Chi-On

Look Like a Shooting Star

移ろいゆくとき

 殿が俺を曹丕殿の守役に任じてから十日。
 師父(せんせい)は毎日のように殿と軍議を重ね、屋敷にいる時間は以前より格段に減った。俺も目的は違うが殿の屋敷に通っているので、同じ場所にいるのは間違いがない。ただ、当然のことだが師父のお顔を見ることはない。師父の屋敷に朔(さく)をひとり残していくのは憚られたので、俺と「つばめ」と朔の二人と一匹で毎日曹操殿の屋敷を訪れる。許が安全なのは承知しているが、神獣である朔に「孤独」を学ばせるのはよくないだろうと思って俺が師父に進言した。
 朔を預かった折、俺は曹操幕下の知恵者を訪ねては天狗(てんこう)とはどんな生き物であるかを尋ねた。才が見世物市をしているようなこの城下で、だのに真実を知るものは一人としておらず、結局、俺は朔が「吉兆」だということしか未だ知らない。
 この数年で朔は小さな狼程度の大きさになった。人語を理解するらしく、俺が彼に合わせる必要があったことは一度もない。人の言葉で指示し、褒め、叱れば朔はその全ての意味を解した。燃えるような深紅の体毛は年月を経るほど深みを増すようで、師父の屋敷の周囲では朔を「太陽の犬」と呼ぶものが多くいる。俺が見出した朔の本質――朔という、「月の満ち欠け」を由来とする名前からは正反対に当たる。それが何の意味を持っているのか、多分俺はもう知っている。この屋敷に来たときの朔は「欠けたる月」だったが、今では「太陽」の輝きを持っている。それが何を意味するのか、推察出来ないほど俺も愚昧ではない。朔を太陽にしたのは俺だ。俺の価値観に沿って朔は成長した。純粋で愚直、不器用で誠実。軍師に必要な残虐さを直視して命を散らそうとしたほどだから、俺は本物の馬鹿だ。
 その素養を朔が受け継いでいる。
 俺が師父を敬愛しているから、朔は師父の言葉に従う。
 俺が朔を大切に思っているのを知っているから、朔は俺の言葉に従う。
 その順接の流れに「つばめ」が加わった。俺が「つばめ」を信頼しているから、朔は俺に随行する「つばめ」を受け入れている。そのうえで彼は「つばめ」に先輩面をすることすらする。あるじを誇りに思う俺を朔は誇りに思っている。
 不思議なことだが、それを疑おうと思ったことは一度もない。
 その朔に孤独を強いて、寂寞を味わわせる必要がどこにあると言うのだ。
 俺は十日前に再会したばかりの「つばめ」を連れて歩いている。師父が俺に「つばめ」を与えたのは身内を思う優しさなどではないことぐらいわかっていたから俺もそれを承知の上で受け入れた。俺は「つばめ」の監視役なのだろう。かつての義兄弟より師を選ぶと信じられている。その信を裏切ることは出来ない。だから俺は「つばめ」の仇敵である殿の屋敷へですら伴った。
 ただ、それだけのことなのだけれど、朔にとっては少しも面白くないだろうということもわかる。師父の一歩後ろが俺。俺の隣が朔。そうやって二人と一匹で数年暮らした。その短くはない歳月が朔と俺との間にも信を生んだ。
 朔は自分の立ち位置をきちんと理解している。
 それでも。
 人と言う生き物が好きな朔にとっては寂寥の思いを味わわせるのは過ぎた毒というものだ。
 だから俺は曹丕殿の元へ朔と「つばめ」の両方を伴う。
 最初の十日が過ぎ、次の十日が経った頃。揃って帰宅した俺たちを師父が前庭の胡床(いす)に腰掛けて待っていた。師父のお戻りはいつも俺たちよりずっと遅い。軍議が終わる筈もない。曹丕殿の暮らす離れにいても朔の耳には鷹笛の音が聞こえる。鷹笛が鳴る度、朔は伏せの体勢をやめて身を起こす。それは毎日のことで、師父か殿かまではわからないが、どなたかが文を送ろうとしているのは間違いがない。
 今日も午(ひる)すぎに鷹笛が鳴った。
 軍議が終わるのならば即ち、出陣の準備に入るということだ。
 次の戦には曹丕殿を伴われる、と殿はお約束なさった。俺たちの誰にも出陣の知らせはない。つまり、まだ軍議が終わっていない、ということになる。
 師父が日の暮れない刻限に屋敷におられる、という不自然な状況を問う。
 師父は頬杖をついたまま俺を見ることもなく何ごとかを考えておられるようだった。

