Chi-On

Look Like a Shooting Star

白銀の終焉

 冬が来た。
 徐州では古来、冬の初めに暖かい日があれば大雪が降ると伝わっている。
 曹操幕下で衣替えが行われ、毛織の袍(うわぎ)を着るようになって十日ほど後に、春のような日が七日続いた。木々の葉が落ちてなお陽気は続き、俺はふた月後の厳冬を予感する。果たして翌月からは記録的な豪雪の毎日だった。下ヒ城の周囲は厚く雪で閉ざされる。俺がこの十四年間で知っているうちで最も厳しい冬だった。ただ外気に触れるだけで凍てついてしまいそうになる。この上、水攻めなどに見舞われれば城内は一瞬で阿鼻叫喚の絵図に変わるだろう。むごいことだ。それでも、俺は徐州を捨て、曹操幕下を選んだ。生半に武があり、中途半端な智者に統治されているのが悪い。曹操殿を裏切り、己が覇を唱えたのが悪い。その結果、和睦を提案しに出向いて行った劉備すら捕縛し、その武に縋って地に足の付かない絵空事を夢見ている。その泡沫をかき消し、現実を突き付けられてなお、消えていく泡に手を伸ばしている。下ヒを棄て、豫州やエン州に逃げ延びて来た領民も少なくはない。今、城下にいるのは呂布の信奉者だ。そう言い切ってしまうには複雑すぎる感情が俺の中にもあるが、かつてあれほど慕った劉備が捕縛されても、保身を選び、誰一人彼の身を救うものはいない。呂布の武が怖い。命を懸けてまで志を貫こうというものがいない。
 それはもう、天命を失っているのと何の変りもない。
 師父(せんせい)と文和の策は上手く進んでいるらしい。程イク殿の調略も順調のようだ。二条の河を堰き止める準備が間もなく終わる。張遼、高順、臧覇といった呂布配下の将はその包囲網の外に弾きだされた。今から始まるむごい軍略を指を咥えて見ている他はないのだ。
 よく見ているといい。これが曹孟徳の覇道だ。
 侮蔑も嘲笑も悪逆非道も残虐極まりないと罵られても構わない。
 それが世を統べるに必要な代償ならば、俺たちは喜んでそれを受けよう。
 下ヒの落日はもうすぐそこまで迫っていた。
 その日の夜が明ける前に、俺と子桓殿は城から一里の距離に敷かれた本営に呼び出された。幕舎に入ると幕下の主だった将が揃っている。遅参を詫びると殿が手を挙げて制した。軍議が――最後の仕上げが始まる。俺は息を呑んだ。

「呂布の騎馬隊はどうなっておる」
「丘陵の上で手を拱いているね」

 東に位置する張遼には師父が、西に位置する高順には妙才殿が、北に位置する臧覇には李典殿と楽進殿がそれぞれ牽制している。今から始まるのは死闘だ。今までの戦略に基づいた挑発ではない。呂布の騎馬隊は非常によく訓練されており、滅してしまうのには惜しい。捕縛せよ、と殿はお命じになった。但し、戦局を揺るがすような事態になれば敵将が首級のみになっても構わないとも仰る。四者四様にそれを受諾した。
 そして。

「陳珪はどうなった」

 次に問われたのは調略だ。内応者――陳珪、陳登父子の手筈はどうだと問われて、最後の詰めを行っている程イク殿に代わり、文和が答えた。

「水が入れば城門を開ける、と言っているねえ」

 あちらさんにしたら呂布はもうこりごりなんでしょうよ。
 呂布には為政者としての資質が全くない。それを補佐する陳宮にもそれだけの器も技量もない。このままときが進めば徐州は滅亡の一途を辿る。武人ではない文官や民の方がそういった思いが強い。それを突いた。陳珪が最後に寄越した内情によれば、表立って刃向うものこそいないものの、兵卒たちにも不満が蔓延している、とのことだった。
 文和の報告を聞き、殿は深く頷いた。

