Chi-On

Look Like a Shooting Star

将来の比重

 結論から言えば、殿の徐州侵攻はまたしても途中で頓挫した。呂布が陳宮、張バクの両名と共に離反したのだ。呂布の武は凄まじい。人中の呂布、という鮮烈な存在感は董卓の脅威が去った今も薄れてはいない。陳宮はそこに目を付けた。数多いる曹操軍師の一人ではなく、天下人の右腕になる道を選んだのだ。呂布は武以外ではまるで幼子のようなもので、弁舌に長じた陳宮が真実相手を欲するという意思を表したのなら、呂布をなびかせることも困難ではなかっただろう。
 呂布は陳宮と共に曹操幕下であることを完全に拒絶した。
 唯才を掲げる曹操殿もそれを受け、反撃に転じる。お互い原野戦を選ばず、攻城戦――呂布からすれば籠城戦だ――になり、半年の長きにわたり策謀を弄し合った結果、糧秣の不足を理由に一旦休戦となった。
 曹操殿の領地であったエン州の豪族の殆どは呂布政権を受け入れ、兵を退いた徐州では陶謙が死に、臨終の際に後のことを劉備に託した。挙句、劉備は呂布の義弟になったなどとのたまっている。これには殿も相当お怒りになっているだろう、と帰陣の際に心配していたけれど、師父(せんせい)と共に許に戻った殿はすっきりとした顔つきで悠然と笑っておられた。
 師父が言うのにはあれはあれで怒っておられるのだとのことだったけれど、俺の目には到底楽しんでおられるようにしか見えない。
 内政を整える。兵站を確保する。そういう名目で殿は許に滞在された。その間、師父も当然のように屋敷に戻って来られたので俺の仕事も増える。
 その、仕事が更に増えたのは夏も来ようという時分のことだった。

孝徳、今戻ったよ」

 その日も師父は午(ひる)を過ぎた頃に出かけ、夜遅くに戻られた。俺は午後の時間を使って幽興殿のところで人体の構造と鍼の扱い方を学んでいた。夕食――には随分遅く、概ね夜食と呼ぶべきであろう食事の準備を終え、師父からお借りした孫子の兵法を追っていたらその声が聞こえた。
 師父がお戻りになったのだ、と気付き房(へや)から出る。その耳に高い声が聞こえた。まるで仔犬の泣き声だったので、俺は一瞬きょとんとする。許で犬を飼うのは贅沢に当たるので、この界隈で犬を見かけることはない。隣の屋敷もその隣の屋敷も、動物を飼っている屋敷はない。
 では、この声の主は何なのだろう。
 訝りながら表に出る。
 そこには。

孝徳、君に土産をあげよう」

 いい具合に酒に酔った師父と、彼の腕の中で無邪気にはしゃいでいる深紅の体毛の仔犬がいた。その紅さと言えばまるで炎を燃やしたかのように鮮やかで、闇の中だというのに輝いて見える。
 土産とは何かと問うまでもない。師父の気まぐれでこの仔犬は屋敷まで連れ帰られた。当然、仔犬の面倒を見るのは俺の仕事ということになる。
 溜め息を吐きながら師父の近くに寄る。深紅の仔犬が俺を見てきゃん、と一際高く声を上げた。どうやら既に彼の中で師父と俺に飼われることが決定しているらしい。

「天狗(てんこう)の子どもだ。大事に育てるように、との曹操殿の仰せだよ」
「天狗?」

 初めて聞く単語に首を傾げていると、師父は仔犬を俺の腕に抱かせる。仔犬と思っていたけれどずしりと重い。曹操殿の屋敷からここまで運んでくるのはそれなりに労が必要だっただろう、と想像して、細腕に見える師父には打球棍を振るだけの力があることを思い出す。俺には重くとも、師父には軽いのかもしれない。

