Chi-On

Look Like a Shooting Star

悔恨と邂逅

 気が付けば一面の黒だった。天も地もない。ただ漆黒だけがそこにあった。
 生温いものが体を覆っている。絶えず動き回る生臭いその感触の正体が海水であると察するのにしばらくの時間が必要だった。つまり、俺は今、溺れている。そう認識した瞬間、急に窒息感が俺を襲う。空気を求め、口を開いた。ごぽり。音を立てて俺の口から呼気が溢れ出る。音が聞こえたような気がしたのは錯覚で、漆黒の中、影も形も見せずに呼気の塊は水面へと上昇していった。
 俺は死ぬのだろうか。
 そもそも俺とは誰なのだろうか。
 どうしてこんな果てのない闇の中、溺れているのだろうか。
 そんなことが茫洋と頭の中を巡る。後にこの現象を走馬灯と呼ぶのだと知るのだけれど、今の俺にはその兆しすらない。
 独特の臭気を帯びた液体が喉の奥まで流れ込む。
 どちらに行けば助かるのかもわからない。体がどちらかに流される気配もない。
 俺は死ぬのだろう。
 ならば今少し記憶を手繰っていても誤差でしかあるまい。
 そもそも俺は海など知らぬ山国の民だった。だが、巫女であり俺たちの部族の長である女性が巫術でもって神の宣託を下し、俺を含めた幾人かの男の名が指された。海の向こうに大国がある。その国を訪問し表敬しろと言うのが俺たちに課された任務だった。そうすれば俺たちの国は繁栄し、生き永らえると姫巫女様は言う。
 託宣が下ったのち、俺たちは大急ぎで舟を作り、見たこともない国へと向かう。けれど海は俺たち山の民が容易く手懐けられるほど柔ではなかった。間もなく秋がやってくるだろう夏の終わり、俺たちの舟は海に出た。昼間は陽の高さを、夜間は星の相を見て俺たちは進む。平穏な旅は七日と続かず、猛烈な雨と吹き荒ぶ風が俺たちを襲った。
 そして。
 大風が三日続いたその果てに、俺たちの乗った舟は腹を天に向けた。当然俺は身を投げ出され、大国のあるじへの供物は舟と共に大海に散じた。
 思い出した。
 そうだ、今はそれから幾日か経ったのだった。舟の残骸である木片を見つけ、それに身を寄せてただ流されるうちに何度か朝と夜とを繰り返した。故国から旅路を共にした仲間たちがどうなったのか、俺がこれからどうなるのか。重要なことは何もわからないまま、ただ流れに身を任せているばかりだったのだけれど、結局俺は衰弱して木片から手を離してしまった。身を支える力を失った俺はずるずると海の中に引きずり込まれる。
 浮かび上がることなど叶わず、ただ緩やかに落下していく。山国に育った俺は狭い川ぐらいしか水辺を知らない。泳ぐ術などに通じているわけもない。
 助かる道理がない。
 この大きな海の前に、俺たちに与えられた使命は過分だった。姫巫女様は随分と分別のないことを望まれたものだ。誰か生き残ったのなら彼女をお諫めしてほしい。そんなことを茫洋と考えて今に至る。呼気はもう残っていない。肺腑の奥まで海水に浸かった。俺の生はここで終わるのだ。夢も希望もない。漆黒というのはそういう意味なのだと理解する。瞼をゆっくりと閉じた。そうしてようやく、俺の両の眼は海の成分を鋭敏に感じた。何もかもが手遅れなのだ。馬鹿馬鹿しい。
 少しずつ冷たくなっていく末端の感覚に別れを告げながら、俺はゆっくりと意識を手放す。死ぬのならば苦しみなど長引かせる必要はない。
 そう、思っていたというのに何か柔らかいものが俺に触れた。そしてそれは温かく、ゆっくり俺を包み込んでいく。そろりと体が浮上する感覚があった。光が舞い降りてくる、と思った。俺の視界が白に染まる。
 眩いほどの白の中、俺は恐る恐る瞼を開いた。父の顔だ、と瞬間的に感じた。けれどそれは真実父の顔ではなかった。見知らぬ男とまだ幼いであろう娘の二人が俺を覗きこんでいる。誰だ、と問おうとして喉に焼けつくような痛みを覚えた。声が出ない。
 唇をのそりと動かす。二人の表情が綻んだ。聴いたこともない音が紡がれる。彼らが俺の身を案じていたことが感覚的に伝わった。そして、言葉が違うのだと本能的に察する。
 ここはどこなのだろう。



