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Ex.01 不器用の勲章

 千代由紀人(せんだい・ゆきと)はよく言えば不器用、悪く言っても不器用で人とのコミュニケーションが得意ではない。メディアが生み出した言葉で言う「コミュ障」というやつで、親しい相手とは会話が出来るが初対面の相手に馴染むには膨大な時間を必要とする。
 その、千代に十二年の人生史上、画期的な速さで友人が出来たのが五か月前のことだ。立海大学付属中学テニス部の特待生として寮に入った。そこで出会ったのが同じ特待生の常磐津千尋と徳久脩(とくさ・しゅう)の二人で、彼らを媒介にすると世間と交流を持つこともそれほど疎ましくはなかった。千尋と徳久が千代の交友関係の幅を広げてくれる。幸村精市、真田弦一郎、柳蓮二。地元では群を抜いた存在だった千代と肩を並べる相手が増えた。幸村たちを受け入れて、先輩たちと馴染んで栄光の道を歩いていく予定だったが、人生はそう容易くないことを知る。挫折のない人生なんてない。それでも、自身に責のない挫折に心が折れそうだと思った。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだとくさった。
 千代一人なら、今頃は郷里に戻って全てを諦めていただろう。
 絶望と憤りとやるせなさを抱えた千代の気持ちを軽くしたのは、千尋だ。一緒に挫折を味わって、一緒に耐えると言ってくれた。嘘でも、社交辞令でもそんなことを言ってくれたのは千尋が初めてで、こいつは本物の馬鹿なのか、それとも呆れるぐらい器が大きいのか、そのどちらなのか判別が付かない、と思った。
 同時に、千代は千尋のことを信じられる、とも思う。
 馬鹿みたいに前向きで、傷つきやすいくせに正直で、ある意味においては千代よりずっと不器用な千尋を見ていると励まされる気がした。こんなに不器用なやつでも人生を歩いている。だから、千代も人生を歩けると思った。
 その千尋と一緒に練習を重ねてきた柳生比呂士、丸井ブン太、そしてつい一週間ほど前に出会った新しい仲間のジャッカル桑原。四人が一年生に割り当てられたコートの中でダブルスの試合をしている。千尋以外はダブルスをしたことがない。それでも、ゲームが成立しているのは千尋の尽力によるものだろう。
 柳生のフォローをして、ダブルスのやり方を必死に伝えている。
 千尋はゲームが始まる前に柳生に言った。

「絶対、俺が全部拾うからヤギは思うように攻めたらいい」

 その言葉を体現するかのように、千尋は八面六臂の大活躍をしている。
 実力考査の結果が出て、千尋は安定の特待生最下位の成績で確定した。ボーダーギリギリ。それでも、範囲内なのだからそれでいい、と千尋は割り切っている。勉強なんて出来ない。理屈もわからない。なのに千尋は人間関係を構築するうえで一番大事なことはちゃんと知っている。人に信じてほしいなら、まずは相手を信じなければならない。相手を信じているかどうかを示すなら、言葉では足りないことも千尋は知っている。だから、彼は今、必死にコートの中を駆け回っている。柳生が空振りしても、届かなくても、全部ぜんぶ千尋が拾って相手コートへ返す。後ろに気を遣う必要はない、ということを柳生が理解し始めて即席のダブルスが少しずつ上手く噛み合ってきていた。

「ダイちゃん、お前さんの相棒、ほんまに馬鹿じゃのう」

 千尋と柳生のプレイを見ていた相手コートの二人もダブルスのやり方を少しずつ学んでいる。自分の役割とは何か。何をすれば上手くいくのか。千尋の尽力が三人に伝播している。連携が上手くいかない、と察したとき千尋は自陣だろうが敵陣だろうが声を飛ばす。「ルイ、パッシング、右」とか「ヤギ、ドロップ、正面」とか「ルック、ストレート」とかとにかく色々な指示が千尋から発せられる。
 千代と仁王雅治はそれを見ながら、ほんのりと温かな気持ちになっている。
 先刻まで感傷と煽り合いでぎすぎすしていたのが嘘のような気がするのだから本当に不思議なものだ。

