Craft Clear Crowns Re:size

クレームブリュレ

 最近、よく同じ夢を見る。
 デビュー二年目のまだまだこれから飛躍していく頃のTRIGGERが、突然芸能界の闇に襲われるなんていう悪夢だ。仕事を干されて、事務所を離れ、インディーズのアイドルとして音楽活動をやり直す。腫れ物扱いの日々から逆境に立ち向かっていく、その過程。悪夢中の悪夢すぎて俺は目が覚める度に唯一無二の輝きの中にいる八乙女楽が幻でないことを確かめずにはいらなれないほどだった。周囲からは仕事の多忙さからくるノイローゼの烙印をもらった。疲れているんだ。休め。惚気か。色んな相手から色んな言葉で同じ意味の忠告をもらう。
 でも。
 とその度、俺は思うのだ。
 近衛史(このえ・ふひと)の――五摂家の観測する世界のどこかではそういう運命もあったのではないか、だとか、もしかしたら俺のいない世界ではそうなっていてもおかしくないのではないか、だとか。近衛宗主の見ている景色を間借りして見ているだけかもしれなくても、俺の知らないどこかで八乙女が苦しんでいるのならどうにかして力になってやりたいのに、だとか。
 そんなことを思っていても八乙女が俺の世界で俺にだけ微笑むと不安はいつでも消し飛んだ。知っている。俺じゃない「俺」のことを想う八乙女に嫉妬するのと構図は同じだ。八乙女じゃない「八乙女楽」に懸想して得られるものなんて最初から一つもない。寧ろ目の前の八乙女を蔑ろにする最低の行為だ。知っている。だから、俺は夢の中の八乙女のことを出来るだけ忘れるように努めた。
 いつも通り、月末までに百の原案を書き終えて俺はクラフトクリアクラウンズリサイズの社長室を訪う。須賀俊一(すが・しゅんいち)の半ば強引な経営方針のおかげで、最近はすっかりデジタル譜面の提出が定着しているから、こうしてここに来る理由もないのに俺は今月も外部メモリで直接スガに手渡しをする。アナログ・ネイティヴの世代である俺からすればリモート会議も電子提出も退屈なばかりで、もっと対面の「本物」の世界に身を置きたかったというのが一番の理由だ。デジタル・ネイティヴの若手社員たちにもそういう声があるのを苦労して説き伏せたのだからCEOこそそれに従え、とスガは毎月提出物の受け取りを拒む。

「スガ。文明の進歩は素晴らしい。間口を広く持つことも、利便性を高めることも、無駄を省くことも俺は全く否定しないさ。それでも、君も知ってるだろ。人は『本物』に惹かれる」
「はいはい。いつもの口上ね。ハルさんは本物のアーティストだよ。本当に」
「だから、ライブをしよう。リサイズの総力をかけて祭りをしたいんだ」
「シャイニーさんとこと鳳さんとことと八乙女さんとこの交渉で俺を殺したい、っていう遠回しの殺害予告と受け取るけど、いいんですね?」
「嫌だな、スガ。君がそのぐらいで死ぬわけないだろ。もう三社ぐらい行こう」
「だから! 業務超過でそのうち労基呼びますよ! 裁量労働制とかいう魔法の言葉で解決出来る時代は終わったんですよ! 俺は! まだ! 死にたくないんだ!」

 そのぐらいで死ぬなら、君はリサイズの社長職に向いていない。
 そんな台詞が脳裏に浮かんだが、告げたが最後、本当の本当にスガがリサイズを退職してしまうのは自明で、俺はどうにかしてこの忙殺されている朋輩にお祭り騒ぎの開催を許可させたかった。
 かれこれ半年ぐらいこの不毛な争いが続いているのに、スガはいっこうに首を縦に振らない。それは演者の事務所がすることで音楽家の主催するライブなんて前代未聞だ、と彼はいつも否定した。

「スガ。前例がないからしない、が許される時代ももう終わったんだ。前例がないなら、作るのが俺たちの仕事じゃないか」
「黒崎さんと八乙女さんを一緒に舞台に上げたいだけの人がよくもまぁぬけぬけと」
「よし、じゃあ俺たちの親会社の企画なら君も否定しないんだな?」
「いや、だから、そうなったら余計に俺が忙殺されるじゃないですか」