孝徳、君は本当に神話には弱いのだね」

 天狗というのは吉兆を司る生き物で、大きく育てば幸いとなる。但し、とても繊細な生き物だから取扱いには十分な注意が必要だ。そんなことを師父が説明する。この紅い仔犬に曹操殿が吉兆を託したということも、師父がそれを預かって大任を俺に与えようとしていることもどこか遠くの世間のことのように思える。伝説の生き物を育ててどうするのだ。反駁しようとしたけれど、腕の中の温もりを否定することこそ大きな過ちのような気がして口篭る。
 師父はそれを受諾と受け取ったらしい。俺の腕の中で大人しくしている仔犬の頭を二度撫でるとご自分の房へと消えた。
 残された俺は師父の背の消えた房の入り口と仔犬とを見比べる。溜め息を吐いた。師父の気まぐれにはもう慣れたと思っていた自分の甘さを呪う。師父の気まぐれなんていつまで経っても慣れる筈がない。何せ師父は俺の想像の範囲内におられない方なのだから。
 仔犬はその間の流れで、彼の面倒を見るのが俺だということを鋭く感じ取ったらしい。夜食の準備をする間も行儀よく俺の足元に座っていた。師父の部屋に盆を運ぶのにも律儀に後を付いてきて、何とはなしに愛嬌のようなものを感じた。なるほど、これでは俺よりも彼の方が状況を把握する能力に長けている。

「名前は君が付けるといい」

 君が責任を持って育てる相手なのだから、それぐらいの権利はあげよう。決まったら後で私に教えるように。
 言って師父は午の間に届いた書簡に目を通し始めた。こうなると師父は呼ぼうが何だろうが反応を返してくださらない。この一年の間にそのことを痛切に思い知っていたから俺は仔犬を連れて自分の房に戻る。彼に寝床を用意してやらねばならない。確か裏庭にもう使っていない籠があった筈だ。それを持ってきて古布を敷いてやればいいだろうか。
 取り敢えずは籠か。
 そんなことを思いながら椅子から立ち上がる。俺の足元で丸まっていた仔犬はその動作に反応し、耳をぴんと立てた。薄桃色の両目に俺を映して必死に尻尾を振っている。

「いいよ。君はそこで寝ているといい」

 すぐに戻ってくるから。
 そう言っても仔犬はすっくと立ち上がり、俺の後を追ってくる。師父にとって俺というのもこういう存在なのかと思うと何だか居心地が悪かった。
 結局仔犬は俺の足元に付き従って裏庭まで来る。幾つか使い古した籠を見つけたので、本人に訊いてみたところ、四角の浅い籠が気に入りのようだった。
 その中に古布を敷き、表に置く。
 けれど、彼はその籠に収まらず俺の足元に付いてきては、房にいたがった。
 ぱちぱちと繰り返し瞼を閉じたり開いたりしている。その動作を重ねるごとに彼の両目は透き通っていくようで、意識が吸い込まれる。

「朔良(さくりょう)、というのはどうだろう」

 大海の向こう、俺の祖国で美しく咲いていた樹木の名を思い出した。桜。その音に別の文字を当てた。この国ではその名はさくりょうと読まれるのが順当だ。
 思いついた名で仔犬を呼ぶと、彼は二度瞬きをして桜色の瞳を閉じた。そしてそのまま俺の足元で身を小さくする。
 まるで彼は俺がどんな思いで故国の花の名を付けたのかを見抜いているかのようだった。

