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All in All

39th.Another 移り変わりの景色

 何も失わない人生になんて価値がない。
 何も失わないということは何も持っていないとほぼ同義だ。失うものがないからこそ、失うという概念から解放される。ただ、それは概念上だけの問題で最初から何も持っていない人間は存在しないから、厳密に言えば「全てを棄てる」という選択肢を選び続けている、という表現が適しているだろう。つまり、何も失わない人生というのは事実上存在しないし、万に一つ、存在していても空虚だ。
 常磐津千尋がその真理と出会ったとき、時間という不可逆的で流動的な存在に少しだけ臆した。
 人は生まれた瞬間から命を手放す末期に至るまで延々と選択を強いられる。
 その全てに正答を続けることは到底不可能で、そして、この世界の選択に「正解」が恒常的に存在するわけではないのだから、そこに正しさを求めることは不毛以外の何ものでもない。
 それでも。
 千尋千尋が選びうる最上の選択をしたい。
 そんなことをデジタルカメラで撮影したデータを現像しながら仁王雅治を相手に愚痴を零すと、彼は面倒臭そうな笑顔で「お前さん、最上級の馬鹿じゃろ」という評価を受けた。

「そういうの、久しぶりに聞いた」
「で? 誰の受け売りなんじゃ。お前さんに人生哲学なんちゅう小難しいことを考える頭なんかないじゃろ」
「ひっで。俺だってたまには小難しいこと考えるんだっつーの」
「無理じゃ無理じゃ。お前さんはその持ち前の直観力で適当に生きていくんが一番向いちょる」

 じゃのうたら、お前さん、底なし沼に沈みそうじゃしのう。
 言って仁王は千尋の背中を思い切り叩く。衝撃と幾らかの熱が生まれて、悪ふざけの度が過ぎている、と苦情を陳情しようとしたけれど、仁王の横顔が思っていたより柔らかくて言葉が霧散した。

「ハル、俺、別に沼とかはまらないと思うけど」
「何を言うちょるんじゃ。今、お前さんが言うたじゃろ。『小難しいこと』を考えちょる、て」
「言ったけど別に沼まで行かねーよ」
キワちゃん、よう覚えておきんしゃい。人が口に出来るんは自分の中にあることだけじゃ。一ミリでも一ミクロンでも思わんことは言えん。じゃけん、お前さんはもう沼の淵におるんじゃ。覗き込んだら落ちて終わり。そういうもんじゃろ」

 そういうものか。ぼんやりとそう呟くと仁王は穏やかな表情のまま言う。
 その言葉に千尋は過去の疑問がふっと胸によぎるのを感じた。幸村精市だ。千尋の相棒である千代由紀人(せんだい・ゆきと)と二人で無様な初戦に挑んだとき、千尋たちは幸村に散々な言葉で詰られた。人は思ってもいないことを口には出来ない。そうだとしたら、幸村は本当は千尋のことを受け入れていないのだろうか。弱者と侮り、対等な存在だとは認めていないのだろうか。
 不安に表情が曇る。考えすぎるなと言われたそばから考えすぎてしまっている自分を知って、それでも不安を信念で打ち消せるほど千尋は強くはなかった。
 千尋のそんな表情の変化を見抜いた仁王が大きくため息を吐く。

「言うておかんとお前さん、要らん勘違いまでしちょるみたいじゃけ、言うけど」
「何だよ、ハル」
「『思う』の概念は広い。お前さんが今『思うた』次元よりもっとずっと広いんじゃ」

 だから、お前さんは幸村のことを変に疑わんでもええよ。
 その言葉に仁王の視野の広さを見せつけられたような気がした。どうしてそれを知っているのだ、とか、どうして千尋の不安がわかるのだ、とかそういった驚愕と畏怖が入り混じった感情が去来する。その、驚きの感情すら仁王には手に取るようにわかるのだろうか。双眸を見開いて固まった千尋に柔らかい言葉がもう一つ届く。

