Chi-On

Look Like a Shooting Star

刹那の友人

 届くはずのない相手から文(ふみ)が届いたのは許が都になって最初の暮れのことだ。
 「彼」の性格には似合わない丁寧で整った字面で時候の挨拶、俺の体調を気遣う文言が続き最後の二行で俺に面会したいとあった。
 文の読み方は師父(せんせい)から嫌と言うほど教わっている。どんな書体でどんな文句でどんな内容をどんな構成で書いてあるか。その意図をくみ取れるまで何百も何千もの文を読んで、書いてきた。
 その経験則上、長文か短文かは問わず、文の最重要事項は最後の二文に納まっていることを俺は知っている。つまり、このあり得ない文の意図を解せば、文を俺に宛てた男――張飛は俺に会いたいと思っている、ということになる。呂布が引き起こした徐州動乱に乗じて生まれて初めて所領を得た劉備を義兄と敬い、唯一無二のあるじと仰いでいる張飛が俺に会う理由がない。劉備は殿を裏切ったのだ。だのに今更誼を通じるとか、旧交を温めるとかそんな小細工をするだけの間柄になれるはずがない。万一、先方にその意図があったとしても、俺がそれを受諾する必然性がない。俺は師父――郭嘉の弟子で間接的に殿の配下だ。曹操幕下で全幅の信頼を置かれている、などと豪語するつもりはないが、身の丈にあった立場は与えられている。それを張飛の為に捨てる意義がどれだけあるだろうか。
 考えるだけ無駄だ。
 俺は師父の弟子であることを選び、その為に自らの手を汚し、命を懸けた。
 今更、あってないような借りを思い出して、俺の両手に抱えられたものを棄てる意味がわからない。
 だから、俺は張飛の文に返事をしなかった。そういう因縁を含んだ文が届いていると察しているはずの師父も何も言わない。それは俺の判断に任せられているからだ、と思い、小さいながらも信頼を得ていることに安堵していた。
 だのに。

「よう、

 年の瀬が迫るある朝、師父がまだ微睡の中にいる頃。俺が日課の水汲みをしているとその男の笑みはやってきた。はらはらと舞う雪片が三年前を想起させる。殿の第一次徐州侵攻の直後のことだ。俺は彼に借りがある。「駄馬」の栗毛を借りた。それ以来、俺はその栗毛を愛馬としている。気分転換をしたい遠駆けに出かけるとき、師父に伴われて領内を視察するとき、元譲殿の「依頼」を受けて戦場へ赴いたとき、俺の人生の岐路を懸けて長安へ随行したとき。
 ずっと、栗毛は俺と共にあった。
 三年間、栗毛の本来の持ち主のことを忘れていたと言えば嘘になる。栗毛は俺をあるじと認めていたし、持ち主は返さなくていいと言った。それでも、ふとした拍子に持ち主のことは思い出す。
 栗毛は、張飛の馬だ。
 その、栗毛の持ち主である張飛が門前に立っている。井戸から前庭に戻り、妙才殿の水瓶を満たそうとしたところでその現実と直面した。事態を上手く咀嚼出来ずに水を汲んだ瓶を肩から取り落としそうになって、慌てて棒を担ぎなおす。張飛が快活に笑う。豪快で裏のない、大雑把だけれど人好きのする、張飛らしい笑い方だった。
 相変わらずだな、。と向こうはまるで昨日顔を合わせた友人であるかのような口ぶりで声をかけてくる。だが、実際は彼に会うのは三年ぶりで、友人であった事実はどこにもないし、その可能性はお互いが放棄した。張飛はれっきとした「敵」なのだ。
 師父の屋敷は許都の北東のはずれにある。庁舎に出仕するのに遠すぎず、市からは離れ、静謐さを必要とするという師父の要望に応じて殿が屋敷を与えた。城門から離れている、という条件だけは叶わなかったが、それが今仇をなしている。北東の門番は誰だ。敵将を黙って通すなど許されることではない。この許都には天子様がおわすのだ。門番が力に屈したのか、金に目が眩んだのか、理由は後で尋問することにして、今すべき対処を考える。
 張飛を捕えなければならない。
 けれど、俺の武は彼の前では幼子のようなもので、正面から向かえばたちどころに反撃を受け、あっさりと敗戦を期すだろう。師父に起きていただくしかない。師父は軍師だ。張飛ほどの武人の殺気を感じれば目を覚まされないはずがない。
 そこまで考えて、俺はその当たり前の事実にようやく気が付いた。
 張飛は殺気も敵意も微塵も放っていない。
 それどころか、武器である蛇矛を持っている素振りすらない。
 徐州から手ぶらで許都へやってきたというのか。と思うと唖然とする。彼の腕っぷしならばそこいらの野盗では太刀打ち出来ないのはわかる。それでも、無手で敵の本拠地へ乗り込んできたその度量が凄まじい、と遅れて感心した。
 そして、俺は小さなことを思い出した。二十日前、張飛から文が届いた。最後の二文。俺への面会を申し出た内容を俺は無視した。
 これは、それと何か関係があるのではないか。
 ふと、そんな感触を得て、俺は肩から水瓶を下した。

