Chi-On

Look Like a Shooting Star

五十年の才

 郭奉孝の辞書に「手解き」という言葉はない。
 俺が師父(せんせい)の弟子になってから三月。日常生活に必要な最低限の知識を諳んじられるばかりで、副官らしい何かを求められるときはいつも初手が本番だった。今から言うことを書き留めなさい、という指示がある。それを書き留める。この国では既に失われて久しいと言われている速記法を使っているので、俺が速記した書面は俺にしか読めない。だから師父は俺の覚え書きに興味を示さない。そして、その後は「これは誰誰将軍に提出するから清書をしなさい」という指示があるときと、それから三日ほどして「先日の私の話を思い出しなさい」というときの二種類に大別出来る。
 どちらの指示も未だ明確に失敗したことはないけれど、同時に明確に称賛されたこともない。俺が師父の副官になることをあんなにも熱望されたのは夢だったのではないだろうか、だなんて時折思い、竃の前で一人涙を流す、俺にとっては既にありふれたある日の出来ごとだ。
 今日も、師父より早くに起床し、家事雑事をする。師父は朝に弱い。だからいつも朝食は昼食と兼ねるので、掃除、洗濯、炊事の順番になる。師父に似て気ままな鶏たちに餌を与えていると、表からその力強い声が聞こえた。

「郭嘉。郭嘉はおらんのか」

 来客だ。けれど師父は昨日も深酒を召されていたので、まだ起き出してくるような刻限ではない。世間では既に半日分の仕事を終えていなければならない、という常識を今更思い出した。俺の人生はこの三カ月で見事に変貌し、東海で暮らしていた頃の原形を留めていないと苦笑する。
 鶏たちの前で苦笑いをしているうちに留守と判じられ、客人が帰ってしまうのは俺の手落ちになる。速やかに立ち上がり、表に向けて駆け出した。
 門前で憤然と立ちはだかっていたのは、一目で武人とわかる男だったけれど、俺には彼の名前がわからない。俺の仕事は顔も知らない師父の客に手紙を書くことだったから、当然諸将と面識がある筈がない。
 この三月、師父の屋敷を訪れる客はいつもどなたかの副官か文官ばかりだったので、来客対応の基礎は身に付いたけれど、将軍と呼べるだろう相手に出会うのは初めてだ。緊張が全身に走る。
 思わず身を固くした俺に構うことなく、将軍然とした男は「お前が郭嘉の弟子か」と問う。反射的に頷けば、彼の瞳に好奇心が灯った。

「郭嘉はまだ夢の中か」
「もう二刻は起きてこられないと思います。お約束がございましたか?」

 昨晩師父が戻った際に、今日の来客があるとは聞いていない。酒に溺れるのが趣味で、けれど決して流されることのない師父に手落ちがあるとは考えられなかったが、念の為に問う。午(ひる)を過ぎないと起きてこない師父と生活を続けるうちに、それが自然なことのように思っていたが、やはり曹操幕下でも他の将官は「普通」に暮らしているのだと思い直した。
 俺がそんなことを思っているなどとは露ほども思っていないだろう男は平然と答えを返す。その内容と表情が一致していないことに違和を覚えたけれど、解には辿り着かない。

「いや、火急の用件でな。孟徳がこれを郭嘉に、と」
「お急ぎならば無理にでも起きていただきましょうか」
「その必要はない。孟徳は三日以内に返答があればよい、と言っている」
「それは火急の用件ではないと思うのですが」

 師父を起こす算段、を始めた俺の脚を男の言葉が止める。三日以内に返答があればいい用件ならば午を過ぎてからくればいい。目の前の将然とした男が、郭奉孝は朝起きない、という当たり前のことを知らないような一兵卒には見えないし、冗談で俺をからかっている風にも見えない。
 寧ろ彼はいつでも直球ど真ん中で真剣勝負だという空気を持っているように見受けられた。
 困惑を顔中に浮かべる俺に、男は顔色一つ変えずに言う。

「火急の用件だ。弟子、お前に用がある」
「私に、でしょうか」
「この三月、郭嘉の出してきた書簡の文字が平生とは違っていた。書いたのはお前だな?」
「相違ありません」
「ならばやはりお前に用がある。青州兵の連中が諍いを起こした。今から調停に出向く。お前も同道しろ」

