Chi-On

Look Like a Shooting Star

残酷なやさしさ

 師父(せんせい)の思い付きはいつも突然だ。小さければ今日の夕食は菜館へ行こう、から始まって、今までで一番大きなものならばエン州の視察に出かけよう、と夜半を過ぎてから徹夜で馬を飛ばしたりする。許では夜間の城外への外出は禁じられている。だのに師父は一本の酒瓶と少しの肉で門番を懐柔し、言葉巧みに外出を許可させてしまう。現金の賂を使うのは矜持が許さないらしく、買収は必ず現物で行われた。そこにどんな違いがあるのか、俺は知らないが師父の中では意味のあることなのだろう。
 最初の頃はこの方は何をやっているのだろうと不安しかなかった。
 馬鹿正直に収賄を辞めるように進言したこともある。勿論師父が俺の言葉を容れることはない。それでも繰り返し、義を説いた。言葉が足りていないと思って更に説いた。何度も何度も繰り返し説いた。そのうちに君に説かれなくとも私はその概念を十分に理解しているよ、と言われたが、それがいつのことだったかは思い出せない。
 そんな意味不明なことを繰り返すうちに、この事態が俺には理解出来ていないだけで、師父にとっては想定の範囲内に留まっているのだということを知る。
 それ以来、俺は無為にして無礼な説得を諦めた。
 多分、それも師父の想定内なのだろうと思うと悔しいが、凡夫が天才に勝つことは出来ない。現実を受け入れたあとでようやく知ることもある。凡夫たる俺にも出来ることがあるはずだ。
 だから。

孝徳、狩りに行こう」

 日は暮れ、漆黒の闇が辺りを包んでいる室(へや)で殿に奏上する策の下書きをしていると、師父が不意にそんなことを言った。
 正直なところ、俺は狩りがあまり好きではない。
 野営中の狩りにはそれほど嫌悪感はないが、遊興や接待としての狩りとなると話が違う。ただ権力を誇示したいだけの狩りで、獲物の命を易々と奪うことに罪悪を感じている。どんな動物も腹を満たす為だけに狩りをする。だのに人間はどうだ。人間は自然の中で頂点にいると思っている。どんな命の使い方も、人間だけは特別に許されると思っている。
 その、傲慢が俺は好きではない。
 どの豪族もそうするように、東海の養父も俺に狩りを教えた。元々、山の民である俺にとって、狩りは日常だったからその手ほどきは決して難しいものではなかった。
 養父には恩がある。師父にも恩がある。
 二方とも、俺の為を思って狩りへ誘う。狩りも出来ない文化人などいないからだ。わかっている。わかっていたから、自らの傲慢を視界には映らない誰かに懺悔しながら弓を引いた。結局、俺も傲慢な人間の一人でしかなかった。
 養父は俺が狩りを苦に思っていることを知らずに死んだ。だが、師父はそうではないだろう。知っていて、それでもなお、俺に狩りを強いる。

「また、狩りですか」

 溜め息を吐いて筆を置いた。文字を書けるような気分ではない、と言外に主張する。
 師父が俺の望み通りに動いてくださる、だなんて甘えたことを考えているわけではない。ただ、自らの主張をすることなく諾々と流されることを師父は嫌った。流されるだけの軍師は必要ではない。ときには自らの首すら懸け、その意図することを貫き通す強さがなければならない。
 だからだろう。
 師父は頬杖をついて困ったように笑う。

孝徳、そんなに狩りが嫌いかい?」
「俺の好き嫌いを考慮してくださるのですか?」
「嫌だな。私はいつもきちんと、君の気持ちを汲んであげているだろう?」

 俺が狩りを苦手だと思っていることを師父は知っている。そのうえでそれを克服する必要があると判断した。だから、これは荒療治であって、大掛かりな嫌がらせではない。
 わかっている。それぐらいのことは幾ら俺が馬鹿だといえども理解している。
 それでも。

「満面の笑みで仰られては信憑性が欠けるというものです」

 溜め息を一つ吐いた。巷間では溜め息の数だけ幸せが逃げる、などと言っている。それが真実かどうかはこの際関係がない。俺はそんな霧を掴むような夢を見て軍師の弟子を自負したのではない。この方の――師父の道行がほんの僅かでもいい、有利に進めるために学を欲した。狩りもまたその教養の一つならばいずれ俺はそれも受け入れなければならない。
 それでも。
 諾々と従うのは憚られて小さな抵抗を示す。
 師父は俺の反抗に穏やかに表情を緩めた。

