Chi-On

Look Like a Shooting Star

貫ける信

 空の端が朱に染まる。
 今日もまた何ごとも起きずに一日が終わろうとしている。平穏で安全な師父(せんせい)の屋敷の中庭で空を見上げて、多分俺と同じことを考えているだろう曹丕殿に声をかけた。

「曹丕殿、夕餉の時刻だ」
、お前は何も思わぬのか」

 曹丕殿がこの屋敷に来られたのは十日前のことだ。軍装した曹操殿御自ら乗馬に載せ、師父の屋敷にやってこられた。午(ひる)前だったから当然師父は起きてこられない。ご用をお聞きしなければならない、と身構えた俺の背中の向こうから聞きなれた朗らかな声が聞こえる。振り返る必要はない。この声は師父だ。午になるまでに師父が起床される、ということがどれだけ異常なことか、俺はこの四年間で身を以って知っている。
 そしてその推論が導き出した答えが間違っていなかったことを俺は次の瞬間に知った。

「郭嘉、張繍が下るらしい」

 張繍、というのは南陽郡の太守で程イク殿の調略の相手だ。気長にじわじわと包囲を狭めてきたが、劉備軍が殿に下った、というのを間者が知らせたのが決め手となったのだろう。領土の安堵を唯一の条件に、他は無条件で降伏した、と殿が訥々と語る。
 それを聞いていた師父の表情からすっと感情が消える。軍師郭奉孝が命を懸けた献策をする時の顔だ、と俺は気配で察した。

「曹操殿、その事後処理は私に一任していただこう」
「おぬしもやはり裏があると思うのだな」

 その問いに深く師父が頷く。裏、というのは何だ。降伏に裏や表があるのか。
 考えて、その答えには何とか自力で辿り着く。表面的には正反対だが、本質は張飛と同じなのだろう。粗暴を装い、別離の名目を保つ。従順を装えば残るものは何だ。
 決まっている。
 反撃の一手が待ち構えている。
 上手い話を信じてはならない。目先の利益に飛び付いて全てを失うなど愚者の所業だ。
 一拍遅れでそこまで辿り着いた俺の顔にさっと緊張が走る。
 師父が酷薄を顔から消して微笑んだ。

「無条件降伏をありがたがるのは私の不肖の弟子ぐらいのものだね」
「と、言われておるが、異論はよいのか?」
「事実を否定出来るだけの弁舌がございません」
孝徳、理解が早すぎるのは君の欠点だね」

 偶にでいい、もっと足掻くことも覚えなさい。
 言って師父が踵を返す。厩に行くのだ、と理解してその背を追おうとする。
 それを気配で察した師父が振り返りもせずに冷淡に言い放った。

孝徳、君の任はこの屋敷の留守居だ」

 朔と二人ここに残りなさい。言われて俺は目を瞠った。
 先の長安での失態ならば二度同じことを繰り返すつもりはない。今度はもっと上手くやれる。命を危険に晒さずにもっと効率的に同じ任をやり遂げられる。そう、自負していたから師父の言葉で俺は硬直した。
 追い打ちをかけるように殿の言葉も続く。

、これの面倒も見てもらわねばならん」
「これ、とは?」

 俺の問いには答えず、殿はご自身の前に載せていた曹丕殿を下馬させる。
 流石は武人の子、といったところだろうか。するすると慣れた動作で曹丕殿は石畳の上に立ち、感情らしい感情も見せずに彼の父親を振り仰いだ。

「丕、よいな?」
「父がそうせよと仰せなら」

 曹丕殿の大きな瞳が俺を射た。彼は子どもらしく、従順な態度を見せてはいるものの、初陣を迎えられないもどかしさや、預けられる俺に対する品定めが混ざっていた。
 本当は随行したい。そして戦果を示したい。自分はもう子どもではない。一人前の男として扱ってほしい。
 その曹丕殿のぐるぐると渦を巻いた感情と俺のそれに等号が結ばれる。
 なるほど、俺は十の子ども、獣一匹と等しい。これでは留守居ですら重荷かもしれないなどと自嘲した。
 そして、子どもではない俺は殿に問う。