キワちゃん、嫌な言葉ちゅうんは誰でも思いつくじゃろ。そいつに対して思うたとかそういうわけじゃのうても、『聞きたくない言葉』とか『聞いたら嫌な気持ちになる言葉』とかそういうんがお前さんの中にあるんと同じじゃ」
「自分が嫌いな言葉、ってことか」
「まぁ平たく言うたらそうなるんかの。天才の頭の中にはそういう『自分自身ですら否定したい言葉』ちゅうんがあるんじゃろ。俺は天才じゃないき、想像じゃけど逆のパターンじゃったらわかりやすいじゃろ。『言われたい言葉』がないようなやつはどこにもおらん。お前さんの中にもちゃんとあるやつじゃ」

 そこまで言われて、千尋も遅ればせながら仁王の言葉の尻尾を掴んだような気がした。
 言われたい言葉ならある。こんな言葉で褒めてほしいだとか、こういう風に言われたら嬉しいだとかいう想像なら幾ら千尋の語彙力が貧弱でも一応は思いついた。その逆のことだと仁王は言う。
 あの日、幸村が投げつけてきた侮蔑の言葉は「言いたくない言葉」だったのではないか。「言われたら気分を害する言葉」だったのではないか。もし、そうだとしたら。それを幸村自身が理解してなお千尋たちに向けたのだとしたら、恨んだり疑ったりするのは筋違いもいいところだ。
 そこまでを半年以上の月日を経過してから知って、千尋の胸中には安堵が満ちた。
 人を疑うと胸の内で何か暗いものが渦を巻く。
 幸村の人格、という形のないものをおぼろげに理解したつもりでいたけれど、それはただの願望だったのではないか、という思いもあった。千尋が思い描いた理想の幸村像を見ているだけで、心のどこかでは侮蔑されているのではないか、という猜疑心を抑えつけてきた。対等な存在ではない。その不安に蓋をして無理やり押し込んでいる自分のことを更に否定して、仲間だという肯定の思いだけを表出してきた。
 その、暗いものと別離してもいい、と仁王が言外に告げる。
 仁王雅治というのは本当に不思議なやつだ。
 誰のことにも興味がない。テニスに全てを懸けているわけでもない。適当に時間を潰して、適当に人生を進めて、斜に構えて何ごとかに固執することはない。そんな雰囲気を纏っているくせに、ときどき、本当にときどきだけれど千尋の人生の露払いをしてくれたりする。
 好んで他人の世話を焼くようなタイプではない。それでも、千尋は仁王の不思議な優しさに助けられてきた。
 多分、今も、仁王は千尋の気持ちを救ってくれた。
 コンパクトデジタルカメラを押し付けられて、テニスだけに熱中することを禁じられて、くさくさとした気持ちでディスプレイの向こうの景色を無感動に記録していた。写真を撮れと言われた。その役割を果たしているのだから内容などどうでもいいだろう。そう思っているのは否定しない。
 なのに。

キワちゃん、お前さんの画面越しじゃと真田がええやつに見えるから不思議なもんじゃのう」

 適当にシャッターを押した。その向こうに真田弦一郎がいる。千尋がカメラを持っていることに気付いた真田がこちらを見ていた。それが千尋が現像しているディスプレイ上に表示される。
 眉間に皺を寄せて、厳めしい顔つきで中学一年生だと主張するには妙に大人びすぎている。
 それでも、千尋の目にはいつも通りの真田にしか見えない。千尋よりずっと多くのことを知っていて、なのに偉そうに威張ったりはしないのに真田のことをよく知りもしないやつに限って真田を過小評価する。仁王の言葉の向こうには等身大の真田がいて、彼が千尋と似たものを見ていることを教えた。
 真田弦一郎というのは立海テニス部における人間関係の試金石だ、という言い方をすることも出来るだろう。真田は王者として相応しいやつにしか本音を見せない。真田の柔らかな表情を知っている、というのはそいつが真田の認めたやつだということを意味している。逆に言えば真田に認められさえすれば、そいつが立海テニス部にいるに値すると証明されたと言っても言い過ぎではない。
 一年という歳月がその前提を作り上げた。千尋も知らないうちにその一部に組み込まれて、認識を共有している。