「じゃあ、朔」

 短くその名を縮める。今度は名を呼ぶ声に返答があった。おん、と鳴く。朔。もう一度呼べば彼はそれにも答えた。

「決まり、だな」

 この房を出て行こうとしない朔と根競べをすること自体が無意味と察し、俺は一旦表に置いた籠を回収して、寝台の傍らに置いた。朔はそれを当然のように観察して、その後何の躊躇いもなく籠に入って毛づくろいを始める。
 生まれて初めて俺が守るべき相手が出来た。その小さな責任感に身を委ねながら寝台に寝そべる。この小さな後輩に曹操殿の覇業の吉兆がかかっている。曹操殿はまじないがなくても覇者になれるだけの器と技量をお持ちだけれど、吉兆を育てたいとお思いなのならば気休めに付き合うというのも臣下の務めだろう。
 師父の道に無駄はない。師父の策にも無駄はない。その師父が命じたのなら何らかの意味がある筈だ。
 その意味を探そうとして、師父のお考えを追い尽くすことなど不可能でいつの間にか俺の意識は混濁して朝が来た。
 雄鶏が甲高く鳴く声で目が覚める。
 朔は俺が目覚めるのを待っていたらしく、籠の中にちょこんと座ってこちらを見ていた。昨晩の出来ごとは夢ではない。俺には新しい使命が出来た。
 そのことを茫洋と感じながら新しい一日を迎える。師父はまるで何の変化もなかったかのように寝過ごされ、妙才殿が俺を訪ねて来られる。相変わらず腕っ節の弱い俺に体術を仕込んでくださっているのだ。妙才殿が許の守将を務めておられた頃からずっと教わっているので、基本的な型ぐらいはどうにか理解していた。それでも応用が利かないから何度やっても妙才殿から一本を取ることが出来ない。才能の有無を嘆くにはまだ早いと元譲殿に叱咤されたので今もまだ妙才殿の講義は続いている。
 俺の不格好な鍛錬を朔はずっと前庭で見守っていた。鍛錬が終わると妙才殿が朔の名を問う。本当は「朔良」なのだけれど、「朔」と呼ばないと応じないことを簡単に告げると、妙才殿は晴れ晴れしい笑顔で彼を「朔」と呼んだ。
 途端、朔は何かに弾かれたようにぱっと顔を上げ、座っていた場所を飛び出す。呼んだ相手を知っているのだろう。一目散に妙才殿の足元に駆け寄った。
 妙才殿が腰をかがめ、駆けてきた朔の頭を乱暴に撫でる。朔は力強い手のひらの感触に少しだけ眼を眇め、受け入れていた。この一晩で彼には自分の名が「朔」であることを十分に理解している。

「こいつ、賢いな」
「多分、私よりも優秀だと思います」

 置かれた立場。引き合わされた相手との関係。自らが達すべき使命。
 その一つひとつを誰に言われるでもなく把握している。俺は朔の聡明さには及びもつかないだろう。
 神話上の生き物を相手に自尊心を折られている場合か、と妙才殿は俺を見上げて苦笑した。

「お前さんの謙遜はいつになったら終わるんだろうなぁ」
「師父に認められるまではこのままでしょう」
「そりゃ一生もんだな」
「私もそう思っています」
「自覚のある馬鹿の相手は俺様も初めてだ」
「よく仰る」

 軽口を交わしている間も妙才殿は朔の相手を続けている。流石に腹を見せるまでの従順さは見せなかったけれど、喉を撫でられるのは気持ちがいいらしく、くすぐったそうな顔で笑っていた。
 師父は俺に何の詳細な説明もなく朔を押し付けた。朔がただ犬ではなく神話上の生き物であることだけは告げられたが、それ以外のことは聞いていない。
 妙才殿ならば何かご存じだろうか。そう思い、口を開く。朔は妙才殿の指とじゃれていた。

「妙才殿」
「何だ、
「殿はどこで朔を見つけられたのです」

 一般に馬、と言えば「支援獣」の括りに入る。支援獣は大別して二種類あり、支援獣そのものに人が乗ることが出来る「騎乗型」と、随行し体力の回復や攻撃の補助を行ってくれる「支援型」に分かれる。どちらも野生のものを見つけ、手懐けるか、誰かが手懐けたものを譲り受ける、或いは奪い取るかするしか入手する方法はない。俺の愛馬の栗毛はかつて張飛から譲り受けた。張飛は馬商人から買ったのだろう。
 支援獣の入手というのは概ねそういうものだった。
 神獣である天狗を持っているものがそこいらに何人もいる筈がないし、野生の神獣などが存在するとなれば野を焼き払ってでも手に入れたいと思うものが出てきそうなものだ。けれど現実はそうではない。だとしたら曹操殿は一体どこでどうやって天狗の子どもなどを見つけてきたのか。
 問えば妙才殿は曖昧に笑って朔を抱き上げた。燃え盛る炎の体毛が陽の光できらきらと輝いている。

「俺様もよくはわからねぇんだが」

 気が付いたら「いた」のだと彼が答える。全く何の答えにもなっていないその返事に俺は閉口する。はぐらかそうとしているのだとか、適当な嘘を与えられているのだとか、そういう悪感情を持ったわけではない。多分、妙才殿が仰っておられるのが事実だと認識した。ただ、何の目的でもって朔が曹操陣営に来たのか、ということが気にかかる。
 気にかかるのだけれど、今はその答えを得られる時ではない。
 天の巡り合わせというのは全くもって不思議なものだと受け入れる。朔の桜色の両目が俺を映し、ゆっくりと眇められた。
 おん、と一声鳴いて、朔は妙才殿の手をすり抜けて俺の足元へ寄ってくる。ぱたぱたと尾を振り、俺も彼を撫ぜるようにと求めていた。その純真無垢な様に心が和らぐ。朔のあるじは俺一人なのだ、とぼんやり理解して小さな満足感を覚えた。