「水門は?」
「今は夏候惇将軍に代わって徐晃殿が見張っておられるよ」

 この軍議が終わればお二人が開けてくださる手筈になっているね。
 城郭を遠巻きに攻囲していた歩兵はこの暗闇に乗じて丘陵の中腹に下げた。勿論、撤退をするのではない。水攻めに巻き込まれない為だ。だが、呂布たちからすれば、持久戦に音を上げて俺たちが退いたように見えるだろう。哨戒をしている兵が俺たちの退避を呂布や陳宮に告げるのは夜が明けてからだ。この半年、夜明けを告げるのは鶏の役目ではなく、呂布の暴威だった。夜明けと同時に開門し、思うがままに俺たちの陣営を襲ってから悠々と城内に戻る。前線の兵たちにその恐怖を味わわせることはもう二度とない。呂布は今日、滅ぶのだから。

「丕、。おぬしたちは呂布が出でた後城内に入り、陳宮を捕えよ」

 軍議の終わりに告げられた俺たちへの指示に俺と子桓殿は思わず顔を見合わせた。陳宮は陳珪父子が捕縛して約定の証とする、と先に文和が述べたばかりだったからだ。

「殿、それは陳珪らが信用ならぬ、と仰っておられるのですか?」
「信用はしておる。だが、陳珪らには重荷であろう」

 それに、と言った殿の顔は父親そのもので、俺は不意に懐かしさを覚えた。

「丕よ、おぬしは未熟だが、陳宮に劣るわけではなかろう」
「当然のこと」

 武芸の腕も、戦略も子桓殿は発展途上だ。
 それでも「軍師の真似事」に夢中になっている小者ぐらいならば対等以上に渡り合える。そう、手ほどきをしたのは他ならないこの俺だ。子桓殿が胸を張れば張るほど俺の両肩に乗った責任は重くなる。本陣でそれを指を咥えて見ていろ、と殿は仰らない。自分のしてきたことに誇りがあるのならば、現実を見届けろと仰っている。

「首を持てとは言わぬ。首を刎ねる前に長々と嫌味を申し述べたい男が一人おるのでな。そうであろう、郭嘉」
「それは、もう。孝徳に捕えられるという屈辱の上に更に塩を擦り込んであげたいと思うのが軍師の務めだからね」

 その「軍師」という単語に強い自負を感じ、俺は俺の選んだ道行が決して容易ではないことを改めて知る。軍師とは自ら称するものではない。そんな拘りのようなものが俺の胸中に去来した。
 同時に。
 俺はまだ他人に評価されるだけの立ち位置にいないことを痛切に思い知る。
 それを覆す機会を与えられたのだ、と理解して俺は子桓殿の背を叩いた。子桓殿もまた、半人前と扱われることを不服としていたからだ。
 子桓殿は俺のその無遠慮な元気付けに薄く笑って応える。
 そして。

「己が領分は皆、承知したであろう。蛮勇の時代が終わることを天下に示して見せよ」

 殿の発破を最後に全員が拱手する。そして、一同は戦意を眼差しに灯し、幕舎を後にした。朝陽が地平から顔を出すより早く、下ヒ城の終わりが始まろうとしていた。



 幕舎を出た後、俺は「つばめ」を伴い子桓殿の麾下と下ヒ城の西門が開くのを待った。今日、呂布が出撃するのは北門だと陳珪が知らせてきたからだったが、師父と文和が見つけた「法則性」が裏打ちしなければ俺たちはそれを容れることはなかっただろう。城を包む堤はもう間もなく凍てつく河の水で満たされる。それに激昂した呂布が飛び出てくる先にいたのではたまったものではない。水が一番最初に襲ってくる西門の近くで待たなければならない、というのは俺たちの士気を下げたが、そこは流石というべきだろう。子桓殿の麾下に怖じているものは一人もいなかった。
 寧ろ。

