Chi-On

Look Like a Shooting Star

望郷

 許に天子様が移り住んで来られたのはそれから一年後のことだ。
 かなり際どい結果となったが、先年、俺は師父(せんせい)から戦場に出られるだけの武を身に着けたと評価され、名実共に軍師の弟子となった。朔(さく)と二人で屋敷の留守居をするだけの仕事を不服に思っていたわけではないが、少しは進歩したようで誇らしかった――のは最初の一か月だけだった。
 殿が師父に長安の警備を命じたのは丁度その頃のことだ。董卓の残党が長安を荒らしている。主に李カクと郭汜の専横が甚だしく、城内の荒廃は凄まじいものだった。それを平定してこい、というのを殿が師父に命じた。微力ながらも戦力のうちに計算された俺は朔と共にそれに同道することになり、住み慣れた許を出て長安へと向かう。
 長安は仮にも都だった街でそびえ立つ城郭と城門とが荘厳さを物語っていた。かつては厳重に警備されていただろう門扉には守兵の一人もおらず、閑散としている。無人を装っているのかもしれないと慎重に城壁に近づいていくと門扉に近づくに従って異様な臭気が漂ってきた。思わず掌で口と鼻を塞ぐ。そうでもしないと気が触れてしまいそうだった。

「師父は平気なのですか」

 俺の前方、一馬身先に師父がいる。師父は平時と変わらず毅然と背筋を正し、汚臭などないかのように真っ直ぐに馬を進めていた。俺の後ろでは許から率いてきた殿の配下、騎馬百と歩兵千が隊伍を乱すことなく続いている。その誰一人俺のように苦渋に満ちた顔などしていない。多分、戦線にあるということの中では別段取り立てて騒ぎ立てるようなことではないのだろう。だから、俺以外の誰も動じていない。

「気分を害していないのか、という質問なら否と答えよう」

 その返答に俺の意見を肯定する含みがあった。けれど前面に押し出されているのは否定だ。戦をする、ということを甘く見ていた俺に対しての訓告のようなものだろうか。
 今まで俺はずっと師父の手によって戦乱の一番醜い場所から遠ざけられていたが、現実はそれほど甘くはない。
 それもそうだ。
 師父が殿に奏上する為に書いた書簡の中身を思い出せばそんなことは自明だ。城に火をかける。水を入れる。兵で囲む。そうしておいて食糧を断つ。何の為にそんなことをするのだ。決まっている。城の内側の混乱と恐怖を増長させ、内部で争わせる。城の中にいるのは兵だけではない。一般の凡そ戦力足りえない女子供もいる。非情かもしれない。けれど女子供のような弱者から崩れていく。一度崩れ始めると士気は滝を落ちるように下がっていく。
 その為だけに弱いものに皺寄せをする。
 非情だ。
 それでも内側から崩すのが自軍にとって最も被害が小さくて済む。原野戦で正面から対峙して首級をあげるのが武功としては最上だ。武将だと胸を張って言える。呂布などはその部類だろう。蛮勇を掲げることで臣下を抱えている。ただ、そういう献策は師父でなくとも出来る。たとえば元譲殿や妙才殿はそういう類の策を望むだろう。軍議の間にあって先のお二方の発言力は大きい。そこに師父が同意すればそれはもう十中八九決定したも同然だ。
 そういう軍議になるだろう、と言うとき、師父は敢えて下策を献ずることがままあった。
 火攻め、水攻め、兵糧攻め。内部分裂、民の不満の煽動。
 俺がこの二年、学んだことが偽りではないのならそれらは全て下策だ。
 兵法は戦をせずに勝つ方法を最上とする。戦などない方がいい。それが孫子の代から脈々と受け継がれてきた正道だ。
 そのことは曹操幕下では軍師たる師父も当然心得ている。
 戦をせずとも勝てる。それでも戦をする必要のある場面がある。その場面で一人の意見ばかり採用されるのでは幕下には不満が溜まる。また郭嘉か。郭嘉は殿の気に入りだからな。武功を焦る将にとっては羨望の格好の的だ。だから、師父は敢えて下策を献ずる。殿もそれを承知しておられるから容赦なく一言のもとに切り捨てる。
 その、下策を真剣な顔をして清書したのは誰だ。
 俺だ。
 だから、戦という世界で何が行われているのかは概ね知識としては理解している。それが知識だけで実戦の経験ではないことも知っている。
 けれど。
 それでも。
 かつて、たとえ僅かな一時だけであったとしても。仮にも漢王朝の都だったこの街の中で起きている惨状を受け入れるのに抵抗がない、だなんていう人間がいるのなら、それは既に人の人である所以を失っている。そんな将はただの戦をする為の部品でしかない。