「殿、許にはどなたが残られます」
「李典、楽進。何かあれば鷹を使うことを赦す」

 二将が残るが独断で彼らを使うことは許さないと言外にあった。合掌し身を折る。
 鷹は速いが夜目が利かない。俺が殿や師父に助力を請えるのは陽の出ている間に限られる。逆に留守居を放ってでも南陽に駆けつけなくてはならなくなっても、夜の間は何も知ることが出来ない。
 大丈夫だと信じている。殿も師父も、俺などの不在で何かが欠ける方ではない。寧ろ俺を伴った方が要らぬ弱点を抱え込むことになるだろう。
 そんなことを考えながら一つずつ納得を積み上げていると不意に殿が苦く笑った。

、答えを無理に見つけずともよいのだぞ」
「何の話でしょうか」
「それはおぬしが一番よく知っておるだろう」

 おぬしも損な性分よ。
 それが何を意味しているか、見当を付けられないほど幼くも、無知でもなかった。殿が仰っているのは俺が理で足もとを固めようとしている段取りのことだ。納得が出来なければ前へ進めない。無理にでも答えを得なければ、すぐに道に迷う。本当に損な性分だ。それでも、師父は俺を破門にしない。それは、損な性分の持ち主である俺にも何らかの将来があるからだ。兵法を学び、師父の隣に副官として従い、殿の覇道をお支えする。
 答えが見えているわけではない。
 それでも。

「殿は私たちの才を思うがままにお使いになられればよいのです」

 その先には天下がある。唯、才のみを求むる。その号令によって集った才子たちには各々の才はあれど、天下を描く才がない。天下への道が見えているのは殿だけだ。
 だから。
 殿の命は師父の命だ。俺はその主命に背かない。
 天下という夢を見た。天下という志に惹かれた。
 俺は天下を治める殿の軍師の弟子だ。その自負がある。それは俺の誇りだ。
 師父の背を追うことを諦め、留守居を受け入れる。そして殿の前で背筋を正し、胸を張った。俺に今求められているのは追従ではない。そう、判じた。
 馬上の殿に拱手すれば、殿は愉快そうに笑う。

「郭嘉がそう命じたか」
「いいえ。命じられたことを遵守するのは十四の新兵でも出来ます」
「ほう、では十の丕には無理だと?」
「殿、思ってもおられないことを口にするのはおやめください」

 俺は師父の弟子だから、どんなに性質の悪い言葉遊びでも「冗談」の二文字で割り切れる。何度試されても、何度でも応える。
 殿がそれを知らないとは思わない。それでも、敢えて言った。殿にとって俺が無条件で首肯する人形の一つだと思われたくなかったし、俺の傍らに立った曹丕殿に大人特有の駆け引きで不安を感じさせたくはなかった。
 そんな俺の心配が無駄だった、ということは曹丕殿の言葉が表す。

、父に対して礼を失している。誰と喋っているのか、忘れたとは言わせぬぞ」

 憤慨している、と顔中で主張している曹丕殿を見ていると、父子という関係を少し羨ましく思った。全ての損得を度外視して信頼出来る。遥か海の向こうに残っているだろう俺の父親は今頃どうしているのだろう。幼かった俺を育ててくれた養父は俺を庇って死んだ。今の俺には都合三人目の父がいる。師父を親と慕い、兄と敬い、師と仰ぎみて俺は生きている。
 そうだ、何も曹丕殿を羨む必要はないのだ。
 彼の純然たる憤りの意味を、感情を、俺も知っているではないか。
 俺の目の前で師父に無礼を働くものがいれば、俺もきっとそのものを許さないだろう。年を重ね、その憤怒を一々表出させなくてもいいことを知った今では、軽蔑することはあっても言葉にして諌めたりはしない。
 曹丕殿にその年長者の驕りを押し付けるのは憚れたから、俺は素直に頭を下げる。

「無礼を申しました。お許しください」
「よい。おぬしの正道を見ておるといっそ清々しい。丕よ、よく覚えておくことだ」
「何を」
「真っ直ぐに生きるだけが人生ではない」