「張飛、俺に用でもあるのか」
「あんたが返事を寄越さねえのはわかってたんだ。俺があんたでもそうする。曹操の軍師の弟子が今更俺に何の用か、ってな」

 天下に覇を唱え誰かに臣従するということは、それ以外の相手と不必要に親密にはならないと暗黙のうちに約することだ。お互いに利があり、利用しあう場合は例外的に認められるが、殿と劉備との間には利はない。害があるだけだ。
 だから、俺は張飛に会いたいなどとは思わないし、張飛もそうなのだろう。
 今は戦乱の世だ。あるじを戴き忠孝を誓った。そのあるじが天下を手にするまで俺たちは死に物狂いで動乱の中を生きる。
 そう、お互いに決めたのではないかと問えば、張飛はばつが悪そうな顔をした。

「そこまでわかっていてどうして文など寄越した」
、兄者を助けられるのはあんたしかいねえんだ。あんたに断られたら、俺はもうあんたを殺すしかない」
「ここは戦場ではないぞ、張飛」

 かつて張飛が自ら口にした「答え」を彼の眼前に突きつける。
 俺が殿に仕えてもどうもしない。戦場で会えば殺す。降るのなら受け入れる。
 それだけだと張飛は言った。
 なのに、彼は今切羽詰まった本気の顔で俺を殺してでも願望を叶えたいと言う。
 その自己矛盾を指摘すれば、彼は一層困惑を深めた。
 わかっている、と彼は言う。本当に俺の言葉の意味を理解しているのだろう。虎髭のごつくろしい顔を今にも泣きだしそうにくしゃくしゃに歪めて俯いてしまった。
 水汲みをしている場合ではないな、と本能的に察する。あと二刻ほどすれば妙才殿が俺の指南にやってくる。そのときに、状況を説明出来る程度には事態を把握しておかなければ屋敷の前庭は修羅場と変貌するだろう。
 張飛が真実何を求めているのかはわからない。
 それでも彼は俺や師父や殿の首級を求めて許都へ来たのではないということだけは確かだ。
 殺気も敵意も発しない。つまり、師父は午(ひる)を過ぎないと起きてこられない。
 だから。

「張飛、朝食はもう食べたのか?」
「そんな余裕があるかよ」
「ここで立ち話、というわけにはいかないんだろう? 取り敢えず食べながら事情を聞こう」

 前庭には妙才殿が使うために用意した胡床(いす)がある。そこで腰を落ち着けて話を聞くべきだ。そう判断したから俺は張飛を門の内へ招いた。張飛がぱっと顔を上げ、表情の全てを持って歓喜を表す。つくづく俺も笑顔には敵わない性分だと苦笑して厨(くりや)へと向かう。俺の分の握り飯では二人の腹を満たすことは叶わないかもしれないが、足しにはなるだろう。
 今日に限って妙才殿は急用が出来たりしないだろうか、と意味のないことを考えてもう一度笑った。
 俺が握り飯を四つこしらえて前庭に戻ると困り笑顔の張飛と、彼の足もとを離れようとしない朔(さく)の姿がある。朔は神獣だというだけあって本能的に利害と善悪を見抜く。その価値観の根底は俺なのだけれど、彼が張飛を拒絶しないところを見ると、どうやら本当に張飛は敵将としてこの地を訪れたわけではいのだと認識する。