孝徳、よく覚えておきなさい」

 戦場というのは常に気分を害するものだよ。それを愉しめないのなら軍師の弟子など諦めなさい。
 言って師父は速度を落とした。右手がさっと上がる。先頭百騎が左右に割れて後方千が前方に出る。最前列の盾を持った一団が手際よく城門を攻囲した。師父の次の合図で攻城兵が扉を打ち破る。抵抗はない。空城の計、かどうかはまだわからないが歩哨を何人か出してみたところ、李カク、郭汜共に襲撃に気づいている気配がなく、お互いのみを標的としていることがわかった。
 扉が開かれ、汚臭が劇的に濃度を増す。脊髄反射で胃液が食道をせり上がった。堪えきれず下馬して吐瀉する。一年前とそれほど変わらない大きさのままの朔が俺の懐で心配そうに鼻を鳴らした。

「それで? どうするのだい、孝徳。今日は君の初陣だから君の意思を尊重してあげよう」

 このまま城外で嘔吐を続けるのも、口元を拭い汚臭の根源である城内で手を汚すのも俺の自由だと師父が意地悪く笑う。俺の意思ならもう二年も前に決めた。今更現実に直面したぐらいでそれを覆すような柔な教育は受けていない。殿も師父も、かつて俺を守って死んだ養父も皆言葉にはしないけれど同じものを求めている。
 俺はそれに応えるのだと決めた。
 だから。

「行きます。行こう、朔」

 立ち上がり袍の袖口で顔を拭う。許から長安まで十日間。ずっと俺の懐で大人しくしていた朔が身をよじって飛び出す。
 おん。
 桜色の瞳が好奇心で煌めいていた。朔は戦を知らない。それでも、俺よりもずっと現状に馴染んでいて、彼が天帝が遣わした神獣であることをどうにか思い出す。俺の故国には「穢れ」という概念があるがこの国ではそんなものはないと知ったのは何年前のことだろうか。穢れに満ちた臭気の中で朔は平然と歩んでいる。それが何よりの証拠だ。死を忌み嫌い逃げ惑っているのは俺一人だ。
 だから。
 俺は愛馬――張飛が譲ってくれた栗毛の背に乗る。汚臭は今も肺腑を穢し続ける。背筋を正し、長安の城門を見据えると師父の教えが目の前で俺を試している気がした。
 現実がいつも美しいとは限らない。それでも俺は現実を生きることを望んだ。戦が人を殺すのは必定だ。略奪は強者に与えらえた権利で、誰もがその一時の遊興の為に戦線に臨む。
 長安の城内の惨状が今に始まったことではないことは火を見るより明らかだ。李カクも郭汜も暴虐の限りを尽くしている。その様は彼らが謀殺した董卓の後継たることを何よりも如実に物語っていてより滑稽さを増す。李カク、郭汜の頭の中には長安とお互いのことしかないのだろう。豫州から殿が兵を出してくる余裕があるなどとは露ほども思っていない。
 歩哨が報告した城内の様子を分析するとそういうことになる。
 城門の手前で俺を待っていた師父の隣に並び、所見を述べる。師父が試すように緩やかに笑った。

「師父、空城の計、ではない。と私は思います」
「そのようだね。では君ならば次はどうするのかな?」

 李カクか郭汜が俺たちに気づく前に郭汜を撃破する。その防具を奪って李カクとの小競り合いに参戦する。李カクはいつも通り郭汜と戦っているつもりで向かってくるだろう。董卓の残党に成り下がるしかなかった哀れな将官の末路だ。騎馬百。歩兵千。横やりなど想定してすらいない連中に不意打ちを仕掛けるには十分な戦力だと言える。だが、両軍を同時に相手にするには些か不安が残る。宮殿でまるで王にでもなったかのような振る舞いを続けている李カクを討つのは後でも出来る。まずは城下で狼藉働く無法者――郭汜を排除し、生き残った民を保護し、施しを与えるべきだ。平安を得た民は恩ある相手を受け入れる。師父の麾下には略奪を禁じてある。この土地で得るべき安定はそれで整うはずだ。
 だから。

