Chi-On

Look Like a Shooting Star
 千里歩いても擦りきれない草鞋、とそれを編む男の話だ。
 生まれついた家こそ農家であったが、男は中山靖王の末裔でいずれは漢室の為に何かをすると自負して育ってきた。武辺者ではなかったし、智者でもない。何かの才を持っているとすればただ一つ、天下を擁しうるだけの大器であるかもしれないと言うほかないような男だったが、天は命運を彼に与えた。任侠の男二人。たった二人。その二人を彼に引き合わせた。軍略も武略も持たない男が任侠の二人を魅了する。誰もが漢室の衰えを傍観する中、誰よりも熱く漢室の将来を語った。口先だけだと侮っていた任侠の二人だったが、男が命を懸けてその理想を口にしていると知る。その辺りのことは詳しく語られないから俺の認知するところではないが、それ以来彼らは義兄弟の契りを交わし、死する時は同日同刻でと誓った。
 千里を歩ける草鞋を作っていただけの男の運命が転がり始めたのはもう十年も前のことで、最初はたった五十だった仲間が今は六千に膨れ上がったという。拠る国もなく、官位もなく、恩賞があるわけでもない。それでも六千は男の理想を共に追いかける。
 その結果、近年男は人徳の将として名高い。領国の有無に関わらず、男の元へ集まる信は右肩上がりに続いていた。
 これはとんでもないことだ。
 人は普通は利で生きるものだ。見返りがあるから努力をする。何かを得たいから耐える。そういう、当たり前を超越したところにいる男は危険だ。なのに天下は彼を排除しない。六千。その数字に惑わされ、矮小だと侮る。
 見かけの数などは問題ではない。六千の兵の向こうにその何倍も何十倍もの民の心がある。理想はいつか果てるものだ。人は世間に揉まれるうちに現実と対峙する。男が五十を率いて参じたのは黄巾党の叛乱を鎮圧する戦だった。何十万、何百万という黄巾党の前では、五十など焼け石に一滴の雫を落とすようなものだ。何の役にも立たない。その先入観を男は覆した。現状を覆したのは男の二人の義兄弟で、実質男は何の役にも立っていない。それでも、人は彼らの活躍を男のものとして受け取った。男は現実の前で膝を折ることを拒んだのだ。
 その後も、理想とは追い求めるものだと言わんばかりに逆境を乗り越え、男は固定概念を覆していく。
 中山靖王の末裔、徳の将軍。虎牢関で人中将軍・呂布と差し向きあった二人の豪傑を惹きつけてやまない大器。
 今、俺の目の前に立っている男。
 その名を劉備と言う。



 郭嘉の好意に甘え、湯を浴び床に就き、髪を整え真新しい気品のある衣を借りた。幾ばくかの身銭まで用意され、これで郭嘉への仕官を断れば人の道に悖るだろう。こうして俺の退路を一つずつ潰していく心積もりなのかと訝れば、郭嘉は何かを返したいのなら拠って立つものを得てからで十分だと言って笑った。
 それが数日前のことだ。郭嘉の伝を使い、徐州・下ヒへと戻ったのは昨晩のことになる。城門が閉まるぎりぎりに城内へ滑り込んだので当然宿などがあるはずもない。荒んだ空気が今なお残る城内をしばらく歩いた。聞こえてくるのは曹操への恨みごとが大半だったが、ごく僅か、陶謙殿の失政を嘆く声もあった。手近な安酒場に入り、適当に空腹を癒そうと思ったのがそもそもの間違いだったのだろう。夜も更け、開いている酒場が減った刻限で一人客の俺は合い席になった。先客は随分と体格がよく、虎髭を生やしている男で酒豪らしく既に空の酒瓶が幾つか並んでいる。
 隣の椅子に座った俺を彼はちらと見たのだが、その眼差しの鋭さと言ったら身が竦むほどだった。関わり合いにならない方がいい、と瞬時に判断する。空腹が満たされれば長酒にはせず店を出るつもりだった。この食事代も郭嘉からの借金だ。返す額は少なければ少ないほどいい。
 そう、思っていたというのに。
 虎髭の男が突然話しかけてきた。

