Chi-On

Look Like a Shooting Star

惰弱と精強

 郭嘉が俺を一人置き去りにして消えた農村は下ヒからそう遠くはなかったらしい。黒煙の消えた地平線に向けてゆっくり歩いていると二日ほどで城郭が見えた。荷駄を失い、身銭以外を失い、庇護者を失った俺の旅が順調であることなど端から期待していない。
 それでも、尚つらいと思う旅だった。
 村落のあったであろう場所には黒ずんだ染みがところ構わず飛び散っていたし、それを追うと山のように積み上げられた屍体が嫌でも目に入る。まだ冬であったから汚臭はさほどでもなかったけれど、それでも空気は淀んでいた。
 その全てが曹操の怨讐の産物なのだ。徐州はそれまで穏やかだった。徐州に惨劇を齎したのは曹操だ。曹操の軍師などにたぶらかされ、俺は命を拾ったがあのとき馬首を翻した養父への恩義は忘れていない。忠孝、の二文字が脳裏で明滅する。その概念を盲目的に信ずることが出来ない程度には郭嘉が残して行った「志」という言葉が俺の中で小波立っていた。
 本当の志を折ることが出来るものなどこの世にはいない。
 俺にその本物が備わっている、という妄想にしばし浸る。もしそうなら。俺にそれだけの天分があるなら。養父が遠く望んだ太平の世が手に入るだろうか。
 陶謙殿の武将としての器は決して小さくはない。ただ彼は判断を誤った。豫州の曹操を軽んじ、自らの領内を荒らされた。荒らされたという次元ではない。徐州は大きな傷を負い、覇道から大きく後退した。陶謙殿が助力を請うたのは徐州内で流浪していた劉備で、善後策としてはまずまずの判断力だと言えるだろう。
 郭嘉と別れてから四日目に下ヒ城の中心部に到着した。俺と同じく九死に一生を得たものが徐々に集まりつつある中に混じって俺は陶謙殿がどうされるのかを黙って見ていた。
 俺に軍略の才はない。民政の才もない。それでも十年、東海の政の一端を見てきた。養父の判断は善政だった、と俺は思っているが今となってはそれも大きな意味を持たない。養父と生きて見えることはもう二度とないだろうし、東海は戦禍に見舞われた。民の中にはずっと長い間遺恨が残るだろう。そこまでわかっていて、俺は今までの平穏と眼前にある惨状を見比べた。
 曹操の徐州侵攻がその力を天下に知らしめることなら、それは十分に効力を発揮した。陶謙殿は完全に混乱し、萎縮している。今更慌てて曹嵩を殺めた賊徒を探しだし、曹操に首を届けた、とも聞く。けれど、その行為に意味はない。曹操は父の仇を討つ為に兵を挙げたのではなかった。当然曹操が仇敵の首などで態度を軟化させることもない。劉備を頼みとしているが、劉備軍は六千だ。五万の軍勢を率いる曹操の前では風前の灯火にもならない。陶謙殿は恐らく劉備軍を楯の代わりに使うつもりだけれど、心もとない現状には何の変化もない。
 要するに、陶謙殿は曹操に一杯食わされたのだ。
 天下を争う舞台で一歩後退した。曹操は一歩進んだ。二者の間に三歩の距離が出来た。その差を再び埋める為に必要な才覚、というのを陶謙殿がお持ちだろうか。多分、彼にはその器はない。徐州内でその才を持っている可能性があるのは劉備ぐらいのものだろう。流浪してはいるが、彼らの「志」は強くしなやかだ。仁政を謳っている辺り、俺の興味を強く引いた。陶謙殿を通じて劉備に仕えようか、と一瞬考える。そしてすぐに打ち消す。
 そんなことを続けてとうとう十日が経った。
 下ヒの城内には曹操討つべしという怨嗟が渦巻いている。その流れに身を任せればよかったろうに、俺は曹操に会ってみようか、という気になった。
 一瞬で決めた仕官を十日も迷わせる郭嘉という男にもう一度会ってみたい。その郭嘉が策を献じる志がどんなものか、それもこの目で見てみたかった。
 不忠だ、という感想が胸中に満ちる。
 それでも。
 天下に覇を唱える志と向き合ってみたい。純粋にそう思った。この国に流れてきてから、そんな尊大なことを考えるのは初めてのことで俺も随分偉くなったものだと感心する。それと同時にそれだけ俺の目に世界が見えているのだと気付く。俺の氏素性を知るもののいないこの国で死にたくはないと思った。いつか故国に戻る。それまでの仮宿だと思っていた。その仮宿の為に身命を賭そうとしている。馬鹿な話だ。なのに少しも笑えなかった。俺は大真面目にこの国の存亡を見届けたいと思っている。
 だから。
 殆ど流民と大差ない風体で俺は豫州・許へと向けて歩き出した。
 もうしばらく俺の行くあてのない旅が続く。
 許昌にある郭嘉の屋敷というのは思っていたよりも随分小さなものだった。東海の養父の屋敷よりもさらに小さい。この場合は養父の屋敷が豊かだったと思うのが普通なのだろうけれど、「名声の割に」という先入観が俺を阻む。開け放たれていた門扉をくぐる。質素な屋敷に見合い、人の気配も薄い。家人も少ないのだろうか。そんなことを考えながら、不躾であることを承知の上で敷地内を徘徊する。前庭を通り表口だと思う場所で人を呼んだ。当然のように答えは返らない。