「師父、どうかなさったのですか」
「考えたのだけど、孝徳
「是(はい)。何でしょうか、師父」

 朔が「つばめ」を促し、屋敷の中へ消えていく。その背中が少しずつ小さくなるのを視界の端に捉えながら、俺は師父に問う。
 師父は時々、こんな風になる。
 戦の前、城下がぴりと引き締まった空気をしているとき。大きな軍議で献策をする為の書簡の下書きをしているとき。
 師父の視界から全てのものが消える。そして、その瞬間、師父の瞳は最も美しく輝いている。夕陽に照らされた彫像のような美しい横顔に相応しいだけの酷薄な笑み。その笑みを見る度、俺は俺と師父の間には決して埋められない溝があることをまざまざと見せつけられる。
 溝を埋められない無力感を曹丕殿には恰好つけて演技であるように振る舞ったが、実際はよく言っても五分五分だろう。それでも敢えてその誇示を通したのは、意味のある嘘だと思っていたし、聡明な曹丕殿なら俺の欺瞞の意味にいつか独力で気付くだろうと思ったからだ。
 半人前の身分で守役など十年早い、と仰られるのだろうかと身構える。師父はそんな俺に一瞥をくれることなく答えを返す。

「この屋敷を出る支度をしなさい」
「えっ?」

 唐突に告げられた言葉の意味を理解しかねて間抜けな声を上げる。師父がゆっくりと首を傾けて俺を見た。逆光に照らされて、師父の持つ残酷さが一層色濃くなったような錯覚に陥る。
 混乱を極める俺に構うことなく、師父は同じ言葉をもう一度重ねた。

「この屋敷を出なさい、と言ったよ」
「俺が、ですか?」
「それ以外に誰がいるのだい?」

 師父の屋敷で住まうのは屋敷のあるじである師父、その弟子である俺と俺に預けられた朔。「つばめ」も入れると三人と一匹だが、今ここにいるのは俺一人で、師父がご自分の屋敷を棄てる、という意味には取れなかった。要するに、出ていくのは俺以外に他ならない。
 その、唐突な決定――師父は一度こうとお決めになったことは決して覆さない――に戸惑い、反論の声を上げる。

「待ってください。俺がこの屋敷を出て行けば朔はどうなるのです」

 朔は師父を通じて殿から預かった大切な神獣だ。朔は聡い。師父の言葉も全てではないが理解している。それでも、朔は師父を選ばなかった。
 突然に突きつけられた破門にも似た宣告に戸惑わなかったわけがない。
 それでも。
 俺が真実、師父の弟子たることが適わないのならばそれを受け入れる努力をする。俺が選んだ道が潰えることに不安がないわけではない。
 それでも。
 人の言葉を発することが出来ない朔よりはずっと多くの道が残されている。
 だから、気が付けば俺は自らの進退より先に朔の行き場を問うていた。
 師父の眦が弧を描く。その時点で俺は気が付くべきだったのだ。

