Chi-On

Look Like a Shooting Star

人の顔色

 張飛がくれた「駄馬」が真実そうではないと知る頃、俺は許昌に辿り着いた。
 郭嘉は今度こそ屋敷の前で俺を待っており、彼の傍らには愛想のない鶏が侍っている。この屋敷で命あるものが全て俺の到着を待っている僥倖に軽く瞑目した。
 馬上から下り、荷とも呼べぬような小さな布袋を鞍から外していると郭嘉が笑んで言う。

「納得は出来たかい?」

 約ひと月にも及ぶ俺の迷走の旅路を思い出す。陶謙に仕えるつもりで東海を出たのだった。養父の出世を手伝いたいと思った。その養父は既にこの世にない。彼の遺言はたった一言で、どう解釈すればいいのかがわからないけれど、俺は俺なりに「生き永らえる」という観点で世を判じた。
 陶謙に仕えることは出来ない。彼の器は一州のあるじがいいところだ。天下を論じるには十分すぎるほど不足している。
 では類稀なる大器を持つ劉備になら仕えられるか。彼の理想は高潔だったし、人徳もあるだろう。けれど、俺が力を貸さなくても彼は彼の道を歩いて行ける。
 では郭嘉や曹操はどうだろう。
 曹操は天下に覇を唱えるつもりだ。父の死すら彼は自らが雄飛する道具とした。そういう男が配下をどう使うのかぐらいは俺にでもわかる。生きても死んでも利が絡む。生き永らえるには曹操の「益」でなくてはならない。
 俺はそういう息の詰まる生き方は望んでいない。
 だから、俺は曹操に仕えることは出来ない。
 では、郭嘉は。
 その答えを俺はまだ持っていなかったけれど、それでも郭嘉が俺を欲していることだけは明確に伝わる。その根拠も論拠も俺の中にはない。ただの直感だったから仕えてひと月と経たずに彼の下を去るかも知れない。
 そんな中途半端な感情を納得と呼ぶのなら、そうだと答える。

殿、私はあなたに言わなかったかな?」

 私は私の許す限り、あなたの速さで歩くことを肯定する、と。
 言った。言ったとも。俺はその言葉に惑わされて道を踏み外したのだから忘れることなど出来ない。

「本当に、私でいいのか」
「くどい。私が無用の相手に三度も会うような男に見えるのかい?」

 見えるわけがない。郭奉孝と言えば「享楽の才子」の別名を取ることぐらい、東海の田舎者の俺でも知っている。戦と酒とをこよなく愛し、それ以外のものには興味を示しすらしない。その郭嘉が曹操幕下の将以外に用もなく何度も面会する筈もない。
 それは、つまり。
 郭嘉の中には既に俺の居場所がある、ということだ。
 来るものを拒まず受け入れる大器に欲されたのとは意味が違う。選ばれたのだ、と少しの傲慢が俺の中に去来した。
 その傲慢が存外心地よくて俺は思わず苦笑する。
 
「貴殿はもう少し『殊勝』という言葉を意識された方がいい」
「それはもう諦めていただくのが最短の答えだよ。それで? 認めるのだね、殿」
「不承不承」

 諦めろと言われた。その言葉に嫌悪感がなかったから受け入れる。郭嘉の足元で鶏が一度だけ長く鳴いた。彼らの中で、俺の存在が闖入者ではなく同胞となったことも受け入れられたようだ。
 郭嘉の屋敷は市からは離れたところにある。俺と郭嘉と二羽の鶏だけが、新しい運命を知っている。その小さな秘密は十日もしないうちに許に広く知れ渡るのだけれど、今だけは束の間の優越感に浸る。
 郭嘉が満足そうな顔をしながら踵を返す。張飛がくれた「駄馬」の手綱を引いて、郭嘉の背が消えて、しばらくするとまた門前に戻ってきた。彼の背を追わずぼうと立っていた俺に苦笑して、郭嘉はこちらへ、と言った。俺はその背を追ってようやく屋敷の中に入る。