 漢室の土台が崩壊してから間もなく十年になる。蒼天已死。そういう言葉が流布するようになって十年だという言い方も出来た。何にせよ、もう十年も世が荒れている。混迷する世。だがこの徐州では大きな騒乱もなく、漢室が天の象徴であった頃と比べても、多少税が増え、穀物の収穫が幾ばくか減ったというだけの話だ。混乱の大きな長安や洛陽からは遠く離れている。
 世が移ろっているのだ、ということは皆、言葉の上でだけ理解していた。
 そんな束の間の安息の日に、俺は養父からの召喚を受けた。

孝徳、そなた速記の才があったな」

 孝徳、というのは俺の字だ。
 十年前、この徐州・東海の東岸を漂着している俺を見つけた漁民が拾い、珍しいものに大いに興味のある豪族――俺の養父だ――に引き合わされた。何の財貨も地位も持たない俺を捕まえて、着るもの、住まうところ、食うものは保証すると言うのだ。養父は相当な奇人なのだろう。お人よし、と言うには少し狡猾すぎるきらいがあったが、よく言えば抜け目がないということでもある。概ねしっかりとした価値観と判断力を持ち、詰まるところ、養父が求めているのは東海の向こうにどのような国があるのかを知っておきたい、ということだと理解する。俺は養父の希望を叶える為に言葉を教わった。
 話し言葉を覚えるのに五年、文字を覚えるのに更に三年かかった。
 だが、累計八年の歳月は決して無駄ではなかった。
 何の幸運かは判然としなかったけれど、俺には速記の才とほんの少し周囲より書体が整っているという才の二つが備わっている。その才を認めた養父は俺に名をくれた。その名は故国に戻ることを断念し、漢の土地で生きようと決めた俺には代えがたい宝になる。
 今まではその才を養父の為に使ってきた。官吏との会談がある時になど随行し、議事を記録する。口約束を書面化することで、養父は不利な状況に陥ることを免れてきた。養父は俺のこの才を存外高く評価しており、実子である義弟たちとそれほど違わない扱いをしてくれている。そのことを恩に思うことすらあれど、仇で返す道理はない。
 養父が俺の才を何ごとかに使いたいと思うのならばそれに従う。それが俺なりの孝行のつもりだった。

「陶謙殿にお仕えする気はないか」

 陶謙殿、というのは徐州刺史の名だ。この地方では最も権力を持っている男である。その陶謙殿に仕える、ということは養父がついに州の政に興味を持ったということなのだろう。先だっては義妹の一人が陶謙殿の腹心の元へ嫁いだ。内政や軍政で最も単純な手法が血縁で縛る、ということだった。俺が養父から教わった歴史の中でも繰り返し行われている。権力の中心に血族を固める。そうすればその政は概ね主導者の思うがままに動く。世の中と言うのはそういうものだ。
 それを理解しているからこそ、義妹は想い人には何も告げずに東海を去った。養父の目指しているものが私欲なのか高潔な理想なのかは未だ判じられないけれど、彼の望みを叶えたいという気持ちはある。
 だから。

「いつ発てばよろしいでしょうか」

 俺は養父の問いに反発らしい反発もせず、首肯した。答えを聞いた養父がぱっと顔を輝かせる。俺はこの人のこの表情が存外嫌いではない。いつもは理知として情愛に欠ける顔をしていることが多いのだけれど、小さな願いが叶う時、彼はいつもとても人間味に溢れる顔をする。幼い子どものようだ、と思ったのは何年前のことだろう。多分、俺は彼のこの表情を見る為だけに「理想の養子」を貫いているのではないか、だなんて馬鹿なことを時々考える。養父が親馬鹿なら俺は子馬鹿だ。

「陶謙殿はそなたが都合のよい時に伺えばお会いしてくださるそうだ」
「では明日にでも発ちましょう。義弟たちはこのことはもう知っているのですか」
「いや、そなたの答えを聞いてからと思っていた」