「郭汜を討って参ります」

 高望みをしているという自覚があった。だから最後は語調が弱くなった。それでも師父の前で最上の答えを示したい。その思いでぐっと胸を張った。
 人を殺すということがどれだけの罪かはわからない。嘔吐の一度や二度で許されるものではないかもしれない。この先ずっとその罪を背負って、魘されながら心を病んでいくのかもしれない。
 それでもここは乱世だ。
 自分の身を守る為に誰かを犠牲にしない、などというのはただの綺麗ごとだと知っている。軍師の弟子であるということは遠からず誰かを害するということだ。自らの手を汚さずにその命を刈り取ることの方がよほど罪深い。
 だから、敢えて言った。
 俺が郭汜の首を持って帰ってくる。
 その返答に師父が困ったように眉根を寄せる。師父ほどの方が俺の返答に反応することが出来ないわけがない。それでも師父は小さな溜め息を吐いた。

「糧秣の配布、負傷者の収容とは言わないのだね」

 その答えを選べば俺に後方支援の任を与えたと言外に告げられる。
 自ら苦しい道を選ぶ愚直さを遠まわしに責められた。それでも俺は一度口に出した言葉を引っ込めない。

「乱世は今後、一層深みを増すでしょう。力のない私が武功を立てられる可能性は時を追うごとに少なくなります。軍師に首級が必要なのであれば、今しかない、と私は思っております」
「君に郭汜を討つだけの武があるとでも?」
「可能性が幾らかは残っているから、私を伴われたのはありませんか?」
「さあ、それはどうだろう」

 師父は俺の問いの切っ先を逸らす。誰かに肯定されなければ歩けない道ならば引き返すのが賢明だ。俺の目の前にはまだ数えきれないほどの道が残っている。別の道ではない意義を求めるのなら、その時はそれだけの覚悟を示さなければならない。
 何度目かももう数えていないが、同じ言葉を胸中で繰り返す。俺は軍師の弟子だ。郭奉孝の才を継ぐと決めた。その為に誰かの首が必要ならば必ず奪う。目的が達せられる前に俺の首が胴から離れることになるかもしれない。
 それでもいい。
 足手まといはごめんだ。誰かに守られなければいけない自分が嫌いだ。半人前だなどと嗤われるのもごめんだ。
 だから。

「郭汜は私のことを知りません。李カクもそうでしょう。私はどう贔屓目に見ても武官には見えません。冴えない文官ですらない。彼らに近づくのは簡単です」
「遊説家の振りをする」
「はい」

 その通りだ。
 弁舌を弄し、陣営に入り込む。自由意思を持ち、その言葉一つで何万の命を左右する。軍師の弟子か遊説家かどうかは俺を知っていないと判断出来ない。長安に来る道すがら俺は知った。長安は未だ曹操の天才軍師を知らない。その弟子たる俺をどうして知っている道理があるだろうか。
 師父と妙才殿と元譲殿。三人がかりで俺は暗器使いに育てられた。膂力も体躯も俺には必要ではない。たった一瞬の隙。その刹那が手に入れば俺は勝ったも同然だ。
 一瞬を手に入れる為の撒き餌に即効性が求められている、というのが唯一の問題で、俺が散々悩んで出した答えを師父の唇は一拍の間で紡ぐ。この才を羨まないものがいるのなら、それは天下の器だけだろう。

「『天子様を奉戴すれば大義名分はあなたのものだ』とでも言うのかな。天子様がいずこにおいでなのかは知っているのかい?」
「存じ上げません。存じ上げませんが、私は多分天子様のお心を知っています」
「というのは?」
「私などと天子様を比べること自体が大それたことだとは承知の上で申します。それでも、多分人という姿形をしている以上、きっと天子様にもあるはずなのです」

 この十三年、大陸に来て一度でも忘れたことはない。忘れようと努めれば努めるほど恋しかった。人には生まれ出た場所がある。どれほどの名誉を手にしても、どれほどの領土を与えられても決して生まれ出た場所が変わることはない。
 その思いを一続きの言葉にするのなら、それはきっとこれしかない。

