Chi-On

Look Like a Shooting Star

孤独の寄る辺

 人の一生は孤独と紙一重だ。
 多くの人間にそれは該当する。例えば、俺自身にしてもそうだ。今は「曹操幕下」という括りの中にいる。それはそれだけ多くの人間と関わって生きている、という意味だから孤独とは無縁に聞こえるかもしれない。それでも俺は折に触れては孤独を痛感する。「舶来」と呼ばれるときが最も顕著で、「郭嘉の弟子」と呼ばれた時が次点だ。この国のものでないもの、特別な地位にいるもの、という疎外感は多くの人間と関わっていればいるほど大きい。この国にはお前の居場所などない、と言われているような寂寥感がある。
 だから、俺は俺のことを「舶来」と呼ぶ人間は基本的に信じないことにしている。
 唯一の例外に悪意なく「舶来」の名で話しかけてくる将――許チョ殿がおられるが、彼だけはその純粋さゆえに不思議と信頼してもいいと感じた。そんな風に言うと師父(せんせい)に「どれだけ偉くなったつもりなのだい?」などと小言を言われれるのが目に見えているから、まだ誰にもそんな表現をしたことはない。俺が一人、胸中でその言葉の連続を転がしている。許チョ殿には相手を侮るとか、誰かと自分の間に線を引くだとか、そういう概念がないのだ。だから、彼は俺の孤独を知らない。許チョ殿には多分、孤独ではなく独立した自己として認識されているのだろう。紙一重の差で、彼は孤独のない世界を生きている。
 そのことを殿はよくご存じだ。だから、殿が許チョ殿を見る眼差しは温かい。そういう、稀有な存在と相見えることは少ない。そのときにどういう態度で接するかで人間の本質をほんの少し垣間見ることが出来る。
 だから、殿は――覇者たる孤独を知っている曹操殿は許チョ殿を傍に置く。天下に二人といない鬼謀術策の持ち主である師父は俺――舶来である異端者を傍に置く。
 お二人とも孤独を知っているが、それを表に出すことを許されていないから、稀有な存在にその寂寥感を全て委ねる。
 そして。
 多分、それは劉備や俺たちの最上のあるじである天子様にとっても同じなのだろう。
 俺は劉備に孤独を見出さなかった。それを理由に彼を否定した。
 その結論が否定される瞬間に俺は立ち会えなかったが、きっと、天子様がよく使う「劉皇叔」という単語の中の紙一重の裏にずっと潜んでいたのだということを、全てが終わってから俺は知った。
 そもそも、そんなことを今更正面から突き詰めなければならなかった原因の一端を俺自身が担っていたことすら俺はまだ自力で気づくことが出来なかった。
 呂布という暴威が去ったその年の夏のことだ。
 劉備軍が殿の臣下として徐州を治め、荀イク殿の発案で四州の領土全てで屯田が始まった。有事には兵卒として戦線を構成する年齢の男たちに、平時は農具を持たせ田を拓かせる試みだ。この冬まで続いた籠城戦で幕下の貯蔵も減った。下ヒに至っては水浸しで食べられるものなど到底残っている筈もない。曹操軍の糧秣はそれほど多くはない、ということが諸将に知られる前に補充してしまう作戦に出たのだ。
 殿が天下に覇を唱える以上、次に戦わなければならないのは名族の出身で、その威光一つで大規模な軍を動かす力を持っている袁紹だ。華北四州。青州黄巾兵は曹操幕下に下ったが、領土は今も袁紹が掌握している。袁紹は巧みで、四州それぞれを血族に治めさせ、盤石を敷いている上に、糧秣も大量に確保しているのは間違いない。
 袁紹はギョウから出てくることなく、ただ黄河の北側でじっと戦線を保っていればいい。ただそうするだけで曹操殿は兵站を保つことが適わず、許へ引き返すことになるだろう。
 殿にそれを覆す奇策があるのかどうかは俺の知るところではない。
 袁紹と殿と、両方に会って殿を選んだ師父がいるのだから、何かしら勝算はあるのだろうと思っているが、師父がそれを俺に漏らすとも思えない。敵を欺くにはまず味方から。俺が師父の策謀を知るのはそれが成ってからだと決まっている。
 だから。