 その言葉に弾かれたように俺は顔を上げる。俺の視線の向こうで曹丕殿が何かを悟った顔をしていた。真っ直ぐにしか生きられない俺を見て――俺を反面教師として処世を学ぶよう言っているのだと一拍遅れて気付く。からかわれている。わかっているのに俺の唇はぱくぱくと開閉を繰り返すばかりで何の音も生み出さない。それを見て殿は更に笑みを深くした。
 何か反論しなければならない。それでなくとも、よい見本が出来た、などと多少強がって見せなければならない。
 理はそれを俺に命じたが脳漿は受理しない。
 煩悶して行動が停止した俺を見て曹丕殿が更に納得していた。
 その、居心地の悪い沈黙を打ち破ったのは室(へや)に入り、戦支度を整えていた師父だった。くすくすと笑い声が響く。

「曹操殿、そう孝徳をいじめるのは哀れというものではないかな」
「郭嘉、支度は出来たのか」

 華やかだが実用的な軍装を身に纏った師父が殿の問いに首肯する。厩から引いてきた葦毛がぶるると鼻を鳴らした。師父も葦毛も臨戦態勢に入ったという合図だ。

「私は夏候惇将軍と夏侯淵将軍にご協力いただいてから南陽に向かおう。曹操殿は典韋と一緒に一足先に出立していただけないかな?」
「寡兵を装うのだな」

 降伏を受け入れる使者が多勢を率いていたのでは、相手はいっそう萎縮する。萎縮して、怯えて、焦った果てに待っているのは意味を成さない反撃だ。何の企みがなくてもそうなる。況して一矢を報いようとしているのならば尚更だ。こちらが張繍を疑っていないことを示す必要がある。
 殿と師父との会話に滲んだ緊迫感が俺の背筋を正す。
 
孝徳
「はい、師父」
「曹丕殿に失礼のないように」
「善処いたします」

 この場面では善処ではなく確約するのが一般的な礼儀だ。わかっていて、敢えて善処を選んだ。自分自身、不可能だとわかっていることを約定するのは無責任だ。曹丕殿の性格もまた詳しくは知っていない。俺に出来ることは善処しかない。
 師父は誰よりもそのことをよくご存じだ。
 困ったように笑い、それでも俺を咎めたりはなさらなかった。

「十日で戻れるだろう。その間、何か緊急の出来ごとがあればこの鷹笛を使いなさい」

 言って師父が懐から竹笛を取り出して俺の掌に載せる。朔に犬笛を使うように、鳥獣には人間には聞こえない音が聞こえている。その音は声よりも余程遠くまで及ぶから、遠距離での通信では大きな役割を担う。
 鷹を使うことを赦す、と仰った殿からも鷹笛を預かった。
 大きさは師父の方が少し小さい。だが、本来の目的から考えれば重複した指示だ、と俺は結論付ける。

「先ほど殿からも同じ指示をいただきました」
孝徳、早合点は君の悪い癖だね。曹操殿の渡した『笛』と私が今渡した『笛』が同じ用途だと思っただろう?」
「違うのですか」
「真実は君がその目で確かめるといい。私が戻るまで決して笛を失くさないよう十分留意しなさい」

 師父はいつも簡単には答えをくださらない。それでも俺の短慮を指摘する。自分で自分の過ちを探せと言外に求められているのだ。そして、その先で真実を得たとき、師父はまるで我がことのように喜んでくださる。その笑みを見たい。だから、俺は曹丕殿と二つの鷹笛を拒まない。
 ただ、それだけのことだ。
 ただそれだけのことを残して、十日前曹操軍は張繍の降伏を受理する為に南陽郡へと出向いて行った。
 師父がおられないから午後の鍛錬と兵法指南はない。妙才殿も師父が伴われたから午前の鍛錬もない。曹丕殿と二人――厳密には二人と一匹の暮しが十日続いた。
 五日ほど前から、午後になるのを待って張飛が屋敷を訪れて、夕食までに帰る。組み手の相手になってくれる、という彼の申し出をよくよく聞けば門番を買収して劉備軍の野営からやってきているらしい。曹丕殿は最初、それに嫌悪感を示していたが、朔が張飛を警戒していないことに気付き二日ほど前から三人で鍛錬をしている。
 今日も張飛は飲食物を持参してこの屋敷へやってきた。二刻ほど張飛に組みかかっては投げ飛ばされる、という意味があるようでないことを繰り返し、城門が閉まる時間だとあっさり帰っていった。
 曹丕殿は史書の通読を、俺は夕餉の支度をと別れて、今に至る。
 汁物が煮立ったから曹丕殿を呼びに行った。その場で彼はむつりと顔を顰めている。