「この時期に豫州から下ヒへ旅とはいいご身分じゃねぇか」

 それともあれか。あんたも曹操の政が嫌になって徐州へ出てきた口か。
 そんなことを言って男は勝手な推論を訥々と並べ始める。
 先の徐州侵攻で曹操の峻烈さは天下に示された。その所為で、曹操の領民であることに耐えられなくなり、豫州を離れる者が少なくないこと。けれど徐州はその流民を受け入れられる状態ではないこと。流民の中ではどうやら劉備のいる小沛が最も人気があること。 俺も劉備に憧れて国を捨てた一人だと思われたらしい。納得のいった顔で虎髭の男は杯を傾けた。
 小沛へ行くのならば早い方がいい、などと助言のようなものを貰う。
 そこまでが一息で、どうして俺が豫州から旅してきたのかを知っているか、と問う間がない。嘆息して、自らの出身が東海であることを小さく自己主張すれば男はきょとんとした顔で杯を止めた。

「東海? そんな嘘で誤魔化されるかよ。騙すんならもっと上手い方便を使いな」

 あんたの衣は許昌流行りだ。
 その色、その文様、どれを取っても豫州の風情でとても東海から旅してきたようには見えない。男にそう言われ、俺は内心舌打ちをした。謀られている。俺は衣の流行に興味がなかった。価値観も美観も違う国に来て、服飾の流行を追う労を負いたくなかったから与えられるものをそのまま受け取っていた。東海の流行りも許昌の流行りも俺には理解出来ない。それを逆手に取って郭嘉が俺に豫州流行りの衣を貸した。どこに行っても誰と会っても、俺が豫州に立ち寄ったことが雄弁に語られている。
 曹操の侵攻を受けた徐州は当然豫州をよく思っていない。豪快ななりをした虎髭の男が、俺の経由地を見事に把握しているのだから、これまで徐州で出会った者は概ねその事実を承知していると思った方が早い。
 郭嘉の衣を借りたのが失敗か。いや、豫州の市で適当な装束を買い求めたとしても結果には変わりがないだろう。俺は豫州の流行を把握していない。何も考えずに買えば同じことだ。東海から持ってきた衣を失ったのが最も痛手だ。
 だが、そんなことを言ってももう詮のないことだ。
 だから。

「許昌にからこちらへ戻ってきたのだ」

 虎髭の男の観察力が鋭いのか、下ヒの領民の嗜みなのかすら俺には判じられない。基準となるものが俺の中にないのだ。隣に座った男が何者で、俺に声をかけて何をしたいのかの見当もつかないのに返答を取り繕える道理もない。
 事実を言うほかはない。
 曹操の軍師に助けられた件と曹操の軍師の副官への道が示された件を黙っていれば問題はあるまい。
 腹を括った。
 東海の出身だが数日前まで許にいたことを肯定する。虎髭の男が嘲笑うように顔を歪めた。

「曹操の首も持たずに? こいつはとんだ腰ぬけだな」
「仕方がないだろう。会えなかったのだから」

 俺が許まで会いに行ったのは郭嘉で、彼の志に押されて、曹操に会ってみたいと思った。敵討ちなど考えたこともない。憎い、というには俺の感情は平坦のような気がした。
 けれど。
 曹操に会えなかったのもまた事実だ。会えば俺の中の何かが散じたかもしれない。そうしたら俺は曹操の首を欲したかもしれない。
 俺は曹操に会えなかった。
 その事実を反芻する。確かめる為に言葉にした。隣で虎髭の男がどうやら変な方へ酒を流しこんだらしくむせ返っている。
 涙を眦の端に浮かべ、男が苦しそうな表情で俺を見た。

「おいおい、俺は冗談であんたを揶揄っただけだが」
「養父を曹操の軍勢に殺された。敵討ちをしたいと思って何が悪い」
「敵討ちがしたいのか?」
「わからない。曹操が徐州を攻めたのも敵討ちだろう。俺が敵討ちをすれば誰かがまた哀しむような気もする」

 曹操の徐州侵攻は敵討ちではなかったことを俺は知っている。それでも世間ではそういうことになっているから知らない振りを通した。
 それに。
 俺が曹操の首を取ったとして、そのときに得るもの、というやつに心当たりがなくてまるで他人事のような受け答えをした。
 男は心底呆れた顔をして、空になった盃に酒を注ぐ。
 それを今度はむせることなく飲み干しながら言った。