「この顔は生まれつきなのだけれど」
「いいえ、普段はもっとつまらなそうにしておられます」

 緊張感に欠けた軍議の間。珍しく午(ひる)になるまでに起きてこられて、俺と妙才殿の手合わせを遠巻きに見ているとき。元譲殿が殿の我がままを抱えて赴いた午後。俺と朔の三人で食べる夕食の間。師父の世界はいつも遠景で被写界深度が浅い。興味のないものを瞳に映しているとき、師父の顔は雄弁に退屈を語る。焦点を結ばないものに価値はない。郭奉孝を奮い立たせるのは戦と、酒と、美姫だけだ。
 その中にまだ俺が加わらないのは不本意だが、焦って何かが変わるわけではない。
 変えたいのなら。
 俺はそれに見合う努力を積むべきだ。
 それは今、俺が対面した興味本位の眼差しに応えることから始まるのかもしれないし、もっと前から始まっていたのかもしれない。その答えを得ることに価値はないから、俺は俺に焦点を当てた師父の前でぐっと胸を張る。この鋭い眼差しに晒されるのにはようやく慣れ始めたばかりだ。

「それは、君のように?」
「俺ですか? 俺は普段から人生を楽しんでおります。師父とは違う意味で」
「私の眼にはとてもそうは見えないよ、孝徳

 君ももっと人生を楽しむべきだ、と言った師父が不意に視線を逸らす。その声色がほんの少しだけ悲哀を帯びていて俺は溜め息を漏らした。

「俺には師父と同じ生き方は出来ません」
「だから狩りを拒むのかな?」

 そうやって文化を否定して、自分だけは分別のある善人でありたいと願っている。その浅はかで傲慢な本心が流し目一つで看破される。この方と対等に言葉を交わせるのは何十年先だろう。俺が考えていることや悩んでいることは師父の前では特別な意味を持たない。その全てが想定の範疇で、指先一つで弾きだされる。
 狩りを疎んで――倭人である俺の価値観の方が優れている、などと嘯いて何を得るのだと遠回しに問われた。わからない。その答えは寧ろ師父の中にこそあるもので、俺はまだその域に達していないという予感がある。ただ、生理的嫌悪に流されて、婉曲な自己肯定を繰り返しているだけの俺に本質が捉えられるはずがない。
 だのに今、俺にはその根源的な問いが投げかけられた。
 返答に迷い視線を泳がせる。机の向かいで小さく師父が笑った。

孝徳、君は何か大きな勘違いをしているよ」
「勘違い、でしょうか」
「そうだとも。君は狩りをただの遊興だと思っているね」
「もっと酷い表現を選んでもいいのならば、自己顕示欲の発露だと思っています」
「それは多分間違っていないよ。けれど」
「けれど?」
「君の耳には残酷に聞こえるかもしれないけれど、人という生き物ほど獲物を有効に活用出来る種族は他にはないと私は思っているよ」

 皮を剥ぎ、肉を食らい、臓物を啜り、骨を削り、その全て、血の一滴に至るまで利用する術を見出した。人間は空腹でなくとも狩りをする。けれど、獲物は決して無駄になることはない。人間は種の繁栄の為に貯蔵という概念を得たからだ。
 だから。