 嫌ですったら嫌なんです。却下。
 提出した譜面にざっと目を通したスガがそう言うと毎月の業務終了の合図だ。
 百の原案は無事受領されたから、俺は定例ではない突発の業務に取り組むことになる。
 例えば突然音楽家に夜逃げされた番組のフォロー、とか。

「スガ。今から千君と会うんだけど、君はどうする?」
「Re:valeの?」
「そう」
「何でまた」
「彼の出演する番組の音響を引き受けただろ? 打ち合わせって名目の親睦会だ」

 Re:valeの千が主役を務める連続ドラマの音響を引き受けた音楽家が納品前日になって夜逃げした、というのはスガの耳にも入っているだろう。その場に居合わせた俺が偶発的に後任を引き受け、事後承諾という形で契約書を作成したのが二週間ほど前の話だ。撮影の段階で音楽が間に合っていなくても特に問題はない。あらかじめ、納期を早く設定した監督の采配が天運だった。俺が今から、休みなく譜面を書き上げれば編集の本当の本当にギリギリの段階になら間に合う。そう判断して俺は勝手に誰の許可も得ない状態で仕事を引き受けた。スガはそれに対して今月の原案が間に合うなら好きにしろと言ったのもまた忘れたわけではないだろう。
 偶然、黒崎蘭丸の後輩――まだ役名すらもらえない本当の新人だ――が端役で出演していたから、BeatsMarriageとして撮影現場を見に行っていた。ただそれだけの縁だが、音楽が必要な場面に出くわして無視出来るような音楽家は音楽家ではない。即断した俺を黒崎は「相変わらず青臭えやつだな」と言いながら笑ったが、止める素振りすら見せなかったのだから所詮は同じ穴の狢だ。

ハルさん、来月は――」
「わかってる。寿君のソロアルバムの収録だろ。曲は全部提出したじゃないか」
「でも、もしもってこともある」
「ない。もしあっても、劇伴一枚引き受けたぐらいで潰れる音楽家に見えるのか、君には」
「あんたはいつもそうだ」
「スガ。試してるんじゃない。俺は俺の覚悟を見せているだけだ。だから、それが信じられないっていうなら、君はいつでもその職を辞してくれて構わない」

 信じていないものの為に心をすり減らさせるのはそれこそパワーハラスメントの一種だろう。
 知っている。それがどれだけ正論でも正鵠を射ていても、その論理を高々と掲げて人の心を試すのがどれだけ卑劣なのかも、どれだけ傲慢なのかもちゃんと知っている。知っていたが、俺は敢えてそれを踏襲しなかった。

「スガ。俺は君にもっといい景色を見てほしいんだ」
「――あんたはいつもそうだ」

 自分を高めることに躊躇なんてない。必要とされれば全力で応える。そんなんじゃあんたは一体いつ休むんだ。仕事仕事で大切なものを失う前にもっと我が身を顧みろよ大馬鹿野郎。
 社長の職を得てからというもの、スガは俺の我がままにずっと振り回されてきた。それでも、スガが口にするのは俺を思慮する言葉で、向こうの「俺」が見つけてきた仲間というのは概ねこういった人徳を持ち合わせている。
 怒っている――という顔で俺の心配をしているスガを見ていると本当に俺は恵まれたやつだなと思った。

「大丈夫だ。俺は無茶は通すが無理はしない主義だから」

 何の担保にもならないその主張を通すと、スガが苦虫を噛み潰したような顔になりながら、彼の中の葛藤を伝える。

「半分だ。残りの半分は高遠君に担当させる」

 高遠、というのはリサイズの若手作曲家だ。所属している二十代の作曲家の中では彼が一番、俺に近い作風を受け継いでいて、今回の仕事を引き受けたとしても遜色のある仕事はしないだろう。寧ろ、音楽を社会に売るいい機会だとすら思えた。
 だから。

「――いいよ、それで」
「えっ?」
「いいよ、って言ったんだが?」
「いいのか、ハルさん」
「後進を育てるのも会社の役割だ。俺だけが全部の名誉を得てもリサイズはきっといい景色を見られない。君の思うように俺たちを使ってみるのもいい経験だろ」

 人を信じるのも大人の仕事じゃないか。
 何でもないことのようにそう返すとスガは「あんたに社会の役割を説かれる日が来るなんて思いもしなかった」と呆気に取られているのがわかる。
 リサイズの音楽家というのがどれだけ世間離れしているのか、というのを目の当たりにして俺は苦笑を漏らす他ない。