 全土の広さを考えれば、同じ徐州の中、刺史のいる下ヒとここ――東海は隣同士だから近い部類に入る。それでも倭国出身の俺からすれば十分に遠い。権力の頂点にいれば、いつかはまた同じ道を歩むことになるかもしれないが、それぞれに雄飛していくだろう義弟たちとは今生の別れになる可能性の方が高い。養父は今宵は宴にしようと言った。
 天高く晴れ渡り、美しい星空が中天を覆い尽くす夜だった。
 その翌日のことだ。
 俺の随行であることを理由に陶謙殿と会見しようという目論見を持った養父は旅路に同道した。義弟たちにしばしの別れを告げたけれど、本当に二度と見えることがないとは俺はまだ思ってもみなかった。
 何の変哲もない旅が始まる。常ならば下ヒまでは十日ほどの距離だ。金で手にした肩書だけの官位で養父が伝を使ってくれたので穏やかな旅だった。
 俺が知る陶謙殿の人物像は噂話の領域を出なかったけれど、養父が仕官を薦めるのだ。それなりの人物であろう。会見するのが楽しみだと思う気持ちが半分。残りの半分はこの先、俺自身の判断だけで世を生きていかなければならないという不安だった。
 東海にある屋敷を出て、三日目のことだ。
 昼を過ぎたころだっただろうか。養父と轡を並べて街道を西へ向かう道中、俄かに地平線が薄暗くなる。闇は少しずつ縁取りを伸ばし、中天にも届く勢いで立ち上って来た。
 それが騎兵の蹄鉄が大地を抉る土煙だと判じられる頃には、俺たちは既にその軍勢から逃れられる距離ではなかった。避けられぬ距離であるだけでも難儀であるのに、俺たちの前方を塞いだその軍勢は目に付くものを全て薙ぎ払っていく。人も馬も、犬や家畜、田畑か住居かの区別すらない。ただ、彼らの進行方向にあるというだけで全てが斬撃に晒される。
 逃げなければならない。ようやくのこと俺のとぼけた脳漿がその答えを導き出した頃には既に俺は養父に手綱を引かれ、乗馬が必死の体で駆け始めていた。

「養父上、お逃げください」

 俺を置いて、という部分は敢えて口にしなかった。飛ぶように過ぎ去っていく景色の中にその青は一等鮮やかに視界に焼き付く。「曹」の文字の旗。どんどん近くなる阿鼻叫喚。俺たちの視線の先に逃げまどう旅芸人や農民の姿。
 養父の馬より俺の馬の方が劣る。少しずつ養父の馬との間に距離が開いた。養父の馬だけなら暴虐から逃れられるかもしれない。それは、俺を見捨てれば、という大前提を満たすことを求めている。
 俺に馬術の才はない。よく訓練された騎兵を相手に疾駆するだけの技量はないということだ。勿論、剣を奪い、反撃をするだけの武術の腕もない。そもそも人を傷つけるだけの覚悟すらない。
 これでは戦乱の世を生きていける道理がない。それでも俺は生きている。多分、運がよかったのだ。だから天命の尽きた俺はここで死ぬ。養父はその運命まで共にする必要はない。あの日、俺を気まぐれに拾ったときと同じように見捨てればいい。
 そう、言っているのに。
 養父の馬は俺の馬の前方、一定の距離を保ったままそれ以上先には離れて行くことがない。養父が加減をしているのだ、とすぐに気付いた。

「養父上、何をなさっているのです」

 叶うのならば一刻も早く、この危機から逃れるべきだ。中途半端に誰かを庇いながら災厄を免れるほどこの状況は甘くない。どんな犠牲を払ってでも、誰を押し退けてでも前に進む気概がなくてはならない。
 幼い義弟たちが言葉遊びをしていたのを不意に思い出す。
 危機的状況で二人のうちどちらか一人しか助からない場面に遭遇したらどうするか。義弟たちは皆、自分ではない方を助けると答えた。義妹がそんな兄弟たちを笑う。そうは言ってもその場面になれば我が身が可愛くなるものだ。その遣り取りを聞いていた養父は志だけでも誰かの為の選択肢を望むと口にするのは大切なことだと義妹に説いた。
 義妹は面白くなさそうだったけれど、俺の養父というのはつまるところ、そういう人間なのだ。誰かが生きる為に己を犠牲にすることを厭わない。今も、そうだ。何の血のつながりもない、高々十年ほど面倒を見てやっただけの男を切り捨てられない。自分の為に死ねと言うことも出来ない。
 そういう、人なのだ。

孝徳、そなたは生き延びよ。生きて、そなたの国に戻るがいい。漢室の戦乱などそなたには関係のないことではないか」

 本来であれば、言葉が通じるようになれば直ちに俺に帰国の意があるかどうかを確かめ、可能な限りそれを支援しなければならなかった。それが人の道だと切実な顔をして養父が語る。そんな懺悔は聞きたくないと俺は顔を横に振った。なぜ今、その話をするのだ。俺は国に帰ることはあの日――舟の残骸から手を離し、漆黒の中に引きずり込まれたあの日に疾うに諦めている。俺の住まう国はこの漢だ。この国でなければならない。
 だから。

