Chi-On

Look Like a Shooting Star

移ろいゆくとき

 師父(せんせい)が屋敷を引き払った十日後のことだ。
 殿に呼ばれて、俺と曹丕殿は母屋の前に設えられた軍議の間に出向く。隣を歩く曹丕殿の顔には幾ばくかの緊張感が現れていて、俺が初めてこの屋敷を訪れたときのことを思い出した。あのときは妙才殿が無理やりに俺を連れてきて、殿に引き合わせた。師父は静かに怒り、あるじの言いつけよりも他の将の言葉を優先するような弟子は必要ではない、と仰った。その怒りは真実、俺だけに向けられていて俺は随分と焦ったものだ。
 軍議は遊びではない。だから、師父と殿が存亡をかけて知恵をひねり出している場に中途半端な気持ちで立ち入ることは何人たりとも許されてはいない。妙才殿に引きずられるようにして連れられる道中、俺はそのことばかり考えていた。
 多分、今の曹丕殿と同じように。
 曹丕殿は曹操殿のご子息だが、年齢的にまだ幼く、初陣は勿論、元服も済まされてはいない。その、曹丕殿が軍議の間に呼ばれた。
 それは、今から曹丕殿の身に重大な何かが降りかかってくるということを暗示している。
 曹丕殿は俺の隣を歩きながら、その「何か」に対して身構えながら、同時に高揚を覚えている。十の子どもらしい、好奇心に満ちた眼差しが雄弁に語る。上手く行けばこの世で最も尊敬する相手に認められるかもしれない。だが、何かをしくじればその機会は未来永劫失われる。
 悲観し、絶望するような事態は起こらない、と第三者は軽い調子で慰めの言葉を口にするが、軍議の間でその人と対面したとき、本当の試練はやってくる。
 俺の主観だから曹丕殿も寸分違わぬ思いを抱いている保証はどこにもない。
 それでも。

「曹丕殿」

 俺は隣を歩く少年に声をかけた。常ならばこの呼びかけには軽い言葉で応じるだろう彼は緊張で固まりきった声を返す。切羽詰まっている、と受け取れたから俺は更に軽い言葉を返した。

「それは今言わねばならぬことか?」
「おそらく」
「ならば申せ」
、と呼ばれるのは些か他人行儀が過ぎる。今日より孝徳と呼んでいただきたい」

 師父以外に俺をその名で呼ぶものはいない。曹丕殿は俺のあるじではないし、友でもないし、配下でもない。だからこそ、俺は曹丕殿に認められたいと思った。
 そのささやかな願いを言の葉にする。
 曹丕殿は苛立ちを込めて隣を歩く俺を振り仰いだ。

「それは今、本当に今言わねばならぬことだったのか?」
「何、すぐにわかることだ」

 そうこうするうちに軍議の間の前に着く。曹丕殿は納得がいかない様子だったが、参上した旨を述べるときには既にその不服を消していた。幼いながらも覇者の風格を備えている、だなんて学者のようなことを考えてすぐに打ち消した。先入観で己を量られる居心地の悪さをこの五年、嫌と言うほど思い知っていたからかもしれない。
 入室を促す殿の声がして、俺たちは二人揃って中へ入る。十日ぶりに見た師父の顔は平生と変わらず、整っていたが眼光だけが獰猛な輝きを増していた。その中にほんの僅か、後悔の色が滲んでいる。その僅かな濁りが俺に何かが起こっていることを察知させた。

「早速だが、おぬしたちを呼んだのは他でもない。呂布のことよ」

 殿の目下の敵、徐州を不当に選挙する暴威。呂布を倒さなければ天下に覇を唱えることは出来ない。曹操幕下はそれを理解しているから今までにも何度か呂布を挑発して、原野戦に持ち込もうとした。その結果ははかばかしくない。呂布についた軍師・陳宮――師父は軍師の真似ごとだと一蹴した――が粗暴しか持たなかった呂布に知恵を与えている。呂布の暴威を上手く利用する形の戦に持っていかれ、呂布軍を幾ばくか削り取ることが出来たものの味方の損害も決して楽観視出来る状態ではない。挑発と挑発の繰り返しではお互いが損耗し、いずれ遠くない未来に第三者が利を得るだろう。
 そこで、だ。