孝徳
「子桓殿、首級を挙げられないのはそれほど不服か」

 子桓殿とその麾下は敵軍師の捕縛などという手ぬるい戦績しか挙げられないことに不満がある。そういった顔をしていたから、軽い調子で問う。子桓殿が鼻先で笑った。

孝徳、お前でも二つ首級を挙げたではないか」

 郭汜と李カクのことだ。命を懸けて首級を挙げて大切な人の心に傷跡を残した。その首級二つがあるからこそ、俺は郭嘉の弟子という立場を守っている。無能ではないという証明にはなった。
 ただ。

「後にも先にもそれだけだろう。俺にはこれ以上首級は必要ない」

 今後、俺に必要な首級は「つばめ」が持ってくる。だから、俺の手はもう汚れない。心根の方はどす黒くなる一方だろうが、それは師父の弟子を志したときに受け入れた。今更綺麗ごとを言うつもりはない。
 子桓殿はいずれ人の上に立つ方だ。
 首級を挙げるのに勤しむ必要はない。それよりも長たることを多く学ぶべきだ。
 多分、聡明な子桓殿はそのことに気付いている。
 それでも。

「軍師の弟子たるお前なら知っているだろう。無と少数との間には無限の隔たりがある」

 一と二は比べられる。二と百も比べられる。勿論それに優劣を付けることも出来る。
 それでも。
 無は何とも比べられない。ただ「ない」のだ。無だけがある。
 俺が無を恐れ、命を懸けてまで少数を求めたのと同じように、子桓殿もまたそれを欲している。何も呂布になりたいわけではない。蛮勇で何百何千の首が欲しいなどとは露ほども思っていない。
 ただ。

「子桓殿、今はまだ秋(とき)ではない。あなたにも秋が訪れる。無謀は勇気でも何でもない」

 若気の至り、というのだろうか。長安を平定した折のことを思い出すと今では胸に苦いものが広がる。命を懸けて、命を奪った。俺が命を軽んじていたことを痛切に突きつけるその記憶はひとときたりとも忘れたことはない。
 それでも。
 子桓殿の目には俺が無責任に映っている。

「ふん、享楽の才子には責務という概念がないと見える」
「急務であれば俺などが守役に任じられるはずがない、ということはあなたも承知しているだろう」

 殿は才を使うに関しては天下に並ぶものがない。その殿が俺を子桓殿の守役に任じた、ということは俺にそれだけの才があるということだ。つまり、俺は俺の速度で子桓殿の先達たることを許されている。
 無責任ではない、と遠回しに告げれば子桓殿は苦く笑った。

「秋を待てるものだけが天下を望める、とでも言いたげな顔だな」
「言いたげな顔ではない。そう言っているんだ」
孝徳、お前は本当に私に陳宮が捕えられると思っているか」

 その問いには迷わず首肯した。子桓殿が諦観を表情に浮かべる。
 陳宮程度の小者ならばまだ幼さを残した子桓殿でも十分に捕えられるだろう。尤も、捕えるのは時として首級を挙げるよりも難しい場合もあるのも承知している。その危険性も含めて、俺は子桓殿に期待を見出している。
 それぐらいのことならば、俺と子桓殿の間では言葉を交わす必要もない。
 真顔で首肯すれば子桓殿はその現実を受け入れる。
 深く積もった雪をかき分けて子桓殿が立ち上がった。

孝徳、行くぞ」
「承知」

 今から凍てついた水が押し寄せてくるだろう西門に向けて俺たちは歩を進める。西側の見張りは既に内応者と入れ替わっているから接近を看破される心配はない。それでも、灯りを使わず、俺たちは進んだ。
 西門の鉄扉が轟音と共に開け放たれたのは膝下まで水に浸かった頃のことだ。「つばめ」と子桓殿の麾下が中の様子を窺い、危険がないことを合図した。俺たちは任務遂行の為にその後に続く。中では文官や民が諸手を上げて俺たちの来訪を受け入れている。門番をはじめとする武官は彼らによって捕縛され、俺たちの前に突き出された。
 その後処理を麾下に命じ、子桓殿と俺は陳宮がいるだろう正殿へと向かう。石段を上り、前庭と呼ぶべき場所に辿り着くとその怒号がよく聞こえた。