 孟徳の指示だ。
 そう言われて俺は瞠目した。「孟徳」が誰かを知らない筈がない。
 曹孟徳――曹操と言えば師父が献策している相手だ。俺にとっては間接的なあるじに当たるが、同時に養父の敵でもある。「殿」と呼ぶべきかどうか、迷って師父に問うたことがある。君がそれを受け入れられるのならそうお呼びするといい。そう言われてふた月経った。俺の中にまだ答えはない。
 その、曹操の謀略の中に俺がいる、というのは既に想像の範疇を凌駕している。曹操は才しか認めない。用いられるというのは即ち認められたということだ。その甘美な響きに一瞬だけ酔って、けれど同時に困惑する。俺は戦う術を持たないし、師父以外の曹操麾下の将と面識がない。戦場に出て行って、俺が何をどう出来るのだろう。
 不安が胸中に満ちた。
 憂いは喉元を通り、顔中に充満していたらしい。将軍然とした男が不意に少しだけ柔らかな表情を見せた。

「弟子、名は?」
、と申します」
「そうか、。俺は夏侯元譲と言う。お前がもしもこの任を受けるのなら俺の字をお前に貸してやろう」

 名乗り合い、ようやく俺は彼の正体を知る。
 その、あまりにも意外な名に彼の名を呼ぶ権利を与えられた現実よりも、先に驚きが口から洩れた。師父がこの場にいたらきっと溜め息を零すだろう。

「夏侯惇、将軍? あなたが?」

 思わず問うたその言葉に、いつの間にか消えていた好奇心が再び夏侯惇将軍の瞳に灯った。今度は何かを試している。
 他人の顔色は窺うものではないよ。一番最初に師父が教えた言葉が耳の奥に蘇る。
 色よい返事をするのは簡単で、けれどそれはいつか身を滅ぼす。そのことを茫洋と理解し始めていたから、俺は自分の失態を呪う。それでも現実はやり直しを許さない。

「ほう、俺のことを知っている、という口ぶりだな」

 返答を濁すことは許さない、という強い口調に怖じる。
 それでもその獰猛さと立ち向かうだけの気概が奇跡的に俺の中に備わっていた。
 二度、目を瞬かせる。息を吸った。胸を張る。ぐっと、顔を上げた。
 そして。

「きめ細やかで形の整った書をお書きになられるので、優男だと思っておりました」

 夏侯惇将軍の文から受けた印象を正直に告げる。整った文字、丁寧な言葉遣い。そしてその奥に見える確固たる信念。師父の自分さえ読めれば後は何でもいいという姿勢を見ていただけに将軍の誠実さからは柔らかさを感じていた。夏侯惇将軍は常に読む相手を意識した書簡を認められる。
 きっと優しくて温かそうな容貌をしているのだろう、なんて勝手に決め付けていた自分自身を恥じる。夏侯惇将軍は優男ではなかった。寧ろ剛直さを感じる力強い風貌だ。
 けれど。
 俺は彼の瞳に文と同じ誠実さを感じた。

「郭嘉ほどの美貌でなくて落胆したか」
「いえ、繊細で緻密、それでいて豪気。諸将に敬われる理由が何となく理解出来ました」
「褒めても俺は何も出さんぞ」

 照れるでも誤魔化すでも嗤うでもなくそう前置きされる。そして喜ぶでもなく、恐縮するでもなく、ただ緩慢に「そう見えるか」と彼は一言呟いた。

「それで?」

 とまるで当然のことのように彼が問う。
 問われた俺は何の話か、咄嗟に思いつかず問い返す。師父が見ていたらもうこの時点で嘆息ものだ。

「それで、とは?」
「青州兵の鎮圧に向かう。お前も来るな? 
「夏侯惇将軍」
「元譲、で構わんと言っている」

 闊達に夏侯惇将軍は笑い飛ばしたが、一文官見習いの俺としてはその申し出を即諾するわけにはいかない。夏侯惇将軍、ともう一度呼んだが返答がない。何も聞こえていない、という体の彼に協調性と模範性だけが自慢の俺は諸手を上げた。

「では元譲殿。私は師父の指示がなければこの屋敷を出ることが出来ません」

 青州兵の諍い、ということは暴力的な騒動だということだ。俺は文官で、武術の心得がない。随行しても何の役にも立たないし、寧ろ足手纏いだ。俺が世に出るには未だ時期尚早だ、と師父が判じているのにも納得している。
 だのに。

「孟徳の命だ。事後承諾で構わんだろう」

 時間がない、急ぐぞ。言って夏侯惇将軍――元譲殿が俺の手を取り駆け出す。武人である彼の腕力は強く、俺の抵抗など意味をなさない。俺は預かっていた書簡を慌てて門の傍らに置いた。師父の屋敷の鶏がくけ、と鳴いたけれど師父が目覚める気配はない。
 こうして俺の何の変哲もないある日が突如として変貌を遂げ始めた。