「ならばあなたは今日から私の副官、ということだね」

 住まう屋敷もないのだろう、この部屋で起居するといいと空いた部屋に案内される。室内には質素ながら寝台と文机と椅子が一組、それから大きな書棚が揃っていた。その調度の一つひとつは質素ながら丁寧なつくりで、郭嘉が俺に与える為に態々設えたのが一目でわかる。分不相応だ。それでも郭嘉の好意がありがたかったから、礼を言う。

「ご厚意、感謝する。ただ」
「ただ?」
「私としては貴殿に弟子入りする、ぐらいのつもりで参ったのだが」

 これほどの高待遇を受けるとは思ってもいなかった、とぽつり呟く。
 すると郭嘉は意外そうな顔をした。

「弟子? あなたが? 私のかい?」
「副官は必要でも、弟子は不要だろうか」

 まるで思ってもみないことを言われたという表情だったので、俺は焦って次の問いを口にした。自己保身だ。そんな言葉が脳裏をよぎる。軍師の前で自己保身など何の意味も成さない、ということをその次の瞬間に思い出し失態を心中で呪った。
 けれど、郭嘉はそんな俺を気にするでもなく悠然と笑む。謀略以外の純粋な好意から笑むとき、この男はとてつもなく素朴な顔をする。記憶の中の養父の笑みと重なって見えて俺は思わず瞑目した。

「いや、そんなことはないよ。ではあなたは今日から私の副官で弟子、ということにしよう」
「不束者だが、以後世話になる」

 そんな紋切り型の挨拶を交わし、次に俺は郭嘉の部屋へと通された。食事や休憩の時間ではないから、早速俺の仕事が始まる。
 その前に、と郭嘉は一旦俺に着席を求めたので、俺は部屋の隅に置いてあった丸椅子を引き寄せて座った。

殿――いや、孝徳、と呼ぼうかな」
「何か?」
「師や上官に仕えるに相応の態度、というものがある。今後はそのように振る舞ってもらおう」

 今までの柔和さは消え、鋭い眼差しが俺を射抜く。これが郭奉孝だ。そう直感する。遠くから見ていたのではわからないけれど、峻烈さを郭嘉もまた持っている。
 俺はもう郭嘉の客ではないのだ、ということを現実のものとして直視した。

「ではあなたのことは何とお呼びすればいい」
「あなた――いや、君が敬意を表するに値すると思う言葉で十分だよ」

 郭嘉の中には何らかの答えがある。その答えを求めて問うた。当然のように答えは返らない。思考しろ、と言われているのだと理解する。丸椅子の上に座っているのが急に居心地悪くなった。知らず知らずのうちに自負が薄れ、背が丸くなる。孝徳、その声が俺の背筋を正した。
 こうするべき答え、を探して視線は部屋の中をあちらこちらと彷徨う。その様を見届け、郭嘉は困ったように笑った。

孝徳、君に一番大切なことを最初に教えておこう」
「一番大切なこと?」
「そう。君が私の副官として生きて行く上で一番大切なことだよ」

 ただ、私がいつも君に答えを教えてあげるとは限らないから、勝手に私をあてにするのはやめなさい。そんな前置きと共に、彼は本当に短い言葉を紡いだ。丸椅子の上、背筋を正した俺の両耳からその音は脳漿に真っ直ぐに響く。

「人の顔色を窺うのはやめなさい」

 取り敢えず、今日はそれを理解したら終わりにしよう。君は多分、食事を準備することも、衣を洗うことも知らないだろうから、そういう根本的なことを教えてあげようか。
 執務机の上、両手の上に顎を置いて郭嘉が穏やかにそう言う。
 郭嘉の副官として生きて行くのに必要だ、と言われた筈の最初の一言の意味が上手く嚥下出来ずに俺は口の中でその言葉を音には出さず反芻した。
 思えば、俺は生まれてこの方、ずっと誰かの顔色を気にして生きてきた。そうしないと生きていけない、と誰かに教わったわけではない。ただ、誰かの庇護下で生きて行く方が楽だと本能的に知っていた。故国では姫巫女様や司祭たち、東海では養父や義弟たちが気にいるように、というのをずっと考えていた。
 今も。
 郭嘉が軽い言葉で俺を試した。その奥にあるだろう答えを探すのに終始し、彼の表情から読み取れるものがあまりにも少なくて返答を躊躇した。
 そのことを郭嘉は見抜いている。
 正解ばかりの人生なんて無意味だ。わかっている。そんな薄っぺらな人生なんてごめんだ。そう言って俺は張飛の誘いを蹴った。
 わかっている。
 そう嘯いているけれど、本当は何もわかっていない。