、お前は本当に何も思わないのか」

 曹丕殿の足もとに蹲っていた朔がぴんと耳を立てた。朔は聡い。曹丕殿の声音が少し硬いことに気付いたのだろう。真っ黒の瞳がちらと動いて俺を射た。俺が何と応えるか、試されているようなむず痒い感覚が生まれる。

「張飛のことか? だったらあれは信じないことだ。戴くものが違う。いずれまた道が分かたれるのは最初からわかっている」

 今はいっとき、劉備が曹操殿に臣従した。だから彼は俺の友人のような顔をしているが、本当は不服が募っている。彼が誇りに思う劉備が、曹操殿――張飛からすれば小賢しい小役人風情に頭を垂れているのが許せないのだ。
 それでも張飛は不服をそのままに発露することが許されていない。呂布の時のように粗暴を装い、曹操幕下に害を成せば劉備は路頭に迷う。彼に許されているのは俺に武術指南をするという体で思い切り体を動かすことぐらいだ。
 師父がおられず、妙才殿も来られない。その情報を誰が劉備軍に流したのかは敢えて問わない。今は陣営を同じくしているのだ。「味方」の情報を共有していない方が万が一のときに危うい。
 それに。
 本当に張飛に問題があるのなら、曹操殿の次男であり、未だ庇護されるべき曹丕殿がおられるこの屋敷に辿り着くことは出来ないだろう。李典殿も楽進殿もそれを許容しているというのは、つまることころ張飛と俺の鍛錬は誰の損でもないということを意味している。
 そのことは曹丕殿も理解していたのだろう。小さく首を横に振った。

「あれはそういうものだろう。それぐらいの判断は私でも出来る」
「では師父か? ならば尚更信じないことだ。師父の頭の中には戦しかない。曹操殿の幕下が最もいい戦が出来るからお仕えしている。そういう方だ」

 戦と酒と美姫。その三つしか師父の頭の中にはない。
 曹操殿はそれをご存じだ。曹丕殿も知っておいた方がいい、と俺が判じたからそう告げる。
 曹丕殿は俺の言葉を聞くなり何かが弾けたように目を見開いた。

「意外だ」
「そういうものだ。世間は俺が師父に心酔していると思っている。そういう風に俺が振る舞ってきたからな」

 意外でなくては俺の立場がない。
 師父に師事した俺が最初に求められたのは「誰の顔色も窺わない」ということだ。
 その意味を理解する頃には師父の本質が少しは見えていた。師父は俺の才を望んだが、俺の為に命を棄ててはくださらないだろう。わかっているから、俺は師父に過剰な期待をしない。
 それでも表立っては思慕を演じた。師父がいてくださるから俺がある。その一面を何よりも強く押し出した。俺と師父との距離感は二人だけの秘密だ。
 秘密だったのだが敢えて曹丕殿にそれを明らかな言葉で告げた。
 曹丕殿が困惑を顕わにする。

「それをなぜ明らかにする。私が父に讒言するとは思わないのか」
「したいのならばされればよい。讒言一つで師父は俺を破門にはしないし、殿も師父と袂を分かつことはないだろう」

 殿も師父も人と才を見る目は確かだ。お二方とも、心情よりも才を重んじている。どんな理由で従軍するのかは問わない。曹孟徳の覇道に必要な人材であれば用いる。役に立たないのであれば棄てる。ただそれだけのことだ。
 俺にはその唯才の志の下で与えられた立場がある。
 師父や殿が俺を使うことなく棄てるかもしれない、などと悩む時期は終わった。
 俺には少なからず才がある。何の根拠もないが、今ではそれを確信していた。
 曹丕殿もいずれその仕組みを知るだろう。或いは、聡い彼ならば今知るのかもしれない。

