Chi-On

Look Like a Shooting Star

隠された笑顔

 俺の書体は一風変わっている、と色々な方に評された。それを一番先に言葉にしたのは今は亡き養父で、その次が隣の村の豪農だった。養父の書記官の真似事をし始めてから、俺の書は多くの人の目に晒されるようになり、巡り巡って師父(せんせい)の目に留まった。

「魂魄のうち、魂が備わっている不思議な書だね」

 何度見ても見飽きることがない。ほうと溜め息を吐き、師父が俺の書簡を机の上に戻した。図画は描かないのかと何の気なしに尋ねられる。遊びで嗜む程度、と答えると師父が徐に立ち上がり、隣の室(へや)に消えた。そして間もなく両手に正絹を抱えて戻るなり言う。

孝徳、今日の鍛錬は中止にしよう」

 その代わりに、この抱えきれないほど大きな正絹に図画を描くようにと満面の笑みで指示があった。俺の返答を聞かずに師父は机を部屋の隅に押しやり、布を床に広げ始める。

「師父、図画を描くって何を描くのです」
「肖像でも風景でも構わないよ。君が描きたいというのなら鳳凰でもいい」

 但し鳳凰を描くのなら虎と龍を呑みこむ雄大さが必要、かな。器用に片目だけを瞑って愛嬌を振りまいて見せる師父に、俺には選択権がないことを知る。何を描いてもいい、というのを額面通りに受け取るか、それとも駆け引きだと受け取るのか、瞬間迷い、そして俺は結論を出した。

「何でもいいのですね?」
「描きたいものがある、という顔をしているよ」

 私は君のその裏打ちのない自信がたまらなく好ましい。本当は誰よりも迷っていて、悩んでいるのに本能的に答えを察する。その感覚が天賦のものでないのなら、氏の教育術を保護する必要があるね。
 そうは思わないかい、と師父が嬉しそうに笑う。小首を傾げ、俺の反応を待っている師父に氏の血脈は殿が打ち滅ぼしました、と答えると彼はとうとう声を上げて笑い出す。

「師父?」
「おかしなことを言うね、孝徳氏の教育術の結晶はまだ残っているだろう?」

 君が、そうだ。一族の誰よりも真摯に直向きに教えを受け取ってきた。君こそが氏の教育の結果だ。そのことを君はまだ自覚していなかったのかな。
 そんなことを大仰に笑いながら師父が答える。
 思ってもない返答に俺は眼を白黒させ、言葉を失った。

「俺が、氏の?」
「君が持つ直感力はきっと天賦のものだろう。もしかしたら順応性もそうかもしれない」

 それでも、観察力と推察力は明殿から授かったものに相違ない。
 君の養父上は為政者としては中途半端だったけれど、教育者としては非常に有能だ。
 そして私が君に理解力と判断力を与えよう。それでも足りないものがあるのなら、曹操幕下を練り歩けばいい。曹操幕下は才能の宝庫だからきっとどなたかが君の求める答えをお持ちだろう。
 師父の口からこうも立て続けに賞賛の言葉が聞こえるのは、師事して初めてのことで、褒められているのか同調圧力をかけられているのか、それとも何かを試されているのかと身構える。
 それでも、俺の脳裏に閃いた「描きたいもの」に揺らぎはなかったから、指先で筆を器用にまわしている師父に倣い床に腰を下ろした。

「何を描くのだい?」
「師父が今まで一度も見たことのないものを」
「それはいい。出来上がりがとても楽しみだね」
「『それ』を見ていると自覚して見ていた期間があまりにも短いので、上手く描けるかどうかわかりませんが、でも、多分、こんな具合だろう、と俺は思っています」

 白の正絹の上に濃淡を付けて筆を走らせる。ある程度下書きのようなものを進めていくと、書簡に記す為の筆では物足りなくて、師父に軸の太いものを求めた。すると、彼はまた黙って隣の室へ消え、そして大小様々の筆を持って戻ってくる。その中には俺が初めて師父の書記官として書簡を記したときに使った筆や、師父が拵えてくれた俺と揃いの小筆、朔の寝床の敷布に名を記したときの太い筆や、孫子に注釈を入れた朱墨の筆などがある。師父のことだ。俺がこの筆を見て想起することを逆算して持ってこられたのだろう。
 相変わらず恐ろしいほどに思考が巡る方だ。
 だから。

「師父、これが『熊野』の山々です」
「くまの、というのは何だい、孝徳
「俺が暮らしていた村落の名前です」

 春には山桜が斜面を蓋い、薄紅色に染まる。夏にかけては緑が芽吹き、少し汗ばむほどに気温が上がるが、山林の中ははっとするほどに涼しい。秋になれば木々は紅葉し、そして落葉すると雪に閉ざされる冬が来る。
 その季節の移り変わりの中で俺は育った。許の都では見ることもない懐かしい風景を墨絵の中に再現すれば、師父は興味深そうに俺の手元を眺めている。中原に深い山はない。あるのは緩やかな丘陵で、倭国のように急流があるわけでも、峻険な峰々があるわけでもない。
 俺はこの大陸に流れ着いて、生まれて初めて地平線を見た。
 反対に師父は峰々の頭上で輝く太陽をご存じではない。