、軍議はよかったのか?」

 屯田の視察をしていると聞いた場所へ朔(サク)を伴って訪れた。
 そこには果たして元譲殿がおり、荀イク殿とお二人で屯田の手解きをしている。農夫は無心に農具で土地を耕していた。この荒れ野が次に夏が巡ってくるまでに豊穣を約すまで、彼らの手が休まることはない。よく見ると許チョ殿も農夫に混じって大地に鍬を入れている。元は農夫だったという彼には農具の扱いなど容易いのだろう。不平不満を漏らすことなく、誰よりも熱心に土を掘り起こしていた。
 今日明日成果をなすものではない。だから、見ていても何か劇的な変化などない。
 それでも。

「軍議に不確定要素は必要ではありません」

 呂布を討ち取った後、殿は師父と俺に許でも大きな――寧ろ大きすぎるほどの屋敷をくださった。師父と俺と「つばめ」と朔の三人と一頭が暮らすだけの屋敷になって、ようやく師父は下男を雇うことに首肯した。だから俺からは家事全般の必要が消え、今では午(ひる)までに子桓殿と文芸を楽しみ、午を過ぎてからは師父と政務をこなし、そのあと、辺りが暗くなるまで妙才殿に投げられるだけの日々が与えられた。
 その日々を強制的に停止したのが今日の軍議だ。
 師父が人が起きる刻限に起床され、しばらく屋敷を留守にする旨を告げる。
 同席することを許す響きがなかったから、政務の時間は自然、独力で出来る範囲に限定された。子桓殿も軍議に出席することを許されなかったらしく、午までに彼の屋敷を訪れた折、随分とぼやいていた。
 その際に彼が言ったのが先の言葉だ。
 父は曹操幕下に不確定要素などあってはならぬ、とでも言いたいらしい。
 その言葉には暗に俺の処遇も含まれていて、俺は子桓殿に同情されていることを知った。軍議に出られない軍師の弟子。かつて陳宮が俺を「自称軍師の弟子」と嘲ったのはまだ記憶に新しい。
 それでも。
 俺はその過小評価を項垂れて受け入れるつもりはない。
 誰かに師父の弟子たることを強要されたわけではないし、この立場が能力と比べたら分不相応なのも理解している。俺には天下の軍師たるだけの才はない。
 それでも。
 俺が、俺自身が師父の弟子たることを望んだ。そしてそれを師父が受け入れた。
 それ以上の何が必要だ。
 だから、俺は誰に何と言われても俯いたりしない。俺に軍議に参加する能力が不足している、と言うのなら今はまだ研鑽を続けよう。
 そして。
 軍師の任は軍議に参加することだけではない。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。師父が軍議で権謀術数を巡らせる為に必要な情報を手に入れるのも、また軍師の弟子の役割だと言えるだろう。だから、俺は殿が行っている政がどう作用し、そしてそれがどのぐらい諸将に知られているのか、そしてどんな経過を見せているのかをこの目で見に来た。
 軍議に不確定要素は必要ではない。
 それでも、俺は不要な才ではない。
 そんな意味合いを含ませて言葉を紡いだ。元譲殿が苦笑する。

「相変わらず、お前は自分を卑下するのが得意だな」
「客観的事実です」

 かつて元譲殿は俺の武の才を什長止まりだと評した。それはきっと誤りではないだろう。自分の身を守る――俺の場合は致命傷を避け、その場を凌ぐだけの武術は身に付いたが、最前線で武功を競うことは叶わない。
 師父はそんな俺に「つばめ」を与えた。
 ある意味では呂布と似た系統の将である「つばめ」は大きな軍団を率いるだけの才がない。統率者はある程度揃っている曹操幕下で、「つばめ」のような将は不確定要素になるから、半端もの同士をあてがうことで均整を取ろうとしたのだと理解している。
 そして、それは殿と師父からの期待の表れであることも俺は知っている。
 今は俺も「つばめ」も、子桓殿も不確定要素だ。
 それでも。近い未来、或いはもう少し遠い将来、俺たちは戦力の計算に含まれる。
 その日が早いか遅いかは誰にもわからない。ただ、焦っても結果は出ないことだけは確かだ。
 だから。
 俺は客観的事実を受け止め、自分に出来ることを探している。
 言葉にしなかった部分も元譲殿にはお見通しなのだろう。
 つまならそうに鼻であしらい、俺の傍らに朔しかいないことに疑問を呈した。
 
