王冠の下僕
「岸田さん、あなたそろそろウチに来た方がいいのでは?」新春早々、シャイニング事務所の新年会に顔を出し、適当に壁際で過ごしていると一之瀬が不意にそんなことを言う。俺の王冠への忠誠心を知っているだろうに敢えてそんなことを言う一之瀬のことは嫌いではない。彼は時折進んで汚れ役を引き受ける。変わったやつだ、と思いながらも彼の音楽への情熱は七海といい勝負だから何となく嫌いになれずにいた。
昨年の俺はシャイニング事務所の公式イベントに皆勤賞だった。
サマーから始まってハロウィン、クリスマス。正月の生中継イベントにも出たし、日向との約束が生きているのならバレンタインデーも参加だろう。
他所の事務所の所属でこれだけの出席率を保持している顔はない。その自覚は俺にもある。
それでも。
「馬鹿なことを。カンさんを裏切れるはずなんてないだろう」
俺に音楽を教えてくれたのは王冠の社長であり、俺のフロントである宮藤莞爾だ。宮藤がいなければ俺は音楽を途中で投げ出していたに違いない。風に吹かれる柳のように正体の掴めない宮藤だったが、俺は決して彼のことが嫌いではない。宮藤の作る音楽を聴くと心安らかになる。僕は皆で楽しく聴ける音楽が好きだなぁ、と言う通り、彼の作品は優しさに満ちていた。スウィングジャズが得意だと言うだけのことはある。
そんな、皆で楽しく聴ける音楽を目指している彼の事務所にいるのは俺と松本御前の二人だけだ。松本は職人気質で音楽さえ作れればそれでいという体をしている。俺はと言えばこのところシャイニング事務所から引っ張りだこだから殆ど王冠にはいない。
その事実を棚上げして、俺が否定の言葉を口にしても、目の前の冷静沈着な理論家には敵わない。
「宮藤さんは裏切られた、だなんて思わないでしょう?」
知っている、その通りだ。
宮藤は俺がどこにいてもいいと思っている。俺の作る音楽が誰かを幸せに出来るのなら、王冠に拘らなくてもいいと思っている。
そしてその現実は俺の目の前で紡がれ始めていた。
七海春歌を媒介に俺の音楽が売れる。事務所の大きさがこんなにも仕事に影響する、だなんて当然の現実の前で俺は二の足を踏んでいた。宮藤一人が営業するより、日向が彼の後輩たちを使って何人もで営業する方が余程売れるし、シャイニング事務所、というネームバリューが凄い。それだけでコンペに通ることすらある。
売れる。数字が出る。俺の懐が豊かになる。
それは勿論嬉しいことなのだが、ただ、それでいいのかと自問自答することもある。音楽が売れる、ということは俺の感性が評価されているということだけれど、本当に素晴らしい音楽なら後ろ盾などなくても同じ結果を出せるだろう、と思う。
だから、俺は宮藤の売り方が決して嫌いではない。
妥協点を見つける、だなんて交渉はしない。持って行った素材を聴かせる。説明も売り文句もない。ただ、聴かせる。そしてその中で琴線に触れたものはないかと問う。返答があればそれを売り、なければ黙って辞去する。
その、売り方の方が俺の音楽の本質を評価されているようだと思う。
そちらの方が俺には合っている。
だから。
「それでも、俺は王冠なんだ」
音楽業界の頭上を照らす貴石でありたい。宮藤がクラフトクリアクラウンズという名に懸けた思いを知っている。だから、俺は王冠の下僕であることを望んだ。
だのに、一之瀬は頑なな俺の否定を更に否定する。
「王冠ならプリンスの傍にいるのが一番理に適っているのではありませんか?」
「ああ言えばこう言うやつだな、君は」