「ハル、弦一郎はずっとこの顔だろ」
「そりゃ、お前さんにとってはそうじゃろ。俺はまだお前さんには及ばんよ」
「テニスが?」
「色々じゃろ。お前さんにだって色々俺よりええとこある、ちゅうことじゃないんかい」

 人の価値をはかるには物差しが一つでは足りない。何十、何百、何千の価値観があってその中で人は評価を受ける。
 まだまだ至らない点だらけの千尋にも、万事器用にこなしている仁王より優れている面がある、と彼は言う。
 例えばその一つひとつがテニスであり、写真であったりするのかもしれない。

「じゃから、キワちゃん。お前さん、そんな不貞腐れた顔をしなさんな」
「してねーよ」
「しちょるじゃろ」
「してねーって」
「お前さん、そういう頑固さだけは本当に真田に負けんのう」

 テニスで上の世界に行きたかったから、十二の千尋は立海を選んだ。その選択が誤っていたと思いたくないから研鑽を重ねた。立海には千尋より強いやつが何人もいて、負かした筈の柳に負けたりもした。
 それでもテニスのことが好きで、もっと強くなりたいと思いこそすれ、逃げ出したいとか諦めて郷里に帰りたいとかそんなことを思ったことは一度もない。負けて悔しいのなら戦って勝つしかない。千尋はそのことを直感的に理解している。
 だから。

「もっと上、行きたいだろ。置いていかれるの、嫌なんだ」

 足踏みをしている時間が惜しい。一分一秒でも長く練習してもっと上の世界が見たい。
 その為だけに千尋はここにいる。
 そう、思っているのに平福も仁王も、多分真田ですらも千尋の写真に期待している。そういうことを本当に求めるのなら写真部とか新聞部とかを呼べばいい。彼らなら喜んで写真を撮ってくれるだろう。
 けれど。
 そういう話ではない、と仁王は言う。

「じゃったら、キワちゃん。お前さんは別に俺が上に行かんでもええち思うとるんぜ?」
「んなわけねーだろ。仲間が強くなるのを否定しなきゃ勝てない時点で、そいつはもう負けてるじゃねーか」
「お前さん、わかっちょるんかわかっちょらんのか本当にようわからんやつじゃのう」
「何が」
「写真の良さは何じゃ。『綺麗に撮れること』かい? 『構図がええこと』かい? 違うじゃろ。そういう要素があるんは事実じゃ。技術があるに越したことはないじゃろ。けど」
「けど?」
「お前さんが撮る写真じゃからええ顔をするやつがおるんじゃないんかい」

 例えば真田、とか。
 その名前にどれだけの価値があるのか、千尋は知っている。
 知っていたが、否定した。それがどれほど愚かであるかは理解していたが、どうしても理解したくなかった。

「関係ないだろ。弦一郎が俺のことどう思ってても、ハルにだって同じ写真、撮れるだろ」
「お前さん、本気で言うとるんぜ? この写真を撮れる? 俺が? 寝言は寝とるときだけにしんしゃい。断言しちゃる。『絶対に俺には無理』じゃ」