「妙才殿、軽食ですが一緒に召しあがって行かれませんか」

 朔を撫でながら妙才殿に問う。少しずつ気温が上がり、最近では組手をすると随分汗をかくようになっていた。鍛錬所の片隅には水分補給をするための飲み水の入った水瓶が置かれている。勿論それを毎日入れ替えるのは俺の仕事だ。
 その、俺が汗水垂らしながら汲んで来た水を妙才殿は柄杓で掬っては口に運んでいる。俺は裏庭の水を飲むことが多いから鍛錬所の水は殆ど妙才殿の為だけに準備していると言っても言い過ぎではなかった。
 妙才殿もそのことは承知している。だから彼はいつも何の遠慮もなく水を使う。それが俺の労をねぎらうことになると思っておられるようだった。
 ある程度水を飲まれて満足されたのか、妙才殿は柄杓を瓶の上に置いて不意に屋敷の方を見る。

「郭嘉は?」
「間もなく起きてこられる刻限です」
「手間は一人でも二人でも三人でも同じ、ってか」
「まぁ、そうですね」

 どうしようか、と一思案して、結局彼は逞しい腹を両手で叩く。乾いた音が小気味よく響いた。
 妙才殿は意を決する時、決まってこの動作をする。

「じゃ、ありがたく頂戴すっか」
「では用意いたします」

 俺が退室した後、しばらくして師父は起きてこられたらしい。湯気の上る料理を持って室(へや)に入ると妙才殿と二人で朔について話しておられた。天狗は何を食べるのか、という根本的なことからして誰も知っておられないという現実の前に、俺は頭の芯が重くなるのを感じた。

孝徳、何か朔に食べ物を与えたかい?」
「茹でた芋があまっておりましたので、半分ほど」

 今朝、水を汲んだ後に朔が所在なげに俺の後ろを付いてくるので腹でも空いているのかと思って芋をほぐして食べさせてやった。本当は肉でもあればよかったのだけれど、あいにく穀物の類しか備蓄がなかった。ほくほくとさも美味そうに朔が食べたので、普通の犬と同じ雑食なのだろうか、と俺は勝手に思っていた。
 師父に問われ、返答すると彼は手のひらで目元を覆った。
 俺は何か間違ったことをしてしまったのだろうか、と急に不安になる。
 妙才殿が目を限界まで見開き、俺を見つめる。

「食べたのか?」
「食べ、ましたが」

 よくなかったのだろうか、と問えば二人は顔を見合わせる。
 いいとも悪いとも判じられない。多分お二人にも確信なんてないのだ。神獣を育てる経験、なんてそうそうあるわけがない。普通の支援獣なら、野菜餌、肉餌、混合餌のうち好みのどれかを与えればいい。狼の類なら肉餌が一般的だけれど、朔は狼ではない。取り敢えず芋――分類するなら野菜餌を食べる、ということはそういうことなのだろう。
 師父と妙才殿はひとしきり顔を突き合わせて唸っていたけれど、結局大きな溜め息を共に顔を上げ、お二人は俺を見る。

孝徳、今日の午からの予定は?」
「本日は幽興殿が兵たちの治療に当たられるので自習、ということになっております」

 幽興殿は兵の治療の名目で元譲殿に仕えている。俺に鍼の使い方と人体の構造を教えるのは副業だったので、本分があるときは基本的に後回しにされる。俺はそれを当然と捉えていたので幽興殿にも元譲殿にも不服を漏らしたことはない。そもそも不満などないので、漏らしようがないのが現実だ。
 幽興殿の講義がない日、俺は自分の房で今までに教わったことを振り返ることにしている。理屈を覚えるのは嫌いではない。基礎の上に応用がある。基礎がなくとも実戦で活かすことが出来るのは一部の限られた天才の特権で、俺は凡夫だから基礎がなければ何にもならない。
 だから、今日は覚え書きを振り返る日だと告げると師父はもう一つ溜め息を漏らした。

