Chi-On

Look Like a Shooting Star

用いられない武

 曹孟徳の覇道に無駄はない。常に前に進むことだけを考えている。どんなに数的大差があろうと、関係がない。圧倒的な数差を前に誰もが怯んだ青州黄巾兵の鎮圧を成したとき、その志は天下に示された。出兵を命じた袁紹などは特にそれを感じた筈だった。それでも袁紹は今も曹操が自分よりも格下だということを疑っていない。
 天下に最も近いのは袁紹だからその認識を一概に否定することは出来ない。
 それでも曹操は天下に覇を唱えると決めた。
 どんな悪評も悪名も受け止める。正しく評価されることが目的ではない。残虐と罵られてもいい。非道と詰られてもいい。人非人(にんぴにん)と謗られてもいい。
 その志が今一度天下に示されるときが来る。
 師父が俺に打球棍の手解きをするようになってひと月ほど経った頃のことだ。
 新年を迎え、巷間がまだ浮足立っているさ中、その布令は発せられた。
 曹操軍の全力を以って徐州を再侵攻する。
 今度は怨讐ではない。徐州を曹操軍の手中に収める為の戦だ。陶謙の首を取るまで一歩たりとも退くことは許さないという強い令に豫州全土は慄き立った。この布令に怖じるようなものは曹操幕下には一人もいない。将兵の悉くは勝利の為に武者震いした。
 俺の師父(せんせい)は生まれついての軍略家だから、勿論この戦の前でも歓喜している。
 どう智謀を巡らせようか、どんな絵図を描こうか。
 三度の飯よりも戦が好きな師父はそのことばかりを考えていて俺のことなど完全放置だった。勿論、打球棍の指南も中断している。
 衣食住の全てを放棄した師父の為に俺が出来ることと言えば専ら鶏の世話と棍の素振りぐらいのもので、あまりの放置ぶりを心配した夏侯淵将軍が世話を焼きに来てくださる程だった、と言えば顔見知りの文官たちは皆一様に苦笑した。
 曹操幕下で有事の際は、十四を過ぎた男は徴兵されるものと決まっている。俺は年が明け二十四になった。武の心得があるだとかないだとかそんなことに関わりなく、戦には参加しなくてはならない年齢だ。それでも師父は俺へ戦に加わるようには言わない。
 多分、このままことが進めば俺は本陣の最も安全な場所で戦を遠巻きに見学するだけなのだろう。だなんてふやけたことを考えていた。
 布令が発せられ、十日が経った。師父は曹操殿の屋敷から帰ってこないし、俺が従軍するかどうかの結論も未だ通達されない。
 そんな穏やかな日々が耐えきれずに、俺は夏侯淵将軍――妙才殿にその甘えた悩みを相談した。

「贅沢な悩みだな、そりゃ」
「そう仰られると思っていました」

 だから十日間、一人胸に仕舞っていた。結局堪え切れずに妙才殿に吐露しているのだから、無駄な努力だったのだけれど、善処はした。そんな徒労感を込めて返答すると妙才殿は生来の明るい笑顔を浮かべ、俺の背を強く叩く。

。お前さんにゃ戦は十年早いってやつだ」
「十年で済む自信がないのですが」
「ははは。かもな。けど、二十年はかからねぇだろうさ」

 戦に全く慣れていない十四の新兵も調錬に加われば嫌でも一人前の兵卒になる。十年を経て尚勝ち残っている兵はいつか伍長(ごちょう)や什長(じゅうちょう)になるのだから、全く戦をした経験がない俺も十年経てばそれなりになる、と妙才殿は仰った。

「ま、お前さんの場合、郭嘉がいなくなりゃ一瞬であの世行きだとも思うがな」

 からから。闊達に笑い、妙才殿が鞭箭弓を傍らに置く。努力を隠すことに関して天才的な師父の屋敷の前庭に簡単な鍛錬所が作られたのはごく最近のことだ。その鍛錬所で一人素振りをしているだけの日々が妙才殿のご厚意で打ち込みの練習が出来るように変貌した。今日も一刻ほど我武者羅に棍を振るい続けたけれど、俺が妙才殿に一矢報いることは叶わなかった。傷一つないのは勿論のこと、呼吸が乱れてすらいない妙才殿に少しだけ悔しさを感じているけれど、当面それを覆せる予兆はない。
 だから。
 棍を碌に振ることも叶わない俺を戦場へ伴えばどうなるか。考えるまでもない。俺はきっと誰かを傷つける心配をする以前に死ぬだろう。
 わかっている。師父が認めた俺の客観性がそれを否定することを許さない。
 それでも。
 現実を正面に突き付けられ、傷口から塩を塗り込む真似には耐えがたかったから抗議の意を呈する。