 その理由を聞かなくても答えは容易に想像出来た。
 千尋のファインダーに向けた表情を仁王のファインダーで追っても決して同じ写真にはならない。わかっている。わかっていた。仲間たちが千尋を信頼しているから、千尋のファインダーの向こうには生き生きとした被写体として映る。わかっている。千尋の写真は千尋の積み上げてきたものをそのまま表している。わかっている。それでも。千尋はテニスだけがほしかった。
 瞼に熱が生まれて、視界がじわりと滲む。
 ああ、これは泣くのだな。まるで他人ごとのように受け止めて、頬の上を何かが伝う感触を無視して、千尋は焦点の合わなくなった仁王を睨みつけた。
 どうしてだ。
 本当にほしいものなんて一つしかない。
 テニスがあればいい。テニスがあれば、それ以外のものなんて大した価値もない。
 なのに、千尋の周囲はそれを許してくれない。
 誰かに許されなければ前に進めないほど、千尋は弱くはないけれどそれでも認めてほしいという気持ちも確かにある。千尋のテニスが評価される、つまりテニスで勝つ、それ以上の結果なんて望んだことはない。勉強を頑張っているのも特待生でいる為の最低条件だからで、欠点ばかりでいいのなら今すぐにやめてもいい。
 やめてもいい、と思っていた。去年の途中までは。
 勉強は今も苦手だ。覚えなければならないことが山積しているし、次から次へと新しい概念が登場する。論理性だとか計画性だとか色んなものを求められるのに、結果はそう簡単には伴わない。当たり前だ。千尋が受けた授業を他の生徒も聞いている。同じように学習が進むのだから、「普通に」対応すれば当然普通止まりだ。その中で上を目指すのなら人よりも多くの努力が求められる。不毛だ。千尋の身体は一つしかなくて、与えられる時間はいつでも二十四時間しかない。テニスをする為に必要な時間を差し引いて残った千尋の自由時間なんて高が知れている。三強の次元まで全てを高めることは事実上不可能だ。
 けれど。
 千尋は知ってしまった。
 本当に頑張ったことが報われたとき。その瞬間、千尋の中には「達成感」が生まれる。その感情の手触りの良さを千尋は知ってしまった。
 両目から熱を伴った雫が次から次へと溢れる。
 拭うこともせず、放置して、千尋は仁王が示したものと向かい合った。
 平福が千尋に与えようとしているもの、の輪郭がぼんやりと見える。視界が滲んではじめてようやくそのことに気付いたけれど、多分、その答えは最初から千尋の中にもあったのだろう。

「ハル、お前の写真の中のルイたちだって似たような顔、してるだろ」
「二週間しかコンデジ使うたことのないキワちゃんより酷い写真しか撮れんのじゃったら、俺のアドバンテージはどこにあるんぜ?」

 冗談めかして仁王が笑って、千尋の背中を軽く叩いた。
 アドバンテージという単語を比喩表現として持ち出された千尋の頭の中に、仁王の言おうとしていることが最短距離で届く。知っている。仁王雅治というのはそういうやつだ。無関心を気取っているけれど、本当は周りのことをよく見ていてその本質を鋭く見抜いている。そのうえで、相手にとって必要な言葉を選べるだけの語彙力があり、判断力がある。だから、千尋は知っている。

「ハル、俺、ちゃんと写真撮りたい。ちゃんと写真撮って、ちゃんと合宿したい」

 そういう戦いもあると知った。全てを懸けるのは一見難しそうに見えて、多分、一番楽な選択肢なのだろう。全てを切って捨てて、興味も関心も一点集中。失くすものなんてないと嘯いて、全てのことから逃げている状況への言い訳でしかない。
 全部を頑張ることが出来るやつは限られている。世間ではそういうやつのことを天才と呼ぶ。本当に一握りだけのその枠の中に入りたいと願って、叶うやつは一握りの中でも更に少ない。
 立海に来て自分が天才ではなかったことを千尋は知った。
 それでも、それだけの理由でテニスを諦めてしまえないぐらいには千尋は馬鹿だった。
 一番になれないのなら棄てる。その程度の心構えでは特待生でいる資格などない。どれだけ屈辱を味わおうと、どれだけ敗北の苦渋を舐めようと、それでもテニスを棄てないと見込まれたから千尋はここにいる。いつか一番になれるかもしれない。そんな期待を抱かせるだけの素養があるのに努力をしないのなら、そいつは自分で思うよりよっぽどつまらないやつだ。
 だから。
 努力をして伸びる余地があるのなら挑んでいく。
 千尋はそういう戦いを選んだ筈だ。
 そのことをようやく思い出して、滲みっぱなしだった視界から曇りを拭う。
 涙を拭いた千尋の双眸に宿っているものを確かめて、仁王が大らかに笑った。