「スガ。高遠君も一緒に連れて行っていいだろ」
「まぁ仕事相手に顔を売るのは悪くないと思う」
「ってことだから、ちょっと出てくる」
ハルさん!」
「どうした、スガ」
「今月のラフ、良かった。絶対にあんたの曲をまた売ってくるから来月以降も覚悟してくださいよ」
「ああ。期待してる」

 期待ではない。覚悟しろと言ったのに。
 そんな感情がスガの顔面から漏れ出ていて、彼がいつか俺に対しても社長然と振舞える日が来るのがまだ遠いことを知らせる。ガラス張りの社長室を出て、携帯電話を取り出した。リサイズでは社員全員に携帯電話の支給がある。業務ではもちろん、私的に使ってもその費用の全てを経費として落ちるからオンオフの切り替えが困難だと社員の誰かがこぼしているのを聞いたこともあった。
 それでも。

「高遠君。君の仕事を一旦棚上げするんだが――」

 会社のトップから直接オンコールがあっても誰も委縮しない。かつて俺が宮藤莞爾(くどう・かんじ)の弟子だった頃。王冠はそんなフランクで自由な会社だった。俺もまたそういう会社を目指し、リサイズを育て続けている。いつか。いつか、未来のどこかで宮藤に会ったとき、彼は俺の仕事をどう評価するだろう。そのことに怖じているわけではない。寧ろ、自信満々に見せびらかせる、そんな会社であるように努めているつもりだ。
 親睦会の開始時刻を告げると高遠とはそれで終話する。
 時計を見た。千の前の仕事が上がるのにはもう少し時間がある。少し考えて、結局俺はいつものカフェへと向かった。別に約束があるわけではない。誰かに会おうと思ったわけでもない。
 なのに。

「やぁ君さん。待ってたよ」
「遅かったね。あなたならもっと早くにここに来るかと思っていたのだけど」
「神宮司君――と千君?」

 喫茶店のドアを開けるとベルが高らかに来店を告げる。
 正面のカウンターに並んでいた先客が、ふ、とこちらを振り返って俺を見つけるとそれぞれの形で笑みを投げてきた。少し年齢を重ねているとはいえ、この国を代表するトップアイドルが二人も揃っているとそれだけで十二分に華やぎがある。俺を待っていた――と神宮寺レンは口にしたが、約束をした覚えがない。まぁ、大方、このカフェに俺が足げく通っているのを見越しているのだろうが、理解ある友人を持つと複雑な気持ちになるということを教わっただけありがたいと思うことにしよう。

「どうしたんだ? このカフェは君たちが好き好んで来るような店じゃないだろ」

 マスターはとても誠実でその人柄の通りこだわりぬいた珈琲が飲める。ただ、とても分かりにくい場所にあるから偶然迷い込んだ、だなんていう可能性は低い。口数の少ないマスターは客を追い出すことこそないが、一見の客が長居をする、だなんていう次元にないのは火を見るより明らかだった。
 雇われ店員の宇崎が冷をカウンターの上に置く。神宮寺と千との間の席だ。真ん中を開けるというのはどういうシチュエーションなんだ、と思いながらも俺は腹を括ってその席に座る。
 マスターが何も言わずにブレンドコーヒーを置いた。
 それを確かめた神宮寺たちが嬉しそうに口角を上げる。

「君さんをね、待ってたんだ」
「そう。八乙女君がね、以前あなたがこのカフェをとても好きだって言っていたから。僕も興味があったんだ」

 ここは会員制のカフェじゃないんでしょう?
 問うた千の表情には確信が満ちていて、俺は彼が敢えてこの場所に来たのだということをもう一度理解した。

「ああ、君たち。今日は楽と仕事だったのか?」
「そう。君さんがこれから千君と打ち合わせだって聞いたから、じゃあオレも顔見てから帰ろうかなーって思って」
「君らしくもない。どうしてそこで楽を引き止めておいてくれないんだ」

 そうしたら俺も八乙女と顔を合わせられたのに。言外どころか率直にそう苦情をぶつけると神宮寺が愉快そうに微笑む。
 お互いを伴侶だと主張しても法律は俺たちの関係を何も保証しない。お互いを所有し合うという関係は割合すんなりと受け入れられたが、だからと言って日々の職務の全てを共有しているわけでもない。適当に今までと同じようにお互いの生活があって、その一番下の土台の部分を同じくしている。ただそれだけの関係だから、今日はどこで誰々と仕事をします、だなんて一々報告し合うこともない。
 だから、今日の仕事相手がカフェで俺を待っていた二人だと知っても別段何の感慨もない。
 寧ろ。俺たちの関係を承知しているのなら逆に気を利かせろ、と要求すらする。
 俺と神宮寺との間にはそういうグラックジョークを放っても大丈夫な雰囲気があった。
 そのことについて、神宮寺はあらかじめ千に語ったのだろう。
 満足そうに微笑みながら彼は言った。