「なるほど、それが信か」
「曹丕殿が讒言などをされるような小さな器ではない、と思っているのも信だ」
「買い被るな。私はまだ十の子どもだ」

 言葉こそ鋭かったが、曹丕殿の眦は柔らかに弧を描いていた。それはつまり俺の「信」が届いたということに他ならない。

「曹丕殿、疑問は解決したか?」

 十日間燻らせ続けた胸中の霧が晴れたのなら夕食にしようと言外に告げる。
 だが、曹丕殿の視界にはまだ靄が残っていたらしい。彼は静かに首を横に振る。
 そして頑として譲らないという顔で俺に問うた。

「もう一つだけ、よいか」
「曹操殿があなたを残して行かれたことか?」
「お前も不満があるだろう。ない、とは言わせぬ」
「そうだな。俺もこの権謀術数を師父の隣で見たかった」
「それでもお前は何とも思わぬ、と言えるのか」

 師父が生み出す奇跡にも等しい知略の数々。たった一手で戦況が覆る興奮。伝聞で知るだけでもそれらは俺を奮い立たせる。現実をこの目で見ればどれほどの高揚が得られるだろう。
 それを想像するだけでも武者震いが来る。
 それでも。
 俺は郭奉孝の弟子で、副官だ。
 だから。

「何とも思わないとも。師父の決断には意味がある。俺などの予想もつかないところで何かの力がはたらいている。曹丕殿もそれは承知しているだろう」
「だが、私ももう十だ。私も父の力となれるはずだ」
「だから戦に連れていけ、と?」
「そうだ」
「曹丕殿、あなたは何か大きな勘違いをしている」
「何の話だ」
「留守居を任される、というのはそれもまた大きな信で成り立っている」

 許は都だ。天子様がおられる。天下に覇を唱える諸将が歯軋りして手に入れたがっている天子様を――漢王室の正統たる証を曹操殿はお持ちなのだ。
 曹孟徳の覇道を現実のものとする為にはなくてはならない。奪われることなどあってはならない。天子様にとっても殿の庇護は大きな意味を持っているだろうに、あの方は今更殿を怖がっている。尊敬と畏怖が恐怖にすり替わっているのだ。そして同姓である劉備の器の大きさと、物腰の柔らかさに惹かれ始めている。その証拠に、天子様の最近の口癖は「劉皇叔(こうしゅく)はいずこか」だ。野営から正殿に劉備が招かれる回数も段々増えている。
 殿はその状況を知りながら、それでも降伏するには対面したいと張繍が拘泥したから南陽郡まで出向かれた。
 確かに、実際の戦場で策を弄し、武を振るうのも功だ。あるじである曹操殿をお守りする。そう曹操殿の槍となる。
 それが一番の功であることは俺も否定しない。俺だってその功がほしいからだ。
 それでも。
 後方で控え、所領を守り、覇道の根幹である天子様が二心を抱かないように留意する。
 どれだけ武功を上げようと、どれだけ華々しい活躍を見せようと、帰るべき場所がないのでは話にならない。

「曹丕殿もそのうち理解することだ。焦ることも恥じることもない」

 無条件に信奉せよと言うのではない。ときが解決することもある。
 夕餉にしよう。言って俺が踵を返すと朔が追ってきた。
 曹丕殿もまだ承服しかねる、という顔だったが史書を閉じ、机の上に置いて室(へや)を後にする。
 本当は俺など偉そうに説教を出来るだけの立場にないのだ。俺の頭の中に詰まっているものは殆どが師父の受け売りで、俺自身で生み出したものなどそう多くはない。
 それでも、敢えて不安などないという顔をして講釈を垂れた。
 曹丕殿に、まだ大人という幻想に浸かっていてほしかったからかもしれない。
 けれど、その意味のない強がりはときが崩していくだろう。
 そんなことを茫洋と考えながら夕食を終え、曹丕殿は十日経っても戻らない父君を思いながら眠った。
 俺は後片付けと明日の支度を済ませると厩に向かう。
 何となく、今晩のうちに師父が戻って来られるような気がしていた。栗毛の鬣を梳いていると朔がやってきて、彼も背を撫ぜろとせがんでくるので、結局一人と一匹と一頭でいつ帰るとも知れない俺たちのあるじを待った。
 夜半を過ぎた頃のことだ。
 聞き慣れた蹄鉄が土を抉る音が響き、俺と朔は一様に身を起こし、厩を飛び出す。

