Chi-On

王冠の下僕

『糸井治五郎の苦難』

 ST☆RISHの作曲家が誰か、ということは世間には伏せられている。
 七海春歌という名は勿論、性別を匂わせることもしていない。クレジットには毎回必ず「七海」とだけ表記された。同じ芸能界にいても彼女の素性を知っているのは彼女が楽曲を提供した場に居合わせた者だけだ。
 ST☆RISHの楽曲の収録、メンバーの誰かが出演したドラマの撮影現場、背景音楽をコンペで競った。そんな縁がなければ「七海」の正体を知る機会すらない。
 俺が「七海」――と彼女を通して「そいつ」のことを知ったのは、クラフトクリアクラウンズ――通称「王冠」という完全に名前負けした芸能界の最底辺を彷徨っている会社で音楽を作り出して八年目のことだ。
 社長――で俺の音楽の師匠である宮藤莞爾(くどう・かんじ)がある日ビッグニュースがあると喜び勇んで事務所に帰ってきた。先週内々にコンペがあったあるテレビドラマに俺の音楽が数曲使われることが決定した、と言って勝手に祝宴を始める。プルタブの開いた第三のビールを俺の右手に握らせ、宮藤が「乾杯だねぇ」と笑う。

「カンさん、先週のコンペって何の話だよ」
「あれ? 言ってなかったかい?」

 シャイニングさんとこのST☆RISHの神宮寺君の出演する刑事ドラマだよ。にっこりと擬音が浮かぶような笑みを作り、宮藤はもう一度俺の缶に彼の缶をぶつけた。
 ST☆RISHの神宮寺――と言われて俺は脳内で画像検索をする。弱小事務所でトップスターとは縁遠く、さらに生憎男に生まれた俺には男性アイドルの顔と名前が一致するほどの知能がない。どれだよ、と投げやりに呟くと宮藤は一層愉快そうに笑う。

「君が一番嫌いな子じゃないかなぁ」

 女ったらしの一等気障な子だねぇ。うーん、実に君とは相性が悪そうだ。
 そんなことを呑気に言ってはちびちびとアルコールを口に含む。コンビニで一緒に買ってきたらしいミルクレープが二つ入ったパッケージを開け、一つを蓋に載せ俺のデスクに置く。王冠では皿一枚を洗う水道代すら節約しなければならないというのが現状だ。
 それでも王冠は廃業しない。宮藤の采配が絶妙なのだ、ということは俺ともう一人の作曲家でミキサーも務める先輩だけが知っている。
 宮藤がこうして時折大きな仕事を取ってくるのも今に始まったことではなく、俺はぼんやりと何回ぐらいリテイクが来る番組だろうか、と思案した。
 画像検索と宮藤からのキーワードで俺の頭脳は何とか「神宮寺」の人物像を思い描き始める。
 神宮寺レン。神宮寺グループの三男で美男だと世間は評している。グループの中では歌もダンスも抜きん出ているということはないが、決して存在感がないわけではない。寧ろST☆RISHの中では兄貴分的存在でポジションを確立していた。
 女には甘く男には興味がない。嫌味なまでに自信家だが、その評価を落とすような馬鹿な真似はしない。出るところと引くところを心得ている。ST☆RISHが世に出て五年。まだ二十歳そこそこの糞ガキのくせにそつのない態度を取れる冷静さを持っていることが尚更腹立たしい。
 俺にしたところで宮藤からすれば訳知り顔の糞ガキに違いないのだけれど、同族嫌悪に加えて俺の方が下位互換だからいい気がしないのだ。
 宮藤はそれを全て承知の上で仕事を持ってくる。糞ガキを卒業して一人前になりたければ、もっと自己研鑽を重ねろと暗に言われているようで俺としては居心地が悪いことこの上ない。

「カンさん、それは嫌がらせに分類されると思うんだが」
「ユミちゃん、自信ないの? そっかぁ、そうだねぇ。天下のシャイニーさんとこの看板アイドルだもんねぇ。ユミちゃんじゃ役者不足――」
「とか言われるような仕事をした覚えはない。それと、俺は――」
「『岸田歩(きしだ・あゆむ)だ』、かな?」

 そうだ。その通りだ。俺の名は岸田歩で性別は男だ。なのに宮藤はいつでも俺のことを「ユミ」と呼ぶ。歩の女性名はアユミだから君は今日からユミちゃんだね。八年前に打ち込み音源を持って事務所に飛び込んだ俺を迎え入れた宮藤の言葉だ。それ以来、俺は彼にユミちゃんと呼ばれ続けている。ユミちゃんと呼ばれる度に俺は訂正を繰り返しているので、宮藤が本当に俺の名前をアユミだと思っているわけではないことは確かだ。
 それでも。

「ユミちゃんはユミちゃんじゃない」

 いい感じに酔いが回ってきた五十男の頭の中で固定された概念を覆すのは難しい。宮藤には俺の抗議の言葉など聞こえていないのは明白だ。いつもそうだ。諦めて俺が聞き流す方が早い。だから俺が折れる。そして俺の呼称はユミちゃんのままだ。
 それでも、宮藤のことは憎いとは思えない。そういう人徳なのだろう。でなければ俺も先輩もとっくの昔に王冠を出て行っている。
 だから。
 宮藤と意地の張り合いをしても勝てる筈もない。俺はもとの話題に戻ることを選んだ。