「では時間があるのだね?」
「是(はい)、師父」
「『大人』(ターレン)に会いに行くことにしようか」

 師父は「大人」を信頼しているけれど、その実、同じぐらい苦手に思っている。というのは最近になって知ったことだ。曹操殿の覇道を見守る為に下界におられる「大人」は曹操幕下にはある程度親しげに接するけれど、その裏で何を思っているのかは知れたものではない。疑い出すときりがないので、諸将方はその杞憂は切り捨てている。妙才殿もその例外ではない。

「ぞろぞろ揃って行くもんじゃねぇしな」

 俺様は惇兄の調錬でも手伝うことにするわ。
 言って妙才殿が椅子から立ち上がり、室を出て行こうとする。その背を師父は見逃さなかった。

「夏侯淵将軍」

 師父は妙才殿を短く呼び止めた。妙才殿がぴたりと動きを止める。ぎこちない動きで振り返った妙才殿の表情を読みとれば「今すぐ自分の屋敷に帰りたい」で俺は苦笑する。

「郭嘉、わかってるだろ?」
「わかっているから申し上げているのだけれど?」
「いやいやいやいや」

 「大人」は人畜無害の存在ではない。具体的に危害を加えられることこそないけれど、「姿見の部屋」を訪れた帰りは皆一様にぐったりとしている。要は神経をすり減らすのだ。緊迫感と臨場感には百戦錬磨の筈の諸将がそうなのだから、文官など推して図るまでもない。
 それでも。
 「大人」のまじないを受け、偽りの永遠を手にしたからには責任に応じて彼の下を訪れるのは半ば義務のようなものだ。神獣の育て方がわからない。仙である「大人」が知っているかもしれない。その責任を俺一人に押し付けるのは無責任だと師父が詰る。師父は指導者たるには十二分に不足した方だったけれど、筋道の通し方は決して間違ってはいない。
 妙才殿が何も自分でなくてもいいだろうと反論する。
 その反駁に師父は静かに言葉を返した。

「夏侯淵将軍」

 あなたは中途半端な覚悟で孝徳の面倒を見ているのかな。言葉尻は平坦だったけれど、明らかに妙才殿を詰る雰囲気がある。問われた妙才殿はぐっと息を飲み、そして肺腑の底から大きな大きな溜め息を吐いた。

「別に、俺様がの保護者ってわけじゃねぇだろ」

 寧ろ保護者はお前だし、そもそも二十五の男に保護者が必要だとも思えない。妙才殿はそう主張するけれど、師父は無感情の笑みを浮かべて更に彼を詰る。

「それでも、天狗の名を最初に知ったのはあなただ」

 それは師父が朝から起きてこられないからだ。
 俺は胸の内で反駁する。誰も悪意があってそうしたのではない。成り行きでそうなっている。そうなる成り行きを作ったのは師父だから、言葉は悪いが自業自得というものだ。だのに。師父は天狗の名を知ったのが二人目であることに納得がいかない様子だった。

「お前、また拗ねてんのか、郭嘉」
「それだけ仲がいいのなら最後まで責任を取るのが一人前の将というものではないのかな?」
、お前も何とか言え」

 困惑しきった妙才殿が体ごと振り返り援護射撃を求める。
 師父は愛想のいい体を装っているが、その実一旦機嫌を損ねると梃子でも動かない。自分でも相手でもない、ときが解決する問題というのがあるということを馬鹿な俺は学習し始めていた。
 だから。
 師父にも妙才殿にも公平な返答を探す。
 要は俺が保護者など必要のない自立した人間であればいいのだ。
 そう、思ったから。

「師父のお手を煩わせるまでもありません。私が一人で行って参ります」

 断腸の思いで言う。「大人」の庵を一人で訪う緊張感を推し量って絶望しそうになったけれど敢えて言った。その言葉に曹操軍の名将二人が示し合わせたかのように俺を振り返る。四つの瞳の中心にいるのが俺だということに推し量れなかった緊張感が降って湧いた。朔は俺の足元でくーんと鼻を鳴らしている。

「どう、なさったのです」

 切れ切れに問う。師父が目を逸らさないまま溜め息を吐いた。妙才殿は手で顔を覆って天を仰いでいる。お二方とも先までの毒気を抜かれ、呆れているのがすぐにわかった。

「君を称するのに『本物の馬鹿』という呼称では生温いなと思っただけのことだよ」

 何とも辛辣な言葉だったけれど、その声に棘はない。労わりを偽っているわけでもない。ただ、純粋に師父は俺に呆れているだけだった。不出来な弟子を持ったと嘆いている様子もない。