「宮遠はどうした」
「子桓殿に武術指南をしています」
「それで供も付けずに領内をぶらぶらしているのか?」
「『つばめ』がおらずとも、本来、朔がいれば私の身は保証されておりますから」

 人は朔――天狗(てんこう)を敬遠する。天帝が遣わした神獣だから、というのが一番大きな理由だ。異邦人である俺には実感がないが深紅の体毛を纏った獣は吉兆だという認識はこの大陸では殆ど常識と化している。俺が朔を伴って城下を歩けば、自然と道が出来た。そして気難しい貴人に接するように適当な理由を付けて去っていく。子どもは皆、朔を見ると目を輝かせるから、多分、世の中に接するうちにある意味での免疫のようなものを身につけるのだろう。
 大きな狼ほどの大きさになった朔を俺の細腕で抱きかかえることはもう出来ない。それを知った朔は一晩、鼻を鳴らし俺の寝台の横で何かを思案していた。そして、翌朝目覚めると朔は仔犬の頃と変わらない大きさに縮んでいた。その変化に驚き、師父の室に駆け込んだのはまだ記憶に新しい。そして俺は朔が本当に神獣で――俺が今まで世話をしてきた猟犬たちとは別の存在であることをようやく理解した。
 朔は自らの意思で姿かたちを変えることが出来る。
 朔もそのときに初めてそのことを知ったのだろう。城下へ買い物に出かけるときには敢えて仔犬の姿に戻った。そうすることで領民たちの朔への畏怖はほんの少しだけ減った。大型の獣に対する不安が敬遠を助長していたということだろう。それでもまだ朔の行く先には道が出来る。
 そんな朔を敬遠するのは何も領民たちだけではない。
 敵兵、敵将も例外なく朔を見ると表情を変える。そして朔が俺を庇って立つ以上、先んじて俺を狙うものは殆どいない。それは俺が戦力外の風体をしていたり、朔が本来の大きさで威嚇していたりという複雑な要素の組み合わせで成り立っている。
 敵からすれば戦局への影響力が極端に小さいのに、危険度が高い選択をする必要はないのだ。

「元譲殿が敵でも私などには目もくれず、もっと価値のある首級を狙うのではありませんか?」

 そう言えば元譲殿は重い溜め息を一つ吐いた。

、一つだけ教えておいてやる」
「何を、でしょうか」
「天狗を育てている軍師の副官、という情報はもう漏れている」

 知っている。領内だからだと気を抜くことはもう出来ない、と師父に十分に言い含められていた。人相書き、平時の服装や特徴などの情報を持った刺客を文和が捕えた。そのときに「あんたも随分偉くなったねえ」と揶揄われたものだ。

「しかもからきし武術が出来ない。天狗が侍っていない隙を狙って捕え、駆け引きの材料にしよう、と言うのでしょう?」
「わかっていたのか」
「知らぬ振りをしています。判断力に欠く、と思わせておかなければ私はいざというときに逃げ出すことが出来ませんので」

 判断力不足、実戦経験は未熟。状況判断は師父頼り。
 そんな認識を持ってもらったほうが俺にとっては有利だ。
 そう、言えば元譲殿は苦笑した。

「なるほど、腐っても郭嘉の弟子を自負するだけのことはある」

 最近、少しずつだがこの手の評価を聞くことがある。その度、俺は自分が成長したと認められたようで心中では密かに喜んでいた。
 喜んだことを表出すると過信に繋がる。胸中でだけ最高の笑顔を零し、表情では平坦を装う術が知らない間に身に付いた。
 恐縮です、と答えると元譲殿が苦笑いした。どうやら彼には俺の胸中が見えているらしい。
 そんな彼に「効果的な演出」を見せ続ける無駄を知り、今日この場所にいる本来の目的を切り出す。