「伊達に夢を綴って歌っているわけではありませんからね」
それに、あなたのこともちゃんと見ていたんですよ。
彼は意味ありげに口元をつり上げる。
知っている。
ST☆RISHの中で一番七海の音楽を愛しているのは一之瀬だ。七海春歌自身を愛しているのが神宮寺だから、彼女は彼と結婚したが、七海の本質を一番愛しているのは一之瀬だと俺でも知っている。
その、一之瀬が来年公開予定の映画の音楽に俺を指名した。
その時点で俺は自分の本質が彼に評価されていることを認知した。だから、知っている。彼が俺のことをちゃんと見ていたことぐらい。
「俺は君と結婚する予定はない」
その「過大評価」に正面から答えるのは気恥ずかしくて、大げさな冗談でくるんだ。一之瀬がそれに穏やかに笑む。
「奇遇ですね、私もです」
「一之瀬君、俺は君の得意なタイプの音楽家じゃないだろう」
「ええ、そうですね」
でも、知ってるんですよ。彼は言う。
王冠の下僕は水面下で必死に輝こうとしている。
シャイニング事務所で星の座を手に入れた七海が一か月に作るラフは十曲だ。量より質を選んだ。その考え抜かれたラフの半分だけが輝く。他の事務所でもそれは大きく違わない。
ただ。
「王冠ではひと月に百曲も作る」
「それでも結果は同じじゃないか。打率で言うなら七海君には遠く及ばない」
「ラフでも百の音楽を思いつくあなたが磨かれれば星の座は確約されたも同然なのでは?」
「君が磨いてくれると言うのか」
「いいえ、私にそんなことをしている時間はありません」
「じゃあ」
何だと言うのだ。
溜め息が漏れた。一之瀬が意味ありげに笑って通りがかった給仕から二人分のグラスを受け取り、そのうちの一つを俺に手渡した。
「あなたを磨くのは私ではありません。つまらない言い方をすれば『世間』ですよ」
その機会が巡ってくる音楽家は限られている。どれだけ才能を持っていても研鑽を積めない、あるいは積むことを許されなければ結果は同じだ。
評価が人を磨く。
評されることを恐れているうちは何をやっても意味がない。これが自分だという自信は場数を踏んでこそ輝く。無意味でも無価値でも、無粋でも何でもいい。
その場が与えられたのならば足掻いてみろ、と一之瀬が言っているのだということを茫洋と理解する。ワイングラスをくるりと回した。俺の好きなロゼの色が新しい玩具を見つけた喜びに満ちている一之瀬を映して消えた。
「君も物好きだな」
王冠の社員になるときに俺は宮藤に問われた。一生芽が出なくてもいいかな。それでも君は一生音楽を愛してくれるかな。その問いに俺は逡巡して結局首肯した。それでいいと心底思った。一生音楽の傍らで暮らしたいと思ったからだ。その気持ちには今も変わりがない。
そのことを一之瀬は知っているのだろうか。
俺が音楽を届けたい誰かまで知っていてそんなことを言うのだろうか。
グラスを傾ける。芳醇な秋の香りがした。
「あなたには遠く及びませんよ」
「神宮寺君に何か言われたんだろう」
「『ハニーがお気に入りなんだ。ちょっと妬いちゃうよね』のことですか?」
「他にもあるだろう」
「さぁ? それ以上はただの惚気と受け取ったので覚えていませんが、レンもあなたのことを評価していますよ」
知っている。神宮寺レンは彼が認めた相手以外とはセッションしない。彼が心中では苦々しく思っている黒崎蘭丸もそうで、俺が黒崎と音を合わせる機会があった頃には神宮寺は俺のスタジオの常連だった。
「君たちは俺に何をさせたいんだ」
「最初に言いませんでしたか?」
そろそろウチに来たらどうですか?