「それで? カンさん、コンペに通った曲っていうのは?」

 酒気を漂わせるアルミ缶を傾ける。苦みが熱を伴って食道を滑り落ちた。入れ替わりに上ろうとする気体を口腔の中で弾けさせる。俺は発泡酒があまり好きではない、ということを宮藤が覚えてくれないことに対する不満が少し残った。
 仕事の話をするのにアルコールを持ち込むことについてはもう文句を言う気にすらならない。幸い、俺は酒に弱い性質ではなく、どれだけ飲んでも一眠りすれば酔いは醒めた。
 取り敢えず話だけでも聞いておこうと問う。宮藤は手づかみでミルクレープを頬張った。王冠ではフォークを洗う水道代さえ節約しなければならないのかと一瞬情けなくなる。
 俺が脱力したことを知らない宮藤は口を動かしながら問いに答えた。

「ユミちゃんが先月作曲してたうちの53番のシリーズだね」

 王冠においては、作曲家は一か月に百曲の原案(ラフ)を作る、ということになっている。その中から宮藤の目に留まったものだけがピックアップされ、コンペに出されるなり営業に出されるなりするのだ。その後はクライアントによって変わる。編曲を申付けられることも、原案の延長で新曲を要望されることもある。
 宮藤がシリーズと呼んだ53番の原案は芝居仕立てになっていた。
 俺はそれをこう呼んでいる。

「何だ、『糸井治五郎の苦難』か」
「ムンベに『糸井治五郎』だなんて名前付けるの、ユミちゃんぐらいだよ」

 毎月百曲の原案を作るうち、半分ほどは大体先月の発展形になることが多く、53番のムンベ――ドラムンベースは半年がかりで先月ようやく全貌が形になった。架空の人物・糸井治五郎の苦難に満ちた半生を緩急を付けて表現したその楽曲たちには疾走感のある物語が似合う。「神宮寺レン」というのはその理想に見合う相手か。考えたが「神宮寺レン」の上っ面しか知らない俺がそれを評するのには無理がある。

「何のドラマだって?」
「神宮寺君が主演で刑事もの。11話構成で、何とユミちゃんの治五郎がメインテーマ」

 どう? やりがいのある仕事じゃない?
 宮藤の言葉の重みに俺は面食らう。自慢ではないが俺の音楽の才能は王冠の所属に相応しい程度のものだ。勿論、今まで番組のメインテーマなど引き受けたことはない。
 その、俺の治五郎が天下のシャイニング事務所主演ドラマのメインテーマだというのは過ぎた嘘のように思える。
 思わず眉間に皺を寄せれば宮藤は対照的にぱっと顔を輝かせた。
 どうやら俺にこの顔をさせる為に言葉の順を選んでいたらしい。幾つになっても悪戯心の消えない純粋な人だ。この人の為になら買ってでも苦労をしてもいいと思える。
 溜め息を一つ吐いた。
 宮藤はそれを了承と受け取ったらしい。
 話をしようか、と俺を面談席へ誘った。
 蓋に載せられたミルクレープの一切れが乾燥していくのを横目に俺と宮藤の打ち合わせが始まる。

「音楽は『七海』じゃないのか」
「『七海』は主題歌の収録。音響までは手が回らないんじゃないのかな」

 今回はST☆RISHじゃなくて、神宮寺君のソロになるみたいだね。
 だから余計に「七海」は気を遣っている、と宮藤は言う。俺の記憶に間違いがなければ、それつまり同時に神宮寺レンのソロデビューシングルだということを意味している。
 シャイニング事務所は是が非でも成功をもぎ取るつもりだろう。テレビドラマの主題歌だというのなら番組には視聴率というノルマが課される。
 俺の治五郎がどんな評価を受けるのかはわからない。ただ、厳しい仕事になる、ということを察した。

「何曲引き受けてきたんだ」

 シャイニング事務所主演のドラマの音響が出来る。そのことに小さな期待を抱きながら宮藤に問う。宮藤は晴れやかに笑って答えた。

「全部で十曲。治五郎シリーズが五曲とそれ以外が五曲だね」

 糸井治五郎の苦難は全部で六曲ある。五曲、ということはどれか一つが選外だったということだ。俺はどの治五郎も同じだけの思いを込めて作った。その腕先を切り落とされたような切なさを、それでも未来への糧にする為に重ねて問う。