「そうだね。なら、朔と何なら燕(つばめ)殿も一緒に行くといい」
「どこへです?」

 師父にとって俺や朔は何だと言うのだろう。ただの荷物だったのだろうか。「つばめ」を受け入れた俺を本当は疑っているのだろうか。そんな絶望にも似た疑問が幾つも胸に湧いて、その度それを無理やりに押さえつけた。
 他人の顔色を窺ってはならない。言葉の裏にある真実を量ることが出来なくてはならない。焦りを、不安を容易く顕わにしてはならない。
 動揺をひた隠して俺は師父に問うた。俺の視覚はまだ真実を伝播しない。
 師父の瞼がゆるやかに伏せられる。

「どこへなりと、と言うと流石に君には過ぎた冗談かな?」
「冗談?」

 そう、少し性質の悪い冗談だよ。言って師父が穏やかに笑った。
 その何の含みもない笑顔に俺はまた彼に試されていたことを知る。師父は俺に軍師の才がないことを既に確信されている。俺もそろそろ自覚が出てきたが、一度定めた道を容易く変えることが出来ない性分が災いして、結局軍師見習いの道を続けている。
 それでも、才を見抜くことに関しては天下に二人といない炯眼の持ち主である曹操殿にも俺の才の使い道が軍師でないことは見破られていた。だからこそ、曹丕殿の守役などという大役を仰せつかっている。それぐらいのことは馬鹿な俺にも十分に理解出来た。
 この強情を貫けるのは一体いつまでだろう。
 幻にも似た儚い夢を追いながら、俺の道が続いていく。
 その奇跡を踏みしめている幸福を味わっていると、師父が溜め息を吐いた。

孝徳、君にはやはり軍師の才がないようだね。いつになれば君にも冗談が理解出来るようになるのだろう」
「それでは俺は別段この屋敷を出て行かずともよいのですか?」
「そのことなのだけれどね」

 やはりこの屋敷からは出て行きなさい。
 師父が笑うのをやめて正面から俺を見据える。

「先に言っておくよ。何も君を追い出そうと言うのではない」

 だからそんなに泣きそうな顔をするものではないよ。曹丕殿にその顔を見られたら君の虚勢はすぐに看破されてしまうだろうね。
 そんな言葉を挟み、師父は静かに話し始めた。
 元々この屋敷は師父が一人で暮らす為に殿から賜った屋敷だ。だから、室(へや)の数も多くはないし、厨(くりや)も簡素だ。屋敷に帰らないこともままある師父と、俺だけの暮らしならそれでも問題はなかった。だが、今は成長した朔と「つばめ」もいる。今の屋敷では不便の方が多い。
 それに。
 師父は徐州攻めの軍議で、俺は曹丕殿の守で結果的にこの屋敷は無人でいる時間の方が長い。殿は徐州攻めを長期戦でお考えになっている。この屋敷の空白は長く続くだろう。寝食の為だけに殿の屋敷と師父の屋敷を往復することがどれだけ無益か。
 幸い、曹操殿も曹丕殿も俺たちの為の室を用意するのは吝かではない、と仰っている。
 今はそのご厚意に甘え、徐州が落ちたのちに新しい屋敷をいただこうと思う、と師父は淡々と語った。

「一時の別離も許せないほど、君は脆弱かな?」
「一人で生きていけると豪語するほどには精強ではありません」
「でも、今の君は一人ではないだろう?」

 朔と「つばめ」がいる。曹丕殿がいる。許の城下には妙才殿も元譲殿もおられる。城郭の外には張飛と言うかりそめの友人もいる。
 俺は一人ではない。

「それでも、俺の師はあなたおひとりだ」

 いつか。いつかでいい。
 この信が、この敬愛が、この忠孝がいつか師父の足もとを照らすように。
 そう願いながら俺は師父の前を辞した。
 本当に必要な最低限の荷物をまとめ、朔と「つばめ」を伴って前庭に戻る。師父に一礼して俺たちはこの屋敷と永遠の別れを告げた。
 来た道を戻り、曹操殿の屋敷の離れで来訪を知らせれば俺たちはそれぞれの室に案内される。
 これは別離ではない。そう言い聞かせて、俺のもう一つの道は流れ始めようとしていた。
2014.05.20 up