その議論なら平行線だ。俺は宮藤を裏切らない。宮藤が俺を解雇しても俺はシャイニング事務所に助けてくれとは言わない。それは、宮藤が俺を切るときは俺が一人でも生きていけると判断したときだからだ。
「岸田さん、その考えが変わったらいつでも連絡をください」
私が責任を持って社長に推薦しますから。
言って一之瀬が壁際から去る。入れ替わりに神宮寺が七海を伴ってやってきた。にやついた笑みは一之瀬と俺の会話を知っている、ということを言葉なしに物語っている。
「君さん、イッチーの愛の告白はどうだった?」
「……溜め息が漏れるよ」
理論的にも感情的にも破綻のきざはしは見えない。完璧をうたう彼らしい説得だった。追い打ちまで含めて百点が十分に出る。それを愛の告白と表現する神宮寺もまた同じだけの技量で全く別のアプローチをするつもりだろう。
その証拠に。
「それで? そろそろ折れるのも大人の役割だと思うけど?」
本当に溜め息が漏れた。
わかっている。これ以上惰性で中途半端を続けていても誰の為にもならない。
宮藤に今の気持ちを説明したらどんな顔をするだろう。多分、彼は顔中をくしゃくしゃにして我がことのようにはしゃいでくれる。そしてこう言うのだ。よかったねぇ、ユミちゃん。
それは決して別離の言葉ではない。袂を分かつのではない。俺の道は宮藤の傍らにしかない。それでも俺の片足はもう違う道の上に載っている。それを無視して否定し続けることにどれだけの価値があるのか、俺にはわからなくなっていた。
「日向さんはどこだ」
「うん?」
「日向さんはどこか、と聞いたんだ」
こんな話を一之瀬や神宮寺としていても遅々として進まない。担当者と腹を割って話すべきだ、と判じたから適任者の名を挙げる。神宮寺が返答に詰まった。
俺の言動など想定の範囲内にあると思っている彼にとって、それはイレギュラーだったのだろう。言いよどんで、会場内を虚ろにぐるりと見回して、そしてようやく答えを紡ぐ。
「リューヤサンなら、あっち、だけど」
「七海君」
「は、はい!」
「シャイニング事務所での著作権は誰のものなんだ」
君のものか、会社のものか、と問う。王冠では――俺の事務所では著作権は会社に帰属する。だから、俺が王冠の社員として作った曲は宮藤の采配に一任される。時々、俺の意見も取り入れられるが、元則、宮藤は俺の承認なしに営業してくるのが普通だ。どれだけ俺の音楽が売れても俺の懐に入るのは給与のみだがシャイニング事務所に入ればどうなるのだろう。
七海や神宮寺を見ていると著作権自体は彼らが持ち、その収入を事務所が代行して回収している、という印象を受ける。金銭の話題は人間関係を崩す原因の一つだから、口に上らせるときは慎重にね、というのが宮藤の教えだ。
それを、今問う。
神宮寺がまるでありえないものを見ているかのように両目を丸くしていた。
七海がおずおずと答える。
「私、のものですが」
「なるほど」
その答えが聞ければ俺にはこれ以上迷う理由がない。
神宮寺に空いたグラスを預け、彼が示した日向の元へと歩き出した。
「待って。君さん、待って!」
慌てふためいた顔で神宮寺が追ってくる。俺の腕を掴んで進行を止めた。テーブルとテーブルの間で俺と彼は向き合った。神宮寺が焦っている。本気の本気で焦っていた。
だから、敢えて明るく笑った。神宮寺がもどかしそうに奥歯を噛み締める。
「散々人の尻を叩いたのは君たちだろう。今更リップサービスだっただなんて言わないのが人情ってやつじゃないのかい?」
「そうなんだけど、君さんは本当にそれでいいの?」
「いいも何も。俺が稼いだ金をどう使うのか、なんて俺の自由じゃないか」
宮藤が俺にくれた給与を超える分は全て王冠の為に使う。宮藤と松本の自由と引き換えにする、だなんて恰好を付けるわけではない。俺自身、自分の才能でどこまで行けるのか、試してみたいという気持ちもある。
だから。
「いいんだ、神宮寺君。俺は生きても死んでも王冠の下僕だ。どこにいても、何をしても俺の師匠が宮藤莞爾だと言うことは誰にも否定させない。その為には金が必要だ、なんて十五の子どもでも理解出来ることを、俺は今まで否定してきたんだ」