「こんなことをしても、こんなことをしても、貴殿らが報われることはないのですぞ!」
「今ならまだ間に合いますぞ。今すぐに、すぐにでも呂布殿を呼び戻すのです、陳珪殿」

 その一方的で感情的な熱弁に応える声はなく、俺たちは彼がこの正殿で孤立していることを確信した。呂布は天命を失った。陳宮もまたそうだ。それを当人たちは誰も気づいていない。滑稽なことだ。

孝徳、今、あれが言う通りに呂布が戻ればどうなる」
「どうにもなるまい」

 陳宮は彼の進言を聞き入れるものがいないことに憤っている。呂布は城内のものが裏切ったことに激昂している。陳宮の言葉は呂布に届かない。呂布はもう、陳宮すら信じられなくなっている。今すぐに呼び戻せばどうなる、などという地点はとうに通り過ぎた。制御を失った力は暴れ回っていずれ朽ち果てる。
 それが見通せない時点で陳宮の器はそこまでなのだ。
 今でも、彼はまだ呂布の信頼を得ていると思っている。
 本当に、滑稽なことだ。
 その現実を受け止めて俺は先頭に立つ「つばめ」に声をかけた。

「『つばめ』、君に命令がある」
「何なりと」
「牢に劉備たちがいる筈だ。城外に連れ出してくるんだ」
「殿はどうなさいます」
「子桓殿と麾下の皆がいる。加えて相手はあの小男。心配は無用だ」

 そこまで言うと「つばめ」は拱手し、「承りました」と言って石段を下りていく。
 子桓殿はそれを見て不敵に笑った。

「なるほど、美しき主従関係、というわけだ」
「子桓殿。『つばめ』の成長を喜んでやってくれないか」
「無事に許に戻れたら祝してやろう」

 相変わらずわかりにくい方だが、これはこれで俺と彼の身上を心配している。
 敵地のど真ん中で――師父と文和の策がしくじるとは思わないが、暴威である呂布が正殿に戻ってくれば俺たちの命などこの雪原に散るだろう。その緊張感を失わない為に、彼は敢えて皮肉な態度を取る。陳宮は未だ陳珪父子に対して業を煮やしているが、俺たちに気付く気配はない。

「それで? 何を企んでいる」
「劉備のことか?」

 劉備を助けるのは俺が個人的に彼――張飛に借りがあるからだ。宿の借り、馬の借り、鍛錬の借り。都合三つ、俺は彼に借りている。
 だから、彼を助けるのは貸し借りの清算でそれ以外の意味などない。この大陸ではその美学が当然のように浸透していたからそう答える。子桓殿が鼻先で笑った。

「お前らしい答えだ」
「子桓殿なら違う答えがあるのか?」
「いや、ない。まさかそれほど借りが多い男だと思ってもみなかっただけのことだ」
「子桓殿、あなたは何か勘違いをしている。俺は借りだらけの男だ」

 数多の借りによって辛うじて生きているだけの男。師父にも殿にも借りばかりが募っていく。だから、その一つひとつを返していくだけで精一杯だ。
 そう、答えると子桓殿が瞼を閉じた。

「お前の理論で言うなら、私もまたお前に借りを作って生きているな」
「逆だ、子桓殿。俺はあなたのおかげでまだ生をつないでいる」
「そう思うのならばそうなのだろう」

 お前の中では、な。紡がれなかった先が俺の耳朶の奥で反響する。今からあの小者を捕縛しに行くだけのつまらない命に従うというのに、子桓殿の表情からは憑き物が落ちたかのようにすっきりとした笑みが見える。