「私の戻る国などもう既にありませぬ。私はこの国の民として生きると決めたのです」
「ならば尚更だ。私のような老骨ではなく、そなたような若人が志を貫くのが道理と言うもの」

 私の夢は全てそなたに託した。振り返り束の間笑む養父の表情に偽りも誇張もなかった。そのまま養父は馬首を翻し、武運を祈ると残して俺の後方へと駆け出す。二人のうちどちらかしか助からない場面。自分ではない方を優先する志。養父は確かに持っていた。口先だけで善を説いた俺にはその真実がない。天命とは何だ。どうして俺が生き残る。俺は何も持っていない。養父の命を懸けてまで救うだけの価値が俺にあるのか。何一つとしてわからないけれど、俺が生き残る為に養父は馬首を翻した。多分、時間稼ぎだということなのだろう。
 だから。
 馬腹を強く蹴る。腰を上げて前かがみの体勢を取った。乗馬が力強く大地を駆ける。何があっても生き延びなければならない。それを乗馬も感じているのだろう。彼は一度も後ろを振り返らなかった。
 そうしてどれだけ駆けたことだろうか。後になってみればそれは高々一刻か長くても二刻程度のことだったのだけれど、そのときの俺には永遠にも近い感覚があった。
 乗馬の体力が限界に達し、どうと地に倒れ伏した。俺は硬い土の上へ投げ出される。背後の黒煙からはそれほど離れられていない。二人のうちどちらか一方しか助からない選択、ではなく二人とも滅びるしかない選択。そんな認識が脳裏をよぎる。
 もう諦めて命を投げ出してしまおうかとすら思った。
 それでも、鈍い痛みを覚える全身を叱咤し、両の足で駆け出す。
 死にたくない。こんなところで――故国から遠く離れ、俺が死んでも誰にもそれが伝わらない、そんなところで死にたくない。
 漢を故国とすると決めた、と養父に言った。養父の為になら命を賭けてもいいと思ったことすらある。言葉の上では俺は実によく出来た養子だった。
 けれど。
 でも。
 死にたくはないのだ。故国は倭国で、俺の家族は海の向こうにしかいない。義理の家族に親愛を覚えないわけではないけれど、それでも彼らは俺の血族ではない。所詮他人だ。俺は所詮、他人の域を超えられなかった。
 養父はそれを察していたのだろうか。俺のこの醜い偽善を知って、それでも彼の命を俺の為に使ってくれたのだろうか。

『養父上!』

 十年間封じ込めてきた倭の言葉が口から零れる。流れるように紡ぐ大陸の言葉とは違い、俺の母語は四角張っている。一音一音が明瞭な俺の発音を義兄弟たちは角があると言った。その感想に埋められない距離感を感じたから、俺はずっと、もうずっと長い間、この言葉を自分の中に封じてきた。
 その、母語が口から飛び出す。
 養父上。あなたが俺に託したものとは何だ。問いたい。全身の筋肉が悲鳴を上げている。止まってしまえば楽になる。漆黒の気配を背なに感じるのは、大海に溺れたあの日以来だ。俺の人生は十年間、安寧だった。その安寧をくれたのは養父で、その彼に今、俺は命を託された。

『養父上! 俺は生きとうございます』

 生きたい。死にたくない。無限に続く漆黒など二度と邂逅したくない。生き永らえたところで俺に何が出来るでもない。それでもただ生きたい。それだけだった。
 現実は無慈悲に俺に黒を突き付ける。
 全力疾走は長くは続かない。しばらく走ると息が上がった。もうこれで終いだ。そう、思ったのに、その声は聞こえてしまった。

明殿のご子息、殿とお見受けしたのだけれど」

 違っていたかな。柔らかい物腰で、けれど否定を許さない強さを伴ってその問いは紡がれた。音源を探すと農家と農家の間に一人の男が立っている。鮮烈な青。この場の緊迫には似つかわしくない風情と品格。その憂いを帯びた眼差しに俺は思わず足を止めた。

