Chi-On

Look Like a Shooting Star

移ろいゆくとき

 曹操殿から字を受けた曹丕殿が俺を孝徳と呼び、俺もまた彼を子桓殿と呼ぶようになった。親子でも子弟でもない俺たちの関係を客観的に表せば主従なのだが、俺のあるじは郭奉孝その人だけだったから、子桓殿に忠誠を誓うことは出来ない。それを承知の上で子桓殿は俺を受け入れてくださった。人を癒し、また死に至らしめる鍼を俺に教えてくださった幽興(ゆうきょう)殿もそうだったから、この曹操幕下では誰が誰の師だとか、そういうことに対する優先順位が低いのだろう。実があれば体は何でもよい、と軍主たる曹操殿が仰っておられるからかもしれない。
 初陣を済まされた子桓殿は軍議に呼ばれるようになり、その間、俺は手持無沙汰になったので、離れの前庭で「つばめ」と二人、組手をしていたのだが、そこにその方はひょいと顔を出された。

「妙才殿」
「よ、久しぶりだな、。どうだ? 元気でやってるか?」

 妙才殿にこの屋敷で暮らしている、と告げた覚えはないし、その言伝も殿と師父(せんせい)のお二人が却下した。どうして彼は俺がここにいることを知っているのだろう。そう思うのと同時に妙才殿も軍議に呼ばれているのではないか、という素直な疑問が浮かぶ。
 それらが顔に出ていたのだろう。
 妙才殿は苦笑いをしながら「何か」を弧を描いて放った。
 落下地点に手を差し出して受け取れば、ふんわりと温かい。笹の葉で包まれたその手土産は多分肉まんじゅうだろう。師父の屋敷の前庭で鍛錬していたときも、時々、妙才殿はこうして肉まんじゅうを持ってきてくださったものだ。それを懐かしむ顔をすれば、妙才殿の表情も少し緩んだ。入ってもいいかと尋ねられたので首肯する。妙才殿の背中に鞭箭弓をみとめ、彼が何の目的でここに来たのかを察した。

「今回は総力戦だ。、お前さんも出るんだろ?」
「そうですね、子桓殿の隊に配される、と伺っております」
「宮遠(きゅうえん)も連れてくのか?」
「是(はい)。本人がどうしても、と言うので仕方がなく」

 不承不承という態度を取れば、俺の隣に立った宮遠――「つばめ」がむつりとする。

「殿が戦場に行かれるのであれば、何を差し置いても私も随身し、命に代えてもお守りいたす所存」
「この通りなのです」

 微塵も怖じることなく言い切る「つばめ」に俺は一抹の不安を感じずにはいられなかった。命に代えても、という言葉の重みは痛いほどよく知っている。賈ク殿が「つばめ」に殿を襲わせたとき、「つばめ」は命に代えても殿の首級を挙げるつもりだった。その結果、典韋殿と曹昂殿の命が失われた。「つばめ」が命に代えるとき、それに見合うだけの命が散る。戦だからそれは免れない。自軍の損害を最小限に抑えられるのなら、敵軍にどれだけの被害を与えても構わない、と多くの将は思っておられる。
 現に妙才殿も「つばめ」の宣言を受けて大らかに笑った。

「頼もしいじゃねぇか。いい配下を持ったな、
「全く、武人と言うのは万事その調子なのですね」

 戦で全てが決まるわけではない。表面的な勝敗は戦が決するし、戦で勝たないことには何も始まらない。それでも。過ぎた武勇は畏怖を生む。余りある殺戮は恐怖を生む。そして、それらはいつか人心を軍主から遠ざけるだろう。今、呂布がそうであるように。
 そうならないように、策を弄し、政をするのが俺たち文官の仕事だ。
 今は荀イク殿が発案された屯田が上手く行っているから、糧秣の調達も兵の確保もどうにかなる。それでもこちらが受ける損害が一兵でも少なくなるように、師父たちは軍議を重ねる。

「それで? 妙才殿は軍議に出ずともよろしいのですか?」
「俺様? 俺様はまぁ、本陣前の守りだからな。それより、お前のことだ」

 最近幽興のとこへ行ってねぇみたいだが。どうしたんだ。
 その指摘を俺はずっと待っていたような気がする。
 妙才殿の言った通り、このひと月、幽興殿の仕事場――治癒場で彼の本業を手伝う時間は殆どなくなっていた。鍼治療自体は李カク・郭汜を討ちとって死線を彷徨った後もずっと続けていたのに、急に顔を出さなくなったから元譲殿も妙才殿も気にかけてくださっていたのだろう。
 その心遣いに触れる日を待っていた。
 誰にそれを相談すればいいのか、俺自身、量りかねていたからかもしれない。
 妙才殿の質問に苦笑を零す。