「馬鹿か。敵討ちをするのに誰かの苦しみを背負うような奴は返り討ちに遭うのが関の山ってやつだぜ」

 男のその言い草は馬鹿にしている風ではなく、寧ろ赤の他人の心配をしているようでほんのりと胸の内が温かくなった。漢室はもう既に死に体だったけれど、人の心はまだ死んではいない。他人の身の上を誠実に考えられる人間がいるうちはこの国はまだ大丈夫なのではないか。そんなことを考えていると俺の唇も少し軽くなった。

「馬鹿だから仕方がない。返り討ちに遭えば養父と同じ場所に行けるかもしれない、とも思っている」
「あんたのおやじ殿はそんな死に方を望んじゃいねぇだろうが」
「どうだろう。生きてほしい、とは言われたが」
「なら生きるしかねぇな」
「一人で生きるのは存外難しいものだという壁の前で立ち止まっているのに?」
「生き残った奴がもがくのは宿命なんだよ」
「俺には理解出来ない」

 十年前も、今も、俺の目の前には「生きていく困難」が立ちはだかっている。虎髭の男の正体が誰で、何を背負っているのかは俺にはわからない。それでも、多分。彼は彼なりにつらい人生を送っている。でなければ重みのある言葉は出てこないだろうし、上滑りせずに俺の中へ届いてくることもない。
 だから。
 理解出来ない、と一刀両断して、その実、俺は彼の言葉を受け止めた。生きろと言われた。だから生きる。単純なことだ。どんなに無様でも卑怯でもいい。俺は生きよう。
 そんな決意を今一度噛み締める。
 その耳に。

明殿が生きてたらあんたを見て嗤うだろうぜ、

 だろ?
 訳知り顔の男がそう言って闊達に笑った。

「俺はまだ名乗っていない筈なのだが」
「東海の出で養子、曹操の徐州侵攻でおやじだけが死んで、本人は死んだ気配がないのに下ヒ城にいねぇ。陶謙が探してるのは、ってのは俺の軍じゃ常識だぜ」
「陶謙殿が? 俺を?」
「うちの兄者に探してくれって泣き付いてきたから間違いねぇな」

 その言葉に脳裏で警鐘が響く。これ以上この虎髭の男に関わってはならない。そう瞬時に判断する。懐に手を入れて郭嘉から預かった布袋――財布を取り出して勘定を払おうとする。その手が強い力に阻まれる。俺の腕を衣の上から押さえた虎髭の男の腕が確実に殺気と呼べるものを纏っている。半分呑んで置いていた俺の杯の水面がびりびりと震えているような気がした。
 言葉を失い、凍りついたように動きを止める体とは反対に脳漿が澄み渡っていく。
 この男は誰だ。軍と言ったからには武人だろう。陶謙殿が頼みとしているのは誰だ。劉備だ。その劉備を兄と呼ぶのは天下の豪傑が二人。劉備の義弟と言えば関羽と――そうか、この虎髭の男は張飛だ。
 俺が答えを得たのを知ってか知らずか張飛は不敵に笑う。
 がっしりと掴まれた腕から彼の体温が伝わる。徳の将軍は偶像ではない。劉備を信奉する義弟たちも風聞の産物ではない。
 そんなことを考えていると不意に張飛が手を離した。

、そのへっぴり腰じゃ逃げられねぇな」
「『うちの兄者』と言ったな、張飛。俺は劉備の綺麗事には付き合わんぞ」

 解放された腕を手元に引き寄せ擦る。袖を少し捲くった。この暗がりではよく見えないが、赤くなっているような気がする。張飛からは既に殺気は消えていた。逃げられないと察したことを察してくれたようだ。
 風聞で知った張飛より人間味がある。だなんて思って、殺気を向けられたのだと思い返して苦笑した。

「お、何だ。思ったより飲み込みが早ぇじゃねぇか。そうだ、俺が燕人張飛様だ。そこまでわかってるなら話が早い。兄者に会ってもらおうか」
「断る。俺は陶謙殿にお会いしに来たのだ」
「陶謙なんかより、兄者の方がよっぽど大器だ。陶謙に仕えるぐらいなら兄者に仕えた方があんたの為になると思うぜ」
「俺は損得で仕官するのではない」
「なら尚更だ。あんたは曹操に育ての親を殺されてんだ。敵討ちがしてぇなら兄者と一緒にいる方が好都合じゃねぇか」