「貴殿は?」
「質問をしているのは私の方、だよ」

 取り敢えず殿に間違いがないのなら、こちらへ。誘うように男は農家の間を進む。俺が彼の背に続いているかどうかなど確かめもしない。
 この男の正体が何者なのか。言葉の裏に何が隠されているのか。どうして俺の名を知っているのか。尋ねるべきことが脳内で氾濫する。
 その全てを押し留めたのは彼の風格だ。
 男の言葉に従えば俺の命は安堵する。直感的にそう思った。
 強張る足を一歩ずつ前に進める。俺に背を向けた男の口元が緩やかに釣り上がっていたことはもうしばらく知る由もない。
 少し歩くと男が乗ってきたであろう白馬が木に繋がれていた。
 土地勘のない俺にはどこをどう歩いたのかは把握出来ていない。それでも、阿鼻叫喚が遠のき安息が訪れている。目の前の男の背で揺れる青味がかった背覆いが何とはなしに彼の所属を物語る。
 多分、この男はあの青――「曹」の旗の軍勢と何か関係があるのだろう。
 結局、俺の命は終末から少し遠ざかっただけに過ぎない。男が俺に何か用件がある、その一時の間だけの延命だ。用件が済めば俺はこの男に殺されるのだろう。口封じだ、なんて子供じみた謀略に触れた。
 俺の浅はかな思案を察したのだろうか。白馬の傍に立ち、男が不意に振り返る。
 審判は間もなく下る。
 彼が俺の命の終焉に求めるのものは何だ。身構える俺に困った顔で、男は実に柔らかく微笑む。

「さて、殿」

 今少し時間は大丈夫かな。
 この逼迫した状況で紡がれるべき問いとは思えない言葉が返る。人好きのする柔和な笑み。けれど同時に人を食ったかのような尊大さも持ち合わせている。自らの才を自負する強かさもあった。
 「曹」の旗を掲げる青を基調とした軍勢、と言えば豫州・曹操の名が思い浮かぶ。昨年のことだ。陶謙殿を威嚇するかのように急に挙兵し、徐州の西部を襲った。けれど、と同時に思う。曹操はまだ豫州の内政に手がかかりきりで徐州に本格的に進軍する頃合いではない。俺の認識ではそういうことになっている。養父が人脈を使って得たその情報は古くてもひと月前より手前だと聞いている。ひと月で内政が急激に整うことなどあり得ない。況してあれだけの騎兵を揃えて前線に投入するのはもっと先の話だろう。
 だから。
 男が俺の命を一時、必要とするには何か理由がある。曹操の軍勢は規律に厳しい、という評もある。必要最低限の殺戮で最大限の軍功を。そんな気風だと聞いたこともある。

「私に何の用件があると言うのだ」

 「曹」の旗が偽りか。男の纏う青が偽りか。俺の持つ報せが偽りか。
 いずれにせよ俺の目の前には何らかの偽りがある。独力でその誤りを見定めるだけの眼力はなく、けれど萎縮し、全てを委ねることも俺の矜持が許さない。徐州東海は家の一門に名を連ねている以上、俺にはこの場で果てる覚悟すら求められている。
 生きたい。
 生き恥を晒すぐらいならば死にたい。
 その二つの気持ちの間で揺れる。
 目の前で対峙した男はその葛藤を知っているのだろうか。
 挑発的に微笑む。その笑みがなぜだか心に沁みた。

殿。そのように怖い顔をする必要はないよ」

 私はあなたを迎えに来たのだから。
 思いもかけない言葉が紡がれ、俺の思考が一瞬停止する。
 迎えに来た? 誰が誰を? そもそも彼が何者で、俺がどこに招かれるかも判然としない。けれどその刹那、俺の脳裏に曹操の文字が明瞭に浮かぶ。
 そうだ。
 曹操は才を欲している。才があれば仇敵であろうとも構わない。曹操に害をなしたかどうかすら問わない。曹操はただ才を欲している。その様を巷間は「唯才」と評し、認めるとともに軽蔑した。

「貴殿の名をまだ聞いていないのだが」
「これは失礼したね。私は曹操殿の為に謀略を献じている者だ」

 名は郭奉孝。
 そう告げられて俺の両の眼はこれでもかというぐらいに開かれた。「郭奉孝」――郭嘉の名は遠く徐州東海にも聞こえている。稀代の軍略家で策謀に長ける。内政の才には乏しいが、曹操からの信頼は厚い。袁紹と曹操の両方に面会し、その後に曹操を選んだ。先の見えている男だ。天才軍師、そういう評判も聞いたことがある。
 その、郭嘉が俺に何の用だ。
 訝しさに俺の眉間に皺が寄った。郭嘉が笑う。