「朔」

 朔はこの半年でようやく仔犬の大きさから脱し、今では俺の懐に納まることはもうない。それでも、彼は俺の懐が余程好ましいらしく、あるじに甘えたいと思うときは遠慮なく飛び込んでくる。客人のもてなしをしてくれていたことを褒める為に呼べば、千切れんばかりに尾を振って俺の方に駆け寄ってきた。飛び付かなかったのは俺が白湯と握り飯を載せた盆を持っていたからだ。彼にはそれぐらいの状況把握能力がある。

「珍しい犬だな。何て支援獣なんだ?」
「さあ、俺は預かっただけだから詳しいことは知らないんだ」

 詳細を欲している人間と対面すると自然と教えさせるから、俺にその必要性が湧かない以上、お前はきっと知らない方がいい。そう言うと張飛は意味が分からないという顔をした。疑問や疑惑の全てに真摯に対応するのは馬鹿を見る。世の中、分からないことが大半で、それでも人生を過ごしていく為には殆どそれで問題がないことを師父の弟子を三年務めて知った。誠実さは美徳だ。けれど、俺は乱世に軍師の弟子として生きていくのだから不実と無関係ではいられない。
 それを暗に含ませると張飛は少し残念そうにあんたは変わったんだなと言った。
 変わった、と言えば変わったのだろう。
 人を殺した。その相手に殺されそうになった。それでも俺が生きてることを喜んでくれる人がいることを知った。俺は李カクと郭汜の近親者からは仇敵だろう。彼らが報復を望むのなら、俺はそれを否定するだけの理由を持たない。大義なんて恩讐の前では何の抵抗力にもならない。人とが人を憎いと思うのに一体どれだけの美しい理屈が必要だと言うのだ。

「それで? 張飛、お前は俺に何の用があるんだ?」

 まさか、珍しい支援獣を探しに来たわけではないだろうと茶化すと張飛は渋い顔をした。

、あんたは自業自得だと嗤うだろうが、聞いてくれ」
「兄者、というのが呂布でないのなら聞こう」
「誰があんな馬鹿を庇うかよ。俺の兄者は劉備と関羽だけだ」
「ならば聞こう」
「呂布に城を追われた。兄者たちは家族も置き去りでどうにか逃げてきたが、袁術のこともある。徐州を取り返すのにあんたの殿の力を貸してはくれねえか」

 言って張飛は深々と頭を下げる。その頭頂部に込められた切実な熱を黙殺できるほどまだ俺の良心は曇っていなかった。取り敢えず顔を上げろと言う。張飛が俺の願いを叶えてくれるなら今すぐにでもそうすると返す。押し問答だ。平行線の交わらない問いと答えが繰り返される。予感ではなく確信した。俺と張飛の行く先には無駄な時間しか待っていない。有意義に時間を使いたければどちらが折れるしかないが、張飛にそれを望むのは無理があるだろう。では俺が折れるのか。それは、自分自身の小さな安寧の為に師父と殿とを売ると言う意味に他ならない。
 最悪だ。
 胸中で呟いて舌打ちした。張飛が頭を上げる気配はない。それもそうだ。師父の命が懸かっていれば俺だってそうする。そうすることしか出来ないのなら躊躇う理由も、現実から目を逸らす権利もない。
 わかっている。理屈では理解出来る。
 それでも。