孝徳、お前の師はあの小男を『軍師の真似事』と言ったがお前の眼にはどう映る」
「俺には軍師になり損ねた男としか映らない」

 軍師になる為には抱え切れない程の信が必要だ。だのにあの男は――陳宮は人の信を汚れた靴底で踏みにじって生きている。将たる呂布を信じているわけではない。利用してやっている、と思っている節すらある。呂布を徐州牧の座に収めたいのならば民草の心を理解しなければならない。その任も陳宮は放棄した。謀略による謀略しか彼の頭の中にはないのだろう。如何に自分を誇示するか、それしか考えていないことは陳珪父子が存外簡単に調略に応じたことからも窺える。
 華やかな軍略を披露したいだけなら、碁でも打っていればいい。
 鮮やかな戦を見せたいだけなら、自分の兵で模擬戦でもやればいい。
 浅はかな志しか持たないから早晩朽ちる。
 その飯事(ままごと)に民を巻き込んだその責は重い。
 俺は、殿が赦しても師父が認めても、あの男を容れることはない。

「お前がそう悪し様に人を罵るのは初めて見る」
「軍略は閃きではない。人を使役する以上、それに見合う覚悟が必要だ。その為には信が要る。だのにあれは信を軽んじている。俺はそれがどうしても許せない」
孝徳、一つお前にいい知らせだ」
「何だ、子桓殿」
「お前は今、お前の師と同じ顔で憤っている。腐っても郭嘉の弟子というのは真実なのだな」

 その微妙な賞賛に俺は苦笑で返し、そしてしばし瞑目した。

孝徳、覚悟はいいな?」
「無論。異論ない」

 返答に頷き合い、麾下のものに指示を出し、俺たちは前庭に飛び出した。

「陳珪、待たせたな」

 必ず捕えて差し出す、と約した陳宮を未だ捕えられていない手落ちを責められる。そう判断したのだろう。陳珪父子の顔からさっと血の気が引いた。
 陳宮は現れたのが俺と子桓殿であることを嘲り、侮る。
 なるほど、これが軍師では一州などもつまい。

「これはこれは。放蕩三昧で有名な軍師紛いの自称弟子殿と若君ですな。この陳公台、そのような、そのような若輩に敗れるほど落ちぶれてはおりませぬぞ」
「現実は時に非情だということを知らぬ莫迦が幾ら吠えたところで痛くも痒くもない。孝徳、その莫迦を捕えよ」
「捕えるのはあなたの仕事だろう、子桓殿」

 二人で拝命したのだからどちらが捕まえても構わない筈だ。
 などという返答があり、俺は苦笑する。所詮軍師の真似事にしかすぎない陳宮の器では現状が茶番に映るのだろう。顔を真っ赤にして憤慨している。
 陳宮が曹操幕下に在籍していた頃、確かに俺は何も出来ない半人前だった。今でもそれは変わっていないのかもしれない。子桓殿もまた字すら持たない幼子だった。
 それでも。


「目に映るものをそれとしか受け取れないのなら、軍師などと吹聴するのはやめることだ」
「強がりも大概に、大概になされよ」

 この陳公台、貴殿らに捕えられるほど落ちぶれてはおりませんぞ。
 言って彼は兵法簡を開く。最後の一辺が開かれるまでに俺は長針を陳宮の眉間目がけて飛ばす。当てるつもりはない。ただの威嚇だ。竹簡に振り払われるまでが計算で、その瞬間、彼は俺たちの前で無防備になる。子桓殿が双刃剣を一つに纏め、石畳を蹴った。

「多勢に無勢、実に、実に卑劣」

 子桓殿が刃の切っ先で斬り上げるのをぎりぎりの動作で避ける。右足が一歩、後ろへ退いた。それ以上逃げ場がないことを知らせる為、俺はもう一本長針を放つ。狙い通り陳宮の右足の踵すれすれに着地する。陳宮が短く悲鳴を上げた。後ろを見る。その隙に子桓殿が上から斬りかかった。咄嗟に頭部を庇って差し出された兵法感が一瞬でただの竹片に変わる。