 仇討ちは諦めた。それどころか俺は忠孝を捨てて曹操の軍師に仕官するかもしれない。などとは言えない。それでも俺は劉備に仕官したいとは思わない。徳の世に惹かれないのではない。そんな世が実現するのなら喜んで力を貸したい。志と言う言葉に最も相応しいのは劉備だ。
 それでも。
 俺はもう自らを熱望する存在を知ってしまった。
 郭嘉が、俺が劉備軍に接触する筈がないと思っていただろうか。いや、そんなことはあるまい。彼は多分、その可能性を承知していながら俺を徐州へ送り返した。それでも俺が郭嘉を選ぶ自負がある。そういうことだ。
 期待を裏切るのが怖いのではない。一時の恩を仇で返すのが怖いのでもない。まして、劉備が俺を熱望していないと確信しているわけでもない。多分、噂で聞いた劉備なら喜んで俺を受け入れてくれるだろう。仁の世というのはそういうものなのではないだろうか。
 それでも。
 それでは何の意味もない。
 養父には生きよと言われた。十年前、俺を拾ってくれた養父が俺を庇って死んだ。その仇討ちで反曹の武人に仕える。その何と美しく無駄のないことか。世間では美談として伝わるだろう。俺の評価も劉備の評価も上がる。
 その何と虚しいことか。

「張飛、よく聞け。俺は聖人になるなどごめんだ」

 右手で卓の上に置いた杯を持ち上げる。半分ほど残った中身の液体が揺れる。それを一気に喉に流しこんで、その勢いのまま俺は張飛に宣戦布告した。

「理想を押し付けられるだけの人生など俺には何の意味もない」

 清くあれ。正しくあれ。
 間違いなど許されず、常に人の求めに応じ、快い顔をし続けるだけの人生など俺は欲していない。そんな自分を殺した生き方が何を生みだすのだろう。俺は死んでも生きても「孝徳」でありたい。
 だから、俺のような身の上の人間を欲しているだろう劉備には仕えない。何があっても。たとえその結果俺の首が胴から離れようとも。
 その決意を眼差しに込めれば、張飛がぐっと息を呑んだ。

「だったらどうやって生きてくってんだ」
「わからない」
「わからない、じゃねぇだろうが」
「それでも、俺は仁の象徴として祀り上げられるのだけはごめんだ」

 再三その言葉を繰り返すと、張飛は焦れたように後頭部を掻き毟る。多分、張飛はこういう押し問答が苦手なのだろう。苦渋に満ちた彼の表情が何よりも雄弁にその性分を物語っていた。

「ああ! もう面倒臭ぇ! 取り敢えず、兄者に会え」

 明日、張飛は小沛へ戻る。その旅に同道しろ、と突然要求される。

「張飛、俺の話を聞いていないのか。俺は劉備には仕えないと言っている」
「ああ。もうその台詞は十分に聞いたぜ。でも、俺にはその結果を判断する頭がねぇ。直接兄者に会って、あんたが自分で拒否すればいい」

 それが出来ない程度にしか腹が括れていないのなら、流されろと言っている。俺は馬鹿のようにぽかんと口を開けた。張飛の理論がよくわからない。
 それでも。
 幾つかわかったことがある。

「困ったな。これでは陶謙殿にお会いする機会がなくなってしまった」

 明日の朝、衛兵に謁見の伺いを立てるつもりだった。それからしばらく下ヒに逗留して、と思っていたのに張飛が俺を小沛へ連れて行く。陶謙殿とお会いして曹操を選ぶ話が、いつの間にか劉備と会って曹操を選ぶ話にすり変わろうとしていた。
 あまりにも茫然としたので、独り言が唇から零れ落ちる。
 この短い時間でのやり取りで、俺は張飛が噂ほど粗暴でも、野蛮でもないことを理解した。張飛は確かに単純だが、ある意味ではとても純粋なのだ。義兄の為になることを一心に探している。そして今回のその標的がどういう理由かはわからないが、俺に定まっているから彼は俺に拘泥する。いつからか張飛の酒が進まなくなっている。俺が彼の要求に色よい返答をしないからだ。

