Chi-On

Look Like a Shooting Star

愛憎と背中合わせ

 形あるものはいつか失われる。恒久などない。この世界に存在した以上、いつかは必ず消えてしまう。生まれ育った土地も、育んでくれた親も、俺の前から姿を消した。望郷の思いと思慕はまだ残っているが、この形ない感情もいずれは消える。俺と言う存在が消えたときには何も残らない。それが遠い未来のことなのか、それとも明日のことなのかそれすら俺は知らないが、それでも消失だけは俺たちを無慈悲に襲う。
 だから、と言うわけではないし、決して聖人であるわけでもないが、俺の中では憎悪もそれほど大きな意味は持たない。養父上(ちちうえ)の命を奪った殿も、殿の命を狙った文和も今では俺の身内だと言える。師父(せんせい)は意外と大きな器をしていると苦笑しておられたが、そんな大したものではない。俺はただ鈍感なだけなのだ。
 子桓殿はその辺りを見抜いているようで、「お前のような馬鹿でなければ郭嘉の副官は務まるまいな」と一笑に付された。
 それが子桓殿の不器用な優しさであることを俺は知っている。師父の副官は他にはいない、と言えば済むことを敢えて否定の形で伝えるのは冷淡なのではない。表情はあまり変わらないが、子桓殿は照れている。愚直の具現である俺のようには生きられないのが普通だということを子桓殿を通して学んだ。
 季節がゆっくりと移ろい、冬の寒さが少しずつ浸透してきたある日。
 夜が明ける前、俺は殿に招請された。
 執務室で待っている。丕には内密に来い、という指示に俺は身支度もそこそこに離れを出た。回廊を通り、本殿の前に構えられた政殿に入る。文和の執務室、師父の執務室を通り過ぎた最奥に殿の執務室があった。ぴたりと閉じられた戸の前で参上を告げると中から入れとの指示がある。俺はゆっくりと戸を押し、中に入る。机に向かい、書簡を手繰っている音はするが灯りの類はない。どうやって文字を読んでいるのだろう、と疑問に思うほどの暗がりの中で、それでも殿の眼光は輝いていた。ぞくり、と何かが背筋を這い上がる。外気に触れる寒さではない。殿が発しているものの所為だ。



 鋭く呼ばれた名前に身を固くした。殿が瞬きをするのに合わせ、俺を硬直させた悪寒が消える。安堵した俺に苦笑しながら殿は「寒いのであろう? 早く中に入って戸を閉じよ」といつもの調子で仰った。
 俺が室内に入り、戸を閉めるのを見届けて、机の前に置いてある胡床(いす)に腰掛けるように勧められた。礼節に則り、一度断ってから着座すれば殿がいつも通りに話しかけてこられる。暗闇だと思っていた室内には小さい灯りが足もとに置かれ、ぼう、と照らしていた。その、小さな光源に少しずつ俺の目は慣れ始める。

、丕の様子はどうだ」

 その問いが子桓殿を伴わずに来訪する理由を表していて、俺は一人得心する。最近、殿は離れに来られない。子桓殿の様子をお聞きになりたいのだ、と理解した俺は何をお伝えするのが最適かを考えた。
 兵法書は一通り読まれた。思想書も最近では少しずつ読まれるようになっている。そんなことは曹操殿とて言われずともご存じだろう。そういう教育をしろ、と殿がお命じになった。俺がそれを遵守していない、などと殿が疑われる理由はないし、それだけの信頼を得る為に俺も努力してきた。
 だから、殿にお伝えするのならば、俺しか知らないことの方がいいだろう。
 俺が子桓殿に手解き出来ることの中で新鮮な情報、と言えば幾つかしか思い浮かばない。その中から一つを選んだ。

「思いのほか詩歌がお好きなようです」
「ほう、丕が、か」

 そういう文芸のようなことは子桓殿の弟君であられる曹植殿の方が才覚を表していた。誰かに教鞭を振られることもなく、独学とその天性の素質で豊かな詩を詠まれる。
 子桓殿に曹植殿と同じ才はないが、彼は彼なりに文芸から楽しみを見出した。息を呑む芸術性や、表現力、神童と呼べるまでの世界観はない。それでも、真っ直ぐに最小限の技巧で最大限の表現をする。それも一つの才だと俺は思っているし、子桓殿の詩歌に触れるのは俺にとっては楽しみに他ならない。
 それを伝えると曹操殿は柔らかく目を眇め、穏やかに喜ばれた。

、おぬしは詠まぬのか?」
「殿、私にそのような才はありません」

 俺が持っているのは煌びやかな才をいっとき、この世界に留め置く為の才だ。自らに与えられた役割を自負している。その境界線を飛び出していく勇気も必要だ、と殿が仰られているのは理解していたが、無謀な挑戦を神聖視するには俺の器は小さすぎる。
 俺のその小さな自尊心を打ち捨てるように殿の眼差しが冷たさを帯びた。

「おぬしは、始める前より無理を決めるような才だったか?」

 その怜悧さは鋭く研いだ切っ先に似ている。言うなれば喉元に突き付けられた刃。その敵意と相対して俺はこの方が天下に覇を唱えておられることを再認識した。
 師父の背中の後ろに隠れ、安全な場所から殿を見たことしかない。その庇護を失えば、俺もまた数多ある才の一つでしかなく、その輝きがくすむのであればいつでも切り捨てられる。果断な方だ。その即時の判断でこの方は天下を欲した。俺にはその全貌が見えているわけではない。それでも、今は何かを言わなければならない、という焦燥に駆られた。