「敗れる筈がない若輩にいいように振り回される気分はどうだ、俄か軍師殿」
「兵法簡が一つだと、誰がいつ申し上げたのでしょうな?」

 予備を持っているに決まっている、という含みを持たせて陳宮は嘲笑った。その頬を子桓殿が軽く切り裂く。陳宮が短く悲鳴を上げた。

「貴様のちゃちな体術程度、この私に通じるとでも思ったのか」

 陳宮は今、完全に子桓殿の間合いにいる。この距離で子桓殿を打ち破るのは踏んだ場数が勝る陳宮といえどもそう容易くはないだろう。苦虫を噛み潰したような顔で陳宮がじりじりと後ずさる。それは俺が許さない、と眼前に長針を構える。それを見止めた陳宮は反射的に右足を引っ込めた。そうなるとまた子桓殿の間合いに入る。
 陳宮の顔を見れば、呂布が戻れば形勢は逆転する、と思っているのがわかる。
 それが信であれば俺の心はどれほど救われただろうか。
 ただの打算にしかすぎないその勘定を嘲笑うかのように一羽の鷹が俺の肩に舞い降りてくる。殿の鷹だ、というのはその姿を目視するまでもなくわかる。

「陳宮、お前を救いに来るものはいなくなったぞ」
「そのようなはったりに心揺るがされるほど、この陳公台、甘くは決して甘くはありませんぞ」
「そう思うのならば己が目で確かめればいい」

 言って俺は鷹の足に結わえられていた布をほどき、長針に通して陳宮の左足目がけて飛ばす。陳宮は不承不承、それを拾い、広げ、目視して、その後絶句した。両の目がこれでもかというほど見開かれている。彼の中で絶対だった何か――呂布の威信が崩れ去った瞬間だった。

孝徳、父が呂布を捕えたか」
「張遼、高順は捕縛。臧覇は帰順を申し出た」
「馬鹿な! このような、このような馬鹿なことが起こる筈がない」

 謀っているのだろう、と憎しみを込めた眼差しで陳宮が俺を射る。
 その、あまりにも自己中心的で独善的な態度に俺は反吐が出そうになる。

「哀れだな。現実を受け止めることすら出来ない」

 その罪、死で以っても償いきれまい。言って子桓殿は陳宮の首筋に手刀を落とす。小さな悲鳴を上げて、その体は石畳の上に崩れ落ちた。子桓殿の麾下が手際よく絶望の淵に沈んだ陳宮を縛り上げる。
 そして。

孝徳、なぜ臧覇のみが帰順したとわかった」

 気絶したままの陳宮が麾下の手によって運ばれていく。それを横目に見ながら子桓殿が俺に問うた。

「子桓殿はまだご存じではないが、曹操幕下では誰の鷹がどの方向から来るかである程度の情報を伝達出来るようになっている」
「ほう。それは便利だが、一々事前に打ち合わせでもするのか」
「大まかな流れというのがある。今回はそれに則ったものだから、打ち合わせなどはない」
「私の鷹というのもいずれ加わるのだな」
「無論。相変わらず話の早い方だ」