「ね? 千君。君さんってこういう人なのさ」
「ともすれば神宮寺さんの方がお兄さんに見えますね」

 皮肉の利いた千の返しに俺はコーヒーのカップに唇を当てる。鼻先で香ばしい匂いが充満して、今日のブレンドもまた絶妙な采配だな、と思いながらカップを傾けた。程よい熱さの液体は期待通り、絶妙なコクと酸味で俺は多分、ここ以上のコーヒーを知ることはないのだろうと予感する。
 二口ほどブラックのコーヒーを口に含んでから、俺はカップをソーサーに戻し、皮肉には皮肉を返す。

「そりゃそうだろ。俺の渡世術は殆ど全部神宮寺君から教わったんだから」

 そうですよね、お兄様?
 悪辣な冗談を放り投げても神宮寺が揺らぐこともない。知っている。俺の軽口の一つや二つで神宮寺の調子を狂わせることなんて不可能だ。彼はこの業界をその柔和な態度で乗り切ってしまう、天性の愛の持ち主なのだから。
 
「どう? 千君。オレの可愛い弟くんは」
「百点満点のガキ大将、って感じですね」
「失礼な。俺はいつだって紳士然としてるだろ」

 それを言う為に最近はスーツなんていうものを着ているのか、と千が間を置かず反駁する。

「まるで新社会人のようで見ているこちらが不安になるよ」
「いいんだ。別に。君がどう俺を笑っても、楽が嬉しそうにしてくれるなら俺は何だって別に構わない」

 十人十色の価値観の前で、完全なるブレのない答えを求めることに意味なんてない。
 忖度も斟酌も自己満足だ。それと理解していて、それでも自分の感情をその自己満足が補ってくれるなら、自分の中では意味のある何かになるだろう。例え誰に笑われても。世間一般に評価されなくても。俺は八乙女が望むのならいつだって道化を演じてもいいとすら思っている。
 だから、俺は千の皮肉にも直球で返した。無表情を取り繕う癖のある千が、俺の返答に一瞬だけ瞠目してそうしてすぐに眦を眇めた。反対側の神宮寺からは肩を叩かれる。最高だよ、君さん。そんな声が聞こえても俺の中で結論は何も揺るがない。
 俺は八乙女と共に生きることを選んだ。だから、八乙女の感情に寄り添いたいのだ。
 世界中を敵に回しても、俺はきっと八乙女を守れるのならそれでいいと言うだろう。その結果、八乙女に憎まれることがあったとしても、俺はきっと何の躊躇いもなく八乙女の安全を最優先してしまうだろう。
 そのことはもう立証済みで、今更議論をする余地すらない。
 だから。俺は決めたのだ。これから先は八乙女が大切にしている俺自身という存在に対してももう少し誠実であろう、と。

「果報者だね」
「楽が?」
「いや、あなたが」
「そうだろ? 自慢の伴侶なんだ」

 自らを軽んじ、身を易々と売り払って生きる人生とは別離した。
 保身を軽蔑するのも、安全を疎んじることもしない。それでも挑戦を続け、新しい明日を探している。
 八乙女がそういう生き方を選ばせてくれた。
 だから。

「マスター。例のやつ、三人分俺の支払いで出してくれないか」
「宇崎君」
「はーい、ハルさん。例のやつですね?」
「そう。例のやつ」

 君さん、例のやつって何だい?
 その言葉に、神宮寺にはまだ例のものを注文してやったことがなかったな、と思い出す。
 例のやつ、というのは別に大したものでも何でもない。店内のどこにもそんなメニューがあるとは書かれてないだけのただのクレームブリュレだ。コーヒーを愛しすぎてしまったマスターを愛しすぎてしまった奥方がコーヒーに合うブリュレを作ってしまった。毎晩、明日の調合を悩むマスターと共にブリュレの味付けも少しずつ変える。そんな二人の共同作業の結晶は大量生産出来るわけもなく、メニューとして正式に掲載されることもない。
 だから。