「妙才殿、そういうことはもっと深刻そうな顔で仰っていただけませんか」
「事実じゃねぇか?」
「事実ならば何を言っても許されるわけではありません」

 正しさだけでは何も守れない。優しさだけでは何も救えない。
 それでも俺たちはいつもそれを追い求めてしまう。理想がなければ人は走り出すことが出来ない。夢想を描き、走り続ける足を止めるのはいつも非情な現実だ。事実は肯定されるべきだけれど、だからと言って正しさは人を救わない。
 虚実を織り交ぜた詭弁が人を活かすときもある。
 師父はその加減が天才的に得意だから、俺はまだ生きている。
 武人である妙才殿にその言葉遊びを真似てくださいと言うつもりはない。
 それでも形だけでも拒絶を示しておかなければ、彼の中で俺の偶像が誤って形成されてしまう。反論を口にすれば妙才殿は一層愉快そうに笑った。

「ま、それだけ言う元気があるなら大丈夫だろ」
「取り敢えず、次の戦の話ですが」
「お前さんにゃ無理だな」
「棍を振るだけでも精一杯だからですか」
「いや、足手纏いだ」
「はっきりと仰らないでください、と先刻申し上げたばかりだと思うのですが」

 喉元に苦いものがじわりと広がる。足手纏いだ。言われなくてもわかっていた。元譲殿に言われた「郭嘉のお荷物」という表現を思い出す。俺の才が未だ師父を救ったことはない。取り敢えず現時点でわかっているのは、曹操が俺の書を気に入り、師父との文書のやり取りが以前より頻繁になった、ということぐらいだ。
 そんな俺が戦で役に立てる道理もない。
 許に残り後方支援に当たれ、と言われているのだと即座に理解する。
 曹操幕下は才だけが全てだ。けれど才には種類がある。後方支援もまた戦の要素だから曹操がそれを軽んじている筈もない。
 それでも俺は軍師の弟子だ。戦を知る。そんな単純で明快な真実を知らずに軍師たることなど叶うまい。だからと言って最前線を志願する覇気はない。
 一体俺はどうすればいいのだ。
 一人空回っている。それぐらいの自覚はある。焦っても結果は出ない。今は秋(とき)ではない。まだ耐えるしかない。それでも尚募る焦燥を持て余している。この壁を乗り越えられないのならそれが俺の器の限界だということだ。
 わかっている。
 わかっているから、俺は「戦に出たい」と志願するのを理性でどうにか押し留めている。妙才殿もそれを見抜いているのだろう。子どもをあやすように穏やかに笑った。
 そして。
 彼は俺の予想だにしない言葉を紡ぐ。

、殿に会ってみねぇか」

 殿、というのは勿論曹操だろう。今は師父と共に戦の絵図を描いているだろうその男の名が飛び出して俺は軽く瞠目した。俺の中では未だ曹操への感情を割り切れていない。師父はその答えを待つと仰ってくださった。中途半端で宙に浮いたままの感情を持て余していてもいい。そんな風に俺のことを認めてくれる存在、というのはやはり稀有な存在なのだと改めて痛感する。
 妙才殿は将として人望に篤い。同じ夏侯姓を持っていても元譲殿のように裂帛さで人を従わせるのではない。穏やかさと柔らかさ、それからほんの少しの厳しさで以って人に接する。それを端的な言葉で表すなら人の気持ちがわかる、になる。
 その妙才殿が俺の躊躇いを知らない筈がない。
 だのに彼は俺に答えを促す。
 妙才殿ですら答えを待ちきれないのなら、曹操幕下の将兵は概ね皆俺の不忠を疑っている。この時勢、誰に仕えるかを明確にせずに、ただのうのうと学を貪るだけなど許されない。それでも師父は俺を待っていてくださった。
 天下は郭奉孝の放蕩を笑う。
 それはきっと師父の本質を知らないから放蕩に見えるだけだ。
 師父は曹操幕下の誰よりも天命に忠実に生きておられる。自らの分を弁え、その範疇で成しうる最上の答えを描き出している。
 俺はそれを知っている。
 妙才殿がそれを知らないとは思わない。
 それでも妙才殿は俺に答えを促す。
 すなわち、それは俺に与えられた時間がもう残りわずかでしかないということだ。
 このまま時間が過ぎゆけば俺の足元が危うくなる。簡単な結果が見えているから妙才殿は俺に現実を示唆しているだけのことだ。
 師父の許可がなければ俺はこの屋敷を出ることを許されていない。
 そのまじないのような言葉で現実から逃げるのは簡単で、だからこそ俺は躊躇した。