「どなたかおられないのか」

 薄暗い邸内を見つめ、しばしの時間を過ごす。湿った土の匂いだけがする。生活感のない屋敷だ、と思った。
 表口で立ったまま、というわけにもいかず、案内がないまま屋敷の中を更に徘徊する。裏庭に出た。つがいの鶏がいたが鳴きもせず飛びもせずただ黙って俺を見たかと思えば、土をつついている。郭嘉と鶏の組み合わせが意外だけれどそれほど違和感はない。ただ、郭嘉の鶏らしい、というか浮世離れした鶏だった。
 傍らに寄り腰を下ろす。視線を鶏の高さに合わせ小さく呼びかける。当然反応は返らない。
 見知らぬ他人が彼らの領分を侵しているだろうに何の反応もない。まるで俺が彼らを害することなど出来ないと確信しているかのようで、正直なところ少し面白くない。いや、多分本当はもっとつまらないことで俺はへそを曲げているのだ。
 あの日。俺を戦禍から一時的に救った郭嘉は「いつでも許で待っている」と言った。だのに彼は今俺の目の前に姿を現さない。所詮軍師の甘言はただの餌に過ぎなかったのだろう。いつでも待っている、だなんて無理だ。郭嘉といえど人間で、俺の行動を全て把握することなど出来ない。そういう、ことなのだ。
 だから。
 現実を早く知ることが出来てよかった。俺はやはり陶謙殿にお仕えするべきなのだ。目の前に落ちていた籾を拾う。鶏が食べ終わった後らしく、中に米はなかった。身命を賭す志なんてものも最初からなかった。そんなものはただの憧憬だ。
 そう、思い定め立ち上がる。
 今来た道を引き返そうと振り返った。
 その視界に。

殿、私に会いに来たのではないのかな?」

 その男は十日前と寸分違わぬ不敵さを纏い、笑む。郭奉孝ー―郭嘉、つまりはこの屋敷のあるじだ。先日見えたときも典雅さと機能性とを併せ持った不思議な衣を着ていたけれど、今日のそれは更に優雅さを増している。白と青の対比がよく似合う男だ。清廉と混濁とを矛盾なく孕む。その深淵の傍で背筋を正し、凛と前を見ている。左手に持たれた籠の中に野菜が収まっていても絵になる男だ。

「もうお帰りかい?」

 籠を小脇に抱え、郭嘉が俺との間にあった距離を一歩分埋める。籠の中がよく見えた。菜物と根菜と幾ばくかの果実、それから笹の葉の小さな包み――恐らくは肉の類だろう――が入っている。それが今晩の夕食になるのであろうことは疑いもない。量は丁度二人分、といったところだ。多分、彼と俺の二人分。
 そこまでを一拍で理解する。
 それでも敢えて言った。