「わからない」

 気が付くと言葉が唇の上に載っていた。

「俺には一寸先のことしかわからない。あなたが俺に何を見ているのかも、俺がどうすればいいのかも、わからない」

 それでも郭嘉が俺に思考を求めていることだけは理解出来たから逡巡している。最適解はどこにある。最適解でなくてもいい。無難で平均的な解でもいい。「失敗」ではない答えが見えなくて焦れているのだと訥々と語れば、郭嘉は少し厳しい顔をした。

孝徳、君は一体何様になったつもりなのだい?」

 君と私が出会ってひと月だ。
 その間、会った回数を数えれば今日で三度。たった三度で全てを見透かされるほど郭嘉は安くない。郭奉孝は享楽の才子だ。俺が今まで出会ってきたどんな人間より複雑に出来ていてそう簡単には理解が及ぶべくもない。
 だのに俺はいつの間にか郭嘉をも理解出来る筈だと思っていた。それを把握出来る筈だと信じていた。その過ちの一つひとつが郭嘉の言葉で明らかにされる。

「君は一体いつから万能の神になったのかな? それとも、私はたった一度の過ちも許せないほど狭量に見えているのかい?」

 そうだとしたら心外だな。言って郭嘉が流麗な眉を顰めた。
 執務机の前から立ち上がり、窓辺に立つ。その後ろ姿に哀愁のようなものを感じた。
 彼に悲哀を与えたのが俺自身だと気付き、俺も慌てて丸椅子から立ち上がった。郭嘉の背にもその気配は伝わっただろうに反応は返らない。

「違う、と言っても言い訳にもならないだろうが、聞いていただけないだろうか」
「一応は、聞いておこう」
「あなたの言う通り、俺は少し自惚れていたようだ」

 天才に選ばれる優越感に浸っていた。自分だけは特別なのだと勘違いしていた。俺の無礼は許されるものだと思っていた。何も知らない。何も分からない。だから許される。
 そう、思っていた。
 そのくせ、自尊心を傷つけられるのが嫌で失敗を恐れている。わかっている振りをしたかった。自分には不可能なことがあると受け入れることから逃げていた。
 それが、相手の目にどう映るかも考えずに。

「私の無礼を許していただきたい。いえ、許してはいただけないでしょうか」

 振り向かない郭嘉に向けて身を折る。
 これは自己保身ではない。形式的儀礼でもない。だから郭嘉が真実俺を許さないのならば先の口約束はなかったことになる。それでも、ただ一言詫びたかった。
 自己満足だなと自嘲した。
 郭嘉がゆっくりと振り向く。

孝徳、では君の答えを聞こう。君は私を何と称するのだい?」

 折っていた身を起こす。郭嘉の表情には怒りも失望も満足も含まれていない。
 ただ、彼の中には好奇心だけが満ちていた。
 俺はその眼差しに正面から向き合う。湖水の色をした瞳から決して逃げずに息を吸った。

「師父(せんせい)とお呼びしたいと思います」

 郭嘉の年のほどはわからない。俺がこの国に来た頃には名前を聞かなかったから、同年か、或いは二、三ほど下なのかもしれない。父と呼ぶにも師匠と呼ぶにも遠い気がした。けれど、郭嘉の俺を見る眼差しは養父のそれとさほど変わらない。
 だから。

「私はこれから先、あなたの背を追って生きて行きたいと思っているのです」

 誰から教わったのでもない。俺が二十年と少し生きてきた経験から生まれている。郭嘉は俺を害するつもりはない。上手く利用したいと思っていないという確証はない。それでも、騙されても構わないと思った。
 その信頼を表すことが「師父」と呼ぶことならば、それはそれで構わない。