「そのように怖い顔をする必要はない、と言ったのが聞こえなかったかな? 私はあなたを害するつもりはないのだけれど」

 その証拠に私は諸手を空けて来たのだけれど、あなたには伝わらないかい。
 あなたの才が私には必要だ。
 だから、そんなに身構える必要はない。郭嘉は困ったように笑いながら俺との間にあった距離を一歩縮めた。
 反射的に俺は後ろに退く。曹操の軍師が俺を欲している。その言葉には謀略以外の何ものも感じられない。俺はこの通り、単細胞で直情的な人間だからそういった駆け引きに向かないのは自身で最もよく理解している。
 それに。
 俺の才は養父とひいては彼の野望の礎である陶謙殿の為に使うと決めた。三日前のことだ。たった三日。されど三日。先んじた志を変えるだけの正当な理由が俺にはない。陶謙殿は今もご存命で俺の謁見を待っている。養父は今しがた俺の命と引き換えに散った。遺志を継ぐのは子として当然のことだ。
 だから。

「曹操の軍師と慣れ合うつもりはない」

 俺は更にもう一歩退いた。
 この場を逃れなくてはならない。曹操の軍師の武略がどれほどのものかはわからないが命と引き換えにしても志を守らなければならない。それが養父への孝行だ。
 なのに。
 郭嘉は薄く笑う。先ほどまでの柔和な雰囲気は消え冴え冴えとした印象を与える。笑みというのは人に恐怖を与えられるのだと知った。
 私から逃げられるとでも思っているのかい。
 冷たい笑みが言葉よりも雄弁に語る。逃げ場を探すか。考えて自身ですぐに打ち消す。この男の眼差しは暗く、俺を殺してでもこの場に繋ぎとめるつもりであることは明白だった。死にたくはない。けれど郭嘉に従い、生き永らえるより、今この場で死んだ方がましだ、という直感を覚えた。郭嘉が俺に何を求めているのかは判然としなかったが、多分軍略家である彼と関係のあることなのだろう。俺の才を戦の為に使う。それ以外の解がない。
 曹操の駒になると言うのか。この俺が。陶謙殿に出仕すると決めて東海を出でた。その志を果たすことなく俺は無様に生き恥を晒すのか。

「私に軍略の才はない」
「それが何だと言うのだい? 私はあなたにそんなことを求めているのではない」
「では私などに何の用があると言うのだ」
「あなたは遠く倭国から来られたとお聞きしている。私たちとは違う美的感覚をお持ちなのだろう?」

 あなたの書画の才は独特で味がある。
 留め、跳ね、払い。どれをとっても俺の書く文字は義弟たちのそれとは同じにならなかった。俺の故国には文字などない。この国で初めて文字を知った。手本となったのはどれもこの国の人間だったのに、俺の文字は異色を放つ。
 それに一人気を揉んでいた俺を気遣って養父がよく言った。
 孝徳の書画の才は独特で味がある。このような文字を書くものは漢でも多くないだろう。
 その言葉が俺から養父を奪ったであろう曹操の手の者から聞こえて俺は反射的に顔を覆った。
 現実はいつも怜悧で残酷だ。俺は才あるゆえに命を永らえた。ただそれだけのことだけれど、生と死は海よりも山よりも遠い。俺が再び養父に見える可能性、というのを求めようとして所詮浜辺に落とした一粒の砂を探すに等しいことを知る。
 絶望の二文字に脳漿を埋められた俺に留めを差すかのように郭嘉は殊更明るく言った。

殿、私はあなたのもう一つの才も求めているよ」

 人並み外れた速記力。その才を私は欲している。あなたには是非私の書記官になっていただきたいのだ。

「寝食に困ることはないとお約束しよう。俸禄もはずむ。あなたが望むのなら兵法を基礎から説いてもいい。私の軍略をあなたの才で書き留めていただけるのなら私は私の全てであなたの望みを叶えると約束するよ」

 では今すぐ養父と引き合わせてほしい。死者ではなく、生きている養父と。
 思わずそう願いそうになって慌てて口を噤んだ。叶わない望みと叶う望みの別ぐらいは付く。
 養父が言うには俺のこの速記の才は故国で姫巫女様の託宣を書き留める為に培われたものらしい。長々とした切れ目のない口上を一言一句違わずに記憶する。俺の故国には文字はない。覚え損ねればその年の政は路頭に迷う。だからその意味は考えない。ただ記憶した内容を姫巫女様の求めに応じて受け答えする。ただ、それだけの才だった。

「こんなつまらない才一つの為に養父上は命を散らしたのか」
「つまらないことはないよ、殿。私はあなたのその才が陶謙の手に渡る前にこうしてお会い出来て光栄に思っている」