「どなたもおられぬのでは何にもなるまい」

 家人の一人ぐらい置いておけ、と言外に含ませる。郭嘉はその嫌味を笑って受け流した。

「では私が戻ったのだからご用は果たせるだろう」
「市へ行っておられたのか」

 そんなことを曹操軍の軍師が自らするものではない、とも含ませた。東海の一豪族の養子である俺ですら市へ食料を買いに行ったことなどない。市に行くのは専ら趣向品や贅沢品を探す為だ。屋敷には家人がいて、彼らが衣食住の手配をする。そういう役割をきちんと分担してこそ世の中が上手く回る。少なくとも俺はそう認識していた。
 だのに郭嘉ともあろう男の屋敷に家人がいない。屋敷のあるじが手ずから家事をこなしている、というのは滑稽に思えた。
 差別的な思想をしている。そのことは誰かに指摘されるまでもなく理解している。それでも、「世の中」という大きな流れに逆らう理由を見出せなかったから俺は露骨に悪感情を表情に載せた。郭嘉が苦笑する。

「いつでもあなたを待つ、と言ったのは私だったね。不在を詫びよう。ただ」
「ただ?」
「そろそろあなたが来る刻限だとは思ったのだけれど、土産の品を悩んでいるうちに少し遅くなってしまった。殿は美酒と美味はどちらをご所望かな」
「どちらも人並みに嗜むが」
「そう仰ると思ったからどちらも探してきたよ」

 言っている意味がわからない。
 俺の来る刻限? 俺の趣向?
 十日前にたった一度だけ会っただけの男の心を読んだとでも言うのだろうか。
 軍師だから。稀代の天才だから。郭嘉だから。
 俺の中で問いと答えが渦を巻く。
 それでも一つだけ確かなことがある。
 俺はこの場を辞去する名分を未来永劫失ったのだ。
 それがどういう意味なのかわからぬほど俺も愚昧ではない。「志」という言葉に惹かれてここまで来た。その「志」に触れる寸前で踵を返そうとしたのに引き留められた。俺の心は多分もう「志」という言葉で溢れかえっている。

殿。私に会いに来られたのだろう?」

 いつまでも裏庭で立ち話、というのも無粋だ。言って郭嘉が背を翻す。付いて来い、と言われているのだとすぐに理解した。白衣の背中、腰の辺りに郭嘉に似て繊細そうな酒瓶がくくり付けられているのが視界に映る。美酒と美味。天才というのは万事が万事、何ごとも恙なくこなすのか、だなんてぼんやりと思う。郭嘉の背が少し遠のいた。気付けば俺の両脚は勝手に前進を始めている。
 既に俺は郭嘉の術中だ。
 だから。
 足掻いても逆らっても無駄だ。郭嘉は言った。もうそろそろあなたが来る刻限、だと。俺には知る由もないが、郭嘉には俺の行動や思考が手に取るように見えているのだ。逃げられる、まだ間に合う、だなんて望みの薄いことを考えない程度には俺は齢を重ねている。どうせ逃れられないのなら。まずは俺の胸の内を焦がす「志」と正面から向き合ってみたい。そんなことを考えながら薄暗い邸内に入った。



 曹操、というのは治世の能吏、乱世の奸雄と称された男だ。
 漢王室に仕える宦官の末裔として生まれ、幼い頃より政のすぐ傍で育ってきた。政という正体のないものを誰よりもよく知っている代わりに、宦官の孫、と謗られることも少なくはなかっただろう。
 曹操の幼馴染に家柄のいい袁紹という男がおり、世間では彼の方が高く評価されている。漢が終わるか終わらないかの瀬戸際でそれでもなお官位は大きな力を持っていた。四世三公と言えばそれだけで世間はひれ伏す。
 例えば、それは董卓が帝を使い暴虐の限りを尽くしたことからも窺えるだろう。董卓は権威、というのは振るう人間に大きく左右されるものだということを民の中に植え付けた。邪なものが権威を振りかざせば世は乱れる。それでも民には権威を無視することは出来ない。だから権威――今の時代で言えば幼き帝――を得たものが勝つのだ。
 正しさは関係がない。強さだけが全てだ。
 曹操は実によくそれを弁えている。曹操を動かすのはいつでも感情ではない。利だ。理すら曹操の前では意味を成さない。袁紹はこの乱世で誰よりも広大な領地と精強な兵力を誇るが名声に固執している。天下に覇を唱えようとしているが志などない。ただ名声のみを欲している。それでもこの国で最も覇者に近いのは袁紹だ。
 郭嘉はその袁紹と曹操の両者に会見し、その後曹操に仕えることを選んだ。世間はそれを愚かな判断だと思っている。曹操など覇を競う舞台にようやくのこと顔を出しただけの成り上がりだ。
 郭嘉自身、そういう評価を得ているというのは承知しているのだろう。非常に手際よく幾つかの料理を仕上げ、俺の膳として出しながらも彼はとうとう一度も曹操の利を説くことはしなかった。十日前、何でもないことのように俺を彼の副官に望むと告げられたことさえ幻であったのではないかと思うほどだ。