「張飛、栗毛を貸してくれたことに関しては礼を言う」

 力で無理やり劉備に臣従することを強いなかったことも、礼を言うような事柄ではなかったが敢えて言った。
 それでも。

「俺はお前の為にお二人を売るわけにはいかない」
、俺はあんたが応じるまでここを動かねえ」
「なら、好きなだけそうしているといい。俺は、絶対に、この道を譲らない」

 自分自身に言い聞かせるように短く区切って力を込めた。俺はこの道を譲らない。その先に死が待っているかどうかは問題ではない。師父に褒められたいからではないし、殿に面白おかしい武勇伝を聞かせたいからでもない。俺自身の道義に反することはしない。そんなことをした日には死んだ後も悔いるだろう。鬼(ゆうれい)になってしまうかもしれない。
 そんな日が来たら。
 師父に俺の姿が景色越しに透けて見えたら。
 それでも師父は俺を馬鹿な弟子だと笑って許してくださるだろうか。
 考えてすぐに打ち消す。師父は俺よりも年長者だから、若輩の俺が先に死ぬのはそれだけで罪深い。儒教は長幼の序を重んじる。師父と殿がその儒を塗り替えようとしているのは知っているが、未だそれは叶っていない。現実が伴わない以上、若輩の俺が天寿を全うすることなく死ねば世間は師父に心無い「同情」の言葉を投げかけるだろう。
 それだけは許しがたい。
 だから。

「去れ、張飛。俺はもう東海の養い子ではない」

 今なら北東の門まで連れ添い、何事もなかったかのように城郭の外へ出る手助けをすることも吝かではない。
 そう、言った声に思わぬところから返答がある。

孝徳、そう頑なに拒むこともないのではないのかな?」

 彼は私に会いに来たのだろう。試すような、降って湧いた事態を愉しむような声に俺は背後を振り返る。想像通り愉悦の表情を浮かべた師父が、片足を微睡の中に残した状態で立っていた。城下に鐘が鳴る。師父がいつも起きてこられる時刻の数に二つ足りなかった。それは、つまり妙才殿の来訪を同時に意味している。
 俺は事態をある程度は把握した。把握したが解決には至っていない。このまま、戦の香りにつられ寝床を這い出してきた師父が面白半分で張飛と会話を始めたらどうなるか。
 それぐらいの簡単な想像は出来る。
 妙才殿が来られてから結論が出たのでは遅い。その時には張飛か妙才殿かのどちらかが傷を負っているだろう。
 どちらかを守りたい、などと高尚なことは思わなかった。どちらかの血が師父の屋敷の前庭で流れることを忌避した。結局は自己保身だ。
 それでも、気が付けば俺の口は叫んでいた。

「張飛、少し顔を貸せ。師父、妙才殿によろしくお伝えください」

 半ば悲鳴じみた響きを伴った俺の声が前庭の空気を一刀両断する。朔が師父の足もとで蹲っているのを見て、遅ればせながら師父の起床のきっかけを知る。朔が、師父に戦の香りを運んだのだ。
 そんな状況把握に努める俺をどう受け取ったのか、張飛はがばりと体を起こし、嬉々とした表情をしている。

孝徳、曹操殿も私も劉備を忌み嫌っているわけではない。そのことをよく覚えておきなさい」

 その認識の上で君が下した判断ならば、どちらの結末でも受け入れよう。
 許容にも似た強制の言葉を聞きながら、俺は俺の頭よりもずっと高い場所にある張飛の襟元を掴んで歩き出す。お二人が劉備を拒まないのならば結論などもう既に出ている。だのに俺は今から張飛と一体何の話をすればいいのだ。
 困惑が胸中を満たす。
 それでも。
 俺の選んだ道の上にもう一度姿を現した刹那の友人が無様に散り行く光景だけは見たくない、と強く思った。その判断に後悔はない。
 だから。