 結果から言えば、その任務は俺の持っている才だけでもどうにか乗り越えられるものだった。
 黄巾党の残党である青州兵たちの中で憤懣が爆発し、暴走していた。老主たちと曹操との間で交わされた約定に抜けがあったのが主な理由だったので、その不備を埋める通達を持って元譲殿が出向かれた。老主の前でその通達が読み上げられ、それに同意したことの証文をその場で俺が書き上げ、互いに署名した。二通作成されたその証文の片方を青州兵たちに、残る一方を元譲殿が持ち、帰路につく。
 腕力や武力が必要な部分は全て元譲殿と彼の配下がやってくれたので、俺はただ彼らの会話を書き留めるだけの任務だった。
 初めて一人で何ごとかを成し遂げた達成感と、一抹の疲労感に浸りながら馬――かつて張飛が俺に譲ってくれた馬は師父の屋敷の厩に繋がれているのでこれは借りものだ――に乗っていると隣を進む元譲殿が不意に言う。

、噂には聞いていたが中々の才だな」

 あなたの才を私の為に使ってほしい。そう言って請われた筈の才だったけれど、これが三カ月ぶりに受ける賛辞だ。師父は俺の才を褒めない。厳格な趣のある元譲殿に評価されたけれど、彼は俺の中でまだ風聞の中の男に過ぎない。
 だのに。
 何の前置きもせず言われた、飾らない言葉が俺の中心を捕えた。
 口角が僅かつり上がり、理性で押し留め自分自身を俯瞰する。

「まだまだ行き届かない才でもあります」

 まだ俺は何の結果も残していない。賞罰は何も受けていない。
 だから褒められるのは過分だと身を退く。
 元譲殿がより愉快そうに笑った。

「ははは、そう卑下するものでもあるまい。あの郭嘉が認めた弟子だけのことはある」
「認められる、には今少し足りません」

 師父の中で俺という存在はどこにあるのだろう。弟子だと認めていただけているのだろうか。代筆した書簡を届け、不備があったと言われたことはない。
 けれど。
 その暗黙の評価で満足するのか、と俺の中の師父が問う。君は郭奉孝の弟子になりたいのではないかな。胸の内で問いが生まれて一人反駁する。そうです。私はあなたの弟子になることを望んだ。
 軍略の「ぐ」の字も謀略の「ぼ」の字も戦略の「せ」の字も知らない。俺が知っているのは僅か数名の文官の名前ばかりだ。
 認められていないのだろう。
 断定にも似た推測が俺の身に下りてくる。
 まだまだだ。まだこれからだ。
 俺はまだ始まってもいない。
 だから、俺は元譲殿の言葉に緩く首を横に振った。
 元譲殿の眉間に深い皺が刻まれる。その感情を一言で表すなら不快。不満げな彼の眼差しの先でひゅっと息を呑んだ。元譲殿が首を捻り、そして問う。

「郭嘉がそう言ったのか?」
「言われずとも察するのが軍師見習いというものではありませんか」
「なるほど、俺にはその機微がよくわからんが、そういうものなのだろう」

 お前がそう言うのならばそうなのだろう、お前の中では。
 言われなかった後半が俺の耳朶の奥で響く。客観性と模範性だけが取り柄の俺にその言葉は辛辣な意味を持っていた。人は所詮主観でしか生きられない。他人の顔色を窺うものではないよ、と師父が言った訓示の意味を今更考える。
 この三カ月、俺はずっと師父に守られてきた。その中で巷間を見て、自分なりに何かを学んだ。元譲殿の行為の意味、を茫洋と考える。師父の庇護下から無理やり現世に引き出してまで俺を利用して何をかを成したいのなら、そこには謀略がある。

「元譲殿、私を師父から引き離した本来の目的、というのをそろそろ教えてはいただけないでしょうか」
「何の話か見えんな」
「そうとぼけることでもないでしょう。書記官が必要なら貴殿の配下にもおられる筈だ。速記の才が必要だと貴殿は仰られたが、先の遣り取りを見るに記す内容は許を出立した時点でほぼ決まっていたも同義。私である必然性などどこにもない」

 だからこれは茶番だ。俺の学習能力がそう算出する。俺でなくては務まらない任務、だなんて甘美な言葉に惑わされるほどは若くないし、その裏を読み切れるほどには世間ずれしていない。結論は見えなかったけれど中継地点まで辿り着いた。元譲殿は俺に何かを隠している。これは推論ではない。確信だ。

「ふん、なるほど。腐っても軍師の弟子か」

 騙しきれると思っていたがな。元譲殿が不意に真剣な顔をして言う。俺はその横顔からじっと視線を外さずに答えを待った。その数瞬が永遠にも近く長い。
 深く息を吸う。
 元譲殿の瞼がゆっくりと伏せられた。

