つくことばかりの毎日から自分を守ろうとして余計に傷ついていた。
 彼の人生を変えたのは七海だ。神宮寺と同じぐらい不器用で純粋で、それでも真っ直ぐに歩き続ける強さを持った彼女と触れ合ううちに神宮寺の毎日に意味が生まれた。今では神宮寺は人を愛する意味と愛される責任を知っている。
 俺はその変遷を知らないが、七海は折に触れては昔の荒んでいた神宮寺の話をする。入籍しても子どもが生まれても七海は何ら変わることなく神宮寺を支え、そして愛し続けた。
 そこから先のことは俺も当事者だからよく知っている。
 知っているから、敢えて口を閉ざした。
 多分、神宮寺と七海との出会いは俺自身にも変化を与えたのだろう。
 あの頃から俺の人生は少しずつ上向きになった。
 そんなことを茫洋と思い出していると神宮寺とは反対側に座った宮藤が屈託なく笑う。

「神宮寺君、知ってるかな?」

 君もユミちゃんも七海君も僕から見ればまだみんな子どもみたいなものだよ。
 一生懸命に前を向いて走っている。立ち止まることの意味は知っている筈なのに現実と闘い続けることを選んだ。君たちはちっとも大人じゃないね。

「まぁ僕も人のことは言えないんだけどなぁ」

 穏やかにそう言って笑う宮藤につられたのか同年代の風格を持った末廣の大将が「一生現役でいられるならそれにこしたことはありませんよ」と言って俺たちの前に一貫ずつ赤身の握りを置いた。

「わたしからのサービスで。ま、大人の味なんで皆様にはちょっと早いかもしれませんがね」

 冗談めかして大将が笑う。俺たちは微苦笑でそれを受け取って頬張り、奥行きのある鮨を味わった。

「神宮寺君。君はいつか言ったよな」

 俺にも届く真実の愛があるから。必ず俺にもそれを届けてみせるから、と。
 その言葉はまだ俺の中に残っている。
 俺の身の上に降りかかった感情ではないが、神宮寺と接していると本当の慈しみというのを実感する。だから俺の中に優しさという概念が深く根付いた。
 俺は神宮寺レンという人間の本質を尊く思っている。
 そう、言外に告げると神宮寺はふと表情を緩めた。

「君さんって本当に繊細な人だよね」
「そりゃまぁ緻密なドラムしか演じられないらしいからな」
「ランちゃんはそういう君さんだから信じられたんだとオレは思うよ」

 オレとは種類が違うけど、あの人も不器用だから。
 その微笑みが持つ意味も知っている。黒崎は神宮寺の幼馴染だが、彼らの間には友情というには複雑すぎる感情があるから、少しずつしか歩み寄ることが出来ない。
 その点、俺はそういう前提条件がないから黒崎とはフランクな付き合いが出来た。彼は音楽を通じて人を見る目を持っている。神宮寺と出会って俺のドラムにはそれまでになかった奥行きが出来た。そして黒崎はその音楽を評する。
 「俺の音楽」を作れるのは俺一人だが、その中には数え切れないほどの人の思いが詰まっている。「俺の音楽」は俺だけのものだなんて錯覚をしない程度には分別があった。
 だから。

「今度は俺が誰かを信じる番、なんだろう?」

 その結論に辿り着く。宮藤が松本を信じ、松本は俺を信じた。二人の信じた俺を神宮寺夫妻が信じ、そうして成長した俺を更に黒崎が信じた。
 これほど多くの相手に信じられているのに今更人を信じるのが怖いだなんて二の足を踏んで頑なに拒むほどには愚昧ではないし、臆病でもない。
 だから。
 俺は入野修を信じてもいいのだ。まだ顔も声も知らない。
 それでも。
 宮藤は入野を信じた。そして俺に彼女の将来を託そうとしている。

「どうしてこうも俺の周りには過保護が多いんだろうな」
「君さん、同病相哀れむって知ってるかい?」
「奇妙だな、全く褒められた気がしないんだが?」

 それは被害妄想ってやつだねぇと宮藤がのんびり答えると神宮寺は違いないと言って闊達に笑った。
 そうして俺たちは宮藤の奢りで末廣を出て王冠の事務所へと戻る。
 神宮寺をして同病と言わしめた俺と入野が顔を合わすまで残り二時間。春霞にかすれた青空は今年もまた俺たちを見下ろしている。
2014.12.27 up