「屯田は上手くいっているのですか?」

 荒れ土の原野を只管耕し続ける。城郭に近い農地から超えた土を運んできて少しずつ混ぜる。そんなことを無限とも思えるほどに繰り返さなければならない。
 俺が農夫ならこんな途方もないことは一刻も早く打ち切ってほしいと思うだろう。
 それでも、見渡せる範囲で作業を続けている男たちにはそんな悲壮感はない。
 元譲殿が僅かに首を傾げてから言う。

「俺には農事のことはよくわからん。ただ」
「ただ?」
「許チョだな。あれがいるから農夫たちは先の長い作業を続けられる」

 自ら率先して動き、鼓舞し、ときには助言もする。
 許チョ殿には不思議な魅力がある。その許チョ殿が手伝ってほしいと言えば農夫たちは否定する意義を見いだせない。どこまで続くかはわからないが、同じ夢を見たい、と思っているのだろうと元譲殿は言った。
 だが。
 それでは、許チョ殿が出向いてくことの出来ない地域での屯田は成功しない、と暗に含んでいるようなものだ。

「では豫州以外では上手くはいかない、と?」
「ここで成果が出れば、他の領地でも成功する理想を思い描けるだろう」

 成功するかどうかわからない不安を許チョ殿の人徳が解消する。許チョ殿の手にした成功が残りの国での希望になる。
 少なくとも、荀イク殿はそう思っている、と元譲殿は理解しておられるようだった。

「本当にそうなのか、お前はその目で確かめてくるといい」

 言って元譲殿が踵を返し、どこかへ立ち去った。
 原野に朔と栗毛、一人と二頭が取り残される。休憩の準備が出来たのだろう。包みや桶を持った女たちが城門から外へ出てくるのが見えた。領民の話を聞くのなら今がちょうどいい頃合いだ。あわよくば、俺にも何か飲むものを分けてもらえないだろうか、だなんて甘いことを考えながら栗毛の手綱を引いた。
 農夫たちが円座している中へと向かうと、そこには先に荀イク殿がいて、今日の作業の進み具合だとか、こういうことが困っているから改善してほしいだとか、そういう話で盛り上がっている。荀イク殿はその一つひとつを丁寧に聞き取り、建設的な答えを返していく。出来ることと出来ないことの線引きもしっかりしている。そこは堪えてほしい、だなんて俺が言えば反感しか買わないだろうやり取りも聞こえてきて、「王佐の才」と呼ばれる所以を垣間見た気がした。
 話が一段落したところで、荀イク殿は円座の一番外側で傍聴している俺に話題を振ってご自分は場を離れた。元譲殿と許チョ殿と三人で何ごとかを相談しているようだったので、俺は自分の目的を遂げる為に領民たちと向き合った。
 結論から言えば、彼らは食う寝る起きるに困ることがなければ領主が誰であろうと大きな違いはないと考えていることがわかった。目を剥くほどの租税を強要されない限り、首長が変わっても、変わらなくてもあまり気にしていない。
 徐州で凄惨な戦をしたことについて尋ねれば、それはよその国の話だから、という感触だった。豫州での曹操殿の印象は先進的な能吏。それに尽きる。荀イク殿が内政に気を配っておられるし、曹操殿ご自身も実利を何よりも優先する。このお二方のやり方になってから暮らし向きが少しよくなった。天子様が許に移り住んで来られてからは治安もよくなった。そして、この後は穀物の供給を安定させようとしている。
 領民たちは殿と荀イク殿の政に納得しているようだった。
 元譲殿は不愛想だが、決して横柄ではなく、寧ろいざというときに頼りになると評価されている。
 ただ、一つ気懸かりがあるとすれば、領民の多くは可能であれば劉備たちもこのままずっと曹操幕下でいてほしい、と思っていることだけだろう。
 理由を問えば、突き詰めれば天子様と同じ血を引いているからだ、という答えがあった。てっきり、仁や徳といった返答があるとばかり思っていた俺にはその想定外の答えに少し戸惑う。民というのは俺が思っている以上に単純なのだということを知った。
 そんな話が一通り終わった頃、農夫たちはそれぞれの農具を手に立ち上がって作業に戻っていった。女たちの片付けを手伝い、目的を遂げた俺も城内に戻ろうかと思っていると東の城門の方でもくもくと土煙が立ち上がっているのに気付く。東側でも最も南側にあたるその場所に駐屯しているのは劉備軍だ。
 敵襲だろうか。
 と考えてそれをすぐに打ち消す。
 豫州から東は徐州しかない。徐州は既に曹操殿の支配下だから攻勢を受ける筈がないのだ。では南――袁術かと思ったが、それならば土煙は俺のいる南側へ立ち上ってくるはずだがそれもない。
 では何だ、と思案していると元譲殿が近づいてくる。