「孟徳が、お前に会ってみたいらしい」

 誰が誰にだって?
 思ってもない返答に瞠目した俺などを置き去りにして、元譲殿の独白は続く。

「『舶来』はいつ登庁するのかと焦れている。お前が来てからずっと万事がこの調子で俺も手を焼いているのだが、郭嘉が首を縦に振らん」

 あれはあれなりにお前を守ろうとしているのだろう。変なところで不器用な男だと彼は笑ったが俺はそれどころではない。
 曹操が俺に会いたいだって?
 才しか認めない奸雄がどうして俺のような凡才を求めるのだ。会ってどうする。失望するだけだ。所詮俺は平凡な非凡さしか持ち合わせていない。特別な才を持っているのなら師父はもっと俺を称賛する筈だろう、だなんて考えて虚しい仮定だと自嘲する。
 けれど。
 元譲殿がぽつりと呟いた嘆息に心当たりがあったので、俺は穏やかな気持ちで彼の言葉を受け止めた。

「師父の不器用さをご存じなのですか」
「一応、な。戦と酒と女にしか興味がないという体を装っている、と俺は思っているが」

 違うのか、と問われ返答を濁す。俺が知っている師父も概ねその通りだ。
 郭奉孝の辞書に「手解き」という言葉はない。けれど、彼の辞書には「思いやり」という言葉がある。その単語に到達する為には他の類義語を何十も経なければならないけれど、確かに存在している。
 世間はその真実を知らない。
 曹操麾下でも一部の将官しか理解していない事実を、俺の隣で馬の背に揺られている男は多分推測だろうけれど、知っている。

「元譲殿、そこまでご存知なら話は早い。私は師父の屋敷に戻らなければならない」

 師父はきっと今頃俺の行方を案じている筈だ。武を持たず、この乱世を一人徘徊するのは自殺行為に等しい。曹操麾下の誰かに随行したともなれば危険はどっと増す。
 屋敷に帰還すれば師父はきっと俺に冷たい態度を取るだろうけれど、それは俺の短慮が招いた自業自得だ。師父の怒りには意味がある。
 だから。
 俺は一刻も早くあの方の前に姿を現し、これ以上の心配をかけないようにするのが自らの領分だ、と主張する。元譲殿が不意に馬の歩みを止めた。思わず通り過ぎた俺が後方を振り返ると彼は厳めしい顔をしている。

、お前に問おう」

 このままずっと郭嘉のお荷物を続けるつもりか。
 自分の身も守れず、世から隔てられ、偽りの安寧を手にして、お前が望むものは何だ。その問いに俺は返す言葉を持たなかった。
 師父の力になりたいと思った。この方の道行を少しでもいい、照らすことが出来たらと思って師事した。けれど現実はどうだ。俺は碌な仕事も出来ず、師父に庇われてばかりいる。「郭嘉のお荷物」という端的な言葉に込められたその現実を受け止め、流すには重く、俺は閉口した。
 俺が俺の速さで歩みを続けることは師父の利にならない。
 それでも俺は師父の弟子でいたい。
 だから。

「貴殿や曹操殿が私に武を授けてくださる、と言うのか」

 元譲殿の言葉の先を考える。
 知は師父から授かる。「手解き」という概念を持たない師父が俺に施してくれることはないから、独力で学びとるのだけれど、それでも先達となってくれる。俺に足りない何かがあるのなら武だ。
 けれど。
 とも思う。文官紛いのことを初めて三年、師父の弟子となって三カ月。俺は知も碌に身に付いていない。その状態で武を得ることなど可能だろうか。共倒れになることはないだろうか。そもそも俺に武の才があるだろうか。
 そんなことを脳裏に巡らせる。答えが出ない。
 元譲殿はその迷いを不敵な笑みで迎えた。

、やはり中々の才だな」
「貴殿の目に映るその才で、武が身に付くとお思いか」

 率直に問うた。元譲殿が躊躇いなく即答する。

「精々什長止まりだろうな」

 什長(じゅうちょう)、というのは兵卒の頭だ。五人一組の隊伍を組み、一人が指示を出す。その指示を出す者が伍長(ごちょう)で、その一組を更に組み合わせ、もう一回り大きな指示を出す者が什長だ。軍と言うのは概ねそういう小さな組織の積み上げで出来ているものだ。
 目の前にいる元譲殿は将だから兵卒から見ると雲の上の存在だ。師父は軍師で、将の補佐をすると決まっている。最前線の指揮者程度の武しか持たずに郭奉孝の兵であると言うのは寧ろ恥に当たらないだろうか。

「話にならない」
「それでも、兵卒程度の働きが出来るなら、師がお前を戦場に伴うこともあるだろう」
「文官を戦場に投入するような馬鹿な真似を師父がなさるとでも?」
「お前の働き次第だ」

 働きが良くても什長止まりだ。師父の策を現実のものにするなら什長の武では何にもならない。それならばいっそ文官として生きると割り切った方がいい。
 それが出来ないのなら。