「お前さんの言う『ちゃんと』の内訳はようわからんが、お前さんはちゃんとしてないときの方が珍しいじゃろ」

 じゃけん、悔しゅうて泣くんじゃったら、お前さんは「ちゃんと」前向いちょると俺は思うがのう。
 後悔に気付いたならいつでもそこから歩き出せる、と仁王は言う。
 それだけの強さを持っているだろう、と暗に含められていたことに千尋も気付いた。強くなりたいと思う。強くありたいと思う。その気持ちに偽りは一つもない。
 だから。

キワちゃん、お前さんは馬鹿じゃ。筋金入りの馬鹿で、テニス以外じゃ救いようもない。けど」
「けど?」
「俺はそんなお前さんじゃき、一緒におって楽しいと思うんぜよ」

 そうじゃろ、真田。
 千尋の頭上を通り越してその向こう側へ声が飛ぶ。その意味を理解して、千尋は慌ててそちらを振り向いた。
 そこには困惑した顔の真田が千尋のタオルを持って立っていて、更によくよく観察すると真田の背中のその向こうで千代が泣きそうな顔をしている。
 どうした。どうしてテニスコートの半分以上が葬式のような雰囲気になっているのだ。
 その答えを音で知りたいと思って、千尋はその言葉を喉の奥に押し込む。
 答えなんて聞かなくてもわかるだろう。
 千尋を信頼した仲間たちが、壁の前で行き詰って悔しさに落涙している千尋をそのまま放置するほど薄情な筈がない。不貞腐れて写真を撮って、現像して、仁王に諭されて泣いて、何ごともなかったかのように振舞うやつなんてどこにもいない。
 ああ、心配をしてくれたのだな。その答えを得て、瞼が再び熱を持つ。
 千尋の道はまだ半ばにも達していない。それでも、同じ方向を見て違う歩幅で進んでいる仲間がこんなにもたくさんいる。
 強者だと泰然と構えて、千尋が追いついてくるのをただ見守っているだけの幸村。理論武装で論破するタイミングを見計らっている柳蓮二。普段の言動からは意外にも映るが、戦っている相手を励まそうとやってきた真田。千尋の心痛を自分のもののように受け取って一緒に嘆いている千代。そういう仲間たちの様子を把握して、残った役割を受け入れてドリンクの用意をしているジャッカル桑原。
 二年の特待生の先輩たちも部長である平福も、みんな、三者三様の態度で千尋のことを気遣ってくれている。
 恵まれているじゃないか。こんなに人に思われているのに自分のことばかり考えて、一人で不貞腐れていた自分が恥ずかしいとすら思う。
 
千尋、俺はお前の写真を好ましいと思う。だが」
「だが?」
「俺はお前のテニスはもっと好ましいと思っている」
「弦一郎?」
「だから、必ず上がってこい。道半ばで放り出すなど、俺は認めん」

 言葉の最後の音が紡がれるのとほぼ同時に千尋のタオルが宙を舞った。ふわり。狙ったかのように千尋の手元に落ちてきたタオルの柔らかさに触れて、それが真田が見せる最大限の優しさだとわかっているから手のひらを強く握り締める。
 涙がまた溢れそうだったから、タオルに顔を押し付けた。繊維が少しずつ湿度を帯びて指先に伝える。次に顔を上げるときにはいつも通りの適当な笑顔でいたい。その思いを汲み取った仁王が「キワちゃんはほんまによう泣くのう」と言いながら、千尋を落ち着けるようにゆっくりと何度も背中を叩いた。幼子ではないから、そんなことはしなくてもいい。抗議をしようと思ったのに嗚咽を押し殺すのに精一杯で悪口はどこかへ引っ込んでしまう。