「私は君の父にはなれないけれど、本当に構わないのだね?」
「それが私に出来る最上の表現ならば」

 決意を眼差しに込める。
 郭嘉は――いや、師父は静かに瞼を伏せた。
 湖水がほの白い瞼に遮られて消える。そして、再び煌めいたとき、その色の中には許容が浮かんでいた。

孝徳、本当に私が君の師父で構わないのだね?」
「もとより私がそうお呼びしたのであれば」
「私の道は易くはないよ」
「私の道も端から易くはございません」

 大海を漂い、故国と離れ、二度、九死に一生を得た。この人生が易いのならば、現実はいつでも楽園に変わる。
 だから。
 今更困難が一つ二つ、いやもっと増えても意味のある道ならば悔いることはないだろう。師父の試すような眼差しを正面から受けた。

「後悔はしないのだね?」
「もっと早くにあなたと出会っていたら、と後悔させていただきたい」

 他人の顔色を窺うのはやめなさい。先ほど告げられたばかりの言葉が脳裏で反響する。相手の顔色を窺うのではなく、俺の中の真実を以って相手に応えよう。師父は俺の運命を変えた。その運命と対峙すると決めた。
 迷いはある。
 それでも、俺はもうこの湖水に惹かれている。この瞳に俺の姿を映していたい。
 だから。
 敢えて挑発的な態度を取った。師父が満足げに笑む。

「その言葉が真実なら、君にはやはり十分な気概が備わっている。来なさい、孝徳。君に覇道を行くものの秘密を一つ授けよう」
「秘密、でしょうか」
「或いは呪い、なのかもしれない」
「意味がわかりません」
「とにかく付いて来なさい」

 そう遠くはない場所だから。
 言って師父は部屋を出て行く。俺の隣を通り過ぎたその背は止まることなく前に進み続けている。俺は一拍遅れで慌てて師父の背を追った。
 師父はそのまま屋敷を出て城下を人気の少ない方へと進む。
 その瑣末な小屋は許の最深部にあった。城からも門からも離れ、普通の人間なら立ち寄る機会がそもそも存在しないであろう場所に、今にも崩れそうな石組みの小屋がある。
 小屋の前で足を止めた師父は「ここだよ」と短く目的地への到達を告げた。

「ここは?」
「私たちは『姿見の部屋』と呼んでいるね」
「『姿見の部屋』?」

 入ってみなさい。言って師父はさっさと薄汚れた布幕の向こうへ消える。
 見るからに不気味な外観に俺は二の足を踏んだけれど、今更臆したと師父の屋敷に帰ることが許されている雰囲気ではない。息を呑んだ。丹田にぐっと力を込める。もし万が一、この小屋が俺に害するものだったとしても、俺は運命を受け入れよう。腹を決め、俺もまた幕をくぐった。
 内装は外観が与える先入観を一切否定しない荒涼とした雰囲気で、今にも朽ちそうだった。色褪せた敷布の手前に師父、奥に一人の薄汚れた老人が座っている。顔中の体毛と呼べるものが凡そ伸び放題で、表情などは読みとれない。その顔面の中央で窪んだ眼窩の中、鈍い光が一瞬だけ俺を射た。敷居の上でその怪しげな眼差しを受けた俺は思わず硬直する。師父がその様を見て愉快そうに笑った。

孝徳、この方は『大人(ターレン)』と言う」

 座りなさい。私も「大人」も君を害することはない。
 促されて俺は強張った体を無理やりに動かし、師父の隣に座した。
 俺が座面に納得したのを見届けて、師父がゆっくりと喋りはじめる。

「『大人』?」
「君も聞いたことぐらいはあるだろう。この国には『仙』がいる」

 「仙」というのは人の身でありながら「神」の世界に足を踏み入れた存在のことだ。海の向こう、俺の故国では「神」は人間の始祖だということになっていたし、人身で神である者は「現人神」と呼ばれる。故国で「長」たる存在は皆「神」だったから、「神」の血統でなくても国を治めることが出来ると知ったときには随分と驚いたものだ。「仙」は資質と本人の努力で到達するもの、だという認識が俺の中にはある。
 けれど。