「元譲殿、どうしてせめて『己の身を守れる程度の術を身に付けろ』と仰ってくださらないのです」

 そういう言い回しをされれば、俺とて彼の用意した舞台に上がることが出来る。必要最低限の演出と口実、と言えるだろう。けれど元譲殿はそれを許さない。
 馬上で元譲殿が静かに瞼を伏せる。
 口元からふっと力が抜けた。
 快く笑んだ彼に俺の脳漿は現状把握を放棄した。

「言えばお前が首を縦に振るからだ」
「意味がわからない」

 貴殿の仕事は私に武を学ぶと言わせることだろうと返せば、何の抵抗もなく流される男には興味がないと言われる。到達地点が同じなら経過など気にしないと言えるほどの器ではなかったし、それを黙殺するだけの神経の図太さも持ち合わせていない。俺は凡夫だから世間が立ち止まるであろう箇所ではもれなく足を止める。
 元譲殿は将だ。だから彼には俺にはないものがある。良くて什長、悪ければ一兵卒として使いものになるかどうかもわからない俺とは雲泥の差だ。
 だから彼は相手を試す。彼の目に留まるかどうかを見定め、曹操に注進するのが彼の役目だ。
 わかっている。
 俺は師父に師事した。師父の向こうには曹操がいる。師父の弟子であるということは大意では曹操の配下であるということと変わりがない。
 だから。
 俺は元譲殿を納得させる詭弁を振るい彼を諦めさせるか、でなければ俺自身が納得して彼の意を汲むかのどちらかを選ぶしかない。
 逡巡する。武を得ると言うことは直接誰かを傷つける可能性を孕むということだ。言葉で人を害することを軽視しているのではない。それでも力は時として人を狂わせる。俺はその重圧に耐えられるだろうか。
 それに。
 二十三で初めて刃を手にして、ものになるまで鍛錬を積むとすればそれは何年先のことだろう。それまで俺は師父の弟子でいられるだろうか。
 そんなことが脳裏で渦巻いて結論が出ない。
 元譲殿はまた無表情に戻ってじっと俺の様子を観察している。彼に助言を求めても無意味だ、と直感的に察した。
 沈黙の重さに耐えかねて思わず首肯して楽になりたいと思うほどの間を置いて、元譲殿が不意に両の眼を大きく見開いた。

「劉備に会ったそうだな」

 その響きにも試す色が満ちていて俺は息を呑んだ。劉備に会った。その事実に間違いはない。三カ月前のことだ。下ヒの安酒場で張飛と合い席になって、その後は諾々と流されるようにして小沛へ行った。そこで劉備と会った。大器だという評判は聞いていたけれど、その先入観を一瞬で上塗りするほどの本物の大器だった。

「大器でした」

 劉備の瞳に宿った志と心根の優しさ、それから溢れんばかりの情熱。それらの一つひとつをまさまざと感じて、俺は感動にも等しいものを覚えた。
 けれど。
 彼の瞳に俺と言う「個」は映っていなかった。数えきれないほどの多くの信望、その一つとして俺がいた。肩を寄せ合ってこの乱世に踏み止まる無数の点の一つであることを俺は拒んだ。だから、俺は劉備への仕官を辞去した。
 俺の拒絶の言葉を聞いた時の諦観にも似た劉備の面差は今も覚えている。この国に来て久しぶりに見た「失望」だったから忘れられる筈もない。
 それでも。
 俺は師父を選んだ。選んでしまったのだ。
 後悔はしていないし反省もしていない。俺に振り返るべき過ちはないし、未来永劫悔いる必要もない。
 だから俺は元譲殿に正直な感想を告げる。

「だが、お前は劉備を選ばなかった」
「私には勿体ない方でしたので」

 劉備は決して俺のものにはならない。張飛も同じだ。
 彼らの志は高潔で、俺のようにただ生き永らえたいだけの凡才には荷が過ぎる。
 では師父なら――郭嘉なら俺のものになるとでも思ったのかと問われればすぐさま否定出来る。師父は誰かの傍らで甘言を囀るような方ではない。あの方は遥か高く、天空を往かれる方だ。誰のものにもならない。
 それでも俺は師父を選んだ。

「孟徳の前でも同じ台詞を吐けるか」
「さて。身が竦んで別の何かを口走るやもしれません」
「例えば?」
「私の師たらんとする方がおられましたので、とか」

 師父は俺の師になる為に生れてきた方ではない。いっとき、俺と師父の道が交わった。その一瞬の接点で彼は俺の全てを奪っていった。
 俺が師父を選んだ理由などそれ以外に説明が付かない。それ以外を求めようとも思わない。
 だから、俺には自分の選択を悔いる必要がない。
 師父が俺を受け入れた。それが全てで、十二分の結果だ。
 胸を張って、正面から元譲殿の漠然とした表情に向き合う。試しているのか、呆気にとられているのか判断しかねたけれど、彼は今、俺の返答を吟味している。

