Chi-On

Look Like a Shooting Star

痛みですら愛おしくて

 呂布に最後通牒を送る、と決定した軍議の後、俺は師父(せんせい)から呼び出しを受けた。軍議の間に行ってみれば殿と師父、それからもう一人、新しい軍略家である賈ク殿が待っている。何かを考える必要はない。今から述べられる口上を一言一句間違えず竹簡に記していけばいい。後になって諳んじろと言われることもあるかもしれない。だから、長文暗唱の特技を持つ俺が選ばれた。
 ただ、それだけのことだった。
 だのに。

殿って言ったか? 中々面白い特技をお持ちだねえ」

 賈ク殿は俺がさらさらと文字をしたためていくのを見て唸った。こういう反応を見るのは実に五年ぶりのことで、曹操幕下、という範疇が少しまた大きくなったのを肌で感じる。面白がった殿が「、おぬしがここに来て最初に書いた奏上文を諳んじてみよ」などと仰るものだから俺としては何とも言えない気持ちになったが、あるじのあるじの命だ。師父が止めない以上、俺には返答の義務がある。五年も前の奏上文を覚えているか、試されている。
 溜め息を一つ吐いて俺は記憶の糸を手繰った。
 書画の才を殊更褒められた俺が舞い上がって書き記した文の文言が記憶の中で光を帯び、唇から紡がれる。

「『豫州の今秋の穀物の収穫高は減少の見込み。青州には余剰があるが徐州牧が買い入れを検討している。先手を打ち、多少足もとを見られても今のうちに豫州に譲る、との約定を取り付けられることをお奨めする』で間違いありませんか」
「後半も言えるね? 孝徳
「是(はい)、師父。『証文を取っても白を切られることもある。その場合、武で以って奪うということを含ませておいてはいかがか? 使者は夏候惇将軍が適しているだろう』ですね」
「懐かしいね。君はこの書を記したとき、夏候惇将軍がどんな方かも知らなかった」

 師父が俺を通して昔を振り返っている。ということは俺の記憶には間違いがなかったのだろう。殿もそんな時代もあったと大らかに笑っておられた。
 そんなお二人に挟まれた賈ク殿は「うはあ」と驚きを隠せない様子だった。

「こいつは驚きだ。五年前? 書簡の内容を一々覚えているのかい?」
「徐州で文官紛いのことをしていたときのことも覚えております」

 その言葉に偽りはない。言葉を覚え、文字を書くようになってから後のことは大体覚えている。養父の口上を記していた頃のことを思い出して、少し胸の奥が痛んだ。
 そんな俺の感傷など知らない賈ク殿は興味深そうな眼差しで俺を射る。

「流石『舶来』殿は俺たちとは出来が違う。何年ぐらいで忘れるんだ?」
「私にもわかりません。ちなみに、『舶来』というのは?」
「言葉の意味を知らないわけじゃないだろう? 海を越えてやってきたもの、つまりあんたのことさ、殿」

 この大陸じゃ「」殿の名前より曹操幕下の「舶来」の方が有名だ。言って賈ク殿は悪戯に笑う。大事に守られてきたんだな、だなんて慈しみを帯びた眼差しで賈ク殿は会話を締め括った。その言葉に、一瞬、俺は彼が悪来殿と曹昂殿の仇だということを忘れそうになる。どうして、こんなに人の気持ちの機微に聡い方が俺たちの敵だったのだろう。どうして彼はその優しさを押し殺して人を傷つける道を選んだのだろう。その問いの答えを俺も知っている。神獣の子どもである朔を伴い、戦場に赴いて人を殺めた。その業の深さを責められても、俺はきっと俯かないだろう。わかっている。わかっているのだ。戦は人を苦しめる。だから一日でも早く戦のない世を作ることが肝要だ。その為の死がその故の生より少ないのならば、それはきっと成功と呼ぶことが出来るだろう。たとえ、その中の死がこの先ずっと俺を非難しようとも。

「賈ク殿。実物を見た『舶来』は前評判通りでしたか?」
「とんでもない」
「そういうものです。噂というのはいつも勝手に誇大する」
「『舶来』殿、違う。逆さ」

 俺は本物の「舶来」殿に会えてこの上なく光栄だ。

「『舶来』殿、いつか俺の軍略の清書をあんたに頼んでもいいかい?」
「賈ク。私は孝徳を君に譲るつもりはないのだけれど?」
「あははあ。郭嘉殿、あんたが何かに執着するなんて珍しい」