 私にしてみれば明殿のお命と引き換えにでもあなたとお会い出来たことを感謝したいぐらいだ。父上を失ったぐらいで復讐劇を演じようという曹操殿の謀略は過ぎたと思っていたけれど、存外悪くもないかもしれない。
 そんなことを一人で納得したように郭嘉が語る。

「曹操の父がどうかしたのか」
「おや、知らないのかい? 曹嵩殿は先日徐州内で賊によって命を落とされたのだよ」

 その賊徒を陶謙が突き出さないことに焦れた報復で徐州を西部から全土に渡って略奪している。これは表向きその忠孝による復讐劇という名目だったけれど、本当は豫州の力を陶謙に――あるいはその背後にいるだろう割拠する群雄たちに見せつける側面を持っているのだ。そう仄めかされて俺は瞑目した。顔を覆っていた腕を下ろし、郭嘉と対峙する。

「ではこれは」
「察しの通り、ただの茶番だ」
「ならば尚のこと私は貴殿に仕えることなど出来ない」
「そう言うだろうと思っていたよ。それぐらいのことを言えないような男では私の配下に迎える意味がない」
「斬るのか」
「斬られて終わりにしたい、という顔をしているよ、殿」

 けれど。
 勿体ぶって郭嘉は含み笑いをする。

「私はあなたの才を見出した。曹操幕下では見出した才を磨く律はあっても見過ごすことは許されていない。だから」

 あなたには是が非でも私の元に降ってもらう。
 強引で率直で不条理で自己中心的な物言いに俺は絶句した。風聞で知った曹操というのも概ねそれと変わりない。群雄がひしめき合う天下で覇を唱えられると誰よりも強く確信している。その強かさを顕現する郭嘉の態度に反発心を覚える半面、どこか彼の魅力に惹かれ始めていた。

「力づくがお好みかい? それとも論破される方がいいかな?」

 何にせよ楽しませてもらおうか。
 一層不敵に郭嘉の表情が歪む。無手で来たと言った割には不穏当な笑みだ。天下太平の為に覇を唱える、とこの時代誰もが言う。
 けれど。
 郭嘉が真に欲しているのはそんな平坦なものではないような気がした。暗い笑みの向こう、彼の瞳が爛々と輝いている。敵将と対峙し、軍略を巡らせる刹那だけ彼は生きている。そんな推察が湧いた。打ち消すのは容易かったけれど敢えてそうしない。闘争を何よりも怖れ、身の終末を疎んじる俺とは対照的な強さに純粋に惹かれた。その強さが俺にも備わっていれば俺は養父を失わずに済んだのではないだろうか。この男と道を共にすれば、俺にもその強さが身に付くのではないだろうか。
 馬鹿馬鹿しいことを幾つか考えて流す。
 その間にも郭嘉は彼と俺の間にあった距離を埋めていた。

「私を前に考え事、とは随分と甘く見られたものだね」

 軍師に荒事は出来ないと高を括っているのかな。
 言って拳が俺の顔面を襲う。急所を狙うのは非道だ、なんていう概念は彼の中にないらしい。慌てて首を捻り直撃を免れた。次の拳は鳩尾を目がけて真っ直ぐ突き上げられる。俺に武術の心得はない。胸骨の合流地点を強か殴られて思わず息を吐く。鈍い鉄の味が口の中で広がった。

「軍師の拳も中々味があるだろう?」

 無手で来たと言った通り、その後も攻撃は体術ばかりだった。それでも運動能力に欠如した俺がそれらを防ぐことは叶わず、一方的に殴られ続ける。このまま郭嘉の暴力を受けていたらそのうち俺は死ぬではないだろうか。そうなれば俺は志を失わずに済む。
 そう思うと案外その結末も悪くはない気がした。
 不意に口角が吊り上がる。仕官を求められた男に拒絶を押し通して命を落とす。養父がどこかで見ていたら褒めこそしないだろうけれど、満足そうな顔をするだろう。
 これは予感ではない。確信だ。
 だから、俺は絶え間ない痛みの中穏やかに笑う。
 郭嘉が手を止めた。

「つまらない。全くもってつまらないよ、殿」

 どうしてあなたは私に反撃をしようともしないで暴力を受け入れているのかな。
 そんな藁人形を痛めつけるような真似をしても何も満たされない。
 憤然と郭嘉が胸を反る。
 次々と打ち込まれていた拳が止まった。腕を組んで思案する風の郭嘉が蹲った俺を見下している。

「満たされないのならばさっさと諦めて次を探すがいい」
「次などいないよ。私はあなたを副官に迎えると決めたのだからね」
「勝手なことを。私はその求めに応じた覚えはない」
殿、今のあなたはとてもいい顔をしている」