「師父」

 お戻りですか、と問う間もなく師父は疲れ切った顔で俺を射た。
 その眼光の鋭さに息を呑む。

孝徳、曹丕殿は?」
「眠っておられます、が」
「起きていただきなさい」

 あまりに逼迫した声に俺は何かが起こったことを悟る。

「殿がどうかなさったのですか?」
「怪我を負っておられるけれど、命には関わらないよ」
「では」
「曹昂殿と典韋が命を落とした」

 師父の眼差しに揺らぎはない。偽りを言っているのでも、緊急を装い俺を試しているのでもない。
 ならば、それは真実なのだろう。

「今すぐお連れします」

 何故と問うことは憚られた。曹丕殿が起きてこられれば殿と師父が順を追って話されるだろう。その前に俺が状況を把握したい、などと思うこと自体が僭越だ。
 戦には慣れたと思っていた。人が死んでも以前より動揺することはないと思っていた。
 なのに。
 厩の前から駆け出した俺の鼓動は大きく波打つ。
 誰よりも強く、悪来の二つ名を持つ典韋殿が命を落とされた。子脩殿は殿によく似て聡明で、戦の感覚の鋭い方だった。張繍の降伏に裏があることはわかっていた。わかっていたから師父が策を講じた。それでも、お二人の命は儚く失われた。
 戦など早くなくなってしまえばいい。俺の知っている誰かがいなくなってしまう恐怖になんて一生慣れることは出来ないのだと改めて知った。
 寝ぼけ眼の曹丕殿を寝台から引き出して背に負う。そのまま厩に戻ると去ったときと変わらない険しい顔をした師父が待っている。葦毛はきちんと厩の柵に繋がれていた。
 俺の姿を認めた師父が先導するように歩き出す。許の城下を騎馬で移動出来るのは出兵のときだけだと決まっている。夜も更け、誰も大通りを歩いていない刻限だろうとその律を破ることは許されていない。
 沈黙を伴に俺たちは曹操殿の屋敷まで歩いた。
 屋敷はひっそりと静まり返っていたが、前庭を抜けると数多の篝火が焚かれ、中庭に胡床(いす)を置いて殿が座っている。

、丕の世話、大儀であった」
「勿体なきお言葉」

 拱手し頭を垂れる。たった十日だ。俺が曹丕殿の為にしたことなど、ただの世間話に過ぎない。褒められることでもない、と反駁しようと顔を上げた。その出鼻を挫くように殿の言葉が続く。

「ひいては、当面の間、おぬしに丕の守役を任ずる」
「それは、どういう」
「郭嘉はしばらくわしが借りるのでな。おぬしの分かる範囲で構わん。丕に手解きせよ」

 史学、兵法、算用に書画、或いは詩歌に至るまで、俺の分かる全てを曹丕殿に伝えるように求められる。
 その性急な要求に俺の気持ちがすっと冷えていく。
 困惑に振り回されている場合ではない。
 現状把握を急ぐ。
 俺の態度が変わったのに気付いたのだろう。師父が「孝徳」と俺の名を呼んだ。

「曹昂殿が亡くなられた今、曹操殿の後継は曹丕殿、ということになる。ことは急を要することは君もわかっているね?」

 その言葉の向こうに複雑な人間関係と利害関係が交錯しているのが俺の視界にも映る。息子の死を悲しむ暇も殿には与えられていない。復讐や報復だけでは何も進まない、ということを曹操幕下が天下の誰よりもよく知っている。先に進みたければどんな心痛も黙って飲み下し、そして胸を張るしかない。
 詳細な説明は後で師父に尋ねることに決めて、俺は殿と向き合った。

「当面の間、と殿は仰られましたが、後に正式に守役をお決めになる、という解釈でよろしいでしょうか」
「おぬしが望むのであれば永久に任じてもよい」
「その答えは今、決めねばなりませんか?」
「おぬしのその慎重すぎるところは欠点よな。だが赦す。無責任に顔色窺いで媚び諂えば首を刎ねていたところだ」

 おぬしは本当に誠意の塊よ。言った殿の眼差しが少しだけ緩む。これが「信」だ。これが、俺がようやくのこと手に入れた数少ない武器だ。
 だから、俺は「信」に背くことはしない。
 曹丕殿が師父の屋敷に通うのは道理に適わない。つまり、俺が曹操殿の屋敷に居候するのだろう。妙才殿の手が空いていれば、で構わないのですがと前置いて師父に声をかける。