キワが馬鹿じゃない瞬間なんてなかっただろ」
「知っとうよ。お前さんが、そう言うのもわかっちょった」
「ハル、知らないだろ。キワは本当に馬鹿なんだ」

 テニスが好きで、好きで仕方がない。テニスを好きなやつに悪いやつはいないと本気で思っている節すらある。その幻想は例の事件で霧散したと思っていたのに、千尋はそれでもまだ理想を追い続けている。心折れてなお、理想を追い続けられるやつ、というのが本当に強いのかそれとも実は弱いのか、千代にはまだわからない。
 ただ。

キワがいなくなったら、多分、俺、もうここにいないかなって思うんだ」
「愛の告白なら本人にしとうせ。俺に惚気られても何もならんち」

 呆れたように笑う仁王を見ていると、何だかんだ、彼もまたテニスに夢を抱いているのだということを何とはなしに察する。
 本当はあのコートの中に入って、一緒にお遊びのダブルスを楽しみたいと思っているのだろう。それでも、プレイスタイルが違う。オールラウンダーはダブルスに向かない。何でも出来るが、それは何も出来ないのと大差ない。ダブルスにおいて、突出した長所がないことは圧倒的欠点だと考えて差し支えないだろう。仁王はそのことに気付いている。
 だからこそ、彼はその他大勢の一年生ではなく、審判台に乗った千代の隣を選んだ。
 わかっている。わかっているから千代は仁王に小さな弱音を零した。
 誰かに教わったのではない、千尋がそうするのを見て、千代もまた自然と学習した。

「ハル、お前、どう思う?」
キワのことじゃったら、俺はよう量りきらんち、言うとるじゃろ」
「じゃなくて」
「じゃのうて?」
「俺のこと」

 丸井が綺麗なドロップを落とす。前衛の柳生が慌てて飛び込んできて一応は返球が成り立った。万全の態勢で待っていた丸井がそれをパッシングする。その先では千尋が待ち構えていてストレートで返した。桑原が更にストレートで返す。じりじりと丸井が移動する。多分、丸井はストレートのラリーをカットするつもりだ。千尋がそれに気づいていないとは思わない。どうするのだろう。期待と不安が千代を満たす。コートの中で千尋がストレートのストロークでボレーを打った。千尋と桑原を結ぶ直線状にいた丸井の頭上高くをボールが飛び越えていく。桑原が全力で駆けてコートの隅、ぎりぎりで返球する。「キワ、フェイントかよ!」非難の形をした称賛が千尋に向けて飛んだ。千尋はそれに微笑みを返して、柳生に指示を出す。「ヤギ、ネット際!」の声に「承知しました」と柳生が駆け出す。右の前方に柳生、左後方に千尋。ダブルスでは安定のポジショニングだ。桑原のレシーブを千尋がフラットショットで返す。まだ万全の状態ではない桑原を狙った。フラットショットは千尋の武器の一つだから、体勢を崩している桑原では受けきれないだろう。
 千代のその計算を裏切って、丸井がボールに向かって飛び込む。
 軽い反発音。丸井のラケットがぎりぎりでボールを受ける。そして、黄色がネットの上を大きく超えて千尋たちのコートへ飛ぶ。柳生の位置からでは届かない。千尋が間に合うかどうか、ぎりぎりの返球に千代は心の中でナイスレシーブと唱えた。いくら千尋でもあれを取るのは無理だ。だからコールをしなければならない。
 そう、思ったのに。

「ヤギ、背中借りる!」

 コート後方から千尋が全力で駆けてきて、咄嗟のことに硬直していた柳生の背中に足をかけて空中へ飛び上がる。そして。鮮やかな後方宙返りから桑原、丸井のいないサイドへ返球。千尋以外の一同が呆気に取られた状況下で、ボールはコートの隅を抉ってポイントを奪った。
 コールをしなければならない。それが審判を買って出た千代の役割だ。
 わかっている。
 わかっているが、千代の心はもうボールを追いかけていない。
 アクロバティックなプレーをした千尋がちゃんと着地出来たかどうか。怪我をしていないか。不安が千代の心を圧し潰しそうになる。コートの中の映像が千代の網膜を素通りして、実像を結ばない。