 やはりあなたは私の目に適った方だ。平穏と脆弱を装っているけれど、その実誰よりも強かで腹が座っている。
 郭嘉がそんな風に俺を表し、無邪気に笑った。そのとても人間じみていて純粋な笑みが俺の胸を貫く。養父の面影が見えた。この男のあるじが俺から養父を奪ったと言うのに、どうしてだかとてつもない親近感を覚える。
 俺の戸惑いには気づいていないのか、敢えて流しているのか、判然としないけれど郭嘉は非常に満足げに笑い、俺の両肩を強く叩く。

「あなたは多分『志』というものを誰よりも強く感じているのではないかな?」

 死にゆくものが残した心。あなたが守るべき領分。己という偽りがたい真実。
 その全てがあなたの中にあるのだろう。
 その言葉がまるで正鵠を射たように俺の内側へと入りこむ。

「あなたはあなたの父君の志を受け継いだと思っている。徐州を守るのもいい。陶謙の為に命を無駄に使うのもいっこうに構わない。けれど、殿。曹孟徳の覇道もまた一つの志であることを認めてもらえないだろうか」

 鈍い鉄の味が広がる口の中に新鮮な空気が入り込む。その呼気が肺腑を巡り、脳髄を伝って俺の網膜の後ろの風景を鮮明にする。
 覇道など自覚したことはない。そんな高尚なものが俺の中に存しているとは考えたことすらない。ただ、養父の思いを助けたかった。俺はそうして生きて行こうと思っていた。

殿。私は常々思っている。強く真っ直ぐな自負を誇るものは多い。けれど、その実、強い自負は容易く他者の前で折れる。挫折をする、と言い換えても差し支えはないだろう」

 けれど、本当の志を折ることが出来るものなどいない。

「あなたはそれをお持ちのはずだ」

 どんな困難にも負けず、現実がどれほど汚泥にまみれていても受け入れ、そしてもう一度その足で立って歩き始められる。あなたの歩みを止められるものなどこの世にはないだろう。あなたはそういう「志」をお持ちだ。
 どれだけ挫折しても構わない。誰に侮られようとも関係がない。
 ただ、あなたが歩く道だけがあなたの眼前に照らされている。

「そうではないのかな?」

 そして私はそんなあなたと共に覇道を歩みたい。
 だから。

殿。言葉を変えよう。私はあなたに仕えていただきたいのではない。あなたと共に未来を見たいのだよ」

 ただそれだけの言葉が強く胸を打つ。鼓動が早鐘のように鳴る。軍師の言葉など真に受けるものではない。百の言葉を弄し、他者を欺き、千の態度でもって人を動かす。その声色に騙されてはいけない。
 わかっている。
 わかっている。これはただの甘言で騙されて痛い目を見るのは俺自身だ。現実を見ろ。俺の才が郭嘉の言うだけの才ではないことは明白だ。曹操は豫州の次に徐州を狙っている。そのときに陶謙殿に力があっては困る。だからどれだけ微弱でも困難となりうるものを除こうとしている。ただそれだけのことではないか。

「今更、甘い言葉など俺には通用しない」

 現実を受け入れ、過大評価を切り捨てる。懸命な判断だ。自分自身でそう思う。
 なのに。

「ではどうしてあなたは今、泣いているのかな?」

 涙が両頬の上を滑り落ちて行く。才を認められた歓喜と、それを自らで打ち消す屈辱。それから、多分。俺の本質が見抜かれているのにそれに応えられない悔しさ。
 それらがないまぜになって俺の中で渦巻いている。
 この国で言葉を覚えて以来、使ってきた「私」という一人称ではなく、故国で使っていた「俺」という言葉が口を突いて出たことすら気付かない。

「答えはもう出ているようだね」
「何を」
「あなたの返事は急いでいないよ、殿。あの騎兵はもうすぐ引き上げる。あなたはその後に残った光景を見て、結局私のところへ来るだろう」

 これは推測ではないよ。確定した未来だ。
 だから。

「私と曹操殿の覇道――志を見て、よく考えてほしい。私は許にいるからいつでも来るといい。あなたの来訪を受け入れる準備をしておくよ」

 言い残して郭嘉はひらりと身を翻し馬上の人となる。その背はまるで風に吹かれるように瞬く間に俺の視界から消え、そして屈辱と後悔だけが残った。
 その冬、徐州には大きな傷跡が残ったけれど、結局曹操が徐州の覇権を得るには至っていない。
2013.04.22 up