「正直、俺は今でもあの郭嘉が師とは何かの間違いだと思っている。だが」
「だが?」
「お前を見ていると何やら納得の出来そうな気もする」

 不思議なものだ。淡々と元譲殿はそう締め括って、最初の問いに戻る。

、お前を郭嘉から引き離した本当の理由、を知りたいか」
「後学の為に聞いておきたいと思います」
「ふん。お前が郭嘉の弟子でなければ今頃は散々にぶちのめしてやるところだ」

 誰を相手に口を聞いているのだ、と言外にある。
 元来俺はそういう口の利き方しか出来ない。師父は三カ月でそれを矯正することを放棄した。この悪癖は一生俺に纏わりついて離れないだろう。この先に苦難が待ち受けていることもわかっている。
 ただ。
 こうやって世界を俯瞰して、眺望して、そうして客観性を保っておかなければ俺は今頃生きていなかったのだという確信がある。
 自嘲の笑みが苦く、顔に表れる。元譲殿はもう一度大袈裟に鼻を鳴らした。

「あの独特の雰囲気を持つ書を認める『舶来』を見てみたかったのだ」
「曹操殿が?」
「違うな。俺自身が、だ」

 その返答は意外だった。この七日、元譲殿を見ていてわかったのは、彼の中には「曹孟徳の志」以外の何ものも存在しない、ということだ。彼は彼のあるじを何よりも重んじる。与えられた任には相応の成果を。預けられた信には最上の報恩を。そうして彼は「曹孟徳の覇道」を最前線で体現する。
 人伝に聞いた彼の人物像と、七日傍らで観察した結果が綺麗に等符号を描き出す。
 夏侯元譲というのはそういう男だ。
 だから、俺に会いたいと願うのならば、それはきっと彼のあるじの求めで、彼自身の欲求ではないだろうと勝手に思い込んでいた。
 それを元譲殿は二言で否定する。

「貴殿が?」

 思わず問い返す。元譲殿が悪戯そうに笑った。

「何だ、俺では役者不足か」

 役者不足だって? とんでもない。
 寧ろ。

「役不足でしょう」
「頑なだな、。何ゆえそこまで己を卑下する」
「卑下でも謙譲でもない、と言えば貴殿はまた笑うかもしれませんが、これはただの自己保身なのです」

 自己保身ぐらいしか俺に出来ることがない。
 俺が望めば兵法を基礎から教えると言った師父が軍学を説いてくれたことは未だかつて一度もない。俺が望みを強く自己主張していないから、師父はその機を計っているのだろう。軍略家だけれど偽りを誰よりも嫌う師父が虚飾の言葉を口にするとは思えない。
 だから。
 俺は師父の言動から勝手に幾つかのことを学びとった。
 東海では人間関係だとか、交渉術だとか、そういった面倒なことは全て養父や義弟たちが代わりにいいように取り計らってくれた。
 けれど、俺に庇護者はもういない。
 一人で立って歩かなければならない。師父に全てを委ねて守られていたくはない。そんな煩雑で低俗な目的の為に師父を矢面に立たせるのは俺の自尊心が許さなかった。
 不器用で頑固だという自覚ぐらいはある。それでも生き永らえるのが俺の目的だから、欠点から逃げていても何の解決にもならないことを察し、対峙した。
 その、俺の拙い処世術だと端的に言えば、元譲殿の瞳がきらと輝いた。彼の中で「及第点」の解答が来たらしい。

「ほう、どういう道理の」
「謙虚で誠実だという顔をしていると、存外、人と言うのは距離を取るものです」

 ある程度の丁寧さと柔和さを以ってして人と接する。そうすると人は親しみを覚える。敢えて一歩、俺の内に引き込む。一つ信を置くと俺自身の輪郭は曖昧になる。焦点がぼやけるのだ。
 信を持った相手に更に謙虚と誠実を見せつける。偽りではない程度に期待値を下げる。信は時々心の中の垣を勝手に高くするから、期待値を下げておかないと次の困難に立ち向かうときに苦しくなる。苦しいときに速やかに、自覚より少し大袈裟に苦難を示す。
 すると。
 人はぼやけた俺の全体像で勝手に都合よく、最も映りのいい角度を決めてくれる。
 それが回り回って適当な距離感を生み出す。俺に都合のいいときだけ信を利用すればいい。幾重にもぼやけた俺の像で相手が適当に解釈してくれるのを待つだけだ。
 だから、俺は論点をいつもぼかすように努めている。
 というようなことを訥々と語ると元譲殿は興味深げに何度も相槌を打った。