殿、あなたは力押しで何とかなる、という方ではないだろう」

 何を考えているのだろう、とちらちら正面に座った郭嘉を見ているのがばれていたらしい。不意に視線が交差したかと思えばそんなことを言われた。
 確かに俺は押されれば押された分、退く。友愛の情や敬愛の情がないのではない。ただ、高潔な理想だけを抱く程の青さはこの十年の間に失われた。いつも一歩引いた立場で全体を遠く見上げる。世界を見上げているだけのつらさにはやっと慣れ始めていた。
 そんな俺の「忘れたことにしたかった」情熱を郭嘉は的確に刺激してくる。軍師と駆け引きをしようだなんて思った俺の甘さももう少しすると笑い話に変えられるだろう。

殿、もう一度だけお願いしよう。私の副官になってはいただけないかな」
「貴殿が私に固執する理由、が知りたい」

 その答えを聞けば納得も満足も諦観も出来ると思った。
 俺が倭国出身であること。少しばかり書画の才に長けていること。この国では疾うに失われている速記の才を身に付けていること。
 たった三点を除けば俺に俺たる根拠などない。俺が俺たる所以など乱世ではつまらないものだ。俺を得たところで天下に雄飛出来るでもない。俺の才など戦乱を切り拓くには至らない。
 要するに俺などその程度の存在なのだ。軍略の天才にも乱世の奸雄にも微々たる影響力しかない。
 だのに。

「あなたは哀しいことを言うね」

 郭嘉は俺の問いとその言葉に含まれた否定を機敏に読みとってまるで世界の終わりのような顔をした。世間は今も終末に向かって進んでいる。その中で嬉々として輝く郭嘉には似つかわしくない苦渋に満ちた表情だった。
 郭嘉が自ら作った小料理の皿を置き、瞼を重く閉じた。俺の膳も郭嘉の膳も止まって進まない。

「何の話だ」
「人が人を欲するのには利がなければいけないのかい? 私はあなたと共に乱世を終わらせたい。あなたの才で私の道を援けてもらいたい」
「私の才などあろうとなかろうと覇道を行かれる方には大きな違いなどあるまい」

 況してそれが軍略家や一州のあるじであるというのなら尚のことその差など小さいだろう。利を説かれるのなら興味がないと否定することが出来る。
 けれど。
 郭嘉はその退路を俺に許すことすらしなかった。

「小さな違いがあることは認めるのだね?」
「米粒よりも尚小さい違い、だけれど」

 逃げ切れずに問いを肯定する。郭嘉の表情が光を取り戻した。軍師たるもの喜怒哀楽の一つひとつですら操れなければならない。郭嘉は俺の前で表情を取り繕っている。わかっている。なのに。疑おうという気持ちが俺の中に湧いてこなかった。彼が求めているものが利ではないと察していたのかもしれない。

「では話は早い。あなたにはやはり私の副官になっていただかなくてはならない」
「意味がわからない」

 郭嘉の情熱が俺を一歩退かせた。俺の背中の向こうには壁。彩りの一つもない、郭嘉の屋敷。退くには限界がある。それでも俺は敢えて退いた。
 郭嘉が徐に立ち上がる。自然、俺はそれを見上げる形になった。見上げるつらさはいつも通りだから今更嘆くことは一つもない。