、今日は演習の予定があったか?」

 俺は聞いていないが、朝に変更があったのか、と問われる。
 それには首を横に振って否定した。俺は午頃まで城内にいたが、そういう情報は受け取っていない。演習があるのに軍議をするはずがないのだ。
 荀イク殿も許チョ殿にも心当たりはないらしい。ただ、荀イク殿には気懸かりがあるという。その内容を確かめる前にどんと曇った上空から甲高い鳴き声が響いた。
 殿の鷹だ。
 見慣れた灰色が荀イク殿の肩を目がけて真っ直ぐに下りてくる。
 それを追うように黒の鷹が上空でくるくると回っていた。俺の記憶が間違いなければあれは文和の鷹だ。鷹が探しているのが俺だ、と一拍遅れで気づいて懐から鷹笛を取り出して吹く。黒点はその音に導かれるように降下した。俺はそれに向けて手を伸ばす。殿の鷹よりも少し重い、何とはなしに文和の人となりを感じさせる鷹だった。
 荀イク殿と二人、鷹の足に結ばれた布を開く。
 内容はそれぞれ別の視点から書かれていたが、二つを合わせると一つの事実に繋がった。
 曹操殿を暗殺しようとする動きがあった、という報があった。
 主犯は劉備である、と言う。
 真偽を問いただす為に劉備を正殿に招集すれば否定した。
 劉備を屋敷に返した後、城内に放っていた間者が改めて関係者を洗い出したところ、劉備の血判があった。
 曹操殿の暗殺は天子様の勅命によるものだ、と関係者が吐いた。
 念の為に天子様に真偽を確認すると知らぬとお答えになった。
 鷹の情報は敢えてそこで終わっていたが、荀イク殿と俺は顔を突き合わせて溜め息を吐く。多分、天子様は何もかもをご存じだ。劉備は主犯ではなく大義名分として担ぎ上げられただけだろう。曹操は天子様を背後でいいように操っている。天子様の尊厳を無視している。そんな考えを吹き込まれ、揺れていた天子様が頼るのは誰だ。「劉皇叔」と呼び救いを乞われた劉備が、その切なる願いを一言の元に切り捨てることが出来たとは思わない。だから、連判状の中に劉備の血判がある。
 そして。
 俺は今にも朴刀を担いで駆け出しそうな元譲殿を言葉で繋ぎとめる。

「元譲殿、待ってください」
「荀イク、。お前たちが劉備の肩を持っているのはわかるが、ここまで来て見逃すことは俺には出来ん」

 元譲殿の中では殿の安全が最優先事項で、それを脅かすのならたとえ相手が天子様でも刃を向けることに躊躇いはしないだろう。況して散々処分しろと言い続けてきた劉備が相手なら躊躇う理由などどこにもない。
 わかっている。
 それでも、俺はまだ劉備に――彼の腹心たる張飛に借りが残っている。
 今、俺が張飛の為に出来る何かを考えれば、元譲殿の激昂を抑えることでないことだけは確かだ。
 だから。