「『つばめ』が治癒場にまで同道するので、兵卒たちが動揺してしまうのです」

 幽興殿からは何かお聞きになってはおられませんか。反対に問い返すと妙才殿は静かに首を横に振った。

「宮遠が? 何でだ?」
「エン城で敵対した兵にしてみれば『つばめ』程度でも鬼神なのでしょう。顔を見ると泡を吹くものまでいる始末です」

 元は青州黄巾族だった信徒を兵力として受け入れたものたちは問題ない。戦時は歩兵として、常時は農夫として殿の領内を豊かにすることを約定した。黄天の世がいつか民心に広がる為ならばどんな危機も耐える。「つばめ」程度ならば彼らは決して恐れない。
 だが、それ以外に徴用したものは恐怖への耐性がない。だのに彼らはエン城で修羅場に遭遇してしまった。その遺恨はずっと長く残っている。幽興殿は師である華佗殿に文を書き、対処を尋ねる、と仰っていたがそれから返答はない。
 俺一人が来ずとも鍼は出来るのだと言われているのかと思っていた。
 そう答えると妙才殿は苦虫を噛み潰したような顔をして後頭部を掻き毟る。

「そりゃあ俺様だってちいとは肝を冷やしたけどよ、今は味方じゃねぇか」
「子桓殿のように仇敵を殴って気持ちを整理出来る方ばかりではない、ということでしょう」
「おいおい、本当に一人ずつそれやってみろ。宮遠が死んじまうな」
「対峙するのも恐ろしいのに殴れと言われれば余計に負荷に感じるものも少なくはないでしょうし、まず現実的ではありません」

 もっと実現可能な解決方法がないのか、と嘆く。
 妙才殿は信じられないものを見た、という風に目を見開いた。

、お前、本気で言ってんのか?」
「何を、でしょうか」
「実現可能な方法ならわかり切ってんじゃねぇか」
「えっ?」
「宮遠を置いてけばいい。それだけのことだろ?」

 それをしないのは優しさでも誠実さでもない。
 単に俺に決断力と実行力がないだけだ、と言って妙才殿が険しい眼差しで俺を射た。

「しかし、妙才殿」
「『でも』も『だって』も軍師の言うことじゃねぇぞ」

 あんな、。言って妙才殿は俺を見据えたままゆっくりと語りだす。
 俺が「つばめ」に対して罪悪感や同情を持っているのは軍師として決定的な弱点だ。その弱点を晒したまま戦場に出るのは、即ち死を意味する。それで済めばまだ許されるが、殿の構える本陣前に決定的な弱点が配置されるようなことがあれば、許す許さないの範疇を超える。前門の虎後門の狼。前後を危惧しながら敵に当たる戦に勝ち目はない。況して今度の相手は少数だが精鋭を誇る呂布軍だ。師父は相手の軍師・陳宮を一蹴したが、それでも彼は俺が勝利へのとば口であることを見抜くだろう。
 つまり。

「自分の配下の指図も出来ねぇようなやつは戦場へ連れてくわけにゃいかねぇな」
「それで妙才殿が来られたのですね」

 妙才殿が口にした最後の言葉に俺は得心する。妙才殿が鞭箭弓を背負ってここへ来たのには何かしら師父の意図が絡んでいるだろ、とは思っていたが戦力外通告を受けるのは想定外だった。
 想定外だった、などという感想を胸中に浮かべるぐらい、俺は軍師としての素養を欠いている。それでも、まだ破門を言い渡されたわけではない。
 寧ろ。
 挽回の機会を与えられた。
 俺が今するべきことを考える。

「『つばめ』」
「殿、私は何と仰られようと殿のお傍におります」
「それは俺が惰弱だからだろう。君がいなくとも、俺は自らの領分を全う出来る」

 守られるだけの弱さとは決別したと思っていた。
 命を懸けてでも何かが守れるのならそれでいいと思っていた。
 己の全てをかけて戦うことは覚悟と理由さえあれば誰にでも出来る。相打ちにしか持ち込めない策謀は戦略とは呼ばない。
 俺が真実、軍師の弟子であることを自負し、その立場を守りたいのならば、どんな手段を使っても勝利を得なければならない。非情だと罵られることも、卑怯だと詰られることも受け入れなくてはならない。
 だから。

「『つばめ』、俺と真剣勝負をしよう」
「殿と? ご冗談を」

 俺と「つばめ」では勝負にもならない。「つばめ」がそう思っているのがありありと伝わり、妙才殿と俺は苦く笑った。「つばめ」の中の俺は五年前から少しも変わっていないのだろう。守られるだけのひ弱な文官。周囲とは少しだけ違う画風の書画を描く文化人。戦は地図と史書の上でしか知らず、誰かを殺めたこともない。
 だが、それは何も知らなかった頃の俺だ。