「許で一番酒の美味い店を紹介しよう」
「ついでに飯も頼んだぜ、
「ああ、もう。好きにしろ」

 許容と諦観を提示する。張飛が豪快に笑った。朔が一拍遅れで師父の屋敷から飛び出してくる。束の間の友情だ。わかっている。それでも俺は張飛を見捨てることが出来なかった。
 その弱さを悔いるのはもう少し先のことになるが、今の俺にはまだその兆しすら見えていない。
 ある程度屋敷から遠ざかると張飛が引っ張られなくても歩ける、というので手を放した。徐州を乗っ取り、勝手に牧の任を引き継いだ敵の将と並んで歩いている、という現象は俺の中で既に危機感の上限を超え、危機として認知されなくなっている。人間というのは慣れる生き物だ。それにしても、慣れるのが少し早すぎやしないだろうかと自嘲する。隣を歩く張飛に至っては問題の突破口を見出した歓喜で頬が緩んでいる。
 彼のその横顔が三年前とそれほど変わらないことに気付いた。
 「大人(ターレン)」のまじないを受けた俺も三年前から何一つ変わらないのだが、張飛がそれを指摘することもない。一州の頂点で暮らすものにとって、「大人」のまじないのようなものは常識なのだろうか。豫州だけが選ばれているのではない。確信めいた予感が脳裏をよぎって消える。
 そうするうちに目指す酒家(みせ)が見えた。市からは少し離れた場所にあるが、この酒家の話題は許で暮らせば嫌でも耳にする。まずは酒が美味い。強い酒から弱い酒までどれを頼んでもはずれがないし、給仕の見立てに従えば殆どの客は満足の行く酒を飲むことが出来る。美味くても高すぎる酒には価値がない、というのが許での常識だ。身の丈にあった飲食。許が都となったときに殿が暗黙のうちに命じた。
 だから。

「俺の俸禄で飲めるのはこれが限度だ」

 先にそう断って俺は酒家の円卓に座る。給仕たちは俺の顔を覚えているので、朔を連れて中に入っても咎められることはない。寧ろ彼らにとっても朔の来訪は一時の癒しになっているようだった。俺に倣い張飛が席に着いたのを見計らって給仕が注文を取りに来る。食事と酒を頼んでしばらくすると酒瓶が出てきた。俺はまだこの後も仕事があるから、と何度も断ったのに張飛はそれを理解しない。二人で来て一人で飲むのほど馬鹿なことがあるかといっこうに取り合わない。渋々杯を受ければ、そこは給仕の采配だったのだろう。午(ひる)からの仕事に差支えがない強さの酒だった。

「それで? どうして俺だったんだ、張飛」

 ほんのりと頬に朱が差し、適当に酔ってきた頃合いを見計らって軽い調子で問うた。張飛が肉料理を頬張りながら正面に座る俺を見る。からん。箸が皿の上を転がった。

「あんたが兄者に会っちまったからさ」
「劉備が何だと言うんだ」

 端的すぎる表現を理解しきれずに問う。予定調和なのだろう。張飛は泰然と腕を組んだ。

「あんた、兄者に言ったよな。『孤独の痛みを知っているから仕えられない』とか」
「言った、ような気がするがそれがどうした」
「兄者だって知ってるんだ。知ってて何でもねえ顔をしてるんだ」

 殿もそうだ。師父もそうだ。
 自分の考えを漏らさず伝えられる相手なんてこの世にはいない。俺は殿にはなれないし師父になることも出来ない。だから、大意をくみ取ることが出来ても真意を知ることは叶わない。そしてそれは意味のある立ち場を得れば得るほど深く混迷する。
 いわば万人の孤独の前で、俺は一人だけ特別であるかのような錯覚にとらわれていた。
 ただ、それだけのことだ。
 自らを嘲り、嗤えば張飛はふんと鼻を鳴らす。

「張飛、この国で天下に覇を唱える方、というのは万事そういうものなのだろうな」
「何だ、今更そんなことを知ったのか」
「師父の弟子をしているとそういうことが少しずつわかってくる。俺はやはり世間知らずなのだろう」
「そんなこたぁどうでもいいんだ。ただ、『孤独の痛み』を知っているをどうにか救ってやれないか、と兄者が心を痛めている」

 人が抱える悩みの大きさは本人にしかわからない。青く若かった俺の自惚れを真面目に取沙汰し、馬鹿正直に受け入れようとしている。劉備というのはやはり大器だ。虚栄を取り除いた俺など小さな存在で、戦局には何も影響しない。人を一人殺すのに心を殺した。二人殺して自分が死にそうになって心を取り戻した。不器用だ。わかっている。それでも師父は俺を認めてくださった。だから俺は生きても死んでも郭奉孝の利でなくてはならない。
 ただ、それだけが俺の生きる意味で劉備のように天下を望むのであれば俺を使う利などない。