「見逃せなどと不遜なことをお願いするつもりはありません」
「ならば何だ」
「私と荀イク殿が返答を書き終わるまで、ほんの四半刻だけ、待ってはいただけないでしょうか」

 俺たち軍師の懐には鷹便を使う為の布と筆記具が収まっている。四半刻、或いはもっと短い時間で十分に返答は書ける。その間だけ、鷹が中空高く舞い上がるまで、ここにいてほしい。
 そう願うと元譲殿はますます不快そうな顔をした。

、お前は自分が何を言っているのかわかっているか?」

 わかっている。これはつまり、安直な言葉に直せば、劉備たちを見逃せと言っているのと大差ない。それでも、四半刻の遅れなら元譲殿は劉備たちに追いつけるかもしれない。追いついて、しまうかもしれない。
 それでも。

「四半刻でいいのです。待っていただくだけで構いません。この後、早馬を使っても、鷹便で下ヒ城に捕縛の手配をされても構いません。それでも、元譲殿と許チョ殿は四半刻、ここで私たちの返答を待っていただけないでしょうか」

 俺は刹那の友人の為に必死に頭を下げた。
 遠からずこうなることはわかっていた。わかっていて、俺は彼と友情を交わした。曹操殿も短い間だったが天下の器を得てご満足された筈だ。
 だから。
 俺は何度も繰り返し身を折る。隣で荀イク殿も俺の案を支持した。
 元譲殿はこの場に彼をつなぎとめる俺たちに不快さを隠しもせず、怒鳴る。

「随分と偉くなったものだな、。この俺に指図をするつもりか」

 その怒号に敢えて俺は返答しない。しない方が、結果的に数瞬でも長く彼をこの場に繋ぎとめられるということを本能の実利計算で知っていた。
 激した元譲殿の後ろで成り行きを見守っている許チョ殿に声をかける。

「許チョ殿はいかがですか、待ってはくださいませんか」
「おいら、曹操様が無事なら構わねえだよ」
「無事です。謀反人は劉備を除いて全て捕縛されました。天子様はそのような勅を出した覚えはない、と仰っておられます」

 事態はこれで収束する。曹操殿に危険が迫ることはもうない。だから文和の鷹が俺のところへやってきた。師父と文和は俺が張飛に借りを作っていて、返す機会を待っていることを知っているからだ。
 そしてその機会が今訪れた。
 刹那ではなく恒久の友人がそれを後押ししている。
 だから、俺は何が何でも四半刻、この二将をこの場に繋ぎとめなくてはならない。
 切迫した俺の心中を知ってか知らずか、許チョ殿は大らかに笑った。

「なら、返事を書くだあよ」
「許チョ!」

 その言質を取ったとも言える発言に口を挟んだのは怒れる元譲殿だ。無責任に許可を与えるな、という意味で彼は名を呼んだのに許チョ殿は何を怒っているのかを理解出来ていないらしい。
 寧ろ。