「曹操殿の覇道を成し遂げる『志』は理解していただけただろう?」
「巷間では夢幻と嗤われている」
「私は世間の話などしていないよ、殿」

 私はあなたの志と話しているのだ。

「『志』などという大層なものは俺の中にはない」
「あるとも。『志』のない方はああも鮮烈に生を叫ぶことなど出来ない、と私は思っているよ」
「生を叫ぶ?」
「あなたは『生きたい』とあんなにも必死に叫んでおられただろう、殿」

 十日前。下ヒの少し東。農村で落馬したあなたが何度も繰り返しあなたの国の言葉で必死に叫んでおられた。
 その言葉に俺は薄く眼を見開く。
 生きたいと叫んだ。何度も強く叫んだ。それは偽りでも誤りでもない。俺はあのとき、ただ死にたくはなかった。養父に託された命だからではない。覇道を援ける為でもない。ただ、自分自身の為に死にたくなかった。
 その無様な醜態を郭嘉はどこからか見ていた。母語だから誰にもわかるまいと思って叫んだ言葉の意味が誰かに通じているだなんて何という失態だ。
 顔に熱が生まれる。俺にも恥という概念がある。

「貴殿はどこから見ておられたのだ」
「あなたが乗馬から放り出された頃合い、かな」

 死地を共にし、命を預け合った乗馬と生き別れた瞬間のことならまだ今も鮮明に思い出せる。天と地が壊れるような衝撃と絶体絶命を感じた刹那。養父の託したものを裏切った。わかっている。俺は不忠だ。だから生と死の狭間にいた。
 その俺を救ったのは他でもない郭嘉だ。
 俺は彼に今生を懸けても返せないほどの恩義がある。
 それでも思わず詰ったのは、俺の中に忠孝の意思が少なからず残っていたからだ。

「見ていて助けなかったのか」
「手を貸す理由がなかったからね。けれど」
「でも?」
「私には正しい意味はわからないけれど、あなたは鮮烈に生を叫んでおられた。私はその姿を見て思ったよ。あなたが東海では高名な『殿』なのだと」
「私の何が高名なものか」

 ただ飯を食らうだけ食らい、ご恩を受けるだけ受け、そしてそれを返し終わるまでに遺志に背き、豫州へ来た。高名な評価など分不相応だ。
 そう、言えば。

「あなたは他のことはあれほど客観的に捉えられるのに、ご自分のことは随分と卑下するのだね」

 郭嘉はまるで我がことのように沈痛な表情をしながら応じる。

「あなたの書画がどうして評価されているのか、ご存じではないのかい?」
「そもそも大した評価などされていないだろう」
「つくづく勿体のない才の使い方をされる方だね」

 いいかい、殿。
 郭嘉の瞼が下りて再び開く。その瞳の中には天命を見出した者だけが持つ天性の輝きが宿っていた。その光が俺の真ん中を射ぬいていく。

「あなたの才がないかどうかなんて私には関係がないよ。私はあなたと覇道を行きたいと思ったのだから。これは利でも理でもない。ただの私の直感だ」

 あなたのご自分の才に対する評価は後々教えよう。今は私の勘を信じてはもらえないだろうか。
 そんなことを言って郭嘉は俺の隣に座った。
 その手にはいつの間にか二つの杯が収まっている。郭嘉は膳の上にその一つを置くと、近くに置いていた酒瓶を手に取り、残りの杯に注いだ。

殿、あなたもあなたの直感を信じていいのじゃないかな」

 あなたは私の言葉の向こうに「志」を見た筈だ。
 杯を受け取り、なみなみと注がれた美酒を飲み干す。喉の奥に焼けるような熱が生まれて一瞬で消えた。俺の口の中に留まっていた迷いも同時に消える。
 志。その言葉の何と心躍ることか。たった一言のその音の連なりが諦観と忠孝を装っていた俺の中に満ちる。
 郭嘉の朋友を見る柔らかな眼差しに偽りはない。軍師の表情を信じるなど愚かだとわかっている。それでも尚、俺は郭嘉の中に真実が見える。
 十年も前に帰る術を失った故国で姫巫女様や司祭たちが俺をこれほど必要としてくれただろうか。十年間、俺の寄る辺だった養父は優しかったし親切だったけれど、俺の存在を熱望してはいない。では今から謁見しようと思っていた陶謙殿はどうだろう。
 多分。
 目の前のこの男以上の熱意を持って俺に接する人間など他にいるまい。
 その直感がある。
 冷静な俺が脳裏で忠孝を貫き通せと言う。諦観した俺が郭嘉を信じても痛い目を見るだけだと言う。格好を付けた俺が我武者羅は無様だと嗤う。そして。まだ純粋な俺が郭嘉を信じろと言う。
 拒絶するならこのときを逃してはならないことだけははっきりとわかる。
 それでも。
 俺は唇に載せる言葉に慎重になり始めていた。