「師父」

 他人の顔色を窺うのはやめなさいと最初に言われた。それでも俺はずっと「郭嘉の弟子」という先入観の前で一喜一憂している。師父が俺を認めたのだからそれでいい。そう思っていても、同時に同じだけ師父に恥をかかせたくないとも思っていた。
 そのことを責められているのだ、と直感的に気付く。
 けれど一度口にした言葉を取り戻す術はない。
 叱責を覚悟して俯いた。俺はまた成功から一歩遠のいたのだ。
 だのに。
 師父は柔らかな声で俺の名を呼ぶ。

孝徳、準備をしなさい」

 それから夏侯淵将軍、あなたもだ。言って師父は穏やかに微笑んだ。妙才殿がゆっくりと手のひらを顔から遠ざける。彼の鋭い眼差しが俺と師父とを交互に見て、瞼を伏せた。その表情に含まれたものを端的に表すなら諦観。師父に敵わないというよりは、寧ろ俺の馬鹿さ加減への妥協のように見えた。

「朔の将来は曹操殿の将来だ。軍師たる私にも、将たるあなたにも最後まで見届ける義務があるのではないかな」
「ったく、しょうがねぇな」
「妙才殿」
「行ってやるよ、ここまで来たら最後まで付き合うのが男ってもんだろ」

 妙才殿が俺を正面に見て笑む。馬鹿に付ける薬はない。死ぬまで俺が馬鹿の称号を返上することなど出来ないとしても、それもまた存外悪くはないのかもしれなかった。

「師父」
「そのように間の抜けた顔をするものではないよ、孝徳

 世間は君の純真さを常に認めてくれるとは限らない。誠実は美徳だけれど、それだけでは生きてはいけないのだからもう少しふてぶてしさも身に付けなさい。
 その忠告の何と穏やかで柔らかだったことかを俺は未来永劫忘れることはないだろう。俺は師父の他にこんな不器用な褒め方をする人を知らない。曹操殿が見ていたらきっと腹を抱えて笑うに違いない。

「ほら、ぼうとしていないで支度をしなさい」
「是、師父」

 そうして結局妙才殿も「姿見の部屋」へ同行することが決定した。
 道順を一つでも間違えると決して辿り着くことは出来ないという制約は俺には理解しがたく、未だに複雑な道程を完璧に把握することが出来ない。師父も妙才殿もすたすたと先を行くものだから、見栄を張って一人で「大人」を訪うと言った自分が少し恥ずかしくなった。そんな俺の小さな後悔など知らないお二人の背を追っているうちに見覚えのある石組みの庵の前に辿り着いていた。
 相変わらず外見上の広さと実際の広さが比例しない空間に足を踏み入れると饐えた臭いがする。前回ここを訪れたのは春の初めの頃だった。そのときと鼻腔に広がる空気は変わらないように思える。夏を思わせないのか、それともずっと夏なのか。俺はその解を持っていない。師父も妙才殿もそのことに関しては一言も触れないので、多分この独特の空気は接触する回数や時間を経ると慣れるのだろう。
 師父が面会の申し出をすると奥から「大人」が出てこられ、形式上の挨拶もそこそこに質疑応答が始まった。
 その内容を要約するとこうだ。
 天狗は天帝が遣わす生き物だから、名を付けることは出来ない。元々その天狗が持っている名を読みとれるもの――朔の場合は俺だ――だけが名を知ることが出来る。天狗は名を呼んだ者の意に副うように育つから周りがどんな心配をしても無意味だ。獰猛なものが育てれば獰猛に、温厚なものが育てれば温厚になる。
 飼育に模範解答はない。
 俺が思うように育て、成獣になれば吉兆だ。

「曹操殿にはそう申し上げたのだがの」
「殿からは何も聞いちゃいねぇが」
「ほ、ほ、ほ。ならば、試しておられるのであろう」
「俺を、でしょうか」
「そなたら全員を、かの」

 言って「大人」が緩く笑う。質問の時間は終わった。これ以上「大人」が答えることは何もないと言っている風だったので、俺たちは庵を出る。表に出ると師父が困ったように笑った。妙才殿は気まずげに後頭部を抱える。