キワ!」

 気が付けば審判台の上で千代は立ち上がっていた。細いパイプで組まれた審判台が勢いに負けて揺れる。「ダイちゃん、何しちゅうがや!」仁王が隣で吠えたが千代の耳にはそれももう届かない。思うように動かない両手足を必死に動かして審判台を降りた。
 そして。

キワ!」

 審判の役目を放棄して、千代はコートに駆け込んだ。千尋のことしか頭にない。千尋が怪我をしていたら。そうしたら、千代はまた独りぼっちで取り残される。嫌だ。そんなのは嫌だ。自分以外とダブルスを組んでいるのでさえ、のけ者にされたような感覚を抱くのに、本当に独りぼっちになったとしたらどれだけ心細いだろう。
 こんなときに一番先に考えるのが自分のことだなんて自己中心的だ。わかっている。わかっていても、千代はまだ十二で、千尋のように自分を犠牲にしてでも誰かの心配が出来る、だなんて美徳は持たない。
 自分が一番大切だ。自分のことを最優先して何が悪い。
 好きも嫌いも、心配も、軽蔑も、全部自分の価値観で決まる。
 その結果が評価されるかどうか、だけの話で決めるのはいつでも自分だ。
 だから。

キワ! 怪我してない? なんであんな無茶なことするんだよ!」

 そこまでして勝たなければならない試合か。問おうとして、駆け寄った千尋本人がけろりとしていることに気付く。

キワ?」
「何、ダイ、お前、何そんな必死なんだよ」
「だって、キワ、お前」
「あれ? 言ってなかったっけ? 俺、小学校のとき体操クラブだったんだ」
「テニスしか出来ないんじゃなかったのかよ」
「テニスはスクール入ってたから、学校のクラブには入れなかったんだ」

 だから、学校行事の方は体操やってた。そりゃそうだろ。スクール入ってるやつが学校のクラブに入ったら嫌がらせにしかならねーもんな。
 唐突に告げられて千代は目を瞬かせた。知らない。そんな事実は聞いたことがないし、今まで、その片鱗すら見せなかったのに、どうして今、それを見せるのか。千代と組んだ時はこんな無茶なことはしなかった。
 千尋に信頼されていなかったのだろうか。
 不意にそんな考えが頭に浮かんでぐるぐると巡る。

キワ、お前、そんなの今までやらなかったくせに」
「だって、ダイ、お前。お前とだったらこんな無茶しなくてもちゃんと勝てるじゃねーか」

 前衛で千代がいるべき場所にいるから、返球されるコースは限定される。その狭められた選択肢の中に、無茶な返球を強いられるコースはない。だから、千尋が派手なプレイをすることはなかったし、これからも多分そんなことはないだろう。
 そんなことをさも当然のように語られて、千代は常磐津千尋という人間の深さを改めて知った気がした。

「で? コールまだなわけ? さっきので俺たちの勝ちだろ?」
「えっと、じゃあ、『ゲームアンドマッチ、ウォンバイ、常磐津・柳生ペア』でいい?」
「だってよ、ヤギ。勝ったぞ、俺たち」

 どうだ、三人とも。ダブルスも面白いだろ。
 屈託のない笑顔で千尋が試合を終えた三人に問う。問われた三人はめいめい、違う表情で、それでも誰もが満更でもない、という顔をした。それを見ていた仁王が千代を通り越して千尋の肩を叩く。

キワちゃん、俺にはシングルスの面白さを教えとうせ」
「お前とはもう嫌になるほどやったじゃねーか」
「いやいや、一回や二回や三回や四回で伝えきれるもんじゃなかろ」
「伝えきるまでやったら、お前が自分で探す楽しみが減るだろ。別に、俺は俺に同意してくれるやつがほしいんじゃない。俺はテニスが好きなやつが増えたらそれでいいんだよ。考えんのはお前らの仕事で、俺の広報活動はもう終わり。はい終わり」