「お伽噺の神様でしょう?」

 漢では「神」も「仙」も政をしない。お伽噺の中にだけ存在し、人々の信仰を得る。永遠に死なないもの。人間離れした呪術を使うもの。人の営みをただずっと見守っているもの。そういうものが「仙」だと養父からは教わっている。
 そう、言えば。

「巷説の真偽は半分ずつ、といったところかな。『大人』は君の言う『本物の』神様、ということになるね」

 周の太公望の時代から生きておられる。
 そんなことをさも当然のように告げられて俺は瞠目した。周代など神話の世界だ。その時代から生きているということ自体がまやかしにしか聞こえない。千年以上前の話だ。そんな世迷言を俄かに信じることが出来ない。
 信じられない、と明言する。師父も「大人」もそれに不快げな顔をするでもなく、まるで何ごともなかったかのようだった。

「では孝徳、話を変えよう。私は君の眼に何歳のように見えるのかな?」

 話が変わりすぎている。何をどう結び付ければ「大人」が周代から存命している「仙」だという話の説明が、師父の年齢になるのだろう。まさか、師父まで周代から生きているなどと言い出すのではあるまいな、と疑いながら俺は問いの答えを口にした。

「私と同年、のようにお見受けいたします」

 敢えて具体的な数字は出さなかった。逃げ道を残した解答に師父は穏やかに笑んだまま一歩踏み込んでくる。逃げられるわけがない。逃げ切れる道理がない。

「君の年齢は?」
「記憶に誤りがなければ二十三、ですが」

 故国を出る時、俺はまだ齢十三の小童だった。その俺が漢で十年を過ごした。その計算に誤りがなければ、俺は今年の正月で二十三ということになる。
 そう、正直に告げると師父は意を得たように頷いた。

「では同年ではないね。私は今年、二十八になる」

 あまりにもあっさりと告げられた正解に俺は瞠目する。
 同年の若造だと思っていた。或いは年下の割に妙に冷めた青年だと思っていた。
 その思い込みが一刀両断される。

「にじゅう、はち、ですか」
「如何にも。年上だとは思わなかったかい?」
「いえ、あの」

 五つも年下に見ていた。それは侮りではないだろうか。軽視ではないだろうか。所詮俺と同じ時間しか生きていないくせにと思わなかっただろうか。
 それは師父に伝わってしまっていなかっただろうか。
 緊張と混乱が頭の中を駆け巡る。
 何と弁解すればいいのかがわからない。
 返答に窮しもごもごと口の中で言葉にもならない音を重ねていると、師父はそんな俺に構うことなく泰然とした態度で言う。

「でも、これで話が簡単になった」
「え?」
「君の眼に私は二十三に映る。そのことは侮りでも軽視でもないよ、孝徳

 なぜなら、私はその年齢で時を止めたのだから。
 にこにこと、まるで顔の部位が零れ落ちそうなほど満面の笑みを浮かべ、師父は言った。時を止める、という言葉の意味が理解出来ず、俺は更に困窮する。何を言っているのだ、この方は。時など止められる道理がない。何かの比喩だ。そう思うのに答えにはいっこうに辿り着かない。俺の思考の限界を超えて尚、問題は渾沌としたままだ。

「仰っている意味がわかりかねます」
「では順を追って話そうか」

 師父が言うにはこうだ。
 古来、天下を求めようとする人間は常に「仙」の力を使ってきた。不老不死とされる「仙」の力を使うということは「天意を得た」と言うのと僅かの差しかない。周の文王が太公望を求めたように、覇者たらんとするものは自らが「仙」になるのではなく、「仙」の助力を受けるのが筋だ、と考えることが多い。
 黄巾党のように「仙術」を自らが使役すればそれは既に天意ではなく、ただの賊徒にしかならない。そのことは既に証明されている。天下を統べるのは天意でなくてはならない、とより強く諸将は再認識した。
 その結果、天下に覇を唱えんとするものは自らを庇護する「仙」を探すことにした。この豫州では今俺が対峙している「大人」がその適合者で、曹操幕下では信の置ける古老、ということになっている。
 周代から生きている、という「大人」の審美眼に適った、というだけでも曹操には天下を争う権利がある。
 そして。