 それは慈愛かい、それとも愛着かい。あんたも人間だったんだな。笑いながら賈ク殿は師父の腕を軽く叩いた。

「もし、私が君より先に散ったのなら、孝徳を慰める役ぐらいは君に譲ってあげてもいいけれど?」
「未来永劫、俺には何もくれないってことかい。相変わらず容赦ないねえ」
「賈クよ、おぬしに譲るぐらいならわしが先に拾うに決まっておるだろう」

 師父よりも齢を重ねている賈ク殿は自然の摂理に従えば、自ずと先に天寿を全うするだろう。戦場で散るような失態を師父が演じる筈もない。つまり、俺と賈ク殿の道は交わらない。そのことを暗に含ませて師父が毒を放つ。賈ク殿は正面からそれを食らっていっそう愉快げに笑った。

「『舶来』殿、つまらないことを言った。忘れてくれて構わない――と言ってもあんたは忘れられないのかな」
「意図して諳んじたこと以外は忘れております。けれど」
「けれど?」
「私を高く評価してくださったご恩は決して忘れません」

 それは彼が仇敵だったことを放棄する、という宣言でもある。師父は困ったように笑いながら、時々君はとても大胆だね、と仰った。結果主義者の師父ですら賈ク殿への報復を完全には棄てきれない。俺だってそうだ。それでも、目の前にいる知略と、消えてしまった武勇のどちらかを優先する意義を俺は知っている。また不忠だと詰られるかもしれない。
 それでも。

「慈しみを慈しみと受け入れられる方は人道に悖るとは思えません」
「『舶来』殿、俺はあんたを利用したいだけかもしれない」
「もし、万に一つそうなのだとして、それはただ私の目が曇っているのでしょう。自分の信じたものに裏切られる、だなんてこの世では別に珍しくも何ともない」

 奪うのも奪われるのも数え切れないほどに見てきた。この世界を生きていく為には誰かから何かを奪ってでも己の身を守るしかない。それは痛いほどに知っている。それでも、賈ク殿が再び殿の命を狙ったり、より大きな名声の為に裏切ったりすることはないだろう。それはただの直感だけれど、真実だと俺の目には映っている。
 彼は俺を利用しようだなんてこれっぽっちも思っていない。
 それでも、思わせぶりに揺さぶりをかけるのは真実俺が信用に足る知性を持ち合わせているかを知りたいからだ。師父と同じ、戦と駆け引きの好きな軍師の顔をしている。
 その期待に応えたかったから俺はぐっと胸を張った。
 答えを決めるのは誰かではない。俺自身だということを知っていると示したかった。

「傷つけるより傷つけられる道を選ぶ、って言いたいのかい?」
「そのどちらでもない道を私は探しています」
「あははあ、こいつは大した理想主義者だ。で? その道は見つかりそうかい?」
「最期の瞬間までに見つかればいい、と私は思っています」

 本当はそんなものが見つかる筈がないと知っている。それでも敢えてそう言った。一州を治める覚悟で実行できるのは一郡の長たることで、天下に覇を唱えて一州のあるじたるに至る。大陸を、遥か西方の彼方まで全てこの手に掴むことを夢見ておられる方が天下の覇者となる。殿にそれだけの器がおありか、ということを俺は何度も考えた。考えた結果、俺は殿の軍師たる師父の弟子を志した。軍師の弟子を目指してなり得るもの。俺はその先を求めている。

「見つけられるさ、あんたなら」
「そうですね。そうなるように善処します」
「『舶来』殿、そう身構えてちゃ見つける前にくたくただ。運よく見つかればいい、ぐらいでいいんじゃないのかい?」
「それに折り合いを付けられないのが孝徳の美点で欠点だね。賈ク、孝徳が道に迷っているときに背中を押す権利も貸してあげよう」

 貸すだけで譲るつもりはない、と言外に含んであって俺と賈ク殿は顔を見合わせてくすりと笑った。賈ク殿が顎を捻りながら大役を仰せつかったと苦笑している。
 殿が解散を命じ、俺は賈ク殿と一緒に軍議の間を出た。師父はまだ呂布へ書簡を送り届ける手配をされるようだった。
 中庭の見える回廊の一角で俺たちは立ち止まる。世間話だと適当に相槌を打っていると賈ク殿はしきりに話しかけてくる。新しい玩具を見つけた、という顔をされていたから、俺は更に苦笑が濃くなる。