「無為に奪われる命、なんて狩りの中にはないのではないかな」

 それでも、君は許せないのだろうね。そういう、目をしているよ。
 師父が困ったように表情を崩した。

「だったら、孝徳。君にとって戦というのはそれ以上に許しがたいのではないかな?」

 人が人を害意を持って殺める。傷を負って降伏を申し出ても時には殺める。必ず助けると言う保証はない。同族を殺める生き物は人間以外にいない。
 その、人間に生まれて狩りは食事だと割り切って、それでも、永遠に割り切れない問いが残る。
 人は争う生き物だ。何千年も前からずっと、争いは繰り返された。その度に人は人を殺める。理由はない。目的もない。何にも生み出さない。それでも人は人を殺める。
 軍師というのはその蛮行を肯定するのが職務だ。
 如何に効率よく命を奪うか、それを追い求めるのが使命だ。
 その最も業の深い立場を志す割には覚悟が足りていない、と師父は静かに怒っておられる。師父の顔色を窺って、気に入られる為に俺が自分を殺すのならば今すぐにこの道を引き返し、書記官としての任のみにする、と言われたような気がした。
 師父には軍師としての誇りがある。中途半端な憧れで軍師になれるなどと思うのも許しがたい。才走って知恵者の振りをしたいのならば文官で十分に足る。内政を司りたいのならば同じ軍師でも程イク殿のような方の弟子になればいい。
 その中で。
 敢えて。
 師父が俺を選んだ。そして俺もまた師父を選んだ。
 ならば、今更自らの価値観に固辞する理由がどこにある。
 無条件の肯定を求められているのではない。反論の自由は認める。けれど、自己万能感に浸る為に師父の弟子を称しているのならば今すぐここを出て行けと言外に言われた。
 そんな弟子は不必要だから、ではない。
 そんな中途半端な気持ちで踏み込むには残酷すぎる現実が待っているからだ。師父は最後の最後まで、俺の人生を考慮してくださっている。狩りで獣の命を奪うことにすら罪悪を感じるような価値観では人を殺めることなど出来る筈もない。良心の呵責に耐えられず、道を踏み外すのは明白だ。
 人という道を踏み外して生き残れるほど俺は強くはないだろう。
 つまり。
 師父は婉曲に俺の人生に慣れと妥協を植え付けようとしている。
 どれだけ時間が必要かはわからない。それでも、そうするだけの価値があると判じた。何という残酷で怜悧で合理的で不器用な優しさだろう。
 この曲がりくねった優しさに応えられるだけの言葉が俺の中にないことを呪う。
 それでも、最善を求めて瞼をゆっくりと閉じた。
 息を大きく吐き出す。
 この方の為になら死んでもいいと思った。その決意に変わりはない。遊興の狩りを続けて失うかもしれない何かを恐れるのはもうやめにしよう。自らの価値観に固執して、狩りを嫌悪し続ける俺、の方が何倍も無為で無益だ。
 だから。

「明日の夕食は鹿鍋でよろしいのですね?」

 閉じたときと同じように、ゆっくりと瞼を開く。その視界の真ん中に偽りのない笑みを浮かべた師父が鮮明に映る。遠回しに明日の狩りを受け入れたことを示すと、師父は穏やかに目を眇めた。思い通りになったことを喜ばれているのではない。俺が自分の世界の壁を乗り越える努力を示したことを寿いでいる。

孝徳、君が目的の獲物を得られるなんて十年早いのではないかな」

 せめて私に鹿を捕えてくださいと言ったらどうなのだい。冗談めかして師父が笑う。師父には虎を捕えていただかなければなりません、と更に酷い冗談を返せば室に軽い笑い声が響く。
 場が明るくなった頃合いを見計らって、俺はあることを尋ねた。

「朔を連れて行ってもよろしいでしょうか」
「君がそうするべきだと思うのなら、私の許可を得る必要はないよ」

 屋敷に残していくのが不憫だというのもあるが、この屋敷では長く客であることを認めていない。役割を担うからこそ寝床と食事が与えらえる。それはたとえ神獣だといえども、朔も例外ではない。
 だから。

「狩りの作法を教えようと思います」
「それはいい。朔が猟犬になれば、君も曹操殿の狩りに随行出来る」
「目的の獲物を得られるなんて十年早いのに、ですか?」
「朔は君ほど堅物ではないだろうからね。ひょっとしたら君より余程狩りの才があるかもしれないだろう?」

 数瞬前に笑われた狩りの腕の話を掘り返せば師父は皮肉めいた笑みを浮かべる。
 俺に天賦の才はない。軍略も武略も並みかそれ以下で、鍼の技術も華佗の弟子たる幽興殿に遠く及ばない。それでも。師父は俺を選ばれた。
 狩りの果てに続いている泰平の世を夢見る。
 軍師は戦乱の世が終われば必要ではなくなる。俺が路頭に迷う日が一日でも早く訪れることを願いながら、俺は自らの傲慢に蓋をする。そんな日が来たら、師父と二人、遊興の旅に出たい、と思った。
2014.03.21 up