「妙才殿、私は――」

 せめて師父が屋敷に戻って来てくださったら小さな報告と相談を行うことが出来る。けれど今は戦時下で、軍師たる師父には本分がある。俺一人の為にその大義を棚上げしてくださいとは口が裂けても言えなかった。
 だからこそ返答に詰まる。
 それが上手く言葉に出来ずに俺はもごもごと口篭った。
 妙才殿はそんな俺の不器用さを寛容に笑い飛ばし、そしてこう言った。

、取り敢えず飯にしようや」

 話は昼食を取りながらでも出来るだろ。言って妙才殿は勝手知ったる師父の屋敷へ上がり込む。放置された俺を救ってくれるものはこの場にはおらず、束の間茫然と立ち尽くした。いつもは裏庭から決して出てこない鶏たちが俺の足元でくつくつと鳴き、ようやく現実へと帰還した俺は大きな溜め息を吐き、二羽の鶏を両腕に抱え、裏庭に回る。
 昼食の下準備はもう終わっている。後は温めるだけだ。
 だから。
 もう一つ大きな溜め息を吐いて俺は現実と向き合った。
 昼食を食べながら、どんな言い訳をしよう。だなんて考えて無駄を悟る。妙才殿は柔らかに見えるけれど本当は元譲殿よりずっと頑固な方だ。彼が俺を曹操の下へ連れて行こうと言うのならそれに抗える筈もない。
 人生の岐路はいつだって突然にやってくる。
 鶏たちがいつも通り、俺の腕の中で大人しくしていることに束の間の安堵を覚えながら俺は無駄な思考を繰り返した。



 その結果、というのはとても単純だ。
 結局俺は妙才殿の誘導尋問に引っ掛かり、曹操の屋敷へと伴われた。
 曹操が憎いかどうかは俺自身ですら自覚していない。この後ろ暗い感情を憎しみと呼ぶのならそうかもしれないし、或いはもっと単純な畏怖なのかもしれなかった。養父と死に別れたことは残念だし、まだ彼への恩義は一つも返せていないから悔いが残る。それでも養父はもう死んだ。彼は彼が思う正義の為に命を散らした。その結果俺が生き残った。俺は師父に新たな恩義と志を見出したから師事している。
 だから、憎いだとか仇を討ちたいだとかそんなことは俺の中ではそれほど意味を持っていない。
 そう、言えば。
 妙才殿は一度会ってから決めても遅くはないと言った。
 生来押しに弱く、流れに流されるようにして生きている節のある俺はその勧誘を断りきることが出来ず、妙才殿の隣を歩き始めた。屋敷を出ようとした俺の背に、雄の鶏が一際高い声で鳴くのが届く。師父の鶏は師父に似て俺に過保護だ。
 そんなことを思うと少し気が紛れた。
 と、思っていたのは曹操の屋敷の房(へや)で眉間に皺を寄せた師父と対面するまでだった。曹操の屋敷に入り、地図の上に駒を並べている曹操と師父がいる房に案内される。妙才殿が弟子を連れてくるのは思ったよりも重労働だったから今度新しい武器を新調してほしい、などと世間話を始めると同時に俺は四つの瞳に注視された。

孝徳、今すぐ帰りなさい」

 君には留守居を命じた筈だけれどそんな簡単な言いつけも守れないのかと叱責を受ける。前回、元譲殿に無理やり連れ出されたときの反省はもう忘れたのかと更に詰られて俺は思わず一歩身を退いた。そのままずるずると後退して逃げ出したい衝動に駆られる。けれど俺の背なの向こうにはがっちりとした体格の妙才殿が立っていてそれを許さない。俺の後頭部が妙才殿の逞しい胸板にぶつかる。