「人は外見から多くを得るものだと思わないかい、孝徳
「若輩と侮ったり、老練と怖れたり、でしょうか」

 それは儒の教えだからどの州でもどの年代でも普遍の価値観だ。自らより若い者には大きな態度を、年配の者には謙虚な態度を。そういう風にこの国は成り立っている。
 
「よくわかっているね、孝徳

 年齢の他には纏っている衣の色、模様、意匠、そんなものも大きく影響する。
 けれど、それらはいつでも偽ることが出来る。誤魔化せないのは年齢だ。人は老いる。朽ちて行く時間を止めることは誰にも出来ない。

「だから、私たちは『姿見の部屋』に来るのだよ」
「それは師父も『仙』だということなのでしょうか」
「『仙』の恩恵を受けているだけで、私も曹操殿もどの将も皆人間だね」

 老いもする。病にかかるし、怪我もする。勿論、最後には死ぬ。
 それでも。

「それを人の目から遠ざけることが出来るのはありがたいことだとは思わないかい?」
「人の目から、遠ざける、とは?」
「病床に就いても、怪我を負っても、年老いても自分以外の誰もにそれが伝わらなければ、人は永遠を錯覚する。その錯覚を利用出来れば、これは心強いことになるだろう」

 要は現実は不変のまま、他者の目に映る偶像だけを入れ変える。そういうことかと問い返せば、理解のある弟子に出会えて私は幸運だね、と師父は目を細めた。

孝徳、呪いにも似たこの秘めごとを君に授けてもいいかい?」

 他人の顔色は窺うものではないよ。そう言った時の真摯さと同じ誠実さで紡がれた言葉に俺はゆっくりと瞼を伏せた。饐えた臭いが鼻腔に広がる。ここは現実とは乖離した場所だ。姿を偽るから「姿見の部屋」か。なるほど、曹操軍にはそういう夢幻のような何かを求める気風があるらしい。
 たとえば、俺の隣でゆるりと寛いだ雰囲気を醸し出しながら、その実緊張の極みにある俺の師父のような。
 そんな気風は俺も嫌いではない。
 ただ。

「そういうことは屋敷を進発するときに問うていただきたい」
「君が拒むのならば、私もまた強制はしないよ」
「このような秘めごとを明かされて、逃げるような真似が許される筈もありますまい。拒めば、師父の手によって屠られるのでしょう?」
「そんなことはないよ。ただ、君は一生私に飼い殺されることにはなるけれど」
「大意が変わっていません」
「案外些事に拘るものだね」
「些事で命を左右されては堪ったものではないでしょう」
「それで? どうするのだい、孝徳

 今更答えを訊くのか。答えなど最初からわかっていただろう。
 わかっていて俺をここへ誘っただろうに、首肯を求めている。郭奉孝という男のすることの割には随分と卑怯な手法だ。
 だから。

「俺を救ったのはあなただ。お好きなようにこの命、お使いください」

 言って正面から「大人」を見据える。暗く窪んだ眼窩に一筋の光が宿るのを見た。
 それからのことは正直あまりよく覚えていない。何やら妙な香りのする煙を浴びせられ、むにゃむにゃとまじないの言葉を聞かされたのだけは間違いがないのだけれど、だからと言って俺の身に何か変化があったわけでもない。
 一刻ほどで俺は解放され、師父の屋敷に戻ってきた。
 そして、師父の宣言通り、衣を洗うことを教わる段階から全てが始まった。
 水を汲むことから始まり、屋敷の裏庭で慣れない洗濯をしながら俺は言う。