ハルさん。本当に運がいいですね。在庫、ちょうど三つだったんですよ」

 にこにこと笑みながら宇崎が厨房の中から三つ、ブリュレを持って出てくる。楕円形の器の表面にはバーナーで焦されたカラメルが乗っていて、銀のスプーンがその面に割り入るのを今か今かと待ち構えていた。

「神宮寺君。千君。同じ味は二度と食べられないから、よく味わって食べてくれ」

 言って俺は誰よりも一足早くスプーンでカラメルを割った。瞬間、香るバニラの柔らかな匂いに胸の奥が期待で満ちる。今日もブレンドコーヒーによく合った味になっているのは間違いないようだった。スプーンで黄色のクリームを掬う。カラメルのざらりとした感触と共にクリームは口の中で溶けた。
 甘すぎず、生臭さもない。いつ食べてもこのブリュレは本当に美味い。
 そんなことを考えながら美味の世界にいると、隣で千が呆れたように笑って、そうして彼もまたカラメルを割っているところだった。

「あなたって、意外とおだてに弱いんだね」
「素直に褒められない屈折したやつよりずっとマシじゃないか」
「言えてる。君さんはそういうとこ、あったからね」
「神宮寺君。文句があるのならそのブリュレ、食べなくてもいいんだが?」
「それとこれとは話が別さ」

 いただくよ。言ってスプーンを握り、そうして俺たちは三者三様に甘味を賞味する。

「でも、本当に。少し前までスウェットで会議に出てた人とは思えないね」

 オレが教えた服飾の知識がまるで無駄だったのか、って思ってた時期もあるんだよ。
 そう言わしめるぐらいには俺は割と自由すぎる服装をしていたのもまた事実だ。
 ただ。

「いや、君の会社に行くときは少なくともスウェットじゃなかっただろ」

 少なくともオフィスカジュアルだった、と反駁しても神宮寺はまだ色よい顔を見せない。
 それどころか。

「でも有名だったよ。リサイズのハルは自社内を自室内と勘違いしている、って」
「僕も聞いたことがある。納期に間に合ったけど服装が間に合ってなかった案件が幾つもある、って」

 本当なの? 問うた千は話半分、と言った顔をしていたが実は全く見に覚えがない、と言えるほど清廉潔白でもない。
 リサイズを分社化して、八乙女と再会するまでの期間。俺たちは確かに一丁前にスーツを仕立てる費用すらなかった。だから、ときどき。本当の本当にときどきだが、親会社から突然の呼び出しを受けて当日飛び入りで顔合わせに参加したときや、納品が期日の数十分前になった時などはスウェットで親会社に出向いたことがあるのも事実だった。それこそ、着替えている時間すら惜しかった時代だと振り返り何とはなしに懐かしさを覚えた。
 そんな俺の思い出など知らないだろう二人が、不意の告解を受けて両目を点にする。

「まぁ、親会社ならスウェットで行ったこともあるけど……」
「えっ?」
「えっ?」
「『えっ?』って。何が」

 そんなに二人揃って驚くようなことだろうか。今も、彼ら自身が揶揄いのタネとして使ったばかりだ。当然、このことも知れ渡っているのだろう、と思っていたのに神宮寺たちのリアクションがそれを否定する。あれ? 知らなかったのか? そんな疑問を抱きながら両隣の二人の顔を返すがえす見つめるとそれぞれの呆れの表情でスプーンを一旦、皿に戻している所だった。

「君さん。リサイズの親会社って王冠じゃないだろ?」
「あなたの直接の親会社って近衛商事じゃないか。よくもまぁそんな所にスウェットで……」

 近衛商事、というのは近衛宗主が会長職を務めている由緒ある巨大企業だ。その名の通り通商の会社で数多のグループ会社を抱える、戦前でいうところの大財閥の総本家、と言ったところだろう。本社オフィスを東京・丸の内の一等地に構え、一般人ではとても踏み入ることの出来ないような高級感しか漂ってこない。芸能界の一隅に会社を構え、俺たちの資本金を出資してくれているとはいえ、流石の俺も本社ビルを訪う際は節度ある服装を心がけていた。それでも、しばらくの間はアウェー感が凄まじかったから、俺は一生こちら側の人間になる日が来ないことを確信したぐらいだ。
 その、憧れの世界にスウェットで顔を出した、と思われた挙句、呆れられている、ということを認識した俺は必死の体でフォローの言葉を取り繕う。