潮時だよ。本当に守りたいものを守るためなら、俺は手段も体面も評価も全てを問わない。志を金銭に変えることが出来るものは限られている。その一人になれるというのなら、それはとても名誉なことだ。相手が必要とするものを俺自身が生み出せるというのなら、それは誇るべきであり、決して恥じる必要はどこにもない。
だから。
「君がそんなに自分を責める必要はどこにもないんだ」
今にも泣きそうに眼を見張る神宮寺レンの表情の中にはいつもの余裕はない。彼が半ば冗談の体を繕って願っていたことが叶おうとしている。それが現実になるということが意味する罪悪を彼は理解している。でなければ、どれほどの役者でもこれほどに苦悩を湛えることは出来ないだろう。
「君さんはそんな人じゃないと思ってた」
「意外とこう見えて守銭奴なんだ」
「本物ならどこにいたって輝けるって言ったのは嘘?」
「どこにいたって同じ輝きを持てるなら実入りが多い方がいいじゃないか」
「君さんはそんな人じゃない」
志を金で売れるような人間ではない、と評されて俺はくすぐったいような感覚に囚われる。それは君だろう。努めて平静に柔らかく告げるととうとう彼は俯いてしまった。
何も言わずに俺の腕を掴む指先が震えている。行かないで。彼が全身でそれを訴えていることは最初からわかっている。
それでも。
「自己満足の偽善だ。笑ってくれていい。それでも、俺は王冠の――カンさんの音楽を守りたいんだ」
言ってゆっくりと神宮寺の指先を一本ずつ外す。彼の両肩を七海が優しく支えていた。
その、実に感動的な場面に日向の声が割って入る。
「お前ら、今生の別れごっこはもういいか」
「日向さん」
はっと顔を上げるとそこには俺が探していたシャイニング事務所取締役の顔があった。
呆れ返っている様子の彼に、俺が用件を告げる前に神宮寺の声が響く。
「リューヤサン、あんたからも言ってくれ。この人はウチに来ちゃいけない人だって」
「ああ、全くその通りだな」
「俺では役者不足でしょうか」
「いや、岸田。お前の音楽はウチにとって必要な戦力だ。十分、役者は足りてるぜ」
「なら」
それでも、俺の所属が変わってはならない、と日向は頑なに拒む。
理由を求めれば、彼の眉間にいつも通り皺が寄った。
溜め息を一つこぼして、日向はお前らが感動のお別れごっこしている間に決まったんだよ、と言う。
「社長が王冠の――クラフトクリアクラウンズの株を買った。要するに、今日から王冠はウチの子会社だ」
「は?」
「え?」
「今、何て」
「だから――」
お前は今日からシャイニング事務所の子会社の社員だ。だから、お前はもう一人で王冠を守るだなんていう重責に耐える必要はないんだ。
言われて俺は弾かれたように顔を上げ、会場を見渡す。一之瀬の姿を探した。俺がもたれかかっていたのとは反対側の壁際で優雅に白ワインを傾けている。
「知っていて試したんだな」
そしてその挑発にまんまと載せられてしまった。自分の青さに嫌気がさして、それと同時に結局長いものには巻かれた方がいいのだなんて納得する。
「イッチー、どういうことだい?」
「一之瀬さん、私にも教えてください」
「レン、七海さん。簡単なことですよ」
本物になるつもりのない社員の籍を置いておくことは出来ない。だから、俺は試されたのだ。本物の音楽を追い求める覚悟があるかどうか。そして俺の答えは及第点を得たのだろう。
「日向さん、それは本当なんですね?」
「俺には新年早々嘘ついて回る趣味はねえよ」
何ならお前の師匠に訊け。
言って日向さんが半身を避ける。その正面に宮藤がいた。
「ユミちゃん」
「カンさん、王冠が買収されたってのは本当なのか」
「僕一人でも君たちを守れる、だなんて思ってたんだけどなぁ」
ごめんね。結局、僕はお金が得意にはなれなかった。
しょぼくれた顔で、疲れきった顔で宮藤が喋る。その言葉を最後まで聞かずに俺は彼の傍らに向けて進んだ。