「徐州では軍師は文官だった。だが、ここでは違う」

 戦えもしない軍師はお荷物だ。純粋な戦闘力では諸将に引けを取らない師父。内政を司りながらも必要に応じて部隊を預かる荀イク殿や程イク殿。この度新たに加わった賈ク殿も必要最低限の武芸を身に着けている。
 俺がその域に達しているか、と問われれば即否定する。たった数年で歴戦の武将に並び立つだけの才はない。
 それでも。

「『つばめ』、俺と真剣勝負をしよう」

 重ねて言う。「つばめ」がぐっと押し黙った。
 「つばめ」のあるじたる俺に刃を向けるに足る理由かどうかを精査している。訝った眼差しに負けないよう胸を張った。
 その戦いに何の意味があるのですか。長い沈黙の後に「つばめ」が問う。俺は即答した。

「君に相応しいあるじだと言うことを示してみせる」
「そんな粗暴な真似をせずとも私のあるじはあなただ」

 この世で家があったことを示す最後の二人。「つばめ」にとっての俺はこれ以上失うのは耐えがたい世界でたった一人の「家族」だ。だから「つばめ」は俺を失うことを必要以上に恐れている。その視界に納まらないことに不安を覚える。
 その、恐怖を知らないと言えば嘘になる。五年前の俺なら、「つばめ」の申し出を二つ返事で受け入れ、ありがたがっただろう。
 けれど、今は違う。

「その、あるじの身を不必要に案じ、大局を見失うような将は俺には必要ではない」
「しかし、殿」

 「しかし」も「でも」も「けれど」も軍師の言い訳には許されない。目の前で起こる全ての結果を受け入れる。それが最善たる為に俺たち軍師は命を懸けて策を練る。それが将への敬意を示すたった一つの術だと、知っているからだ。
 「つばめ」の躊躇いを切り捨て、話を続ける。

「妙才殿、立会人になってくださいますね?」
「ついでにこいつ、だろ?」

 妙才殿は俺が何をしようとしているのかを察しておられるようだった。背に負った鞭箭弓を手に取り、壊すなよ、と冗談を口にしながら俺に貸してくださる。目配せで感謝を伝えれば彼は人好きのする大らかな笑みを浮かべ、ま、頑張んな、と俺の背を叩いた。

「勝負を受けないのなら、今すぐここを去れ。あるじだからと手を抜くのも同じだ。君が俺に勝てなかったら俺の言うことを守ってもらう」

 そして俺は「つばめ」に向けて鞭箭弓を構える。「つばめ」がたじろいだが構うことなく矢を放った。瞠目した「つばめ」の頬を掠めて矢は前庭の壁に突き刺さる。

「『つばめ』、次は当てる」

 その宣告に俺が本気で戦おうとしているのを「つばめ」もようやく認知する。怪我をしても後悔なさいますな。言って「つばめ」もまた得物を手に取った。
 近接戦闘を得意とする「つばめ」に対するには遠距離武器に限る。「つばめ」もそれを承知しているのだろう。鞭箭弓の射程ぎりぎりから矢を放っていたが、気を抜くと間合いを詰められあわや強打となる場面を何度も紙一重で躱した。
 結局、俺と「つばめ」の戦いは陽が落ちるに至っても決着が付かなかった。
 辺りが薄暗闇に包まれ、子桓殿が師父を伴って離れに戻ってきてようやく制止の声がかかる。

「殿、お強うなられたのですね」
「伊達に何年も妙才殿に投げられ続けているわけではない」

 致命傷を負わせることは出来ないが、逆に致命傷を負うこともない。妙才殿は俺に武術の才を見出さなかった。だから、彼が俺に教えたのは身の守り方だ。刃を交えれば一瞬で勝負がつくと思っていた「つばめ」にもそれは伝わったのだろう。泥まみれで苦笑いを浮かべると、「つばめ」は得物を壁に立て掛け、そして勢いよく拱手する。

「この宮遠、武人として約定は必ず守ります」

 今後一切、治癒場に同道しても敷地の中には入らないことを誓う。
 それ以外でも、俺が必要に応じて出した指示には従うことを「つばめ」は宣言した。
 後から聞いた話だが、妙才殿がこの日、離れの前庭に姿を現したのは師父の指示で、本当は打球棍を使うように言われていたそうだが、妙才殿の独断で鞭箭弓を渡されたそうだ。一世一代の大勝負で師父の武器を使わなかったことをこれから先何年もの間、揶揄されるのだけれど、それはまだ俺の知るところにはない。
 他人の顔色を窺ってはならない、という言葉がこれほど長く効力を持っていることも、数刻にも及ぶ手合わせで疲弊しきった俺にはまだ浸透していない。
 それでも。
 ときは確実に移ろおうとしていた。
2014.05.20 up