 いつもはただの馬鹿で、浅慮で知性なんてものはほんの少ししか感じさせない千尋なのに、テニスのことになると本質を知っている、と思わせる。自分の好悪を押し付けるでもなく、かと言って言葉を噤むでもない。いつも通り喋っている。なのに、千尋と一緒にいるとテニスのことがもっと好きになる。計算しているわけではないだろうに、適切な塩梅で広報活動をする。相手の意思を尊重して、なのに自分の意思も通す。
 本当に不思議なやつだ。
 その、不思議な器を持っている千尋が一番信頼しているのが千代自身だということを時々再確認して、そして自惚れたい気持ちになる。選ばれたのだという確かな自負が千代を強くした。千代の言葉遊びのやり方が間違っている、というのは小学生の頃から気付いている。だから、地元でも友だちは多くない。親友、なんて呼べる相手は今までいなかったし、多分、これからもずっと一人だと思いながら立海へやってきた。
 なのに。

「ダイ、お前どうした。審判台でどっか打ったのか?」

 あんな乱暴に降りてきたらそりゃそうだろ。
 何でもない風に千尋が気遣う言葉が身に染みて、不意に目頭が熱くなる。
 一人でもいいと思っていた。テニスは一人で戦う競技だから仲間なんていてもいなくてもいいと思っていた。なのに知らないうちに千尋と徳久が千代の心に居場所を作っていて、彼らがほかの仲間も連れてきた。信を負う重さと意味を知って千代は少し臆病になった。小学校の頃は負けなしだった千代なのに、中学に入ってからは幾つもいくつも負けを重ねてきた。負ける悔しさは不変だ。どれだけ負けても悔しさに慣れることはない。それでも、負けの中から何かを見出す尊さを知った。
 全部、この五か月が教えてくれた。
 そこにはずっと千尋がいた。
 
キワ、俺、お前以上の馬鹿、見たことない」
「はぁ? 何だよそれ。何、今度は何の煽りだ? えっと、ハル、解説頼む」
「解説ちゅうても、ダイちゃんはツンデレじゃきのう。ヒント終わり」
「ハル、ヒントになってない」
「そうですね、答えを全部教えてどうするのですか、仁王君」
「いや、ヤギ、それも微妙に違うと思うんだけど?」

 何なんだよ、現実の生活で大喜利やってんじゃねーよ。
 不貞腐れた千尋の声が聞えて、千代の胸中でさざ波を生んでいたものが落ち着いたような気がした。

キワ、気が済んだ?」

 目元の熱が消える。つまらない、ありきたりでどこにでもある日常に感動しそうになっていた自分を知って、それでも、そういうのもありじゃないか。だなんて思って受け入れる。何でもない顔をして、その幸福を噛みしめながら言う。
 千尋が穏やかに笑って、桑原に問いかけた。

「ルック、もう大丈夫だろ、お前」
「ああ、大丈夫だ。スコアブックの書き方もわかったし、ダブルスが面白いのもわかった。それに」
「それに?」
「俺、ここにきて本当によかったって思ってるぜ?」
「だろ?」

 最高の環境と仲間たちだから。言って千尋は満面の笑みを浮かべる。
 桑原とハイタッチしているのを見ても、千代の心は穏やかなままで、自身がこの短い時間の中で少しだけれど成長したのを知った。

キワ、俺たちのことは心配すんなよぃ。何かあったら頼るから、桑原にな!」
「俺かよ!」
「じゃあルックは何かあったら俺たちを頼れな」
「ってことだから、以降何かあったらキワが全責任負うってことで」
「ダイ! お前そりゃねーだろ」

 毒舌めいた煽りに千尋が大袈裟なリアクションを返す。そこまでが様式美で、一連の流れがスムーズに行われることを確かめて、千代の心の中に平静が帰ってきた。
 九月の空は高く、青く晴れ渡っている。
 競争の世界で生きると決めた。誰かを蹴落としても前に進むと決めた。それを選んだのはほかでもない千代自身だ。
 それでも。
 隣を走る仲間がいるという心強さもまた確かに存在している。ゼロでも一でもない答えを知って、全てを理解しなくても、全てを割り切らなくても、人は生きていけることに気付いた。競い合うライバルで、時に相棒、一生戦い続ける宿敵で親友。その日本語が破綻していない、という現実を千代もやっと受け入れられたような気がした。