宮藤の顔を見たのは何日――いや、何十日ぶりだ。宮藤がこれほどまでに疲れていたのに俺は気付かなかった。新しい環境で、売れていく自分の音楽に小さな自己満足を覚えながらちゃちな小細工を考えていた。その間もずっと、もうずっと前から宮藤は戦っていた。
それを俺は今になってやっと知る。
俺は最初から一人ではなかった。
俺は、いつも、一人ではなかった。
「カンさん、俺たちは――俺もツモさんもあんたに守られなきゃ音楽の一つも作れないほどか弱くない。俺たちだってあんたを守れるんだ」
だから、宮藤一人が抱え込んでそんなに悔しげな顔をする必要はどこにもない。
そう、言えば。
俺たちの後ろで聞いてた日向が王冠の下僕は馬鹿しかいねえのかと嘆いた。
「リューヤサン、王冠がそういうとこだってわかってって株を買ったんじゃないのかい?」
「知るか。あのオッサンが買えっつったから買っただけだ」
「日向さん」
宮藤と向き合うのをやめ、日向に対峙する。
俺と俺の王冠を守ってくれた恩人に深く礼をした。神宮寺が手を叩く。七海、一之瀬、来栖――と拍手の輪が広がり会場全体に響き渡った。
日向が居心地悪そうに指先で頬をかき、屈託なく笑う。
「礼なら社長に言え。まぁ、俺もカンさんの音楽に惚れてる身だからな。王冠が消えるのは忍びないと思ってたし、今回ばっかりはあのオッサンに感謝してる」
そうまで言わしめる王冠の存在感、というのは改めて知って俺は宮藤の顔を食い入るように見つめた。宮藤が君たちあっての王冠だよ、と居心地悪そうに破顔する。
その不器用な笑顔を見ていると、どうしても確かめたいことが胸中に去来した。
「カンさん、俺、ずっとカンさんに訊きたいことがあったんだ」
「何? ユミちゃん」
ずっと、もうずっと、前のことだ。
宮藤が作る音楽と、その一連の音が作る世界に惚れ込んで俺は王冠の門戸を叩いた。この人の世界の一部でもいい、俺が引き継ぎたい、とまで思っていたかどうかは定かではないけれど、宮藤の世界の一隅になりたいと思った。そんな出会いからもう十年に少し足りないだけの月日が流れている。
その間、宮藤が自ら音楽を作っているのを見たのは最初の数年だけで、ここ最近は完全に俺と松本のフロントに徹している。
俺たちが宮藤にそれを強要したのか、それとも宮藤はもう作曲に興味がないのか。
ずっと気になっていた。
「カンさんはもう音楽を作らないのか?」
「君たちの風よけがもう必要ないなら、僕も音楽を作らないといけないねぇ」
でないと何の仕事もしない僕なんて干されちゃうなぁ。
ぼんやりと他意なくそう返答した宮藤に俺は彼の父性を嫌と言うほど見せつけられた。
俺たちを守っていたのは紛れもなく宮藤だ。
「そういう意味で言ったんじゃない」
わかっている。宮藤に守られてぬくぬくと俺たちは音楽にだけ没頭してきた。それでも容易く株を買われて取締役が一夜で交代するだけの規模の事務所しか構えられていない。
俺たちは決して売れっ子ではない。
それでも宮藤がいたから、王冠は王冠であることを許されてきた。
それを今更宮藤が明言しなくともわかる。
だから。
質問の仕方が悪かったのかと返す。
宮藤の表情が不意に真剣みを増した。
「ユミちゃん、僕の理想の音楽は君たちがいれば自動的に作られてくるんだ。僕はその中でこれだと思うものを売る。僕が最初から作ったりしなくても、この世にちゃんと存在するものをどうして作り直さないといけないのか、僕には理解出来ない」
返された言葉の持つ衝撃の大きさに、俺はしばし放心状態になった。誰が誰の理想になっただって。口の中で胸の内でその言葉を繰り返し、何度も何度も反芻する。
その言葉の意味を咀嚼出来た頃には俺の両の瞼は熱を持っていた。
視界がにじむ。
神宮寺がいつの間にか一之瀬をからかうのをやめ、俺の背後に立っていた。
「君さん。君さんはいつも自信がないって言うね。俺なんかってよく言うよね」
謙遜のつもりかもしれない。だけど君さん、オレの好きな君さんの曲を頭ごなしに否定されるオレの気持ちはいつになったら考えてくれるんだい?