「曹操――いや、曹操殿にお会いすることは叶うのか」
「今はまず無理、だろうね」

 曹操殿にお会いして何を得たいのだい。
 郭嘉が問う。

「曹操殿にお聞きしたいことがあるのなら私が代わりに答えることも出来るけれど?」

 曹操は余程郭嘉に信を置いているのだろう。郭嘉の言からは曹操の何を問われても返答が出来る自信が溢れていた。
 けれど。
 俺はこの優男に会って仕官の意を躊躇った。それと同じものを曹操に感じられるのかどうかを知りたい。
 だから。

「直接お会いしたいのだ。会って、この方の為に命を懸けられるかどうかを判じたい」
「ならば先に陶謙に会ってくるといい」
「貴殿が曹操殿と袁紹を比べたのと同じように?」

 かつて郭嘉の通った道と同じ結論を得る。双方に会えば初心を折ってでも曹操を選ぶ。その結果を確信しているのだろう。彼は穏やかに笑った。空になった杯を膳の上に置き、まだ注がれていない新しい杯を取る。先ほど郭嘉が俺に酒を注いだのと同じように彼にそれを返せば、郭嘉は目を細め心底嬉しそうにした。

「話の分かる方は嫌いではないよ」

 その笑みがどこか養父の笑顔と通ずる気がして俺はそっと瞼を閉じた。網膜の裏で養父が俺の背を押す。
 養父が俺に何かを求めたことはない。この十年間、ただの一度も彼は俺に何かを強制したことはなかった。故国の話も書画も速記も、全て俺は自ら養父に献じた。養父がぱっと笑うその一瞬を求めて、ずっと俺が勝手にやってきたことだ。
 だから。
 陶謙殿にお仕えしなくても多分養父は俺を恨んだりしないだろう。
 彼を殺めた曹操軍の軍師の副官になったとしても、養父は少し意外そうな顔をするだけで、叱ったりなどもするまい。
 わかっている。俺は郭嘉の持つ志に惹かれている。不忠でも構わない。陶謙殿がこれほど俺を求めてくれる保証はどこにもない。あの日、東海に戻ることも陶謙殿への謁見を望むこともしなかったのは全て俺が選んだ結論だ。その結果俺は豫州にいる。陶謙殿が平静を取り戻せば、俺の挙動は全て彼の間諜から筒抜けになるだろう。そのときに陶謙殿が俺をどう処断するのかはもうわからない。のこのこ下ヒへ出て行けば賊徒として捕縛される可能性だってある。それを少しも考慮しないでここへ来たのではない。十日悩んだ。己が身の平穏と志を天秤にかけて理想を選んだ。わかっている。
 だから。

「曹操殿にお会いするのにどれぐらいの時間が必要なのです」
「あなたが私の意を汲めるようになれば、とでもお答えしようかな」

 郭嘉は俺の葛藤を知っているのだろう。知っていてこの満面の笑みなら相当に人が悪い。人心を手のひらの上に載せて嘲笑っている、とは不思議と思わなかった。ただ、興味だけが湧く。この男と共にいて得られる何かを追い求めたい。
 陶謙殿に会うなら多分今が最後の機会だろう。
 もうしばらくすれば彼は身を閉ざす。徐州の内と外の線引きを始める筈だ。誰かに与する決断を下したくないのなら「仁」を説く劉備に拠り当面の立場を曖昧にする方法もあると考えた。
 けれど。