「『帰郷の念』」
「はい」

 少帝を廃し、董卓の手によって献帝と称された場所。攻めくる連合軍を嘲笑う為だけに焼き捨てられた城郭。穏やかだった日常と怯えるだけだった毎日との両方が詰まっている。
 街並みにそれほどの違いはあるまい。一時だけだったが、都として作られた長安に特別の不足などない。
 それでも。
 献帝が望む場所は長安ではない。

「天子様は洛陽においでだと私は思っています」

 確信を持って言う。師父の顔色が少し曇った。
 見当違いのことを言っているのだろうか。俺の策など穴だらけだと叱られるのだろうか。
 不安が胸によぎる。
 肯定するには遅く、否定するには早い間を置いて師父が呆れた顔で溜め息を吐いた。

孝徳、君をいつか帰るべき場所から永遠に遠ざけている私を恨んでいるかい」

 その呆れ顔がなぜだか無性に泣きたいのを我慢しているように見えて、俺は慌てて弁解する。師父は滅多に後悔などしない。ご自分の決定に揺らぐこともない。
 だのに。
 今、郭奉孝は間違いなく途方に暮れた顔をしてる。

「永遠などどこにもありません」
「曹操殿が天下を取られたら、君は故国に帰る、と言うのかな」

 何年の後だろう。殿が治めているのはまだ豫州とエン州の二州だ。華北四州。中原。江南。数えればきりがないほどこの国は広い。その全てを殿が統べる日が来たら俺は――軍師はもう不要だろうか。そうなったら故国に帰ることを許されるかもしれない。
 かもしれないが、俺はそんなことを願ったことはない。
 それに。

「その頃には私は波に耐えられる体ではありますまい」
「なら――」
「師父。つまらない言質の取り合いに意味はありません」

 つまらないとは心外だね、と師父が反論する。

「必要なことだと、私は思うのだけれど?」

 師父は言葉遊びを殊更好んでおられる節がある。本当の「何か」は音にして伝えることは出来ない。師父が感じておられるものを、俺が同じように感じることは不可能だ。師父は誰よりもそれをよくご存じだから俺にそんなつまらないことを求めたことは今まで一度もない。
 その師父がそれを求めている。
 三年育てた弟子がその手を血で汚そうとしている、という現実の前で師父が困惑している。この国では死は穢れではない。それでも、死を望むものはどこにもいない。
 師父が困惑している。人など策略の駒だと思っているだろう師父が俺の進退で悩んでいる。それは師父にとって俺は価値のある存在なのだ、ということを間接的に伝えた。
 大丈夫だ。
 俺は師父の為に人を殺めるのではない。自らの意思で、大局の為に手を汚す。
 取り返しの付かないところまで俺は足を進めようとしているのを婉曲に師父が留めている。それが師父の誠意なら猶更俺が後に退くわけにはいかない。師父の顔色を窺っているのではない。俺は俺の意思で師父の傍らを選ぶ。
 それをどうにか伝えたくて、師父の言葉を重ねて否定した。

「師父は私の名をご存じですね?」
「姓を、名を、字を孝徳
の養父がその名をどんな思いで授けてくださったか、師父にはまだお話していませんでした」
「意味があるのなら聞いておこうかな」
「わが子と同等の扱いをする、という覚悟です」

 拾った子に名を付けるのなら自らの姓を与える必要はない。家名を与えるというのは養父が俺の人生の全てを保証するという意味だ。進退窮まれば力を貸し、罪を犯せば共に償う。俺にそれだけの価値があると養父が判じた。
 それが俺の才で、この国で生きていくだけの力だと養父が判じた。

「それと同時に」
「何があるのだい?」
「私の元の名と一切関わりを持たない名を考えてくださいました。師父には養父のこの行動の意味が理解出来るはずです」
「君の生死はこの国のものだ、ということかな?」
「養父が俺にこの国の名を授けたとき、倭人の俺は死んだのです。俺は――私は孝徳としてこの国に生まれ、この国に死ぬのです」

 だから、俺の帰る場所は東海で倭国ではない。孝徳として生きていくと決めた日、俺はそれを自らに何度も言い聞かせた。その決意は今も揺らいでいない。五十年の後に悔むかもしれない。それでも、俺はこの乱世に軍師の弟子として才を使う道を選んだ。
 だから。

「師父、朔をお願いします」

 俺は必ず郭汜の首を持って帰ってくる。だから、信じてほしい。待っていてほしい。
 どれだけ言葉を重ねても、師父の肯定は得られない気がした。首級を持って帰ってきて、初めて俺は師父の信頼を得られるのかもしれない。
 そんなことを思いながら、じっと師父の顔を見つめる。
 呆れ顔が苦笑に変わり、師父は泣きそうに眼を眇めた。