「私がこちらでお世話になることを妙才殿にお伝えいただけますか」

 そうすれば俺もまた鍛錬を続けることが出来る。
 そう言うと師父と殿は目配せをして、同時に頷く。

「その必要はない。郭嘉、『あれ』を」

 師父が殿の求めに応じ、両の手を叩いた。ぱん、と弾ける音が聞こえる。
 その音に導かれるように対面の間の扉が開く。
 そして。

、見覚えがあろう」

 一人の将が連れてこられた。その人相を見て、俺は言葉を失う。
 見覚えがある、どころの話ではない。十年間、ずっと一緒に育ってきた。養父は俺を実子同然の扱いをしてくださったから、弟たちも俺を兄と慕ってくれた。多少痩せようが、年を重ねようが見ればわかる。
 俺が今、対峙しているのは家三子、燕(エン)その人だ。

「――『つばめ』」

 燕の字義は俺の母語で「つばめ」と言う鳥の名だ。それを教えて以来、「つばめ」は燕ではなくひらがなの名で呼ばれることを好んだ。
 昔の習慣で、そのままに呼ぶ。「つばめ」は憎々しげに表情を歪め、吐き捨てるように言った。

「忌まわしい。その名は疾うに棄てた」

 父を棄て、故郷を棄てた貴様などに気安く声をかけられたくない。
 そう言われれば俺に返す言葉はない。養父は俺を庇って死に、そして俺は徐州ではなく豫州を選んだ。忠孝に添い遂げるのなら劉備の配下となればよかった。なのにそれすら拒んだ。
 俺がこの四年と少しの間にやってきたことは全ての養父の恩を仇で返す行為ばかりだ。だから、俺は「つばめ」に軽蔑されても弁解する権利を持たない。もとより、そんなものは最初から望んでいなかったから、「失礼した」と謝罪する。「つばめ」はそれすらも忌々しいと顔に侮蔑を浮かべた。
 このまま放っておけば話が進まない、と師父が判じられたのだろう。
 溜め息を一つこぼして、師父が淡々と「つばめ」の身の上を語る。

「徐州が災禍に見舞われた後、南陽郡郷士・宮家の養子となったそうだよ。今の名は宮遠(きゅうえん)、だそうだ」

 父や兄を死なせた曹操殿に一矢報いる為に将になったのだと聞いている。
 文武、共に不足ない。流石は家の血統だね。
 言って師父が苦笑する。

孝徳、君と宮遠殿はよく似ているよ」

 張繍の参謀である賈クが一計を講じ、師父の計算の範囲より少し酷い反撃を受けた。子脩殿と典韋の機転がなければ今頃は曹操殿を失っていたかもしれない。エン城は燃え、師父が増援を送ったのがぎりぎりの判断だった。
 その、勝利の予感すら漂っていた張繍の本陣で一人爛々と眼光を灯し、仇敵の首を探していたのが「つばめ」だったと言う。師父の部隊が典韋殿から殿をお救いしたとき、一騎で奇襲をしかけてきたのも「つばめ」だ。

の志はどこにあっても輝くものだね」

 孝徳、君が郭シ・李カクを討ってくると言ったときと同じ目をしていたよ。
 そんな思い出語りに焦れたのは俺だけではなかったらしい。
 「つばめ」の顔が憤怒で彩られる。

「私は貴様らに与するつもりはない。殺すのならば早くしろ。こんな、不義の輩の顔など二度と見ずとも構わなかった」
「天はおぬしの義兄を不義とは見ておらぬぞ、宮遠」

 は神獣の名を知る才を持つ。不忠の輩にはそれは出来ないだろう、と殿が神妙な顔で言ったが、それでも「つばめ」の憤怒は揺らぎもしなかった。

「ほざけ。貴様の詭弁には付き合わん。誰が許しても、天が認めても私はそやつを許さぬ」

 俺は「つばめ」を選ばなかった。それは「つばめ」への裏切りだ。わかっている。だから許されたいだとか、そんな過分なことは望まない。
 俺が「つばめ」の為にしてやれることがあるとしたら、それは一つしかない。