 今あるのは殿の鷹、師父の鷹の二羽だ。いずれ子桓殿の鷹も、文和の鷹も加わる。その中に俺の鷹がある未来を思い描くがそれはまだ形にはならない。
 陳宮が城外に運ばれ、一兵卒に至るまでが完全に降伏した下ヒには戦後処理の為の人員が入っている。この惨状から平時まで復旧するには幾月も必要かもしれないが、それでも戦いは終わった。後に待っているのは殿の庇護を受け、少しずつ豊かさを取り戻していく国土だろう。
 陳宮が目覚めたら、師父はどうなさるのだろう、と詮のないことを考えて打ち消す。それは師父と殿がお決めになることだ。
 そんな寂寥感を覚えながら数歩先で俯いている子桓殿に目をやる。
 未だ首級を挙げられない不全感と戦っているのだろうか、とふと思いそれを打ち消した。子桓殿は物分かりの悪い方ではない。これから先、十いや、何十もの戦が子桓殿を待ち構えている。戦功はその何れかで得ればいい。
 陳宮と呂布の二人は首級を挙げればいい、という相手ではない。曹操幕下はこれだけの力を持つのだということを示す旗頭にせねばならない。だから、ただ討ち取るだけでは許されない。子桓殿はそのことを誰よりもよく理解している。
 それでも。
 陳宮が曹操幕下で与えられた任を全うしていれば、下ヒはこのような惨状に遭遇することはなかった。陳宮が担ぎ上げた呂布に大義、或いは理、或いは仁があればもっとまともな戦をすることも出来た。
 その全てを打ち消したのは彼ら自身だ。
 だのに囚われて尚、彼らは――殊更呂布は己が正当性を主張するばかりで話にもならない。俺は最強の武だと尚吠えている。
 殿も師父もそのことに静かに怒っている。殿の鷹は聡い。だから本陣へ帰りたがらない。あるじの元に戻り、激昂に触れることを嫌がっているのだ。それでも、いつまでもここでぼうとしているわけにはいかないだろう。
 俺は懐から犬笛を取り出し短く吹く。俺には聞こえない高音が冬空の下に響いた。しばらく待てば朔(さく)がこの城内へやってくる。
 それまでに、俺は俺のすべきことをこなさなければならない。

「子桓殿」
孝徳、お前は相変わらずだな」

 奴を殺してやりたいと思わなかったのか。
 問われたから首を横に振る。俺はもう首級は望んでいない。それに。

「師父と殿が裁かれる。俺が手ずから殺めなくとも、あれは助かるまい」
「憎くはないのか、と問うている」
「憎いとも。たったあれっぽっちの器の分際で師父を無能呼ばわりした」

 師父の何も知らないで、表面だけの評価を鵜呑みにした。その偽りの評価で師父を侮った。殿がお許しになればそれは必要な才だ。怨恨を理由に侮蔑することは出来ない。
 けれど。
 俺も子桓殿も確信している。陳宮は助かるまい。
 若輩と侮った俺と子桓殿の手で囚われ、お飾りの軍師と見くびった師父に処される。その屈辱を考えれば多分それ以上に彼を貶めるものはないだろう。自らの自尊心を谷底に突き落とされたまま、永久に挽回の機会を失する。
 だから。

「子桓殿、俺は正義の為に戦っているのでも、義憤を堪えられぬから戦っているのでもない」
「ならばお前は何の為に人の命を容易く弄ぶ」

 何の為だろう。他人の顔色は窺わないと師父と約束した。諸将、諸官に取り入るつもりはない。誰かの為にする戦は長くは続かないと俺もまた知っている。
 ただ。

「志を掲げた以上、足掻いてみたいと思っているだけだ」
「それは義ではないのか」
「そのうち子桓殿も嫌でも知る。志という綺麗な言葉がどれだけ薄汚れているのか、その言葉を振りかざすのがどれだけ罪深いことか」

 俺の志は天下泰平だ。どこにでもある、誰でも持っている志だ。
 故国を棄て、養父を踏み台に俺はここに立っている。
 その罪深さを問われても、俺はもう怖じたりしないと決めた。
 生きるということは遍く自らの罪を増やしていくだけの旅路だ。
 それでも。