「曹操が憎くないのか」
「憎い、という感情がわからない」
「仇討ちをしたいと言ったのにか」
「それは多分、文が届いたら返事を書くのと同じことだ」

 喩え話を咄嗟に切り出したが、これでは何も伝わらないだろうと俺自身思った。案の定張飛には意味がわからなかったらしく、首を捻っている。
 何かが起きた、それに対応するのが当たり前だからそういう態度を取っている。それだけでそこに俺の感情はない。
 寧ろ俺を強く動かしたのは養父が最後に残した「生きよ」という言葉と、郭嘉の口説き文句だ。俺が俺であることを肯定してくれる相手と出会った、という感触がある。俺が俺らしく生きることが養父への孝行だ、なんて勝手な言い訳をしているけれど、本当は俺がずっと前からそれを求めていたのではないかという気もする。
 文が来る前にこちらから文を書いてはいけないという理屈はない。その理屈が適用されるのなら、文は一生誰からも来ない。
 そんなことを端的な言葉に載せれば、張飛はますます不思議そうな顔をした。

「わからねぇな」
「俺にもわからない。返事を書くべき相手なのか、何を書けばいいのか、ずっと悩んでいる」
「それでもあんたは文をなかったことにするつもりはない」
「ないな」

 養父は死んだ。郭嘉は俺の目の前に現れた。曹操が間接的にでも仕えるべき相手なのかは未だわからない。それでも俺の運命は転がり始めた。もう何もなかった振りで通せる時期は終わっている。

「かーっ! 全然あんたの言うことが理解出来ねぇ」
「俺にもよくわからないから、貴殿が理解出来ないのも道理だ」

 振り返れば受動的な人生だった。他人の顔色を窺ってはそれを直接求められる前に提示してきた。養父は俺に何も求めなかった。当たり前だ。俺がずっと彼の要求を先回りしてきたのだから、そうでなくては立ち行かない。
 そんな俺の想像の範疇を超えて俺を求める人間がいた。
 故国でも俺は先達の顔色を窺ってばかりいたから、多分郭嘉が面と向かって俺に何かを求めた初めての人間と言うことになる。その郭嘉にどう接するのが最適解なのかがわからない。
 困惑を含ませて張飛に応じればそういう意味ではないという旨の返答がある。

「いや、多分だが。兄者たちにはあんたの言うことの何割かは理解出来る筈だ」
「だから会え、と?」
「そういうわけじゃねぇさ。俺があんたの妙にずれた性分を気に入った、ってだけのことだ」

 張飛が闊達に笑う。その屈託のない笑みに折角定めた筈の志が少し揺れた。
 もしも。
 もしも、だ。
 もしも、張飛に俺が一人胸に抱え込んだ先の見えない不安を語ったら彼はどうするだろう。そんなものはこの時勢当たり前のことだと一蹴されるだろうか。馬鹿なことを言うなと嗤われるだろうか。俺が郭嘉の求めに応じることは認められないと斬り捨てられるだろうか。
 張飛は劉備の腹心の将だ。その彼に一体何の相談があると言うのだと自分自身理解している。水と油が交わらないように、俺と彼との人生は交わらない。
 それでも。
 どうしても。
 張飛に少しだけ、胸の内を聞かせてみたかった。

「もしも、だが」
「何だ?」
「気分を悪くされたら申し訳ないのだが、もしも、だ」

 くどいほどに前置く。はっきりとしない俺の態度に張飛が焦れた。俺の考えが否定されているわけではない。それでもどうしてだか言いようのない不安がよぎる。
 別段張飛に否定されたとて俺には何の不利益もない。本来なら顔を合わせ、お互い名を知る関係ではない。
 だから。

「何だよ、早く言え」

 再びの催促に俺は結局腹を決めた。

「俺が曹操に仕えると言ったら貴殿はどうする」
「そん時はそん時だな。ただ、戦場で会えば殺す。戦に負けて降伏をするのなら受け入れる。害がないのなら俺は知らん」
「そうか」
「そうだ」

 世の中は俺の敵かそうでないやつかの二択だ。
 張飛ははっきりとそう言い切った。
 あんたは文官にしかなれねぇだろう。曹操が文官を戦場に連れて行くほど馬鹿には見えねぇから、俺があんたを殺す機会なんてねぇと思うがな。
 からから、笑って物騒な答えを返す張飛に釣られて俺も笑う。

「面白い方だ」

 本当に面白い。この男ともっと早く――ほんの二十日でいい、俺が郭嘉に出会う前に彼と出会えていたら、俺の人生は別の展望があっただろう。
 郭嘉に会った時にも同じことを思ったから、いつか俺の志が揺らげば今張飛に見えている羨望も消えてしまうのかもしれない。それでも。俺はこの男が決して嫌いではない。
 運命とは皮肉なものだ。天に神がいるのなら残酷だ。
 それでも俺はこの現実を生きて行くほかない。俺が選んだ。俺が決めた。だから、他人を恨むのは筋違いだ。
 未練のようなものを断ち切っていると、張飛が不意に真面目な顔で俺に問うた。