「殿も人が悪い」
「誰が天狗の名を見つけるかを探っておられたようだね」

 天狗の性質と配下の素養を見比べ、何らかの試算を繰り返していたのだろうか、と師父に問えば、その最上に君の名が挙がったことは誇るべきだと返された。
 一人目の挑戦で解を得た曹操殿の天運と鋭眼を称賛するべきかどうかで迷う。
 妙才殿が先頭に立って歩き始めたので師父と俺もそれに続く。帰り道はどこを通っても市に出る。そのことはわかっていたから、全員がのんびりと歩いていた。

「それにしても孝徳、君は大任を背負ってしまったね」

 市に出て、妙才殿と今朝の鍛錬で得た改善点などを話していると師父が随分と思い詰めた顔でそう仰った。
 私が酒に酔って一人で承諾したりするのではなかった。或いは夏侯惇将軍がおられたら結果が変わっていたかもしれない。
 そんなことをぽつぽつと悔いた顔で続けられるので、俺は思わずその言葉を否定した。

「師父、俺はこの任をいただいたことを後悔していません」
「何を言いたいのだい、孝徳
「朔が俺を選んだのなら、俺はその信頼に応える努力をしたいと思います」
「一国の将来がかかっているのだよ?」
「軍師の策というのはどれもそういった側面を持つものだと師父から教わっております」

 軍師が献策をする。それには大なり小なり誰かの人生がかかっている。策に優先順位を付けることはあるけれど、それでも軍師は命をかけた誰かのことを忘れてはならない。一国の将来を懸け策を献じるのも、神話上の生き物を育てるのもその事実の前では変わらない筈だ。
 俺は軍師になると誓った。俺の才では難しいかもしれない。それでもこの道を選んだ。
 だから。

「軍主の期待に応えるのが配下の務めです。選り好みしてもいい命などひとつもない、と俺は思っております」

 俺が俺の目標を達成する為にはいずれ通る道だ。師父が思い描いていた形はもっと違っていたかもしれない。もっと普遍的で段階的な道もあったのかもしれない。
 けれど、俺にはそれを選択する余地はなかったし、目の前にあるものを否定して何になるのだろう。軍師は状況を選ぶことを許されてはいない。その場で選びうる最上の選択肢をあるじに献じるのが務めだ。
 そう、言えば。

「その言葉をよく覚えておきなさい、孝徳

 その志を貫徹出来るものだけが、本物の軍師になれる。君も少しは軍師の弟子らしくなったものだね。
 言って師父は柔らかく俺の頭を撫でた。
 その言葉に、師父が俺を試していたことを知ったのだけれど、憤然とした気持ちは湧いてこなかったので黙って受け入れる。
 先を歩いていた妙才殿が振り返り、温かい眼差しで微笑んでいた。

「朔が待ちくたびれてしまうね。早く屋敷に帰ろうか」
「是、師父」

 そして俺と師父は屋敷に向かって歩き出す。妙才殿とはご自分の配下の練兵に出るとのことで途中で別れた。
 去り際に妙才殿が言う。

、あんまり一人で抱え込むんじゃねぇぞ」
「お気遣いありがとうございます」

 でも、まだ俺は自分の道を自力で走っていたい、と答えれば無理はするなと繰り返される。

「責任感も大事だけどな、息抜きもしねぇとくたばっちまうからな」
「そうなりそうなときには話を聞いてください」
「早めに来いよ」

 その言葉に頷こうとした刹那、俺の隣から側面射撃が飛んでくる。俺と妙才殿は顔を見合わせて苦笑した。

「心配は必要ないよ、夏侯淵将軍。何せ、あなたが毎日孝徳の様子を客観的に観察してくださっているのだからね」
「まだ根に持ってんのかよ」
「そんなことはないよ、夏侯淵将軍。私の物わかりのよさは曹操軍随一だと思うのだけれど?」

 違っていたかな。
 穏やかな方の含みのある笑い方に妙才殿は何かを安堵して踵を返した。力強い背中の向こうで右手が掲げられる。

「じゃあな、
「是、妙才殿も心安くあられますよう」

 妙才殿は俺の言葉に拳を左右に振って答える。
 まだ俺にも師父にも妙才殿にも、等しく平穏が降り注いでいる時期のひと時だった。
2013.08.24 up