「まぁまぁまぁまぁ、郭嘉。そう頭ごなしに怒りなさんな」

 俺様が無理を言って連れだしたようなもんだからな。文句があるなら俺様に言えよ。
 妙才殿が俺を庇って苦々しい笑顔で応じる。その間も四つの瞳は俺を捉えていた。試されているのだ、と直感的に理解する。試されているのならば応じなければならない。だなんて半ば義務感めいた感想を抱く。師父の眼差しが柔らかな瞼に遮られる。そして再び開かれたとき、それは酷薄な笑みをかたどった。
 師父の視線は俺を越えて妙才殿を射ている。

「夏侯淵将軍、そもそも私はあなたにその子の指導を頼んだ覚えすらないのだけれど?」

 人の弟子の世話を焼くほどあなたは時間を持て余しているのかな。もしそうなら、余程ご自身の練兵に自信があるということだ。次の戦では先鋒をお願いしても構わないね。
 などと一方的に断定の言葉を師父がすらすらと紡いでいく。
 師父の正面に座った曹操も意地の悪い笑みを浮かべ深々と頷いた。
 その瞬間、俺はこの苛烈すぎる言葉の応酬が決して緊急の事態ではないことを悟った。度の過ぎた言葉遊び。けれど、どの言葉も冗談と真剣の紙一重で先を考えずに肯定しようものなら言質を取られる。
 嫌身ともとれる師父の言葉に、俺の頭上で妙才殿が弁解の言葉を探していた。

「いやいやいや、今更過ぎるだろうが。いいじゃねぇか。誰が教えたか、よりどう覚えたか、の方が大事だろ」

 才というのは概ねそういうものだ。
 誰がそれを持っているかではない。どの場面でどう行使するかだ。どんな名声を持つものでも現実の問題の前でそれを使えないのならば、無能だし、どんなに無名でも結果を得られるのならそれは才のある所以だ。
 師父は軍略に関しては天才的な才を持っている。
 けれど、天は二物を彼に与えなかった。師父に人を育てる才はない。そのことを俺はこの四か月の間に痛いほど思い知った。師父の言葉を待っていたのでは俺は何も得ることは出来ない。俺が自ら動いて結果を追い求めていく。そうやって生きて行くつらさを、俺は少しずつ理解し始めていたけれど、まだ顎が上がるほどでもない。
 だから、まだ俺は師父の弟子であることを放棄したいと思ったことはない。
 ただ。
 妙才殿の的を射た指導が俺にゆとりを与えてくれるのもまた重要で、親しみを持った彼に幾ばくか依存し始めていたのもまた事実だ。
 その変革を師父がどう受け取っているか、だなんていう基本的なことを俺は今の今まで一度も考えたことがない。
 俺の浅はかさが師父の矜持を傷付けている、だなんて思ってもみなかった。
 だから。

「では夏侯淵将軍、あなたが責任を持って軍略と処世術までその子に叩きこんであげたらどうかな? 私ではどうやら役者不足のようだからね」

 怜悧に放たれた言葉の中に小さな失望を見出して俺は言葉を失った。
 師父は自信家だ。自らの才を客観的に把握し、世に認めさせる為にはどうすればいいのかもまたよく心得ている。だから、師父は自らの言動に責任を持っているし、その結果を受け止めるだけの覚悟もある。
 けれど、それは多分軍略に関することだけなのだ。師父は俺の教育に対して不安を感じていた。俺の人生を引き受ける、という重みの前では師父もただの一人の人間だった。責任感を感じてくださっていたのだ。
 だのに、俺が一人空回って思い通りにならないと焦った挙句、妙才殿の厚意に甘えている。その現実が師父の自尊心を傷つける、だなんて思ってもみなかった。だなんていうのはただの言い訳だ。本物の志を折ることが出来るものなどどこにもいない。師父が言ったその言葉を額面通りに受け取って、俺は師父に対して非道を行っていた。
 思わず絶句する。
 俺の視界で曹操が愉快げに顔を歪める。背なの向こうでは妙才殿が困りきっている、という雰囲気になった。