孝徳、私が一番最初に君に言った言葉を覚えているかな?」
「私の才を欲する言葉ですか?」
「私は『あなたと共に未来を見たい』と君を口説かなかったかい」
「はぁ、それが」
「私が欲しているのは君が君である所以だよ。首級などほしいのなら私が幾つでも君にあげよう」

 だから、このまま後方支援を続けるように。師父の言おうとしているところはその場で理解出来た。
 だが、いや、だからこそ。

「師父、郭汜の首を取ったら犬笛を吹きます。朔にしか聞こえません。朔が『おん』と鳴いたら城内に突入してください」

 でなければ俺は郭汜の配下に斬られて終わりだ。
 遮られるのを恐れて早口で捲し立てた。師父が流麗な掌で両目を覆う。
 そこまでわかっていてどうして愚を犯そうとするのだと師父が無言で詰る。

「師父にはもうおわかりのことと思いますが」
「ならば今すぐ考え直しなさい、孝徳
「師父、俺は軍師の弟子です。あなたの志を継ぐと決めました。あなたに守られるだけのお荷物はもう嫌なのです」

 一方的に守られるだけの関係は「共にある」とは言わない。
 だから。
 俺は黙って下馬し、朔の頭を一度軽く撫で、生理的嫌悪の根源へ向けて歩き出した。



 それから半年後のことだ。
 言葉の限りを尽くし、郭汜の陣営に入り込み彼の利を説くだけ説いた。有能な文官の殆どを失っていた郭汜は俺が金で動かせる駒だという思い込み、いきなり重用してくれた。俺もことあるごとに彼から金をせびったので、出所は汚いが私財が増えたのは幸いだった。潜伏してからひと月目の夜に李カクを出し抜く策はないかと秘密裏に問われ、この機を逃すまいと劇毒を仕込んだ鍼を刺した。
 人は死ぬ。呆気ないぐらい簡単に死ぬ。
 そのことを俺はこの時に思い知った。負傷兵の傷を癒すために打つ鍼が人を殺すのだということが恐ろしくて声を殺して泣いた。人は人に対してこれほど非道な真似が出来る。俺もその一人だというのが悲しくて同じぐらい悔しかった。
 その晩のうちに一度目の犬笛を吹いた。長安の南西を拠点としていた郭汜の勢力は師父の見事な手際によって一網打尽にされ、豫州へと送られる。彼らから剥ぎ取った防具で郭汜の軍が今も存在するように見せかけ、その実長安の民を手厚く労った。
 その間に俺もまた身支度を整え、ひと月の後に李カクの陣営へと潜入する。郭汜と比べたが李カクの方が余程優れている、と何度も繰り返し少しずつ主張して賂も使った。寝所へ出入りすることが許されるまでに三月かかった。二人きりになったのはそれから二十日後だ。郭汜と同じ方法で仕留めた、と思っていたが僅かに毒の効きが遅く、反撃にあう。李カクの体が倒れたのを確認し、犬笛を吹いたが、振り向き様に短刀で斬りつけられ首筋に一刀を受ける。

「郭汜を屠ったのはやはり貴様か」

 どこか遠いところからその執念の一言が聞こえる。俺は嘲笑った。そうだ、俺が殺めた。何だ俺が思っていたより愚鈍ではないではないか。情報を上書きするが正直なところ、死んだ、と思った。
 耳の真下から血液がだくだくと溢れ、止まらない。体温が下がっていくのと同じぐらいの速度で李カクは絶命した。白目を向いたままぴくりとも動かなくなった李カクを見ていると俺ももうじきあの仲間かと妙に冷静に感じる。
 そこから後のことは記憶にない。
 頬を撫でる生ぬるい温度に導かれるように瞼を開くと青い空が見えた。

「おん」
「朔?」
「おん!」

 聞き覚えのある鳴き声に向けて名を呼べば、勢いよく返答がある。朔が隣にいる、というのが死後の世界なのか生き永らえたのかがわからずぼうとする。おん、おんと続けて声が聞こえるけれど少しずつ遠ざかる。どこへ行くのだと探そうと顔を横に傾ける。額の上に載っていたらしい手拭いが落ちた。
 その次に見えたのはこれ以上ないと言うほどに目を見開いた師父だった。