「『舶来』殿は宮遠将軍の義兄弟なんだろう?」
「そうですが、向こうはもうそうは思っていないでしょう」
「そうかい? 俺には将軍は思い出すのがつらいから無理に思慕を押し殺そうとしているようにしか見えないがねえ」
「養父上(ちちうえ)の志に反して、義弟たちを顧みなかった男のことなど恨んでも慕う理由がありません」

 俺が「つばめ」ならそんな義兄は絶対に許さない。恩を仇で返した男には報復する。たとえどんなに養父上が俺を慈しんでいたとしても、俺は絶対に許されないことをした。だから、「つばめ」が本当は俺のことを恨んでいるのだとしても、寝首を掻き、復讐を果たしたとしても、俺には「つばめ」を罵る権利もない。

「『舶来』殿、本当にそう思ってるのかい?」
「ええ、まぁ、一応」
「被虐趣味だなんて悪趣味だねえ」

 憎まれることをよしとした。だから、俺は「つばめ」が真実俺の首を欲するのならくれてやてもかまわないと思っている。今は俺の仮のあるじである子桓殿がそれを禁じているから、そう易々と実行することは出来ないが、いずれ、また「つばめ」に憎しみが灯り、俺の首を必要とするのならそのときはきっと何も言わずに頭を垂れるだろう。
 賈ク殿は「つばめ」が暴威であることを知っている。
 知っていて、その憎しみを利用した。そのことを許せるかと問われれば返答を拒否する。許すとか、許さないとか、そんなのはただの傲慢だ。では受け入れるのか、と問われると時間を置いて首肯するほかない。
 軍師は利で動く生き物だ。理想もある。矜持もある。それでも、利の為ならどんな悪評でも受け入れる。
 だから、「つばめ」を一人の将軍として扱い、一軍を与えるのは危険でも、俺の副将として飼い殺し、いざと言うときの手札とするのには利がある。師父も殿もそう判じられた。
 だから。
 誰かを傷つけることを好み、人が苦痛を訴えるさまに充足するよりは憎まれてもいい、「つばめ」を受け入れることが今は利だと俺も判じた。

「嗜虐趣味よりは余程ましでしょう」
「あ、自覚はあるんだな」
「ある方が面倒だと師父は仰っておられます」
「それは一理ある」

 客観性と多角視、それから中立と公平。
 師父が見出したそれらの才が俺の独善を許さない。嗜虐趣味を持つ軍師など下衆の極みだ。そんな下等な嗜好を持っているより、俺の性分は幾らかましだ。ましだ、とう結論に達する為に俺は被虐を受け入れた。
 そのことを、自覚してるのかと賈ク殿は呆れたように笑う。
 自覚がある方がずっと面倒だ。居直ることが出来るからね。
 ずっと前に師父がそう仰った。居直ったものは強い。失うことを恐れないから本来の実力の何倍もの力を発揮する。でも、とも師父は仰った。自覚した才を理由に逃げるものもいる。俺がどちらかははっきりと仰られなかったが、中庸の俺はその客観的事実だけを脳漿に叩き込んだ。本当の意味はまだ知らないのかもしれない。
 ただ。

「ということはそれが一般的な意見、ということですね」
「模範解答に興味があるのかい?」
「大勢を知るのには意味があるでしょう」

 風聞を知り、自らもまた思考し、その結果がどの位置にあるかを判じる。自らを否定したいが為ではない。自らの個性とそこから生み出せる最善を知る為だ。大勢はそう簡単に覆らない。それでも貫きたいものがあるのなら、何が何を生み出しているのかを知る必要がある。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。勝負は俺が何かに加担する前から始まっている。
 だから。
 俺は知ることから戦いを始める。
 そう言えば賈ク殿はぱっと顔を輝かせた。知っている。軍師のこの顔は相手を受け入れたときの歓喜だ。

「なるほど、本当に噂通り、いや噂以上、だな『舶来』殿」

 その歓喜で以って俺の名を使わず、敢えて「舶来」と呼ぶことで距離感を保とうとしている賈ク殿の挑発に乗ったのは何も勝算があったから、ではない。

「私には孝徳という名があります」

 俺には養父上がくださった名がある。つまらない二つ名などで呼ばれるのはその名前への冒涜だ。郭嘉の弟子はまだいい。その呼称は師父の立場と実力を踏まえたうえで使われる。けれど、「舶来」などと呼ぶのは異端者への単なる排斥だ。線を引き、人の種類を区別するだけのその名前に意味はない。それならばまだ「」と呼び捨てられる方が万有の嫌悪感を含んでいるだろう。
 それを言外に主張すれば賈ク殿はにやり、と口角を吊りあげる。挑発に乗ってきたことを楽しんでいる顔だ。