「俺にそれだけの価値はないだろう、張飛」
「俺はそうは思わねえがな」
「お前も俺を『救って』くれるのか?」

 冗談めかして問う。この軽口を許される、と本能的に察した。
 張飛はきっと首肯するだろう。
 そうしたら俺は言わなくてはならない。もう三度目にもなる別離の言葉を。
 その一寸先の未来が見えないわけではないだろうに、張飛は虎髭の顔に太陽の笑みを浮かべて胸を張った。

「あんたがそれを望むのなら、俺はいつだってあんたを兄者の元へ連れてってやるぜ」

 知っている。劉備の器は本物だ。劉備を義兄弟と慕う張飛や関羽、所領もないのに従ってきた六千の兵が一皮むけば優しさの真綿でくるまれた空気を持っていることも、俺が選んだ幕舎ではそれは一生味わうことが出来ないことも。知っているのにそれでも俺は選んでしまったのだ。

「困ったな。俺はもう居場所を見つけてしまったから、『救われ』なくていいんだ」
「そういう顔をしてるぜ。でなけりゃ地べたに頭こすり付けて懇願する相手を黙殺出来るようなタマじゃねえだろうしな、あんたは」
「師父はお前の望みを叶えてくださるだろう。でなければ朔が俺に付いてくることを許しはしない。俺を切り捨てて、それで終わりだ」

 本当は、師父が俺を切り捨てたりはしないことを知っている。それでも敢えてそう言った。張飛は刹那の友人だ。張飛の前で俺が師父の弱点たることを明かしてはならないことぐらいはわかる。だから、敢えて自らを軽んじた。所詮、郭嘉はそういう登用しか出来ない。そう思わせた方が曹操軍の利になる。
 人心を捕えるのは劉備の得手で天賦の才だ。張飛はそれを暴力で守っている。張飛に出来ることはそれぐらいだからだ、と巷間は評している。その時点で世間というのは表面の検分しか出来ないことを露呈してる。張飛に心がないはずがない。劉備を誰よりも長く見て、自分に何が必要かをずっと考えてきた。義や理を説くのは関羽がやる。劉備がそれを受け入れる。では張飛に出来ることは何だ。度を過ぎた暴力で律する役目が必要だ。
 だから、張飛は無謀を装う。
 それでも、俺は知っている。
 張飛というのは人の心のわかる将だ。
 今もそうだ。劉備たちが徐州を追われたのは張飛が呂布の配下を殺めたからだということになっている。内部分裂だ。だが、その結論を誰よりも享受しているのは誰だ。徳の将軍が天下一の暴威と慣れ親しむ時間がそう長くあってはならない。劉備は呂布と袂を分かつ必要がある。それでも劉備には出ていくだけの理由がないし、一方的な別離を告げれば劉備は誰の後ろ盾も持たずに呂布と対峙することになる。それが、どれだけ無謀なことなのかは浅学な俺にでもわかる。だから、張飛は敢えて汚れ役を買って出た。そして彼は命を懸けて敵の本拠へやってきた。俺という可能性を勝ち取れると信じて。
 俺が、師父の捨て駒になろうとしているのと同じだ。
 長安で首級を挙げると意気込んだのと同じだけ思い詰めているのを知っているから、俺は張飛を見捨てることが出来なかった。師父はそれをご存じだ。

「切り捨てられる前に俺が拾ってやるから、安心しろ、
「お前の軍師にしてくれるとでも言うのか?」
「あんたじゃ役者不足だ」

 精々厩番が関の山だ。張飛が豪快に笑う。
 俺の栗毛と張飛の粕毛が並んだ厩で彼女たちの世話をする。朝な夕なと草原へ連れ出し、駆ける。その未来の何と穏やかなことか。年老い、書簡に書きつけられた文字が読めなくなったら。そんな暮らしをするのも悪くはない。
 それでも。