「呂布の本拠を攻囲することに決めたよ」
「徐州を取ったなどと豪語しておるが、豪族どもは恐怖で押さえつけておるのみ。呂布の主戦力は下ヒに拠っているものであろうな」
「この状況で攻囲をする場合、どうするのが最善かな、孝徳

 軍師見習いを自負するのならば、この試練に耐えてみろ、と言外にある。俺は深呼吸して胸を張った。
 この戦で最も危惧しなければならないのは呂布の暴威だ。赤兎馬に跨り、最前線を駆け、方天戟を振るえばこちらの陣中には遍く恐怖が走る。士気が下がった状態で、呂布配下の猛将に立ち向かえばどうなるのかはもう既に分かり切っていた。馬防柵すら吹き飛ばす呂布軍の前では弓など大した脅威にはなり得ないだろう。
 ではどうする。
 師父は攻囲戦と仰った。下ヒ城の両脇には二条の河が流れている。東海の養父の元にいた頃、この河が氾濫して水害に悩まされている、という話を何度か聞いた。下ヒ城は水に弱い。攻囲をするのなら、自軍に被害を及ぼさない為にもこの二条の河の更に外側からが望ましいだろう。
 豪族たちは呂布の招請には応じない。これは推察だが確信に近い。徐州の豪族の多くは劉備をあるじに望んでいる。徐州牧として劉備たちは優秀だった。ひと時だがその穏やかさを知った徐州民は呂布ではなく劉備を求めるだろう。そして、その劉備は今は曹操幕下に名を連ねている。殿への怨嗟と劉備への信望、それから呂布への恐怖を天秤にかけた。それでも徐州は呂布を選ばない。呂布を選ぶと言うのは自らの首を絞めるのと同義だからだ。
 小沛への調略は終わっている。攻囲をするのならば短い方が民への負担は少ない。それでも、師父も殿もそうしようとは思っておられないのだろう。
 出来るだけ長く、呂布の脅威よりもなお苦しいと思わせるに足りるだけの苦痛を。
 そこまで考えて俺は師父のお考えになっていることに戦慄した。
 それでも敢えて言う。

「攻囲戦を出来るだけ長引かせます」
「具体的には?」
「冬の寒さが十分に浸透するまで」
「それだけで呂布がこちらに降伏してくるとは思えないけれど?」
「糧秣を断ちます」
「攻囲戦の基本だね。それでどうするのだい?」
「河を」
「河を?」
「堰き止めて城を沈めます」

 極限まで長引かされた空腹と、冬の寒さ。徐州の冬は凍てつくように寒い。その二つに加えて水が城内に入れば混乱を極めるだろう。何とか助かりたい一心で城内のものは呂布を排斥する。師父と殿はそれを狙っておられる。
 外と内、両方から攻められれば喩え鬼神・呂布といえども隙の一つも生まれよう。
 その策を俺の口から言わせる、と言うのは多分、師父なりの気遣いだ。曹丕殿の守役として必要最低限の知性を持ち合わせている、と言うことを示す場を与えられたのだ。
 その証拠に殿は俺の言葉を聞きながら薄っすらと笑っている。

「それから内応者を作るのも重要だね。こちらは心当たりがあるそうだから、君の心配には及ばないよ。そうだね、賈ク?」

 言って師父は視線を隣の部屋に送る。誰かがいる気配は微塵も感じなかった。なのに衣擦れの音がして一人の髭面の男が姿を現す。この男は誰だ。驚いて身を固くした俺とは対照的に曹操殿は悪戯が成功した子どものように破顔した。

「あははあ、郭嘉殿。そこまで弟子殿に言わせて、最後は俺に振るのかな? 俺だってひと月で信頼してもらえるとは思っていないが、戦果は出すと約束したじゃないか」
孝徳の策は教本通りだからね。私が教えた通りにしか解釈しようとしない。賈ク、あなたとは正反対だ。何か補い合えることもあるだろう、と私は言っているのだけれど?」