「郭嘉、お前さん、相変わらず歪んでんな」
孝徳――いや、殿。そういうことなら仕方がないね。曹操殿に用があるのだろう。私は退出しよう」

 言って師父が椅子から立ち上がる。曹操はそれに一瞥をくれるとまたすぐに俺を射た。頭上を振り仰げば妙才殿は苦虫を噛み潰したような顔で困惑している。
 誰も俺を援けてはくれない。
 俺が俺の未来を守らなければ、師父は本当に俺を見捨ててしまう。
 それを即座に理解した。言いつけを無視した叱責ならば甘んじて受けよう。無能と罵られることも受け入れる。浅慮だと言うのならば頷こう。
 それでも。
 俺は師父の弟子でいたかった。

「待ってください、師父。俺は――」
「私のやり方に文句があるのだろう?」

 師父が試すように薄く笑う。その笑みの温度の低さに俺は背筋に冷たいものを感じた。怯えにも似た畏怖が俺の中に満ちる。師父が俺に反論を許したことはない。今まで俺は諾々と師父の指示に従ってきた。そうでなければ生を許される筈もないと思っていた。
 けれど。
 今ここで、俺が俺の道を示せなければ俺と師父の道は未来永劫交わらないという確信がある。怯える気持ちを叱咤し、手に冷や汗を握りながら、それでも俺は顔を上げる。曹操が愉快げにその一連の空気を見守っているのが若干気に障るけれど、そんなことを取り沙汰してる場合でもない。

「ない、と言えば嘘になります」
「なら」

 やはり交渉は決裂だ。
 否定しようとする師父の言葉を遮って俺は尚も言い募る。
 俺は俺自身の志と向き合う。誰かから借りた言葉ではない。模範的でなくてもいい。ただ、俺の生み出せる何かが師父の中で響けばいい。
 そんなことを思いながら言葉を選ぶ。
 あまりの緊張感で口の中がからからだった。

「不満のない人生など何の価値もない、と俺は思います」
「それで?」
「あなたは自らの全てを肯定するだけの存在になど興味がない筈だ。俺は俺の意思で以ってあなたに師事すると決めました。それはあなたを無条件に肯定する、という意味ではないと俺は思っています」

 俺には俺の意思がある。俺は郭奉孝にはなれない。それでも郭奉孝の弟子でいたい。この二つの思想は等号で結ばれないけれど、相反する答えではない筈だ。どちらも独立した解を持つ。独立した解を持っていないのなら早晩朽ちて果てるだけだ。
 だから。

「妙才殿に幾ら教えを請うても、俺はあなたの弟子にしかなれないのです」
「それは開き直りかい?」
「そう受け取るのはあなたの自由ですが、俺はそうは思っていません」

 居直っているから無謀を口にするのではない。あなたへの敬意があるから俺は俺の志を口にするのだと返す。怜悧な笑みにぽっと灯かりがともる。その瞬間、俺は許容と受容を悟った。

「全く、誰が君にそんなことを教えたのかつくづく不思議なものだね」

 けれど、存外悪くはない答えだ。及第点をあげよう。
 言って師父が破顔する。俺はこの人のこの表情が好きだ。相手を認めたときにだけ見せるとびきり穏やかなこの笑みに惹かれた。呆れや諦めと紙一重なのだけれど、それでも確かに師父の中に俺と言う存在が響いた証だから、この表情を見られるのなら多少試されたことなど些事に変わる。
 師父は笑み、今一度椅子に座り直す。
 そして。

「曹操殿、紹介が遅くなったけれどこれが私の不肖の弟子だ」

 正面に座る彼のあるじに俺を紹介する。一連の流れを見ていた曹操は満面の笑みでそれを受けた。名乗らなければならない。即座にそれを察し、俺は体を前に折る。

、と申します」
、か。なるほど、郭嘉が隠したくなる理由がわしにも分かった気がするな」

 今の短い遣り取りの中からですら曹操は本質を見抜く。はったりではない、と直感的に思った。曹操の両眼は俺の中心を射ぬいている。品定めをされて尚胸を張る苦しさを覚えたけれど、師父の前で非礼を働くのは俺の自尊心が許さなかったから毅然と立った。
 俺の後ろで妙才殿が「でしょう」だなんて嬉しそうに笑む。そしてそのまま彼は俺の両肩を後ろから掴み、ぐっと前に押す。俺と妙才殿は横並びになって曹操と師父の座っている机の前に進む。

「殿、こいつは筋は悪いんですが見込みがねぇわけじゃないと俺は思ってます」
「ほう、夏侯淵、おぬしがそう言うか」
「俺が保証します。こいつに合った武器がありゃあこいつだって十分に戦力になれるに違いありませんや」
、に合った武器か」
「如何せんこいつは腕力がありません。打球棍ですらこいつにゃ重いんでしょう。武器に振り回されてます」