「曹操に仕えるつもりがあるのか」
「ない、とも言い切れない」

 その返答を俺は躊躇わなかった。
 即答とも言える返答に苦笑したのは俺ではない。張飛だった。

「馬鹿な野郎だ。そういう時は『ない』と言え」

 慈しみさえ感じさせる声と共に彼の全力からは程遠いけれど俺にとっては十分に痛い肘鉄が飛んでくる。
 脇腹に鈍痛を感じながら、俺は酒瓶を手に取った。

「『ない』と言ったら『嘘を吐け』と殴るものがそういうことを安易に言うものではない」
「やっぱりあんたは話が早い。勿体ねぇなぁ」
「では俺も同じことを貴殿に言おう。『俺の将になってはくれないか』」
「無理だな」
「そういうものだ」

 酒瓶をくいと持ち上げ、酌をする意を伝える。張飛が笑んで自らの杯を俺の手元へ持ってきた。彼の杯が満たされると今度は張飛が酒瓶を手にする。どうやら彼も俺に酌をしてくれるらしい。
 張飛は戦場で俺と会えば躊躇わずに斬るだろう。そのことを疑うほど俺は青くはない。
 それでも俺は張飛や劉備に仕官することは出来ないし、張飛もまた俺を守る武になることは出来ない。
 この理由を一言で表すなら「志が違う」というほかないだろう。
 遣り取りを重ねるうちに張飛がふてぶてしく言った。

「何となくあんたの言いたいことがわかった。でも、俺も譲れねぇんでな。小沛まで来てくれや」

 否定の選択肢を持たない問いだったけれど決して不快ではない。張飛が注いだ杯を目線の高さまで持ち上げる。そして、俺は自らの運命と向き合うことにした。

「半日だけ待ってはもらえないか」
「あん?」
「明日の朝、大門が開くと同時に俺は陶謙殿にお会いしに行ってくる。会えれば俺の目的は達成されるし、会えなければ縁がないということだ。それを試しもせずに小沛へ赴くのは本末転倒というものだろう」
「あくまで筋を通すってんだな?」
「そうだ」

 陶謙殿に仕えるかどうか、今も迷っていないと言えば嘘になる。劉備に頼んで俺を探しているぐらいだから急な来訪でも面会出来るのではないか、だなんて傲慢も少しあった。それでも、俺は陶謙殿にお会いする為に下ヒへ戻ってきたのだ。目的を達成する努力を何もしないで、次から次へとやってくる決断にその場の雰囲気で流されているようでは何をかを成し得ることなどは不可能だ。
 そして。
 それはきっと、そんな場当たり的な選択を繰り返しても、俺が生きていることにはならない。ただ息をしているというだけの意味のない生だ。
 だから。
 杯を傾ける。喉の奥が焼けて頭の芯がじわりと滲んだ。
 隣で張飛も同じように杯を空ける。酒瓶を軽く振って中身がないことを察すると彼は席を立った。

「わかった。俺もそういう馬鹿は嫌いじゃねぇ。昼に北門の前で待ってるからな」

 あんたに無理を言って兄者に会わせる見返りだ。そう言って張飛は俺の分の勘定も終えて店を出て行く。
 俺は今晩泊まる宿もないのだが。
 引き留める間もなく消えた背に届くはずもないと知りながらぽつり呟く。
 その呟きが奇跡的に酒場の店主の耳に届き、張将軍のお客なら奥の部屋を貸してあげるよと言われる。
 こうして俺の郭嘉に仕える為の長い長い旅が目標通過地点を幾つか増やしながら進んで行った。