キワ、ドリンク置いておくからちゃんと飲めよ」

 桑原がそう言って千尋のボトルを置いて自分のコートへ戻る気配があった。
 それに続くように二年の特待生の先輩、千代、柳、丸井ブン太たちがひと言のコメントを千尋に投げかけてそっと肩を叩いていく。幸村が来る気配がない、ということに気付いた頃にはどうにか涙は収まって、柔らかい筈のタオルの生地で目元を拭ったのに少しだけひりひりと痛んだ。
 顔を上げると、まだ少し曖昧さを残した千尋の景色の一部で、幸村が不敵に笑うのが鮮明に見える。
 唇の動きと雰囲気が届くはずのない幸村の声を伝える。

千尋、頑張れるだろ」

 確認の形をした励ましの言葉を受け取って、部長の平福を探した。いつも通りの様子で淡々と練習に取り組んでいる。四天宝寺の選手たちですら動揺しているのに平福はいつも通りだ。
 多分。
 こうなるとわかっていて平福はカメラを千尋に押し付けた。
 こうなって、それでも千尋なら前を向くだろうと信じて写真を撮れと言った。
 その意図を汲み取れるぐらいには千尋と平福の間にも信頼関係が成り立っている。
 だから。

「ハル、もういい。大丈夫だ」
「みたいじゃのう」

 千尋は根本的に馬鹿だ。頭が悪い。世間一般における常識に欠ける部分も多いし、おおよそ誰でも知っていることや感じていることがすっぽ抜けているときも多々ある。
 それでも、千尋はここで生きている。
 生きているということはそれだけでチャンスを与えられているということだ。
 人生がどこまで続くのか、答えを知っているやつは一人もいない。余命宣告を受けた病人ですら、最期の瞬間がいつ来るのか、明確に知っている筈がない。
 だから。
 生きている以上終わりは必ず来る。その瞬間に自分の人生の価値が決まる。そこに至るまで、人には常にチャンスが与えられている。常に試されているように感じるやつもいるだろう。楽観的に生きていくやつもいるだろう。千尋がどちらなのか、それを判じるのはもっと後でも出来る。だから、千尋は顔を上げた。前を見ていないと何にもならない。与えられたチャンスと向き合わないで、己の不幸を嘆いて、そうして人の優しさを倦厭して、不遇だというだけの人生にどれだけの価値があるだろう。
 そんな人生など要らない。
 それだけは、十三の千尋でも決められる。
 上を目指すという気持ちはまだ千尋の中にちゃんとある。ちゃんとあるからこそ千尋は落涙した。それだけがわかっていればいい。

「ハル、お前さぁ、弦一郎と並んでみたらどうよ」
「はぁ? 何を言い出すんじゃお前さんは」
「いや、割とガチで言ってるんだけど」
「一つだけ聞いちゃる。目的は何ぜ」
「まぁ、そういう絵面が見たいだけなんだけど」

 仁王と真田が並ぶ絵面を写真のフレームに収めて、そうして千尋が施し得る最上の現像が出来たら、次に行き詰ったときの戒めになるだろう。
 失うもののない人生はない。負けのない人生もない。
 それでも、千尋は人生を望んだ。そのことを教えてくれる仲間たちの写真を撮りたいと思える。その強さを仁王がくれた。真田が守ってくれた。
 昨日、あれだけ傲岸不遜に振舞った千尋が嗚咽するのに動揺している四天宝寺のことを不意に思い出して、どう弁明しようか、と考えたけれど千尋の中にそれに相応しい言葉などないと気付く。気付いたから釈明をするより、千尋が今するべきことを考える。
 澄み切った視界の向こう、カメラのディスプレイの中に誇るべき仲間たちが見える。
 小難しい理屈はやはり千尋には重荷だから、涙と共に流して消した。
 今は。
 ファインダーの向こうに見えるその景色の移り変わりを記録して、そして千尋自身も変わっていこうと思えた。