「『つばめ』、この首がほしいのならば持っていけ。君にはその権利がある」

 漢服の袷をぐっと広げる。そして首筋を晒し、頭を垂れた。
 「つばめ」が息を呑む音が聞こえる。「つばめ」の隣の師父は苦笑いを浮かべた。殿は高見の見物を決め込んでいる。
 そして、とうとう「つばめ」の感情が堰を切って溢れ出した。

「卑怯だ。そんなことで償いをしようとでも言うのか。そんなことで、父も兄も帰ってくるとでも言うのか」

 貴様は故国を失う痛みを知っていると思っていた。それは私の買い被りか。
 「つばめ」の声が段々と力を失い、湿度を帯び始める。
 それは、俺のよく知る泣き虫の「つばめ」そのもので、俺は下げていた頭をゆっくりと上げた。

「『つばめ』、俺は養父上に生きるように遺された。俺が生きる道は曹操殿の道と寄り添っている。少なくとも、俺はそう思っている」
「それが貴様が父上の期待を裏切った理由か」
「俺は今でも養父上を裏切ったとは思っていない」

 故国を失う痛みなら誰よりもよく知っている。そこにあるのに、あるのはわかっているのに帰ることが出来ないつらさをもう十五年も噛み締めている。
 だから、「つばめ」が今感じているだろう思いを推し量ることが出来る。
 兄弟は皆悉く死んだと思っていた。俺は一人で生きていかなければならないと勝手に決めていた。一人で背負えるものならばそれでいいと思った。だから俺は俺を望んだ師父を選んだ。
 師父と殿の道がその傷を一番早く癒してくれると信じた。
 それが俺の「信」だ。

「俺の『信』が君に届くまで、俺は生き恥を晒し続ける。俺の選んだ道が養父上の願いを叶えると俺は信じている」

 だから。

「『つばめ』、俺を殺したいのならいつでも殺せばいい。ただ」
「ただ?」
「君が曹孟徳の覇道の障害になるのなら、その時は俺が君を排除する」
「貴様に私が殺せるとでも?」
「ただ殺すだけが排除ではない、ということを君は知った方がいい」

 どれだけ悪逆だと言われてもいい。俺は道の為なら自らの評価すら棄てられる。曹孟徳の覇道とはそういう道だ。
 そう、告げると「つばめ」は目元を濡らす滴を振り払って言った。

「曹操、貴様の覇道とやら見届けてやろう」

 そして、「つばめ」はきっと俺を睨み据える。
 曹操殿の隣で今にも眠ってしまいそうになっていた曹丕殿が「」と俺の名を呼んだ。俺が振り返ると大きな瞳を何度も擦りながらそれでも、彼は物怖じせずに言い切る。

「宮遠と言ったな。お前が父を恨んでいるのは理解した。だが、お前は私の兄を殺した。お前の言い分ならばお前が私の敵だということになる。その首、今すぐここで刎ねられよ、と言えばどうする」
「どうもこうもない。さっさと刎ねよ」
「ではお前は今死んだのだ。そしてまた新たにそこなの将として生まれよ」

 子供らしい真っ直ぐな意見にその場にいた一同が呆気に取られる。最初に正気を取り戻したのは、流石、と言うべきか殿で屈託なく笑った。先ほどまでの沈痛な顔つきではない。何か、吹っ切れた顔だった。

「丕よ、おぬしには感心させられるわ」
「父よ、と宮遠の二人、確かに借り受ける」
「よい。おぬしの思うようにせよ」
「聞いての通りだ。、今日はお前の室もないだろう。私の室を貸してやる」

 言って俺の隣へやってきた曹丕殿が俺の服の袷を整える。俺の首は俺のものだが、勝手に使っていいものではない、と言外に言われたような気がした。
 そんな俺たちの様子を視界に映したまま、ぼうっとしている「つばめ」の名を呼べば、実に不愉快そうな顔で溜め息を吐く。
 そして。

「『殿』とお呼びいたそう。殿」

 泣き虫で怒りっぽい「つばめ」が全てのしがらみから解放されて穏やかに笑った。
 生まれて初めて、俺に配下たる人間が出来た。その責任の重さを俺はまだ知らない。
2014.04.11 up