「荀イクとが返事を書けばいいんだあな。そうしたらおいらたちも劉備を追いかけられるだあよ」

 無邪気に純粋にそう提案する許チョ殿を見て、俺は何とはなしに彼の器の大きさを知った気がした。元譲殿はその提案を聞いて毒気を抜かれたらしい。

「お前たち、さっさと返事を書け」
「是(はい)!」

 ぐったりと倦んだ顔をして元譲殿が俺たちを促す。
 俺は荀イク殿と目線で返答の分割を決め、懐から正絹を取り出し、筆を走らせた。
 そして、約束の四半刻以内にそれは出来上がり、俺たちはそれぞれの鷹の足に返答を結び付け、曇り空に彼らを放つ。鷹笛で二、三指示を出し彼らの姿が消えたのを見届けると、元譲殿と許チョ殿は得物を持って城内に駆け込む。城門のすぐ中に彼らの騎馬が待っている。その馬ですぐに劉備を追いかけるのはわかっている。
 わかっているが、俺は劉備の持っている天運に懸けた。
 今や敵将となった彼の無事を祈るだなんて世間が見れば笑うだろう。
 それでも俺の志の中に劉備を誅殺して簒奪する天下などない。そんなことをせずとも殿は天下に手が届く方だと信じている。
 荀イク殿も俺と同じ意見だったのだろう。二将の出撃を憂いを帯びた眼差しで見送っている。
 しばらくそのまま騎馬が駆けて行った方向を見つめ、どちらからともなく城内に向けて歩き出した。軍師の仕事はまだこの城内に残っている。俺たちはそれに全力で取り組まなければならない。
 正殿の曹操殿の執務室に辿り着くと、中には文和と意外なことに妙才殿もいた。殿と師父の姿がなく、俺たちはその行き先を誰かが説明するまでもなく理解した。殿は小沛だ。麾下千を率いて関羽に降伏を求めに出かけたのだろう。殿の関羽への執着は俺の張飛への執着よりもっと酷い。

孝徳、あんたには大事な仕事が残ってるんだ」
「天子様の説得だろう」
「あははあ。説明が早くて助かる。世の中があんたばっかりなら俺も苦労はしないんだがねえ」
「馬鹿を言え、文和。世の中が俺ばかりだと万事滞りしか生まない」

 それで? 天子様はどちらだ。
 問えば本殿の奥で程イク殿に付き添われて後悔に暮れている、という返答がある。
 その声音には面倒くささが隠されもせず公然と存在していて、俺の頭の中で何かがぷつんと切れた音がした。俺の背中の後ろにいた荀イク殿は俺の身に起きている異変に気付いたのだろう。殿、と躊躇いがちに名を呼ばれた。俺の感情の振れ幅が突然、負の方向に傾いた理由の一つを多分彼は知っている。
 それでも。

「荀イク殿はそれでよろしいのですか。それとも、あなたにも『わからない』ことなのですか」

 一方的に押し付けられるばかりで、ほしいものの全ては奪われるだけの経験しかしたことがない。帝、というのも名ばかりでご自分で何かを決めることすら許されない。
 その、天子様に讒言をした馬鹿者がいる。
 曹操殿のことが気に入らないのなら自分の足で手で抵抗するべきだ。なのにその馬鹿者はこともあろうに天子様の威光を利用した。疑うことを知らない天子様を思ったように動かすのはそれほど苦労しなかっただろう。況して自分が天子様の親族であるというのなら、いっそう簡単だったに違いない。
 自分の保身の為に天子様の感情を利用した。利用された天子様の気持ちは誰が慮る。その血筋に生まれたというだけで人に利用されたり、距離を置かれたりするつらさは誰に吐露すればいい。
 曹操殿は政の矢面に立っているから腹を割って話すことなど出来ない。
 この幕下で最も天子様を重視しているのは荀イク殿だが、だからと言って気安く謁見することは出来ない。荀イク殿は臣下の臣下だ。天子様と直接お話出来る立場ではない。
 その状況を董承は利用した。
 劉備を呼ばれてはいかがでしょう。
 劉備は中山靖王の末裔を自称している。限りなく無に近いが、劉備には天子様と同じ血が流れているから、荀イク殿が謁見するよりもよほど容易く昇殿することが出来た。
 帝という地位にいて、誰かと心通わせることも叶わず、王座で孤独と戦ってきた。家族の代わりになるもの――劉備を得た天子様の心中は察するに余りある。
 劉備に翻意はなかっただろう。自らの天を戴きたいと思っていたのは知っているが、彼には秋(とき)を読むだけの才覚がある。今、曹操殿を誅殺してそれで得られるもので彼が満足出来たとはとても思えない。
 それでも劉備は最後に血判を押した。劉皇叔、という響きに込められた切実な思いを知っているからだ。劉備、というのはそういう男だ。情に篤く誰をも受け入れようとする大器だ。それと知っていて董承は劉備すら利用しようとした。
 結論から言えば董承にはその陰謀を成功させるだけの才覚に欠いていた。
 企みは露見し、自らは囚われ、いち早く情勢を察した劉備は出奔。天子様は自らのなさったことの大きさに気付き、それは本意ではない、と曹操殿に釈明せざるをえなくなった。つまり、天子様は曹操殿に対し、ある意味での借りを作ってしまった。その負い目があるから、今後殿が多少不遜なことを実行しようとも天子様は容認するほかない。
 頼りの綱の劉備はもう戻らない。
 天子様はこの先一体誰を頼りにすればいいのか、途方に暮れている。
 その、僅かな傷口から今度は俺――舶来を擦り込もうとしている。
 成功すれば天子様は曹操殿への信頼を抱くだろう。失敗すれば確執は深まり、今後も曹操殿の命は狙われ続ける。
 ただ曹操殿の切った「舶来」の札には相応の利がある。
 故国を失い、育ての親の死を乗り越えて、それでも大陸の統一と平穏な未来を願っている。孤独のつらさは誰よりもよく知っている。あなたの痛みを察することも出来る。
 そう、言って来いと幕閣は俺に命じた。
 そこまではいい。
 それだけの大きな任を預けられるほど俺が信を得ているという証明に他ならないからだ。
 だが。