「いやいやいやいや、流石に丸の内の近衛商事じゃないぞ? 汐留の──」
「それでも十分やらかしてるよ。君さん」
「いい? ハルさん。あなたはあなたの会社の看板なんだから、もう少し自分のことに頓着した方がいい」
「いや、もう──何ていうか、はい。肝に銘じます」

 必死のフォローでも両側のため息を止めることが出来ないのを察し、俺は抗うのを諦めた。その通りだ。いつの間にか俺には俺の知らないような価値が付随され、今では五十名の社員の人生を背負っている。全ては五摂家の威を借りられたことに起因しているが、それでも事実は事実と受け止めなければならない。俺の行動ひとつでリサイズが路頭に迷うことだってある。
 だから。

「君たちなら、きっと独立してもいい会社の代表になれそうだな」
「何言ってるの、ハルさん」
「そうそう。君さん、そういうの、オレたちの仕事じゃないっていうか」

 もしも、今の事務所を離れて懇意の音楽家の歌を歌えなくなったら。そのときは俺の書いた曲を歌いたい。そんな風に言われてすげなく断れるやつがいるとしたら、そいつはきっと音楽家には向いていないだろう。

「まぁ、君たちに限って事務所を出る、なんていう可能性は最初からゼロだったな」
「そういうこと」
「じゃあ、ハルさん。そろそろ行くんでしょう?」

 言って千が壁面にかけられた時計を見遣る。この後、千と彼の出演するドラマの監督と俺と高遠の四人での会食が控えている。気がついた頃には満腹になるまでこのカフェで長居しそうになるのを断ち切って、俺は三人分の会計を引き受けた。割り前勘定にする必要性も、リサイズの経費で落とす必要性もない。俺が支払いをしているのに人生の後輩たちが甘えてそれぞれに店を出る。
 神宮寺はこの後、別の予定があると言い雑踏の向こうに消えていった。
 千と二人、路地を歩きながら言葉を交わす。
 
「千君。高遠君も同席するが、何。悪いやつじゃない。信じてやってくれないか」
「あなたが提案することを僕がいちいち疑ったことでも?」
「ないのは知ってる。それでも、彼は人見知りだから、初対面の相手に自分の良さを十分に説明することが出来ないんだ」
「大丈夫。あなたがいて、萎縮するだけの無能な新人には僕は興味がないから」
「だから! そういうのを! 手加減してやってくれって言ってるんじゃないか……」

 ハルさん。と一際殊勝な声色で俺の名が呼ばれる。

「あなたに守ってもらえなきゃ戦えないような音楽なら僕は欲しくない」
「誰にでもあるだろ。苦手なことも、初めて経験することも」
「初めてでも何でも、商品にならないのならそう言ってあげるべきだ」

 それを上布で包んで騙して、さも優れた商品であるかのように見せかけるのは誰の為にもならない。
 千の言いたいことは十分に理解出来た。それでも。高遠にもまたきっかけと始まりが許されるべきだ、と経営者の俺が言う。後進を育てるのを放棄したとき、会社としての成長は止まる。新しい視点を否定したとき、社会の鈍化は始まっている。そんなつまらない世の中にしたいのか、と俺は自問した。俺が音を紡ぐのは世の中の為だとか高尚なことを言いたいわけではない。
 ただ。

「優劣は比べなきゃそもそも存在しないだろ。失敗を恐れて観測をしないだとか言い出すなら、君の方こそ音楽で飯を食うのはやめた方がいい」
「そういう意味じゃない。わかっていて論点をずらしたいの?」
「最初から上手くいくやつなんていないんだ。俺も君も、無数の商品にならない駄作の果てにここにいる。一度の失敗も、未完成な未来も受け入れられないなんて泣き言を吐くほど、俺たちは弱かったのか?」

 不世出の天才、という言葉がある。誰から学んだわけでもなく、殆ど奇跡のような才能を持って生まれるやつを指した言葉だ。
 そういう幻想を追うのは自由だが、それが全てではないのを千もまた知っているだろう。磨かれることで輝く音がある。かつて彼らもまた通ってきただろう通過点を越えるのに手を貸してほしい、というのは彼が渾身の否定をするほど滑稽なことではないように思う。
 明日の景色を見ないで、一秒先に確かな輝きがないと不安で、どうして人々の胸に感動を届けられるのだ。誰も見たことのないものを体現する。それが俺たちに課せられた宿命で、その為に最短距離以外の答えを排除する、というのは些か狭量が過ぎる。