神宮寺の両手が優しく俺の肩を叩く。
「わっ、私もユミさんの音楽は大好きです!」
「俺も俺も」
「岸田さん、あなたをこっそり慕っている人は多いんですよ?」
一之瀬のその声にST☆RISHだけではなく、未だ関わりの少ない、業界では後輩に当たるアーティストたちが我も我もと挙手をする。ぐるり、会場を見渡す。先輩にも何人か手を挙げているものがいた。その中に黒崎蘭丸の姿すらある。
「どう、して」
信じられないものを見た気持ちで息も絶え絶えに疑問の言葉を紡ぐ。俺より頭一つ分背が高い神宮寺がその高さで溜め息を吐いた。これでもまだ信じられないのかと呆れているようだった。
「ユミちゃん、それはきっと、もう世界の一隅に君がいるってことなんじゃないのかなぁ」
岸田歩の顔も名前も知らないけれど、岸田歩が作った音楽を知っている人が大勢いる。面識がなくても、俺のことを知っている人がいる。
その、奇跡的な巡りあわせを俺はずっと求めてきた。その、俺の理想が目の前に開示される。
俺は、名実ともに宮藤莞爾の音楽を受け継いだのだ。
日向がくしゃりと不器用な笑顔を浮かべる。俺は彼のこの表情が決して嫌いではない。寧ろ、彼がこうして笑うたび、俺はどこか励まされている感触を受ける。
「世界の一隅で満足されちゃたまったもんじゃねぇぜ。岸田、お前にはがっつり稼いでもらうんだからよ」
冗談とも本音とも取れる発言に、にじんでいた景色が精密さを取り戻す。
俺が目指していた一隅のその先の世界を日向は目指している。俺に、それだけの力があることを彼は微塵も疑っていなかった。
だから、敢えて言う。
「日向さんまで。俺はただの金づるですか」
「夢を売って生きてる奴らに現実を教えてやってるだけだ。岸田、王冠のお前なら知ってるだろ。金は何よりも大事だ」
何よりも、かどうかは定かではないが、この世界で生きる為には金が必要だ。シーケンサーを鳴らす電気も、事務所を構えるのも、一日に三度の食事も、全て金があるからこそ成り立っている。王冠の小さな事務所で、過分な贅沢をすることもなく、身の丈に合った生活をしていた俺たち王冠の下僕はそれをよく知っている。金の持つ有難味と危うさは嫌でも肌で感じた。それを無視しようとしていたのだから、俺は本物の馬鹿だ。
自嘲しながら、そうですねと日向に相槌を打つ。
日向の隣で宮藤が申し訳なさそうに瞼を伏せた。
「ま、新年早々しみったれた話も何だ。この話はこの辺でいいだろ」
「王冠はどうなるんですか」
「どうもしねぇよ。今まで通りだ」
王冠で作られた音楽の諸権利は王冠に帰属し、俺と松本は今までと同じだけの給与と賞与を受け取る。昇給も今まで通りだから、俺のフロントが宮藤からシャイニング事務所の専属マネージャーに変わることぐらいしか変化がない。
その、新任のマネージャーとは新年会が解散した後に顔合わせがあるらしい。
今は。
「おい、ユミ。セッションすっぞ」
黒崎がスティックを俺に向けて放る。彼の肩にはエレキベースが既にスタンバイしていた。寿がマラカスを取り出し、一音木がエレキギターを持ち出す。会場の奥では七海と聖川がキーボードに並んで座り、一之瀬がマイクの正面に立つ。
そして。
「君さん。行こう」
マネージャーからサックスを受け取った神宮寺が俺の肩を叩いた。俺のスタジオに置いてあったはずのドラムセットが待っている。第一線を退いた日向が珍しくトランペットを手にしていた。この顔触れで出来る音楽、を想定した俺の胸の内に温かいものが湧く。
ラージコンボだ。
いつの間に来たのか、松本が宮藤の隣で柔らかく微笑んでいる。俺はいつまで経っても彼からすれば出来の悪い弟だ。
「ツモさん、俺――」
「ユミ、行ってくればいい。気持ちのいいラージコンボ、期待してるぞ」
「ユミ、ちんたらしてんじゃねーよ。さっさと来い」
ドラムがいねーと始まらねーだろうが。黒崎は俺よりも五つ年下だが、この横柄な態度は出会った時から少しも変わっていない。業界では年齢よりも人気の方が力を持つ。横柄ながら人を惹きつけてやまない黒崎に態度を改めるように求めることは出来ないし、そうするつもりもない。俺もまた、黒崎の乱暴な優しさを好ましく思っていた。
「今行く」
スティックを握り直し、俄かにセッティングの整った舞台の一番後ろに駆け込む。ドラムはいつもバンドメンバーの背中を見ている。全員の音を聴きながら、それでも決して自分自身の音が乱れることがあってはならない。しゃん。軽くハイハットを叩いた。一之瀬の隣で神宮寺が屈託なく笑う。