 翌朝、俺は城門が開くと同時に陶謙殿に謁見を願い出た。俺の消息を探していたという彼は二つ返事で俺を室に通し、面会となる。
 正直に言おう。陶謙殿は俺が風説で聞いたより数段平凡な将だった。武術の腕の方は判じる根拠がないから良し悪しはわからなかったけれど、保守的な人柄と話の節回しから彼の中にあるのは覇を競う志でも泰平を願う理想でもないことを知る。
 長くて十年。
 陶謙殿にはこの乱世で永らえることなど出来まい。
 俺はこの乱世を生きると決めた。端から生き残る可能性がないとわかっている男に仕えるのは自殺行為でしかない。
 だから。
 曖昧な返事で城から下がり、待ち合わせの刻限には少し早いが北門へと向かう。
 果たしてそこには張飛と二頭の馬の姿の姿があり、彼はにやついた顔で俺に問う。

「無駄だったか?」
「無駄だったな」

 だろうと思った。そんな顔をしてるぜ、あんた。
 悪人ではない。善人でもない。圧倒的な利も不利もない。何も持たないから何にも惹かれない。俺を欲している理由、を聞けば少しは興味が湧いたかもしれないけれど、それを問う気にすらならなかった。
 郭嘉が副官になってほしいと言ったときにはあれほど疑問が溢れ出していたのに。
 だから。
 きっと。
 陶謙殿――いや、もう彼に仕えるという選択肢を斬り捨てたのだから敬称を使う必要はないだろう。陶謙とは縁がなかった。ただそれだけのことだ。
 そう、言えば。
 張飛はつないでいた手綱の一方を俺に渡し、乗るように促す。

「じゃあ行くか」

 そこから小沛までは駆け通しだった。張飛の用意した馬は二頭とも駿馬で疲れを知らない。途中で軽く食事を取ったが、それ以外はずっと駆けていた。
 半日駆けて辺りがすっかり一面の闇になった頃、俺たちは小沛へ辿り着いた。城門は既に閉まっている刻限で、張飛にどうするのかと問えば彼は問題ないと笑った。
 張飛は城門の方へは行かず、近くの小高い丘に向かう。
 そこには劉備軍二千が駐屯する野営の陣があった。張飛が言うには、劉備軍は常日ごろから調錬を積んでおり、常時誰かの部隊が城外に駐屯しているそうだ。
 今日は軍主である劉備自信も陣幕に滞在している。
 張飛が今朝早くに鷹便で俺の来訪を知らせておいたので、わざわざ劉備が城外で待っていてくれた。そういうことらしい。
 張飛が馬を下り、陣中で最も大きな幕舎へと向かう。俺は黙ってその背に続いた。張飛が二言三言幕内と言葉を交わし、結果俺が中へ入る許可が下りる。俺は頭を軽く下げ、幕舎の中へと入った。

「よく来てくれた、殿」

 私が劉玄徳だ。
 そう言って穏やかに笑った男の前で俺は身動きを止めた。
 柔らかな表情。決して傲慢ではない声色。人好きのする笑み。けれど揺るぎのない何か。真っ直ぐに貫き通す信念。
 そんなものが一瞬で俺に伝播する。
 器が違う。本能的にそう思った。
 この器の中身になれば充足する。この器に惹かれれないものがいるとすれば、それはただの馬鹿か、この器に見劣りしない何かを知っているものだけだろう。
 それぐらいのことは馬鹿な俺にも十分理解出来る。だというのに、この劉備という大器に会って、それでも自分を選ぶと確信している郭嘉の想定が理解出来ない。郭嘉と劉備の器など比べるべくもない。
 なのに比べようとしている俺の馬鹿さ加減を知ったら、郭嘉は嗤うだろうか。
 人に愛される為に生れてきた劉備と、誰からも距離を置かなければ接することも出来ない郭嘉。彼が欲した俺。平凡で非凡な俺を彼は求めている。
 劉備を慕う人間は数多いるだろう。俺が彼を求めなくても、時代は劉備に味方する。人徳の将軍。漢室復興の大義。その実を受け止める大器。彼を支える二本の柱。劉備に足りないものがあるとすればきっと、誰かを斬り捨てるだけの峻烈さだ。

明殿のことは本当に残念だった。おつらかっただろう」

 そう言って劉備は着座を求める。俺の体に流れていた時間が再びゆっくりと動き始め、硬直が解けた。薦められるがままに中へと入り、一脚の椅子に腰を下ろすと、劉備の誘導尋問が始まった。