「閉じられた世界、といった風情だね」

 山も川も野も一枚の図画で十分に納まる。奥から順に書き加えて、一番手前に一本の木の枝を大きく描いた。その先にこの国でも頭上で囀る小鳥を載せる。野鳥でありながら、人と共にしか生きられない小鳥。この国でその鳥を態々図画として記すものはない。穀物を食らう害鳥だからだ。
 それでも。

「師父は多分ご存じではないと思いますが」

 俺の故国ではこの小鳥のことを益鳥だと認識している。俺の住む山々の裏側、野里で穀物を育てている部族では、穀物を食らうのは勿論迷惑だと思っているが益があるからある程度は眼を瞑っている。俺たちは彼らを愛しいと感じている。
 そのことを筆に載せて伝えれば、師父は穏やかに笑った。

「そのことなら私も知っているよ。荀イク殿ほどではないけれど、私も民の暮らしには興味があるからね」
「徴税の対象としてしかご存じではないでしょう」
「ごく一般的な家庭的で慎ましやかな女性は君のように野鳥を愛しいと思っているのを知らないのかな?」

 愛を囁くにはその対象が何を愛しているのかを知らなければならない。
 だなんて笑顔を引っ込めてまるで殿に献策するときのような真顔で師父が俺に言った。
 その、実のある声色に俺は思わず吹き出し、小鳥の頬を彩る朱墨を入れる手を止めた。

「敵の潜伏を示す以外にも師父が野鳥に意味を感じておられるとは思いもしませんでした」
孝徳、君は私を何だと思っているのだい」
「さぁ、何でしょう」

 空とぼけてみせると師父の表情に悪戯な笑みが戻る。この笑みは敵将が見れば酷薄に映るということを俺は知っていたが、それでも、俺の目には害鳥の小鳥と同じように愛すべき対象にしか見えない。
 出来ました、と告げると師父が徐に正絹の反対側で立ち上がり、絵図の上辺を持って広げた。甲乙丙丁の自己採点で乙以上だと自惚れる。自画自賛を実感する日がこの身に訪れるだなんて、十年前の俺には想像も出来なかった。故国から遠く隔たってもう十数年が経つ。それでも、俺の脳漿の中には故国の風景があることが愛しくて、同時に切なかった。
 複雑な心境を顔に出していたのだろう。
 師父が墨絵を眺めながら呆れた顔で問う。

「不肖の弟子よりも酷い称号がほしいのかな、君は」
「天下一の遊び人よりも酷い称号があるのならば甘んじて受けます」
「全く、誰がこんな風に育てたのだか、顔を見たいものだね」
「鏡をお持ちした方がよろしいですか」

 俺の価値観の根底にあるものの話題だったから間を置かず問う。俺をこんな風に悪態の一つもつけるまでに育てたのは師父だ。顔など見るまでもない。
 そう言外に返せば師父が苦笑した。

「本当にいい性格になってきたね、孝徳
「師父の不肖の弟子ですから」

 そのことを俺は誰よりも誇りに思っている。郭奉孝の弟子は俺一人だ。その強い自負が俺をしたたかにする。この方に見合うだけの強さを求めてきた。それでも俺に武人の強さは持てないし、師父もまたそれを望んではおられない。
 だから。

「師父、その絵は師父にお預けします」

 正絹を折り畳み、殿に献上されてもいい。表具を付けてこの室の壁に飾ってくださるのもいい。黙って胸の内に仕舞ってお一人だけの秘密にされるのもいい。
 俺の才は師父の為に使うと決めたから、書画の才も師父の手ごまになるのは覚悟の上だ。
 その事実を淡々と告げると、俺の書いた絵図をそっと寝台の上に置いて、師父が床に座ったままの俺の正面で腰を下ろした。
 そして。

孝徳、覚えておきなさい」

 才を使うというのは確かに覚悟が必要なことだけれど、そんなに身を売るように張りつめた顔をすることはないよ。
 言って師父が正面から俺を胸に抱きかかえる。

「では師父も覚えておいてください」

 俺の才があなたの理想に届かなくても、あなたの理想から外れてしまっても、それでも、俺は郭奉孝の弟子であると自負する。だから、あなたは一生俺を弟子にしたことから逃げないでほしい。
 それだけ伝えると俺は師父からゆっくりと距離を取った。改めて向き合う師父はいつも通りの曖昧な微笑みだったけれど、俺は知っている。柔らかく背中を包んだ両手が俺の為だけの思いやりを孕んでいたことも、この方が俺だけの師父だということも。

孝徳、後片付けは私がしておくよ。君はもう室に帰りなさい」

 朔がさっきからずっと大きな欠伸をしている。
 その正真正銘、裏のない笑みを受け止め、俺は床から立ち上がり朔を呼ぶ。
 翌日の午後、俺の書いた書画を携えた師父が曹操殿を訪ねていくのだけれど、それはまだ未来のどこかにしかない。その未来を知らない俺は朔と二人、朝日が昇るまで穏やかな眠りの中にいる。
2014.03.21 up