「殿、何か誤解をなさっておられます。私は試みもせず、無理だと申し上げたわけではありません」
「申し開きがあるというのなら聞こう」
「私の才は殿もよくご存じですね?」

 口上の暗唱、毛色の違う書画。鳥瞰する視野の広さと公平性。客観的な状況把握と的確な判断。
 それを殿がご存じないとは思わない。この才だけで殿が十分満足されているとも思わない。革新は常に行われなければならない。でなければ、曹操陣営は戦乱の世で遅れを取る。

「私の拙い感性ながら、素晴らしいと思った詩歌は全て諳んじられます」

 俺の暗唱が才たる所以はこの陣営で他に類を見ない記憶力の高さが裏打ちしている。奏上文、訴状、詩歌、或いは恋文。意図して目を通したそれらの何一つ例外なく、俺は暗唱することが出来る。
 だが。
 いや、だからこそ、と言うべきだ。

「私が素晴らしいと思った心情に見合う言葉はその中から自動的に摘みあげられます」

 朝焼けの情景を詠むのだとして、それを最も美しく表現した言葉は過去の誰かの言葉で俺の胸中に再現される。温故知新と言うが、俺の場合、傑作の継ぎ接ぎになる、と言った方が適切かもしれない。

「剽窃でしかない詩歌などどこに価値がありましょう。私に文芸は向いておりません」

 剽窃、と言う単語に殿の眉がぴくりと跳ねる。険しい表情は消え、穏やかさとただびとには伝わらない愛嬌が顔を見せる。曹操幕下でも一部の人間しか見ることのない顔だ。早朝に内密に呼び出され、一対一で問答を重ねる。
 これが今の俺に預けられた信だ。
 そのことを誇らしく感じながら言葉遊びの渦の中に巻き込まれていく心地よさに溺れた。

「それでも、何かを詠め、とわしが命じたらどうする」

 どうもこうもない。殿が真実俺の詩歌を求めるのであれば詠むに決まっている。
 ただ、そういう返答を待っているのではない、と顔に書いてあったから俺はそれを読み上げる。

「座興程度でよろしければ、拙い言葉を連ねますが、殿はそのようなことはお命じになられません」
「ほう、断定か。その根拠は?」
「可能性のないことを求めたりはされますまい。剽窃の詩歌、と申し上げたとき殿はどこか得心のいったお顔をされました。殿には一度受け入れた結果を何度も思考される癖がおありですが、納得の上で下した結果には存外大らかであられるのも存じ上げております」

 曹操は冷徹だとか、慈悲もないとかそういった風聞は方々から聞こえてくる。この許に住まう民ですら時折その怜悧さを恐れているのだから、他国のものなど言うべくない。
 けれど。
 俺は――俺たち曹操幕下の臣下は殿の優しさと誠実さも知っている。今はそれを表出するべきではないと皆が感じているから誰もそう評しない。ただそれだけのことだ。
 殿は俺の家族の仇だ。この広い大陸で生きていけるだけの術を教えてくれた何にも代えがたい家族を容易く屠った仇敵だ。
 それでも。
 俺はその殿の臣下である師父の弟子を志した。憎しみも痛みも知っている殿の志を否定する理由が怨嗟ではこの大陸はいつまで経っても救われないだろう。
 俺たちは殿の理想を現実にする為の駒だ。その才を誰よりも上手く使ってくださるだろう殿にお仕えした。この現在地点に不服はない。
 命を懸けた言葉遊びをするだけの度量が俺に備わっていることを態度で示した。
 殿が、軽く息を吐き、そして穏やかに笑った。

「なるほど、郭嘉の背中に隠れずともおぬしも一人前の弁舌を持っておる、ということだな、

 わしの目に狂いはなかった。おぬしに丕の守役を任せたことは成功だったようだな。
 そんな過分な評価が聞こえて俺は照れ笑いをする。
 胡床に座った背中の向こうが薄らと明るくなる。冬はこの時間の空が一番美しい、ということを俺と子桓殿は三日前に語らった。

「そのような大したものではありませんが、そういうことにしておいていただけると光栄です」

 その、安心しきった俺の横面を殴打するような殿の言葉が飛んでくる。

「では、改めて命じよう。、この朝焼けを詠め」

 悪戯の成功した悪童のような顔で殿がそう命じた。これは遊びだ。座興程度でよければ読むと言った。俺が、自ら、言った。それを忘れたわけではないだろう、とにやついた顔で笑う。言ったとも。ああ、言った。そうだとも、真実殿が欲するのなら俺はどんなに無様な詩歌でも詠みあげる。それが曹操幕下に与するということだからだ。
 それでも。
 ただ揶揄われるだけ、というのも芸がない。
 だから。

「これは。一度仰られたことは中々覆してくださらない方だ、というのを失念しておりました」
、おぬしの弁、なかなかのものであった。だが、まだ甘い」

 精一杯の強がりも殿の前では軽くあしらわれる。
 なるほど、あるじのあるじを前に対等であろうとすることこそが不遜なのだという現実を俺は知った。
 それでも。
 曲がりなりにも智者の類で括られる俺は望んだ答えを紡ぐだけの道具には成り下がりたくはない。

「それでは、無能の詠む稚拙な詩でも聴いていただきましょう」

 その対抗心すら作られたものと知っても。
 それでも俺はこの道を引き返すことだけはしたくないのだと、今の全部で走り続ける。愛憎の果てに待っているものの姿はまだ見えない。いつかその尻尾が見えたとしても。それでも俺はまだ走っていられるだろうか。
 冬の朝日が地平から上る。凍てつく寒さがこの大陸を襲うまで、残り二月ほどの頃合いだった。
2014.07.02 up