「師父、このようなことは下女を雇うものだと思うのですが」

 人気のない大きな屋敷を見る限り、金銭的に余裕がないわけではないだろう。人を雇えばいい、と言えば師父は衣を洗う手を止めて不意に真面目な顔をした。

孝徳、君は恋をしたことはあるかい?」
「そのような機会に出会ったことがありません」
「二十三年も生きているのに、かい?」

 二十三年も生きているのに、だ。
 十三で国から離れた。その先の八年は手探りで人を恋しがる余裕などなかった。
 俺は容姿に優れているわけではない。武術が出来るわけでも、智謀に長けるわけでもない。ほんの少し、平凡で非凡なだけのどこにでもいる流れものだ。
 そう、言い返すのも癪な気がしてそっぽ向く。

「師父を基準にしないでください」

 子どもの小さな自己主張のつもりだった。
 負け惜しみで言った台詞が、けれど師父の中で何かを生み出し、彼に瞼を伏せさせた。湖水の輝きが人を惹き付けるだけではない。その白い瞼が湖水を隠しても尚、彼には眩さがある。

「では、君は今から恋を学ぶ必要があるね」
「なにゆえでしょうか」
孝徳、世間での私の評価は?」
「享楽の才子、とお聞きしております」

 享楽の才子。軍略と戦術と美酒と美女をこよなく愛す。
 尊敬の意を込めて享楽の才子と呼ぶものもいれば、蔑称の代わりに使うものもいる。
 俺が彼の二つ名を聞いた情報源の男は後者だった。
 だから、師父の評判の意味は知っている。
 それでも。

「それを知っているのに、下女を雇えと言うのかな?」
「師父はそれほど軽薄ではありますまい」
「けれど世間はそうは思わないだろう。郭奉孝の屋敷の下女、というだけで攻撃を受ける女性もいるだろう」
「年齢には関係なく?」
「女性に年齢などと言う概念は存在しないものと思いなさい」

 どうしてあの娘は良くて自分は選ばれないのかと思うものは必ずいる。
 どれだけ醜女を探そうと、それでも嫉妬と羨望は途切れない。女が郭奉孝の屋敷にいる。それだけで十二分に標的となりうる。
 師父は世の女性をこよなく愛している。師父の所為で誰かに傷付けられる女性がいることも、誰かを傷つける女性がいることも、師父は受け入れられない。
 だから、師父は屋敷に女を置かない。

「そういうものですか」
「そういうものだよ」
「では、下男を雇えばいい」

 その言葉に師父はぱっと俺を見た。酷く嫌そうな顔で、流麗な眉間に深く深く皺が刻まれている。郭奉孝でもこんな顔をするのか、と意外な気持ちになった。

「私はむさくるしい男と一つ屋根の下で暮らしたくはないのでね」
「私もむさくるしい男の一人なのですが」
「そうだね。でも、君には愛嬌がある」

 それに、君は多分自分が思っているよりは優れた容姿だと思うのだけれど。
 二十三で止まった容貌。「大人」が亡くならない限り消えない一生の呪い。
 平均に見劣りしないと言うのならばそれに越したことはないけれど、それでも、俺の持つ雰囲気は決して漢人のそれとは同じにはならない。俺の顔のつくりの中には一生倭の趣きがある。
 それをひとくくりにして、師父が「愛嬌」と表現したのだと受け取る。
 容姿の評価など主観でしかない。
 だから。
 師父が俺を否定しないのならば、今はそれ以上の意味を求めるまい。
 そう、決めて俺は再び盥の中に意識を落とした。
 不器用な俺では中々落ちない汚れに悪戦苦闘しながら、冗談を一つ紡ぐ。

「ところで、師父。俺の俸禄ですが」
「それはおいおい考えよう」
「考えていなかったのですか」
「子どもの遣いぐらいは出来るだろう? それに見合った駄賃をあげよう」

 完全なる子ども扱いの態度に俺は思わず不貞腐れた声を出した。
 視線だけ師父の方へやると晴れ晴れとした顔で笑っている。

「俺は子どもではないのですが」
「そうだね、失礼だった。君より、子どもの方が格段にまともな仕事が出来る」
「師父」
「早くにその現実を打開してほしいものだね」

 さぁこの衣を干したら市に出かけようか。
 そんなとても平凡で呑気な遣り取りをする午後のこと。
 俺は郭奉孝の弟子で副官になった。
2013.06.02 up