「小賢しいとお思いになられたでしょう」

 俺自身、小者のすることだという自覚はある。師父のような才子にも、曹操のような奸雄にも、元譲殿のような武辺者にも、劉備のような大器にも、張飛のような豪傑にも、全く必要のない打算だ。
 けれど、俺はそうやってこそこそと細工をしていないと自分の生を全うすることすら困難なのもまた事実だった。
 元譲殿が短く俺の名を呼ぶ。叱責を受ける前に先んじて慎ましやかな顔をした。
 悩ましげに眉根を寄せる。その対面で、元譲殿が難しそうに、やはり眉間に皺を寄せた。

「それは郭嘉がお前にそういう風にしろと言ったのではないのだな?」
「師父は何も仰いません。私が一人で勝手に小手先の小細工をしているだけのことです」

 師父がこんなつまらないことを一々指図する筈がない。郭奉孝と言うのはもっと大きな才だ。彼の世界では他者など現況を構築する一つの駒に過ぎない。彼の意識の中には過去も未来も延々と流れ続けている。師父がするのは、その流れを読むことと、意識的にそれを変革させることだけだ。
 だから。
 その流れが見えない俺が生きる為に勝手に学んだことだと反論する。俺の失言が師父の評価を下げてしまっただろうかと案じたけれど、元譲殿は俺の心配など余所に晴れやかな笑顔を見せた。

、お前は中々面白い才を持っているな。なるほど、これでは郭嘉が外に出したがらない筈だ」
「至らないゆえと思っておりますが」
「本気でそう思っているのか」
「ある程度までは」

 俺の世間は狭い。この国で暮らし始めてからまだ十年で、八年は十分に言葉を理解していなかった。常識も習慣も暗黙の了解もわからない。
 文官紛いのことを二年ほど務めたが、それも結局養父の補佐ばかりで俺が世に通じたとは言えない。今もそうだ。師父の弟子で副官をしているけれど、俺はいつも師父に守られている。一人の官吏として生きているだなんてとても言えたものではない。
 だから。
 俺はまだこれからだ。これからもっと色々な人間に出会い、世界を広げていく。何が出来るか、ではない。何を成そうとするかだ。師父が俺の中に見たのは経歴ではないと信じている。彼は俺の「志」を評価した。師父の顔色を窺わず、彼に評価される為に何をすればいいのか、を日々考えている。必要最低限の武、が俺の人生に備わっているべきなら、俺はその為の努力をしよう。
 だから。
 面白い才などと評される必要はない。
 そう、言えば。
 元譲殿は不意に真剣な顔をした。
 そのあまりの真摯さに俺は瞬間、呼吸を忘れる。この方が俺に何を見出したのかはまだわからない。けれど、多分。彼は俺に対して何らかの評価を下した。
 
「ではお前に一つ教えておこう。お前の才は――」

 その決定的な一言が紡がれる瞬間を待つ。真っ直ぐに見据えられ背筋が伸びる。馬上、旅上で雲上の男が下す言葉に身構える。
 だのに。

「それ以上つまらないことを人の弟子に勝手に吹き込むのはやめていただけないかな、夏侯惇将軍」
「師父」
「郭嘉か」

 師父の凛として強い声が俺の背中の向こうから元譲殿の答えを未来永劫遮る。柔らかで美しい声色だけれど、ほんの少し怒色が混じっていた。何ゆえなどと問う必要もない。俺が師父の許しなく屋敷を留守にしたからだ。それでもはっきりと怒鳴られることはない。郭奉孝というのは激昂などとは隔絶した存在だというのは既に理解していたから、当然のこととして受け止めた。
 馬首を翻し、元々の進行方向――許の方を向く。
 元譲殿に伴われ、許昌を勝手に離れてからもう七日になる。その間、師父がしたであろう心配を考えると弁解の余地もない。晴れ晴れとした春空の下、交流のある人間だけが感じ取れる最低の怒気を放って師父が白馬に跨っている。
 申し訳なかったと詫びるのは簡単で、そうすれば師父は形の上では許してくださるだろう。
 けれど。
 それは俺の自己満足だ。後悔をするのなら一生抱え続けるべきだ。だなんて変に凝り固まった美意識が働く。
 結果、俺は師父に申し開きの一つも出来ずに口篭る。
 鋭い眼差しと対峙して、臆さなかったわけではないけれど、自己弁護の言葉を紡ぐのをどうにか堪える。
 それを俺の背中の後ろで見ていた元譲殿が穏やかに笑う。
 どういう判断をすればそういう態度になるのか、と視界の端で彼の表情を捉えたけれど、文句を口にするより先に元譲殿が手綱を引いた。