 それとも、あなたも孝徳をただの文官と侮るのかな。
 その言葉には師父が俺の道を肯定してくださる含みがあって、俺は頬を紅潮させる。俺の拙い戦局分析は間違っていなかった。たったそれだけのことが奇跡にも似た感動を俺に与える。
 俺が持っていないもの。多角性と柔軟な発想。人を欺く術や真実を隠し通す巧妙な弁舌。それらを持っているのが、この「賈ク」と呼ばれた男なのだろう。
 曹操幕下の軍師と言えば師父が筆頭で他にも内政に長けた方が何人かおられるが、凡そ最前線を指揮する戦略家は他におられない。賈ク殿は新しい戦略家なのだろう。いつ士官されたのか、だなんて馬鹿な問いを口にする前にどうにか俺は正解を見つける。
 賈ク殿は張繍の――完全に降伏し、幕閣の一人となられた今では張繍殿とお呼びする方がいいのかもしれない――参謀だ。エン城で殿を強襲し、決定的な場面にまで持ち込んだが、それでも殿を討ち漏らした策謀家。「つばめ」の元の上官だ、などという呑気な感想が不意に胸中に去来する。

「これはこれは。郭嘉殿、あんたは大した教育者だ」
孝徳、状況は把握出来たかな?」
「是(はい)、概ね、師父が私を呼ばれた理由がわかった気がします」

 賈ク殿から何かを学ぶように示唆しているのだ、と感じたからそう答えた。師父は何も言わずに頷く。その正面に座った殿がごほんとわざとらしく咳払いをされる。
 そして。

「丕よ、おぬしの初陣が決まった」

 下ヒ城の攻囲を速やかに行う為、師父と賈ク殿の二人の指示で態とらしい挑発を繰り返す、という手筈になっている。その、挑発を行う隊に曹丕殿を随行させる、と殿は仰った。
 殿の発言に今度は曹丕殿がぱっと顔を輝かせた。待ちに待った初陣だ。勝つか負けるかの戦ではない。それでも、曹丕殿はこの瞬間をずっと待っていた。
 いつ、と問うた言葉に返答はない。その代わりに殿は何でもないことのようにもう一つの悲願を叶えた。

「その前に元服の儀を行うゆえ、明日、もう一度ここに参れ」
「父よ」
「何だ、何か問題でもあるのか?」

 問題などないだろう。曹丕殿が出陣されるということは守役である俺も随行するということだ。師父の軍略で動き、俺には「つばめ」が付いている以上、曹丕殿に危険などない。
 あるとすれば、多分。

「そこにいる賈クという男の謀略で兄上は命を落とされた」

 戦に出る以上、向き合えば殺すか殺されるかのどちらかだ。その決断を出来ないものは死に、英断をしたものだけが生き残る。敵であれば殺す。降れば受け入れる。それ以外はない、とかつて張飛が俺に言った。殿もそう思われているのだろう。子を失っても張繍殿と賈ク殿の加入に意味があると判じられた。だから、賈ク殿はここにいる。
 それでも。
 それでも、実の兄を死なせた原因が目の前にいて何もするなというのは拷問に近い。
 曹丕殿は小さな拳をぐっと握る。今更賈ク殿を殺めても曹昂殿は戻っては来られない。わかっている。それでも。

「私にはお前を殴る権利があるはずだ。そうだろう、父よ」

 一発でいい。たった一発だけでいい。そこに憤怒と怨恨の全てを込めて殴る。それより後は蟠りは棄てる。その覚悟を込めて曹丕殿は殿に許可を請うた。子どもの今だから許される。それを曹丕殿ご自身が一番よく理解しておられた。
 曹操殿がそこまで見抜いて、呆れたように笑う。

「賈ク、すまんが殴られてやってくれ」
「曹操殿、あなたは人が悪い」

 こうなるのをわかっていて元服を明日にした、と賈ク殿の言葉の外にあって俺も苦笑する。どんなに非情でどんなに怜悧を装おうとも殿もまた一人の父親でしかない。卓の向こうにいる曹操殿からは見えない角度でそっと俺の手のひらに曹丕殿の拳が触れる。今ここで曹丕殿が毅然としているのも虚勢で、多分俺も虚勢を張っているだけだと見抜かれているのだろう。虚勢を張って、それでも一人前に憧れて、三人の知恵者を相手に必死に負けまいとしている。
 だから。
 俺は黙って曹丕殿の拳を握り返す。
 大丈夫だ。俺は――俺たちはいつか本物の強さを手に入れることが出来る。
 だから、今だけは。もう少しだけは。
 そんな甘えにも似たか細い意地を張って賈ク殿を殴ることで己を保とうとしている曹丕殿の隣にいる。
 俺と「つばめ」と曹丕殿の三人で無事初陣を済ませるまで残り五日。
 俺は明日、曹丕殿が子桓という字をもらうこともまだ知らない。
2014.05.20 up