「その志に胸を張れるようにしてくださったのは師父だ。ご恩に報いるまで、俺はこの道を譲らない」

 誰にも奪わせない。誰にも塞がせない。
 その結果、俺の両手からどす黒い汚れが落ちることがなくなっても、それでも構わない。師父の顔色を窺っているのではないから、称賛されなくとも構わない。
 ただ、俺が俺の道を歩いている。それだけのことで、それ以上も以下もない。
 子桓殿は意味がわからないと言った顔をしている。俺がこの結論に到達するのに数年かかった。言葉の上で取り繕う無意味さを知っているからそれ以上深くは立ち入らない。

「子桓殿。あなたには時がある。秋が来るまでには答えも見つかるだろう」

 その言葉にも子桓殿は眉間に皺を寄せ、不満を顕わにしたが俺はそれ以上の弁明を避けた。白一色の景色の端にぽっと紅が灯る。朔だ。点だった紅が瞬きをするうちに大きさを増す。朔はこの正月を迎える頃には大型の狼程度の大きさになった。支援型ではなく、騎乗型の支援獣として使えるだろう。鞍を載せると嫌がるので俺はどうにか振り落とされないようにしがみついているのが精いっぱいだが子桓殿はどうだろう。俺よりも小柄で、だが身体能力では勝っている。もしかしたら、易々と乗れるのではないか。そんな馬鹿げたことを考えた。

「ときに子桓殿」
「何だ、孝徳
「天狗の背に乗ってみたいとは思わないか?」

 天帝の御使いたる神獣の背に乗れるのはこの大陸では俺ひとりだ。師父が俺のあるじであることを承知しているが、朔は師父を背に乗せることを頑なに拒む。思うに、それは師父が大人だからで、まだ少年と青年の端境期にいる子桓殿ならばそれほど嫌がらないのではないか。
 そう、暗に含ませると子桓殿が先ほどまでの陰鬱さを払拭してぱっと顔を輝かせる。
 そして。

「父よりも先に?」
「やはり話が早い」

 苦笑して俺は指笛を吹いた。朔が俺の居場所を見止め、石段を駆け上がってくる。
 俺のあるじたる師父を背に乗せないのに、あるじのあるじたる殿が乗れる道理もない。朔にとって最優先はこの俺で、師父も殿も二の次だ。
 それでも、俺と一緒なら朔は嫌がらないだろう。
 師父と殿ならば絶対にこの最後の条件を呑まない。
 それと知っていて、敢えて子桓殿に尋ねた。
 子どもらしい好奇心に満ちた顔で子桓殿は朔の来訪を待っている。
 それを横目に見ながら、俺は鷹笛を取り出し一つ二つ、指示を出してから殿の鷹を天に放った。朔は鷹を恐れないが、鷹は朔を警戒する。鷹には無為な緊張を与えるものではない、と教わっていたからそうした。俺の意図を汲んだのか殿の鷹は中天高く舞い上がり、本陣目がけて飛翔していった。
 それとは入れ替わりに朔が前庭の石畳に辿り着く。

「子桓殿、本陣に戻ろう」

 朔の後を追ってきたのだろう。西門の真下に俺の栗毛が待っている。その傍らに見慣れた虎髭がいることに安堵し、俺は朔の背に跨った。子桓殿の手を引いて俺の前に座らせる。
 そして。

「朔、行こう。本陣だ」

 その指示に朔がおんと鳴いて答える。子桓殿を下ろせとは愚図らなかった。やはり、朔が嫌いなのは人間の大人だけだ。子桓殿もあと数年たてば心身共に立派な大人になる。そのときに、朔は子桓殿を拒むのだろうか。
 そんなことを考えながら燃える紅を両腿でぐっと押さえつける。
 子桓殿は俺の真似をして、朔の背にぎゅっとしがみついた。
 天帝の御使いたる神獣。帝ですら乗ったことのないその毛並みにつかまっている子桓殿には可能性と責任が備わっている。朔が嫌悪しないこの少年が世を変える日を心待ちにしながら、俺は朔を前庭から跳躍させた。
 徐州を覆っていた雲間から光が射す。
 今、一つの時代が終わった。
2014.07.14 up