「名乗ったってことはそう呼べばいいってことかい? 孝徳殿」
「殿も不要でしょう。私はあなたより若輩です」

 挑発に挑発を返す。曹操幕下では儒を排そうという動きがある。殿が少しずつそれを実行しているのも知っている。この幕下ではただ才のみが重要で年功序列は重んじられない。
 だから師父は賈ク殿を敬称も付けず呼び捨てる。曹操軍で最も優秀な軍師が師父だからだ。その序列に従うと俺と賈ク殿もそれなりに近い位置になる。夏候惇将軍や夏侯淵将軍を字で呼ぶ俺の立ち位置がどこにあるか、だなんて今更問うまでもない。
 それを知っていて敢えて年功序列を持ち出した。
 賈ク殿が清々しく笑う。

「じゃあ、孝徳、と呼ばせてもらうが、あんた、俺が嫌いなものを知っているか?」
「存じ上げませんが、敗戦の苦汁はどなたでもお嫌いかと」
「そうだな、確かにそれは俺も大嫌いだ」

 それ以外だと、俺も曹操殿と同じで儒が嫌いでね。実力があるのにへりくだっているやつを見ると敬遠されているのかと思うんだが、あんたどう思う?
 誰のこととは明言されなかったが、それは確かに俺に宛てた言葉だった。
 だから。

「稀代の勝負師と対等だなどと思うことは不遜だろう?」
「謙遜も度を過ぎればただの嫌味だ。わかっていて敢えてそうするなら、余計に性質が悪い、と俺は思うが」
「なら俺はあんたを何と呼べばいいんだ?」
「文和で十分だ。俺は名軍師の才ある副官に嫌われるようなことをした覚えがないものでね」「なら文和殿」
孝徳、あんたに同じ言葉をそっくりそのまま返すよ。殿は不要だ」

 俺は遅参したあんたの後輩だ。
 そんな風に闊達に笑う彼を見ていると、この陣営はまだ発展途上でとてつもない可能性を秘めているのを実感する。智謀に長け、度胸も据わっている。でなければ殿を暗殺しようという狂宴を仕組むはずもない。その企みが敗れ、身命を賭して帰順を希った。それが許されて彼はここにいる。その身の危うさを彼自身が誰よりもよくわかっている。使える駒は一つでも多く確保したい。そして俺がその駒の一つに選ばれた。

「文和、俺はそんなに大した才じゃないが、それでもあんたがそう評するのなら俺はもう否定しない。師父を裏切らない限り、俺をどう使うのかはあんたの自由だ」

 まぁ、当面俺は子桓殿の守役だから出番などないだろうけれど。
 そう、言うと文和は「それが重要だ。曹丕殿に是非俺を売り込んでおいてくれよ」などと言って更に笑った。
 中庭にちちと鳴いて小鳥が舞い降りる。それが合図だったのだろう。
 不意に文和が真剣な顔をした。
 そして。

「あんたがどう思っているかは関係ないが、俺はあんたと友人になりたいと思っている」
「文和?」
「別にあんたから郭嘉殿の策を探ろうなんて思ってやしないさ」

 あんたに師匠を売るような真似が出来るだなんて思わないし、郭嘉殿がそれを許すほど愚昧だとも思っていない。
 ただ。

「あんたに今必要なものがあるのなら、それは刹那じゃない友人だ。ま、俺にとっても必要だからね、お互い様ってやつじゃないか?」

 何かあったら俺の屋敷に来なよ。軍議が入っていなけりゃいつでも話は聞こう。
 言って文和は俺の背中を軽く叩き、回廊を前庭の方へ向けて歩き出した。俺が進むべき道とは正反対だから、その背を追うこともない。
 彼が残した言葉が胸中でぐるぐると回っている。対等の関係なんて今まで誰にも求めなかった。あの張飛ですら、対等でいて「やっている」という立場を貫いている。その、俺に頭を垂れなくていいと言った相手は文和が初めてで、けれど、存外その立ち位置も悪くはないと思った。
 才あるものを用いる。その意味が何となく俺にも浸透しようとしていた。
2014.06.03 up