 何かいい武器がありゃいいんですが。
 言って妙才殿と曹操が首を捻る。曹操は武術にも優れた男だから、武器の扱いに困った経験などないのだろう。妙才殿に至っては彼の天稟の才を自覚し、鞭箭弓を使っている。得物に振り回される、だなんてこの場にいる俺以外の三人には理解出来ない現実だった。
 その困惑を振り払うように力強い声が隣の房から響く。

「華佗の弟子に幽興(ゆうきょう)という男がいるのは知っているか、孟徳」

 音源へ揃って視線を向けると、そこには元譲殿が一人のほっそりとした男を伴って立っていた。伴われている男は、知恵走った顔つきで、学者然としている。曹孟徳の覇道に必要な人材を発掘するのが趣味の元譲殿が連れてくるには不釣り合いの気がしたが、俺も彼の審美眼に適った経験がある。文官も徴発するのかもしれない、だなんてぼんやりと思った。

「華佗はどうした、元譲」
「相変わらずだ。今は病人を抱えているから出仕は出来んと断られた」
「おぬしが行っているのに、か」
「お前の名を使っても、だ」

 華佗、というのは当世きっての名医で、華佗に治せない病はないとも言われる。曹操の持病の頭痛が悪化した際、城下に居合わせた華佗が薬湯を調合したところ効果覿面で、それ以来曹操は華佗を召し出そうと必死になっている、というのは巷間では専ら話題だった。
 今は江南に出向いている、ということが元譲殿の口から報告され、曹操は重苦しい溜め息を吐いた。

「それで?」

 華佗の弟子がどうしたのだと曹操が元譲殿に問う。元譲殿は深く頷き、これが幽興と言うのだが、と背後の男を前に押した。

「この男、元は演武の道を志していたらしい。今では華佗の鍼を教わって医者の真似ごとをしているが、暗器使いだ」
「ほう、暗器使い、とな」
「鍼、投剣、毒矢と幅広く使いこなす。まぁ、どれも天下の才ではないがな」

 暗器というのは隠し持った小さな武器のことだ。無手のように見えてその実無数の武器をどこかに隠し持っている。油断と一瞬の隙を見計らって一手、または数手で相手を仕留める。幽興という男がどれほどの腕かはわからないけれど、元譲殿が連れてくるということはそれなりに使い道がある、ということだ。
 そのことを一同即座に理解する。師父が細い指を顎に当て、なるほど、と唸った。

「夏侯惇将軍、あなたは孝徳を暗器使いに育てよう、と言うのだね?」
「話が早いな郭嘉」
「華佗の弟子、というからには鍼、かな?」

 華佗と言えば鍼灸と麻酔と切開治療だと相場が決まっている。その中から師父は鍼を選んだ。元譲殿がそれを首肯する。

「その通りだ。が幾ら非力と言えど、鍼ぐらいならば使えるだろう」
「鍼を使うにはまず人体の構造を学ばなければならんな」
「その為の『華佗の弟子』だ」

 鍼が武器たる為には人間の体のどこにどれぐらいの力で差しこまなければならないかを知っている必要がある。でなければ鍼のような間合いなど殆どなく、威力も僅かな得物では相手を害する前に自らが滅ぶ。機会は一瞬だ。その一瞬で的確な攻撃が出来ないのなら鍼は武器たり得ない。
 元譲殿はその辺りのことも計算して幽興を連れて来たのだろう。
 俺の隣で妙才殿が破顔する。

「惇兄、そいつはいい。これでも自分ぐらいは守れるようになるな」

 自分の身が守れるのなら戦場に伴うことも出来る。俺が軍師たる為に必要な実戦をこの目で見ることが出来る。それは俺にとって進歩であると同時に試練だ。妙才殿のように無邪気に受け入れるには少し荷が重い。
 複雑な感情を顔に浮かべていると師父が困ったものだと苦笑した。

「夏侯淵将軍、それは少し気が早いのではないかな?」
「何だよ、郭嘉。この期に及んでまだに屋敷の守をさせようってのか」
「勿論だよ、将軍。次の戦に投入出来るほど孝徳に武術の才があると思っているのかい」
「遅くとも十日の後には進発する。ということを今しがたまで話し合っていたところだ」