「天災に遭った、そういう性質のものだと思っております」
「淡々とした方だな。曹操が憎くはないのか?」
「憎いと恨んで養父が戻ってきたりはしますまい」

 それに。俺の命を救ったのは養父の自己犠牲と、郭嘉の導きだ。郭嘉があのとき俺を見つけなければ、今頃は助かっていなかっただろう。だから、と言うわけではないが、俺は曹操をそれほど憎いとは思わない。
 そのことを郭嘉の件だけ省いて告げると劉備は眉を顰めた。苦渋を表情に載せても彼本来の気性の柔らかさは損なわれない。

「だから不忠でも構わぬ、と?」
「そこまでご存じなら話は早い。劉備殿、大変申し上げにくいのですが、私は貴殿と同じ道を歩くことは出来ませぬ」

 はっきりと彼との決別を告げる。、ちゃんと兄者と話をしろ。張飛が怒鳴る。劉備が手のひらで張飛を制する。俺の隣に座った張飛からは怒気が迸っているが、殺気に変わる気配はない。
 慣れない緊張感に耐えかね、諾々と流される方が楽だとすら思う。
 それでも俺は敢えて正面に座った劉備と差し向った。
 穏やかで柔らかで強かな眼差しが俺を射ている。

「仁の象徴として持ち上げられたくないから、と伺っているが」
「いいえ。私が貴殿に賛同出来ないのはもっと単純なことだったのです」

 それは本当にもっと単純なことだった。
 仁がどうとか、義がどうとか、忠孝がどうだとか。そんなことよりもっと根本的なものが俺の中にあったのだ。
 劉備と対面してそのことを俺は知った。
 劉備が一瞬怪訝そうな顔をしたが、結局は俺の否定を嚥下する。

「聞こう。何の理由で私に力を貸していただけないのだ」
「孤独の痛みを知っているからです」

 この十年、どこにいても何をしても誰といても俺は孤独だった。誰かと関わっていれば少しはその痛みが紛れると思い、人と接する為に言葉を覚えた。養父や義弟たちと意思の疎通が出来ても、それでも俺はずっと一人でしかなかった。家人や別の豪族と会っていてもそれは変わらない。それでも俺は人と交わる為の努力を続けた。努力をする以外に俺に出来ることなど何もなかったからだ。
 劉備は多分その孤独を知らない。
 彼の素質は多分天性のものだ。計算や打算から生み出されているのではない。本質的に彼は人に好かれる。
 だから。
 劉備は孤独を知らない。一人で当てのない道を彷徨う切なさを知らない。
 子供じみた言い訳を重ねるのなら、だからこそ、彼は俺を幕下に加えたとて、俺の孤独を癒す術を知らないだろう。大勢の中の一人。その一人になる痛みを知らない劉備といて、俺が得るのは苦痛だけだ。俺が俺でいることを劉備は否定しないだろう。
 それでも。
 俺は俺の道を肯定されたいのだ。
 それが郭嘉の副官になる運命なのかどうかはまだわからない。
 けれど。
 郭嘉は大勢の中に一人でいる苦しみを知っている。そんな確信があった。
 だから。

「力になりたい相手がいるのです」

 誰とは言わない。劉備の器が本物であるのなら、そう言えば十分に受け入れられるだろう。案の定、彼は俺の言葉に一瞬だけ瞠目し、そして優しく微笑んだ。

殿。あなたの決断を私が踏み躙ることは出来ないようだ。よい出会いをされたのだな」

 そして尚も俺を引き留めようとする張飛に釘を刺し、劉備は遅い夕食と寝所の手配をしてくれた。それだけでも十分ありがたかったのに、翌朝、俺が小沛を出る際にはこうも言ってくれた。

殿、もしあなたが運命に迷ったらまた私のところへ来られるといい。私はいつでもあなたをお待ちしている」

 大器だ。見事なまでの大器だった。
 それでも俺は器で志を選ばなかった。その決断を下したのは俺自身だ。
 だから。
 見送りに出てきた劉備と彼に付き従ったけれど不服そうな張飛の二人を背に、俺は再び許へと向けて旅に出た。張飛が駄馬だから返さなくていい、と馬を譲ってくれたので少しだけましな旅になるだろう。
 許昌流行りの衣に袖を通し、小沛の駄馬で引き返す。
 郭嘉の誘いを受けてみよう。俺がどれだけ彼の力になれるかはわからないけれど、俺を欲したのは郭嘉だ。俺の中に彼が何かを見た。
 だから。
 着飾らず、背伸びをせず、等身大の俺で、無理のない努力を。
 そんなことを思いながら郭嘉の屋敷を目指す。
2013.05.26 up