「俺は軍師の副官だから、お前の提案は受け入れられない」
「気が変わったらいつでも言え。あんたなら、兄者たちも文句は言ねえだろうさ」
「おかしなことを言うやつだ。俺は郭嘉の弟子だ」

 劉備の天下に必要なはずの天子様を勝手に戴き、許を都に変えた。それを彼らは呪っているだろうに、諸悪の根源である殿に力を貸してほしいと言っている。首尾一貫していない、と詰るべきだろうか、それとも柔らかな志だと賞賛するべきだろうか。
 逡巡して答えなどどこにもないことを知り、俺は酒杯を傾けた。

「張飛、俺は殿の天下を譲るつもりはない」

 それでも、俺が彼にこの食事を奢るのは三年前の借りを返すためだ。張飛のおかげであの日、俺は寒空の下で野宿をする運命から免れた。師父は俺と張飛の両方の意図を知って、それでも殿の為に利用しようとしている。それだけわかっていれば十分だ。この後のことは師父と殿の采配する領分で、俺に張飛を――その後ろで固唾を呑んで状況を見守っている劉備をどうこうする権利はない。

「それでも、俺を連れて行くと言うのなら俺は拒むことはしない。お前と劉備の望むように使えばいい」

 気が済むまで食事を取った後は劉備のところへ案内しろと言外に告げる。張飛が苦々しく笑った。

「相変わらず馬鹿だな、あんたは」

 どうして師匠と軍主を売らないと言う判断が出来るのに自分のことは易々と売るのだと責められた。一時は友軍となるが、遠くない未来、再び敵対するだろう相手を心底思いやることが出来るお前も同類だと返せば自覚があるのかと更に詰られた。

「張飛、俺は俺を売るのではない」
「じゃあ何なんだ」
「軍師の目の前では凡人などただの動く石だ。どう生きても想定の範囲内にしかなれないなら、せめて矜持ぐらいは保っていたいじゃないか」

 行動させられた、のではなく、自らの意思でそうしたと思い込みたい。俺は師父の掌の上を飛び立つことは出来ないだろう。それでも軍師の弟子で副官を自負した。だから、どんな苦境も自らで選んだと信じたい。それが身を売るように映っても構わない。それぐらいの覚悟がなくて師父の弟子であることなど叶わないことを知っている。
 だから。

「お前と同じだ、張飛。お前が劉備に命じられて死地に赴いたのではなく、義兄を慕う自らの意思でここにいると思いたいのと同じだ」

 そういう意味でも俺とお前は同類だと笑う。張飛はもうそれ以上笑うことも詰ることもしなかった。ただ酒瓶の底に残った酒を杯に注ぎもせずに煽る。多分、彼はそういう粗暴を装う習慣が身についているのだろう。俺が自暴自棄を装うのに慣れきってしまっているのと同じだ。
 正面の席に座った張飛の眼差しに昏い光が宿っている。張飛と同じ軍主を戴けたらどれだけ幸福だっただろうと一瞬考えて打ち消す。あと十日。たった十日だ。ほんの十日長く東海にいたら、俺はきっと陶謙を経て劉備に臣従しただろう。その方が俺にとっては楽な人生だったのは想像に難くない。劉備は俺に戦を求めたりはするまい。俺は彼の書記官としてずっと後方支援を続けていたに違いない。
 その俺が敵将と差し向かい、正真正銘、この命を懸けて進退に窮まったりしている。
 それでも。

「張飛、俺は後悔していないぞ」
「だろうよ」

 そういう顔をしている、と言って張飛が酒瓶を円卓に置いた。皿の上の料理はもうない。酒も今終わった。刻限だ。俺は懐から財布を取り出し、給仕を呼んだ。


「何だ、張飛。まだ食べるのか?」

 俺の俸禄ではそろそろ限界だと言おうとする先を遮られる。張飛はもう満腹だと何も満たされていない顔で言う。

「兄者に会う前に言っておく」
「何をだ」
「俺はあんたを利用する。そう決めたのは俺の勝手だ。だから」

 兄者の前でその悲壮感の鎧を身に纏うのはやめてくれ。殆ど懇願に近い、掻き消えそうな声で張飛が願う。
 俺は薄く笑った。

「嫌だと言ったら?」
!」

 張飛が声を荒げ立ち上がる。勘定を終えて釣りを持った給仕が俺の卓へ来ようとして硬直した。猛将の怒気を正面から受けてた俺も身が竦む。それでも俺が逃げなかったのは何も勇気があるからではない。
 ただ。