「手のかかる煩わしい子どもの機嫌を取ってこい、というのなら俺は引き受けるつもりはない」

 文和の言いようはまるで駄々子をあやせと言っているのと同義だ。
 友人という垣根の低さで悪態をついているのだということは俺も理解している。
 それでも。
 多分文和には多数決の原理で異端として弾かれる痛みは一生わからないだろう。
 師父にもわからないのは同じだが、それと知れるような態度は見せるまい。師父なら沈痛そうな面持ちで君には荷が重いかもしれないけれど、頼まれてはくれないかな、などと天子様と俺の両方に配慮した物言いをなさる筈だ。
 文和にそれが出来ないとは思わない。ただ、ちょっとした冗談のつもりだったのも知っている。知っているが、この場面でその言葉を選んだ感性に同調すると、俺もその悪態を肯定することになる。
 それは、俺の本意ではない。

「ただ」
「ただ?」
「文和、あんたがちょっと気が動転していて、配慮に欠いただけだというのなら俺は直ぐにでも天子様に会いに行こう」

 その妥協点を聞いた妙才殿が闊達に笑った。、お前偉くなったな。元譲殿にも同じことを言われた、と告白すると皆そう思っているのだと返される。

「でもな、
「何でしょう、妙才殿」
「時々――っつーか、まあ要所要所でそうやって自己主張すんのは悪いことだとは思わねぇな。俺様は、だけどよ」

 同調圧力に屈して、卑屈に自らを嘲笑う。数の大きさに負けて自分を貫き通せなくて卑下する。客観的事実の名を盾に自分を売っている様を見るくらいなら、多少傲慢でもいい。自らの道を歩いていると胸を張っていろ。
 そして、今すぐでなくてもいい。
 近い未来に自分の引き起こしたことの責任を取れるだけの男になるのが、妙才殿の望む恩返しだと告げられた。
 それが、軍師になるということだ。
 文和を見るとばつが悪そうに後頭部を掻いている。

孝徳、あんたがそんなに思い詰めてるとは思わなかった。けど、俺は詫びないし、弁明もしない」

 自分の言った言葉に責任を持つ。
 それが軍師であるということだからだ。というのはすぐにわかった。
 だから。

「悪かった、文和。少し気が立ってた」
「お互い様ってやつさ。俺は忘れる。あんたはどうする?」
「俺も忘れる」

 そうして俺はいたいけな小鳥にもう一度歌を思い出させる為に本殿の奥へ向かった。
 小沛から戻った殿は一時だけでも関羽を将として迎え入れることに狂喜していたから今回の件についてはおとがめなしだろうと高を括っていたが、後日師父に反省文の提出を求められ、自分の言葉に責任を持つ重さを改めて知った気がした。
 故国を失い、育ての親と死に別れ、寄る辺なくこの大陸を彷徨う筈だった俺の孤独はいつの間にか消えた。消してくれたのは誰だ、だなんて考えて一人笑う。
 人の一生は孤独と紙一重だ。
 俺の人生は一枚の紙を超越する。
2014.08.04 up