、師に付き合いきれんと思ったらいつでも俺の屋敷に来い」

 元譲殿の黒鹿毛が俺の栗毛に並ぶ。
 そして、そのまま俺の横を通り過ぎて、師父の白馬に近づいた。
 皮肉交じりに飛んできた言葉に俺は瞠目し、師父は不敵に笑む。

「おや? あなたは起こり得ないことを想定するような無駄な将だったかな?」
「起こり得んことなら既に起こっているからな」
「俺が、師父の弟子になったという?」

 お互い顔を見るだけで理解出来るというのは面白いことだな。
 言って元譲殿は師父の横をも通り過ぎた。

「弟子の顔をよく見ておけ、郭嘉。それは中々の才の持ち主だ」
「そんな簡単なことは三月も前に承知しているとも」
「だろうな」

 多分。
 いや、きっと。
 元譲殿の穏やかな笑みは師父のこの評価を俺に聞かせるという目的の為に生まれたのだろう。本人を目の前にして批評される、というのは中々恥ずかしいものだ、なんて思ったけれどその居心地の悪さも存外悪くはない。
 元譲殿に心の中で感謝して、俺もまた手綱を引いた。栗毛がゆっくりと白に近づく。馬同士が鼻先で挨拶をしている間に、黒鹿毛と元譲殿の背が遠くなる。そしてそのまま彼は風景の一部に同化した。
 師父と二人、馬上で原野に残される。

「師父」

 二人きりの原野に沈黙は重く、俺は口を開いた。
 申し開きが許されるとは思っていないし、するつもりもない。そんなことを一々逐次行動に移さなくとも師父には全てが見えている。
 けれど。

孝徳、打球棍を習ってみるつもりはないかな」
「師父、それは」
「君のことだ。一番軽い舞闘棍を自在に振れるまで何年かかるかわかったものではないけれど、それでもいいと言うのなら教えてあげよう」

 許容を通り越して理解を示される。
 俺が欲したものを的確に目の前に並べられ、俺は今度こそ返す言葉が見つからなかった。

孝徳、自らを省みることが出来るものに叱責など無用だと思わないかい?」

 君は今、猛省している最中だ。死人に鞭を打つような非情な真似をしてどうするのだい。言って師父は眦を細めた。
 けれど、と師父は続ける。

「君を少し子ども扱いしすぎたようだね。おかげで、危うく夏侯惇将軍に先を越されてしまうところだった」
「師父、俺は夏侯惇将軍に師事するつもりはありません」
「知っているとも。だけれど、彼の言葉は君に甘く響いただろう」

 孝徳。優しい声が俺の名を呼ぶ。是(はい)、と答えた。師父が完璧な調和を持って微笑む。この笑みを見て心が揺れない人間がいるとしたら、それは既に人である所以を失っている。

孝徳、君の才の一つを教えてあげよう」

 君は人の気持ちを推し量ることが出来るだけの器を持っている。
 君の客観性は称賛に値する。誇りなさい、と言われ俺は瞠目した。

「師父、俺は」
「君の才は他にも沢山あるけれど、今日はこの一つで我慢しなさい」

 強請ればきりがない、と師父は言う。だから焦らずに今を受け止めろと言外に含まれている。
 けれど。
 俺は称賛を求めているのではない。

「いえ、師父。俺が言いたいのはもっと別のことです」
「何かな?」
「師父。俺はあなたにお仕えすることが出来て誇りに思っています」

 俺は師父の力になりたくて師事することを決めた。師父が僅かでも俺を求めているからそう望んだ。だから、師父が俺を気遣ってくれるのならそれに応える。答えなどなくてもいい。才がなくてもいい。世間に認められなくても構わない。
 ただ、師父が俺の師であればいい。
 それ以上を望むのは分不相応というものだ。
 だから。

「大器を望むのなら俺は劉備に仕えます。友を望むのなら張飛で、良き上官を求めるのなら夏侯惇将軍かもしれません」

 それでも俺は郭奉孝を選んだ。その選択を悔いたことはない。時折自らを省みて不安になることもある。それでも俺が選んだ師だ。

「師父、俺は軍師になります」

 選択を覆さない、という意を込めて断言する。「なりたい」ではない。「なる」のだ。

「君の才では少し苦しい道だね」
「構いません。俺はあなたの見ている景色が見えるところまで上ります」
「何十年とかかっても?」
「五十年の後に無理を悟っても」

 そしてその後に寄る辺なく、騒乱の天下に放り出されてもいっこうに構わない。

「客観性と協調性はどこへ行ったのかな」

 まったく、困った弟子を持ったものだ。
 なんて言う師父の顔が心底嬉しそうに綻んでいるものだから、俺の内側が満たされる。郭奉孝の弟子であることを至上と受け取った。これ以上の喜びも幸福もこの世には存在するまい。
 俺の苦難に満ちた旅が始まろうとしていた。
2013.06.22 up