「どうしようもないんだ」

 俺が意図してしていることなら幾らでも留められる。
 だが。
 俺が本能的に自衛としてやっていることはどうにも出来ない。俺の方も消え入りそうな声でそう返すと張飛は両目を見張った。彼の両肩から力が抜けて、すとんと椅子の上に落ちる。どさり。そんな音だったかもしれない。

「あんた、よく今まで生きてこれたもんだな」
「全くもって同意だ」
「馬鹿か。それで、どうして戦線に出ようだなんて思いやがったんだ。あんたの師匠は何を考えてやがる」
「師父に非はない。俺がそれを望んだ」
「適材適所って言葉があるだろうが。十四の新兵でももうちったあマシな面してるぜ」
「張飛、俺は臆病なんだ。守られていると余計に不安になる」

 戦場の一番安全な場所にいても、同じだけ不安になるのなら、特別に守られているだけの価値がない。それなら俺は師父の手足として前線を駆け回っていた方がいいと思った。いつかはそれに慣れる日が来ると思っていた。
 だから、張飛は俺を利用しようとしていることに罪悪感を覚えなくてもいいのだ。
 俺は「自ら望んで」ここにいる。
 悲壮感を纏うなと言われたから努めて明るく振る舞う。張飛はそれすらも拒んだ。

「張飛」
、やっぱりあんた、兄者の側にいる人間だ。郭嘉にゃ――」
「それ以上師父を貶めるようなことを言うのなら俺はお前に同道しない」
、俺はあんたの為に言ってんだ」
「張飛、俺は自らの意思でこの道を選んだ。楽な道ではないのは誰よりも俺が知っている。それでも俺が選んだんだ。最後まで選ばせてくれ。せめて、それぐらいの自由を許してくれ」

 頼む。俺を師父の弟子から遠ざけないでくれ。
 彼が今朝そうしたように深く身を折る。張飛は心のない男ではない。彼が心を砕くに値した相手がこうして懇願するのを拒めるはずもない。それを知っていて、今度は俺がそれを利用した。
 俺は最低の男だ。自己中心的で利己的だ。その程度を量るなら人並みだけれど、俺は敢えて度を越していると認識している。そうやって自分自身を律していないと師父の弟子であることを許されないような錯覚に囚われていた。
 それに張飛は気付いたのだろう。諦めた声で俺の名を今一度呼ぶ。

「もったいねえなあ」
「そんなことを言ってくれるのはお前ぐらいのものだ」
「じゃあそういうことにしておいてやるから、行こうぜ、

 折っていた身を起こす。張飛が困ったように笑っていた。そこには呆れこそあったものの罪悪感はもうない。多分、彼は割り切ったのだ。俺が出来ないその感情の処理を一瞬で終えられるからこそ彼は猛将足りえるのだろう。
 穏やかに笑って彼は給仕を呼ぶ。
 感情の振り幅を最大から最小まで見届けた給仕は戸惑いながら釣りを持ってきた。
 そして、俺は無事支払いを済ませ、酒家を出る。
 他の卓で愛想を振りまいていた朔が頃合いを見計らって戻ってきて張飛の足もとでじゃれていた。
 その事実が俺の歩み始めた道行が決して暗くはないことを告げる。
 城門が閉まるより少し早い刻限に俺は劉備と彼の義弟二人を連れて師父の屋敷に戻った。師父はそのまま彼らを殿の元へ誘い、天子様の威光により官職を与えた。こうして俺と張飛は刹那の友から一時の共に昇格し、この冬を終える。
2014.02.05 up