孝徳

 孝徳、とただ名を呼ぶ双眸は今にも泣きそうな顔をしていて、俺は危うくこの方の絶望になるところだったことを知る。
 体を起こそうとすると節々が傷んだ。師父がそっと背中に手を差し入れて支えてくださった。そのままの形で俺は師父の腕の中に納まる。俺が生きていることを師父は何度も何度も繰り返し確かめているようだった。

「師父がおられる、ということは死にそびれたのですね」
「相打ちは下策だよ、孝徳
「油断も下策ですね、師父」
「君の所為で私は夏候惇将軍に借りが一つできてしまった」
「私を救ってくださったのは幽興殿でしょうか」
「十日で目覚めなければ諦めるように言われていたのだけれど」

 幽興殿が君の怪我を治療してから今日で丁度十日だ。君は天運を持ち合わせているようだね。そう言って師父がようやく体を放してくださった。

「李カクはどうなりましたか」
「喜ぶといい。曹操殿は大変お喜びだったよ」

 ということは長安に残る董卓残党の殲滅は無事成功したのだ。その武勲は俺の名で奏上されている。軍師の弟子に必要な最低限の武勇は立証された。これで俺はようやく十四で徴兵される新兵と同じ立場に立ったことになる。
 董卓の残党の脅威が去った長安は緩やかに復興に向かっている。民は不必要な不安から解放されれば後は自らの力でもう一度立ち上がることが出来る。皮肉なことにそれは徐州が証明していた。

「次の任は天子様の捜索でしょうか」
「それは君の敬愛する夏侯淵将軍が出向かれたから、私たちは許に戻ることになっているね」
「朔はどうしました」
「私と交代で君の容体を見守っていたから、疲れたのだろう。眠っているよ。あとで褒美でもやりなさい」
「是(はい)、師父」

 問えば簡潔な答えが返る。語調は平坦だ。師父は穏やかに微笑んでいる。いつも通りだ。何も変わりない。
 だのに。

「怒っておられるのですか」

 気が付くと問うた後だった。師父の眼差しが鋭さを帯びる。虎の尾を踏んだのだと気が付いたのは更にその後だ。

「『怒っておられるのですか』?」

 師父がゆっくりと、この上なく美しい、まるで芸術品か何かかのような完璧な笑みを形作る。その双眸に俺が映っているのを認知した瞬間、俺の背筋を悪寒が駆け上がった。まずいことをした。過ちなら取り戻したい。それでも、一度音にした言葉は決して消せはしない。
 それ以前に、俺は師父の怒りの理由を知らない。
 謝罪をする口上すら俺の中にない。取り繕える何かがある道理もない。
 困惑を顔に出すと師父の笑みは一層酷薄さを増した。

孝徳、君は自分が何をしたのか理解しているのかい?」
「首級を二つ、殿に献じました」

 郭汜、そして李カク。二人の董卓の遺臣を闇に葬った。世を乱し、自らの利を貪るだけの害悪を排除した。長安には平安が戻る。殿が長安を治めるのならば、それこそ長く安んじられるだろう。
 その土台を作った。
 武功を褒められる理由こそありすれども、詰られるのは筋が違う。
 俺の脳内は更に困窮した。
 武功と言うのかい。冷たく師父が言い放つ。

「その為に君が犠牲にしたものが何かを理解しているのか、と私は問うているのだけれど?」
「仰っている意味がわかりません」
「君が今、生きているのは誰のおかげだと思っているのだい?」

 その問いには即時答えが見つかった。躊躇いなく応じる。俺の予想に反して師父が未だかつてない不機嫌な顔で俺を睨み付けた。

「師父のおかげです」
「そんなことは誰も言っていないよ。私は君の才を求めた。その才を磨くのは私に課せられた義務だ。君が今ここにあるのは当然のことだ。誰が私の顔色を窺ってもいいと言ったのだい?」
「どなたからもお聞きした覚えはありません」
「当然のことだね。ではもう一度同じことを尋ねよう。君が今、生きているのは誰のおかげだい?」

 答えが見つからない。最適解を求めている自分を何度も否定して逡巡した。巡る思考が答えを導き出すまでに同じ場所を何度も通る。
 俺が生きている所以。俺が俺である所以。
 馬鹿馬鹿しいまでに摂理を悟ったつもりになって師父に高説を垂れた。
 俺が生きているのは――