「──あなたは、それがいいと思っているの?」
「うん?」
「後進を育てて、いつか追い越される未来でいいの、って聞いてる」
「千君。俺の師匠が言ってた。『自分の理想の音楽が何もしなくても自動的に生み出されるのに、どうして僕がわざわざそれをしなきゃならないのか、僕には理解出来ない』って」
「宮藤さんが?」
「そう。カンさんが、言ってたんだ。その意味が今ならわかる気がする」

 高遠は今はまだただの若手の作曲家だが、いつかの未来に俺を超える存在になってくれるかもしれない。その可能性を広げるのもまた俺の役割で、それは人を信じるという行為なのではないだろうか。きっと素晴らしいものを作ってくれる。その日まで支えてくれるものや、助けてくれるものがあったっていいはずだ。俺たちの道中にだってそういう存在があった。最初から完璧で格好良くて何の落ち度もない俺なんていない。
 だから。

「千君。怖がんないでやってくれ。彼はきっと君の為の音楽を作ってくれる。そうなるように俺が助ける。それじゃ駄目かな」
「──ハルさんは卑怯だ」

 そんな風に言われて信じられない、なんて僕が言える筈なんてないってわかってるくせに。
 知っている。千というのはそういうやつだ。殆ど誰のことも疑ってかかるくせに、一度信頼したらその後は最大限信じようとしてくれる。神宮寺と気が合うのもそういう性格だからだろう。

「それで? あなたの理想の音楽はもう終わり?」
「──いや、まだこれからだよ。多分」
「そう。なら、いい」

 俺の返答を聞き届けると千が満足げに微笑む。彼とはまだそれほど長く交流があるわけではなかったが、この顔は納得したときの顔だ。
 千はきっと高遠の音楽を容れてくれるだろう。
 そうなる為に俺が他に出来ること、があるのだとしたら、日本人経営者の十八番――根回しによる合議のスムーズ化、ではないだろうか。
 
「ところで千君はビーフシチューは好きかい?」
「──嫌い、ではないけど、何?」
「じゃあ次の木曜日、百君も連れてうちに来たらいい。二階堂 家でビーフシチューパーティをする予定なんだ」
「そこは普通に蕎麦じゃないの?」
「蕎麦は楽のご母堂に作ってもらうのが一番だから。俺も楽もそこは弁えてる」

 だから、俺たちは蕎麦以外のメニューしか自炊しない。
 そんな他愛のないことを話しながら俺と千は打ち合わせの会場になる飲食店へと向けて三本目の電車を乗り継いだ。この電車を降りると店はすぐそこだ。対面すればもう業務の始まりで、それまでに俺は千を懐柔する必要がある。打算のようなものを抱きながら、俺は千に一見何の関連もないような話題を振った。
 マスクの下で千が穏やかに笑う。

「いいよ」

 その代わり、サラダを僕とモモに作らせてよ。
 言った千の表情は挑発そのもので、俺もまたグラスの下で獰猛に笑う。

「構わないとも。他に誘いたい人がいれば一緒に連れてきてくれてもいいよ」
「だったら、僕から是非、ハルさんに呼んでおいてほしい人がいるんだ」
「――高遠君か」
「僕が飽きるほどダメ出しをしてあげるよ。それで折れないような作曲家なら、僕としても信じてもいい」

 なら大丈夫だ。リサイズの作曲家たちはダメ出しが何十万とあろうともくじけたりしない。俺やスガの辛辣な批判を聞けるだけの精神の持ち主しかリサイズではやっていけない。
 だから。

「じゃあ木曜日。きっと来てくれよ?」
「その頃までに新人君がつぶれてないことを祈っているよ」
「――俺は別に新人潰しが趣味なわけじゃないんだが?」
「精々パワハラで訴えられないといいね、CEOの二階堂 ハルさん」

 言ってろ。それが電車の中での最後の言葉だった。
 そこから先はまだ何が起こるのか、俺にもわからないのだが多分。千は高遠の音楽を正当に評価してくれるだろうと信じる。それもまた人を管理する側の忍耐だと言い聞かせて、俺たちは揃って電車を降りた。
 今宵もネオンサインの光る街々で交わされる攻防は続くが、それでも。音楽が共にあるこの瞬間。俺は確かに俺の知らない八乙女楽のことを忘れていたのもまた事実だった。