「明日の朝まで返答を待ってはいただけないだろうか」
「明日の朝まであなたはどうするのだい?」
「そこの門前でゆっくり考えてみようと思っている」
「そんな無理を私が許すとお思いかな? 私も随分と甘く見られたものだね」

 やはり決断は今でなければならないか。曹操の幕下は拙速を尊ぶと言う。臨機応変な対応を出来ないものに陣中にいることを許すほど甘くはないのだろう。
 その答えは予め予期していた。それでも俺には即断出来る決断力がない。養父がかつてよく言ったものだ。そなたはもう少し腹を括るのが早ければ言うに越したことはない。悪い癖だ。判断材料が増えれば増えるほど迷う。一つの別の可能性が見えるともっともっとと求めてしまう。所詮俺が凡夫だと察するには十分すぎるほど生きているから、それを特別悔いたことはない。
 ただ、郭嘉の求めを快諾出来ないことがどうしてか心の中で引っかかった。
 そんな俺を馬鹿にするでもなく、少し意地の悪そうな顔をして郭嘉が継いだ言葉に決して大きいとは評することの出来ない俺の両目がこれでもかと言うぐらい見開かれた。

「この寒空の下で客人に夜を明かせなどと言うほど私は非情ではないのだけれど?」

 あなたが来ると思って部屋を片付けてある。一晩お悩みになりたいのであれば隣の部屋を使われるといい。
 言って郭嘉は杯を空け、自らの膳の前に座り、まるで何ごともなかったかのように食事を再開した。

「私はあなたに曹操軍の軍師になれと言っているのではないよ、殿。あなたには私の副官になっていただきたい」

 今まであなたの世間があなたをどう評したのかは想像が付くから敢えて言っておくけれど。郭嘉はそう前置いて真っ直ぐに俺を射る。文官の眼差しと思えないほどの強い輝きに俺は息を呑んだ。

「あなたが迷うのならば、それはあなたにとって価値のあることなのではないのかな? 私はそれを受け入れよう。私は私の許す限り、あなたの速さで歩くことを肯定すると約束する。兵法は拙速を尊ぶけれど、私はあなたに軍略家になっていただきたいのではない」

 だから返答を明日の朝まで待つことなど造作もないし、隣の部屋に俺が止まることも肯定する。俺が望むのであれば着替えも湯も用意しよう。そんなことを訥々と語りながら、郭嘉は膳を全て食べ終えた。俺の膳は途中で止まったまま少しずつ熱を失いつつある。その代わり、俺の胸の内には温かいものが満ち始めていた。
 郭嘉が俺に求めているのは非凡ではない。突出した謀略でもない。多分、いやきっと。彼は彼の隣を歩くものを求めているのだ。世間の価値観は彼を孤高の天才に仕立て上げる。彼の志はそれを受け入れたけれど、それでも心のどこかで埋まらない隙間を感じているのではないか。漢に根付いた万民には持ち得ぬ何かを俺の向こうに見ている。漢にとっての「異物」である俺ならばその価値観を打破すると期待している。
 つまり。
 十年という年月を経て、名を失い、頼りとする義理の親と死に別れ、財貨の何一つも持たず、無数にあるこの国の礎の一部になったつもりでいても、俺の身には故国が染み付いている。俺に求められているのは異質性であり、俺の個性ではなかったことに幾ばくかの落胆を覚えた。
 けれど。
 俺の内に降って湧いた熱は今も引かない。多分これはもう現実を受け入れるのが最適で最善の結論だという予感がある。
 それでも敢えて一晩という時間を置くことにした。曹操軍の軍師たるには遅い決断を郭嘉も受け入れている。ならば、そのことについてはこれ以上勘ぐるまい。

「ご厚意に感謝する」

 陶謙殿にお会いしてから郭嘉に仕官する。その道がもう眼前に開けているのに結果として導き出せない俺自身の惰弱を呪いながら残りの膳に箸を付けた。
 冷めきっているのに美味い、だなんて思う。
 戦の臭いしかしない豫州の空気も曹操の襲撃を受け戦慄した徐州の空気もそれほど変わりがないと感じていた。
 この国は今戦乱のただ中にある。そのことを自分自身の感覚でようやく知ったような気がした。
2013.05.10 up