 師父の否定を継いで曹操が微苦笑を浮かべる。曹操の審美眼の前で俺の武術の才は輝かなかった。の才では少し難しいだろう、だなんて言外に含めてあって俺はほんの少し悔しいような、それと同じぐらいほっとしたような妙な気持ちになった。

「十日か。、お前さん、どうするよ」
「幽興殿の見立てでは如何ですか」
「夏侯惇将軍が仰っていた通りならば、この先一年ほどは実戦など夢のまた夢でしょうな」
「ということだが」

 どうする。幽興の言を受けて元譲殿が俺に問う。俺は瞑目ししばし思考の海に浸る。どうするだって? どうするも何もないだろう。俺はもう道を選んだ。郭奉孝の――軍師の弟子たることを四か月も前に自ら選びとった。
 だから。

「師父が認めてくださるまで挑みます」

 瞼を開き、師父を見据える。俺の視界で師父は悠然と笑んだ。その笑みが何を意味するかは俺にとってはもう常識の範疇にある。
 郭奉孝は相手を認めたときだけ、裏のない笑みを顔に浮かべる。今の微笑みは許容だ。
 けれど。
 師父の言葉は甘くはない。それもまた郭奉孝と言う男の性質だ。

「では永年、君が戦場に立つ機会はないね」
「それまで何度でも俺は師父に問います」

 それが何十回でも何百回でも構わない。五十年の後に無理を悟っても構わない。
 いつか師父が俺を認める日が来る。そう信じている。だから俺は何度でも挑むことが出来る。
 そう、言えば。

「青いな」
「だがそれがまたいい」

 曹操と元譲殿が勝手に俺を評した。その評価は俺の中では大きな影響力を持たなかったから聞き流す。何とでも言えばいい。俺は他人の顔色を窺わない、そう決めた。まだ時々誰かの顔色を気にしてしまうこともあるけれど、いつかはそれを無視出来るように努める。
 だから。

「幽興殿、私は貴殿を師と呼ぶことはありませんがよろしいですか」
「では私もあなたを書記官殿とお呼びしますがよろしいか」
「構いません」

 俺が幽興殿に対して礼を尽くさないのだから、俺と言う個が認められなくとも致し方ない。俺は幽興殿の弟子にはなれないから、それは割り切るべきだと判断した。
 幽興殿は感情を少しも感じさせない顔で平坦に言葉を紡ぐ。
 医術とは、或いは暗器使いというのはそういうものなのだろうと勝手に察する。

「私の武は未だ未完成で、頂からは遠い。それでもあなたは私の鍼を学ぶと言うのですね」
「それが私に必要なことであれば」
「よろしい。では郭嘉殿。書記官殿のことは私にお任せください」

 言って幽興殿が「書記官殿、こちらへ」と俺を誘う。
 俺がその招請に応じようとすると不意に師父が俺の名を呼んだ。

孝徳
「是(はい)、師父」
「私は君の武を用いないけれど、いいのだね?」
「それでも俺があなたの隣にいる為に必要なことなのであれば」
「つらくとも途中で投げ出すことは許さないよ」

 もとよりそのつもりはなかったから深く頷く。

「師父、私はあなたの弟子でありたいのです。私はあなたの弟子でなくなる日が来ることの方がつらい」
孝徳、曹操殿をあるじと認めるかどうかの答えは徐州から戻ったら聞こう。その準備をしておきなさい」

 いいね、と言って師父がゆっくりと目を閉じた。再び開いた眼光は鋭く俺を射る。行きなさい、と俺を促しているその輝きを受け止めて、今度は俺が瞼を伏せる。
 曹操に会って俺の中で何が変わったのかは今はまだわからない。
 本当は何も変わっていないのかもしれないし、そんな気がしているだけかもしれない。
 それでも。
 俺は道を歩き始めた。
 何も出来ない自分で甘んじていたくないから前に進む。どれだけ青いと嗤われてもいい。俺は誰の顔色も窺わない。師父と約した最初の言葉を反芻する。
 だから。

「ご武運をお祈りします」

 手のひらを拳に当て、深く体を折る。
 そして俺は幽興殿の背を追って走り出した。
 誰もが認めなくてもいい。俺は郭奉孝の弟子だ。師父が否定しないのならばそれ以上は望まない。
 そう胸に刻んで俺は人を傷つけることを自ら選んだ。
2013.07.06 up