「――養父の、おかげです」

 命を棄ててまで守ってくださった。後ろ盾は勿論なく、無一文で寄る辺もない俺を拾って十年間も育ててくださった。そのご恩に報いこそすれ、軽んじることなどあってはならない。
 だのに。
 この三年の間に俺の中の一番はいつの間にか養父から師父に変わり、天下泰平を、殿を大義名分にこの手を汚した。
 俺の血で朱に染まった両手を思い出す。
 俺は人を殺す為に育まれていたのではない。天下を安寧に導く為の学を授かった。俺は弱いものを守り、義を守ることを教えられたのにこのざまは何だ。
 はっとした俺の両手を師父の見かけよりずっとごわついた掌が覆う。

「そのことを君はいつから忘れていたのかな? 君があれほど貪欲に生を叫んだことをどうして覚えていなかったのかな? どうして、君はその尊い命を粗末に扱おうとしたのだい? 私はそんなつまらない命の使い方を君に教えた覚えはないよ、孝徳

 そして俺は師父の方に抱き寄せられる。俺自身が泣いている、と気づいた時には視界は師父の肩当で埋め尽くされている。優しく、柔らかく、とんとんと一定の間隔を持って師父の手が俺の頭を撫ぜた。

「怖かったのだろう。痛かっただろう。それを押し殺せる君は十分に勇敢だ」

 けれど、と師父の温かい声が続く。

「私が生きている限り、二度とそんな思いはさせはしないと約束しよう」

 だから、二度と相打ちの勝負を望むような愚かな真似をしないと約束してくれないかな。俺を抱きかかえながら師父が殆ど消え入りそうな声で呟く。
 郭嘉は誰にも執着しない。兵は捨て駒で戦は絢爛豪華な才の評定場だ。
 その風評を少しでも信じていなかったかと問われると俺は否定出来ない。
 それでも、俺は知っていたはずだ。
 師父の厳しい言葉には労りが含まれていたことや、俺が望むならこの戦乱の世で最も安全で綺麗な場所に匿ってくれようとしていたことを、俺は知っていた。それが師父なりのやさしさなのだということも知っていたはずだ。守るべきものを得た師父がほんの少し臆病になったことも、俺を家族の一人として扱おうとしてくださったことも、俺以外の誰が知っているというのだ。
 だのに。
 俺は自分自身の見栄や名声の為にその心遣いを無駄にした。
 ひと月前に俺は師父の制止を振り切って長安の城内に潜入した。朔がおんと鳴くまで師父がどれだけの不安を巡らせていたのか、俺はそれを量りもしなかった。
 その結果はどうだ。
 俺は自己満足の首級を二つ手に入れたが、瀕死だ。十日で目覚めなければ諦めるようにと言われた師父がどれだけ後悔したのかを俺は知らない。
 けれど。
 単衣を身に纏っただけの肩口の温もりが、師父もまた涙していることを伝える。
 馬鹿だ、俺は。
 慈しまれることに慣れて傲慢を抱いた。俺は特別だなんて自惚れていた。
 人が死ぬということはこれほど大きな痛みを伴う。養父と死に別れた俺はそれを知っていた。だのに、俺は師父に同じ思いをさせようとしていた。
 謝罪の言葉を口にすれば俺の胸の内の後悔は薄れるだろう。謝意を伝えた。俺は筋を通した。けれど、それは俺の自己満足だ。師父が負った傷は少しも癒えない。どうすれば償いが出来るのだろう。何度も何度も同じことを考えた。多分、何をしても師父の傷を癒すことは出来ない。俺は一生、この方に後悔をさせたことを後悔し続けるしかない。それが俺の罪で、罰だ。
 だから。

「師父、俺は強くなります」

 二度と他人の顔色を窺わなくてもいいように、その言葉を真実、実行出来るように努める。人を殺めなければ自己を貫けない強さなど欲していない。ただ、何ものにも揺るぎなく、自らを恥じることも驕ることもない強さがほしい。
 その不確かな答えを未来永劫求め続けるのが贖罪だと自分自身に言い聞かせる。
 半年後、洛陽に向かう途上の天子様を妙才殿が無事発見され、殿が許にお越しくださるように話された。これにより、許は俄かに天子様のおわす街となった。豫州・許が許都と称される所以である。
2013.11.27 up