「どの治五郎が駄目だったんだ」
「『糸井治五郎の休息』」
「『休息』が?」

 切り捨てられていい曲なんて今までたった一曲たりとも、俺は作った覚えがない。どの曲も思い入れを持って作ってきた。俺の表現したいこと、の一つひとつを形にしている。
 だから、本当は「休息」以外のどれかが落選したとしても俺の心痛には変わりがない。
 それでも。
 疾走感のあるドラムンベース。適切な緊張感を伴った主題を緩急を付けてアレンジした。採用された五曲は低音の効いた重厚な音楽で、唯一採用されなかった「休息」はボッサだ。主題は変わらず、穏やかさを重視している。
 激しさは穏やかさがなければ際立たない。「糸井治五郎の苦難」が苦難である為には休息はなくてはならない存在だ。
 そのことは宮藤も承知していると思っていた。承知の上で営業をしているのだと思っていた。
 その信頼が偽りだったのかと詰りそうになる自分自身をぐっと抑えた。俺は十代の小僧ではない。礼儀を簡略していても上下の別を忘れてはいない。宮藤は俺の上司だ。俺の作品が俺の思い通りに売れない責任を彼に転嫁する、だなんていうのが許されるかどうかぐらいはわかる。
 「休息」の持っている意味は宮藤とて気付いているだろう。それでも宮藤は「休息」を売って帰ってこなかった。俺の作品を何だと思っているのだ、と憤慨するのは俺の流儀に反するから黙って返答を待つ。
 宮藤は本当に申し訳なさそうに眉根を寄せた。

「休息の部分はシャイニングさんとこの音楽家の曲が通ったんだ。仕方がないよ、ユミちゃん」

 それが音楽を社会に出すということだ。
 わかっている。「本当にいい音楽だから評価される」だなんていうのは理想論だ。本当にいいものでも、本当に輝いていても社会的に利を生み出せないのならそれは淘汰される。その圧力に耐えるだけの音楽を作ることが出来なかった。だからせめて治五郎がメインテーマを張り、五曲も――ひいては他の五曲も合わせて十曲だ――一つの番組で採用された僥倖を喜ぶべきだ。叶わなかったたった一曲を悔むことは後でも出来る。
 俺は音楽家としての道を選んだのだから、今は無理やりにでも納得して仕事と向き合わなければならない。
 打ち合わせはいつだ、と問えば明日の午後、と返答がある。

「リテイクは?」
「その前にユミちゃんの他のアレンジを聴いてみたいそうだよ」

 だから、リテイクは明日指示する、って聞いているねぇ。ぼんやりと他人ごとのように宮藤が応じた。
 他のアレンジの素材を持っていかなかったのか、と尋ねると宮藤は治五郎のアレンジが聴きたいそうだよと返す。
 治五郎のアレンジなら『苦難』六曲で十分に味わえたはずだ。
 だから。

「全部ボッサにしたら怒るか、カンさん」
「僕は怒らないけど、先方はいい顔はしないだろうねぇ」

 ロック、ポップス、ジャズ。そういう大衆的なアレンジが求められているのだということは俺自身承知している。それでも敢えて問うた。宮藤が許すのならばもう一度ボッサのアレンジに挑戦したい、と言外に申し出たが宮藤はそれを許さなかった。
 そして彼は不意に真剣な眼差しに変わる。

「ユミちゃん、僕は君のプライドの高さは嫌いじゃない。寧ろ自分の作ったものに対して全責任を負おうとする志の高さは美点だと思ってる。でもね、ユミちゃん、一つだけ覚えておいてほしいんだ」
「何だよ、カンさん」
「全部を受け入れることも、全部を諦めることも同じぐらい難しいことだから、君が一人で抱え込むことじゃないんだよ。メインを張る。それは君にとってこの上なく高名なことで、将来を懸けた大勝負になるわけだけど、でも君の理想を全部譲る必要はない。そんな仕事を求められたら毅然と断ってきても構わない、それが僕の理想だってことだけを覚えておいてほしいなぁ」

 まるで実の息子に諭すように宮藤はゆっくりとそれだけを語った。
 三十過ぎの男に人生哲学を語る彼の姿には滑稽さは微塵もなく、彼がその美学を大切に温めてきたのだということを知る。相手を否定しない。けれど全部は肯定しない彼の行動原理のことを俺は快く思っていたから、何を今更と思った。
 真摯な顔をしている宮藤に反論するのも同調するのも何かが違っている気がして、俺は話題を流す。

「カンさん、それは何気に俺の失敗を願ってないか?」
「それは君の自意識過剰ってやつだねぇ」
「じゃあ、まぁ、それでいいか」

 事務所の窓ガラスの向こうでは日が落ち、藍色が滲み始めていた。
 採用された十曲のアレンジ、を考えながら夕食を調達してこなければ、と席を立つ。俺の背を宮藤の声が呼び止めた。

「ユミちゃん」
「何だよ、カンさん。まだ何かあるのか?」

 ミルクレープ、乾燥しちゃうよ?
 悪戯に笑って宮藤が俺の横を通り過ぎる。そして彼はそのまま出口から退社した。
 つまり、今夜は好きだけアレンジを打ち込んでいいのだという言外の許可だ。それを王冠の社員である俺は知っている。
 ならばまず、webで神宮寺レンの下調べをしてみようか、だなんて思いながら俺は事務所のデスクの前へと引き返す。ミルクレープを手づかみにして頬張りながら、王冠ではフォークを洗う水道代すら節約しなければならない、だなんて冗談めいて一人笑う。
 糸井治五郎と俺の二人三脚の苦難が始まった。
2014.01.11 up