「君さん、曲は?」
「『Welcome to UTA☆PURI world!!』ラージコンボで」
「ユミのくせにいい選曲だ」
揃った顔触れで一番楽しめる曲を選んだ。作曲者である七海が照れ笑いしながら、ありがとうございますと目礼する。
それを見届けて、俺はスティックを叩き合わせた。スネアを打つと同時に七海のピアノが始まる。
一之瀬の伸びやかな声がイントロに乗った。
そこから始まったラージコンボはアドリブに次ぐアドリブで、けれど、誰もが楽しんでいた。シャイニング事務所らしい、と言えばいいのだろうか。多彩で、そんな表現もあるのか、だなんて新しい発見の連続で、とびきり心地のいいセッションだった。
七海のピアノが終音を告げると会場に大きな歓声が湧いた。拍手と喝采の渦。その中心の一人になれる幸福が嬉しくて、でも同じぐらい切なかった。王冠は残る。けれど、もう、王冠は宮藤のものではない。俺がこれから王冠の下僕として受ける賞賛は王冠のものではなく、シャイニング事務所のものだ。
それだけが切ない。
宮藤と松本はセッションの途中で退席した。
その、最後の哀愁に俺を加えてくれない不義理と、気遣いを同時に受け取って、俺はドラムセットの前で静かに瞼を伏せた。
宮藤は去った。その意味がわからないほど愚昧ではない。
俺はもう「宮藤の弟子のユミちゃん」ではない。そんな肩書を持たなくてもいいのだと、二人が判断した。
だから。
俺は今日から一人前の王冠の下僕だ。
そのことを一人噛み締めていると神宮寺が戸惑いがちに俺の傍らにやってきた。ハイハットシンバル越しに見た彼は少し不安そうな顔をしている。
「君さん、よかったのかい?」
「いいも何も。俺は楽しかった」
胸の内に残る熱。耳の奥で響く拍手の音。今の今まで全力で走ってきた世界。
どれ一つとっても、結論は一つしかない。
シャイニング事務所のトップアイドル総出のラージコンボ。楽しくないはずがない。
だから、いいのだと言う。神宮寺はそれでも退かない。
「けど」
「神宮寺君、音楽、という漢字は知ってるか?」
「そこまで馬鹿じゃないさ。音を楽しむって書くんだろう?」
「今のセッション、楽しくなかったのか?」
その試すような問いに神宮寺は顔を手で覆った。
本物の馬鹿を見た。そんな顔が掌の下から覗いている。
「君さん、あんたは本物だよ」
この上ない馬鹿。大馬鹿も大馬鹿。本物の馬鹿を絵に描いたような馬鹿だ。
これほど一度に馬鹿を連呼されるのは生まれてこの方初めての経験だったけれど、それでも満更でもない感触がある。
「お褒めの言葉として受け取っておこう」
「君さん、それでも一つだけ忘れないでほしいんだ」
「何を?」
「君さんがカンさんの弟子だってこと」
忘れない。忘れられない。俺の音楽の中心にはいつも宮藤がいる。
俺が戯れにドラムを叩いたのは中学二年の秋のことだ。宮藤の作った16ビートに完全にK.O.された。俺もこういう音楽がやりたい。そんな夢を抱いて仲間を集めてバンドを始めた。
俺はまだ、宮藤の16ビートを忘れられない。
だから。
「当然じゃないか」
俺は宮藤の音楽を受け継いで、これから先も曲を作っていく。
宮藤の16ビートを超える日まで、その戦いはずっと続いていく。
そんな決意めいたものを眼に浮かべると神宮寺が不意に柔らかく微笑んだ。
「君さん」
「まだ何かあるのかい?」
「プリンスを飾る王冠になった君さんにお願いがあるんだ」
その言葉の先ならもう俺は知っているだろう。
その確かで不確かな感覚を何度も繰り返し感じながら、俺はドラムの前から腰を上げた。
岸田歩。三十二歳、独身。得意な楽器はドラムとキーボード。クラフトクリアクラウンズ所属、一般社員。ロックとジャズの両方を愛している。
そんな俺の音楽はもうあの人に届いただろうか。
もし、届いているのならそろそろ年賀状に返事をくれよ、だなんて拗ねた子供のように一人でへそを曲げて、それでも俺の明日はやってくる。
世界の一隅を照らし続ける音楽であれるように。
宮藤の志を俺の次の誰かに託せるように。
王冠の下僕はひたすらに音を紡ぎ続ける。その傍らに光り輝く王子がいてももう及び腰にはならないぞと決めて。
2014.01.11 up