Chi-On

Look Like a Shooting Star

守将の誇り

 袁紹がその檄文を発したのは夏の終わりのことだ。
 大陸の全土にその文は届く。勿論、この許にも檄文は届いた。
 荀イク殿が血相を変えて軍議の間に駆け込んで来られたその場に同席出来たことを喜べばいいのだろうが、想定よりふた月ほど早い宣戦布告に室内には緊張が走る。檄文が届いたということは袁紹はもう開戦の用意がある、ということだ。そして宣戦布告をした以上、袁紹の軍は既に進発していると考えるのが妥当だ。上座で殿と師父(せんせい)が顔を見合わせる。一番最後に来られた荀イク殿は下座の俺の隣におられたのを手招き、檄文の中身を見せるように求められたが、よく出来た檄文です、と荀イク殿は中々手中から放そうとしない。押し問答の末にまずは文和が取り敢えず読む、という妥協点で落ち着いたところで、彼は俺の首根っこを掴んで部屋の隅へと連れて行く。静かに激しておられる一同に背中を向けた格好で檄文を広げた。
 その文言――というよりは身綺麗に整った罵詈雑言を読んで俺は息を呑む。
 殿と幼馴染でお互いの生い立ちも性格も嫌と言うほど知り尽くしている相手だからこそ、この文言が生まれたのだろう。そう評するより他にないほど、袁紹の檄文は的確に殿の非を突き、袁紹自身の理を強調していた。
 どれもただの言いがかりにすぎないし、あとふた月後――屯田の成果が初めて実っていれば殿の方から檄文を発していた。そのときの文言は勿論袁紹の檄文を裏返したような内容になる筈だった。万民に受け入れられる義はない。誰かの義は誰かの不義だ。或いは誰かの利は誰かの不利だとも言えよう。
 要するに檄文の内容など大した問題ではないのだ。
 だから。

孝徳、君か賈クのどちらかにその文を読みあげてもらいたいのだけれど?」

 師父が知りたかったのは本文の詳細ではない。
 俺と文和のこの戦に懸ける覚悟の重さだ。
 袁紹との戦は黄巾族の討伐とは全く違う戦いになるだろう。奇策一つで半ば騙し討ちのような真似が出来たとしてもそれは決して勝利とは言えない。何十万の軍を率い、お互いを滅ぼすまで戦う。呂布のように不信を抱かれている将を倒すのとも違う。それは袁紹が檄文を発したことが暗示している。
 その、檄文を読み上げる。
 曹操幕下、主要な将官が揃っているこの場でそれが出来ないのなら、今度もまた俺は留守居だ。
 文和を見れば彼は目配せして、器用に片目だけを瞑ってみせた。

「そうだな、そういうことは郭嘉殿の『副官』の仕事だろうから俺は譲るよ」

 その代わりに俺は最高の策を献じることにしよう。
 俺には持ちえないその逃げ口上が紡がれると同時に室内の視線は全て俺に集中した。荀イク殿が同情の眼差しで俺の肩を叩く。師父と殿、それから子桓殿の三人が好奇の眼差しで俺を射ていた。
 逃げ口上は必要ない。役者が足りないと嘆くだけの日々はもう終わった。
 今、師父が俺に求めているもの、の答えなら最初から決まっている。どうして俺は師父の副官でいるのか。殿は何の為に俺を子桓殿の守役に任じたか。
 師父が提示したのは選択肢ではない。
 この檄文を音読し、そして俺はその一言一句に至るまでを記憶する。近い未来、袁紹に勝利したあかつきには俺はまたこの文言を諳んじる。その一言一句を否定しながら師父が最上の笑みで終戦を告げることになるだろう。
 万有の正しさなどない。そんなものを追い求めても現実に幻滅するばかりだ。
 正しさを振りかざしたければ戦って勝つ他はない。
 だから。

「『宦官の余った肉から生まれた醜い奴で、元から麗しい徳などなく、軽々しくずる賢く、こちらの方面ばかり矛の先のように鋭敏で、混乱や災いが大好きで、楽しくてたまらない――』」

 下座から静まり返った軍議の間に響くよう腹の底から声を出した。殿の眼差しはどんな罵詈雑言を受けても少しも揺れることなく俺を射ている。そのあまりの鋭さに萎縮しようとする気持ちを鼓舞して俺は尚も声を張った。一つひとつの単語に師父が深く頷いているのが視界に映る。非の打ちどころのない檄文をどう覆すのか、脳裏で万策を巡らせておられるのだろう。
 長い長い檄文を音読し終えたとき、軍議の間は憤りでむせ返っていた。
 俺が何かしくじったわけでもないのに、諸将の怒りは俺に向いている。特に元譲殿が顕著で、隣に立っていた妙才殿に宥められていた。この一極集中の憤怒を予測していたのだろう文和はいけしゃあしゃあと「いやあ、陳琳の才は中々のものだねえ」などと言って笑っている。何が「特にこの出自を否定した部分なんてのは最高だ。返す言葉がない」だ。
 不必要に憎悪を煽るのはやめろ、と思わず抗議の声を上げそうになる頃、師父が両手を軽く叩き合わせた。軽い破裂音がして、視線は俺ではなく上座へと向かう。
 そして。
 師父の隣で眼差しの奥に激しい怒りを湛えた殿が無理やりに軍議を再開させる。

「荀イク、糧秣の備蓄は?」
「予定の八割程度、かと」

 殿の想定していた開戦時期よりふた月早い。今までに収穫出来た量、或いは去年から蓄えた量を合わせると誤差は二割、ということなのだろう。荀イク殿が淀みなく答え、殿はちらと隣に目配せする。

「郭嘉よ、この備蓄で何か月戦える?」
「八割ならば四か月、と考えるのが妥当かな」

 開戦の場所も考え直さなければならない、と師父が殿に進言する。そうして滞りなく進んでいこうとした軍議を悪戯に留める声が俺の隣から聞こえた。

「ちょっといいかい、郭嘉殿」
「何だい、賈ク?」
「曹操殿は当初一年の大戦を考えておられたんだろう? 備蓄が八割なら期間も八割になるのが筋じゃないのかい?」
「賈ク、あなたほどの人がつまらないことを確認したいのだね。孝徳、君にもわかっているだろう」

 師父の声色を聞いたままに判じるならこうだ。これは試練の形をした確認だ。俺がただの書記官に収まらないことと、戦の全体像が見えている、という二つの点を諸将に遍く宣伝してくださるおつもりらしい。
 その為に殿はわかりきった質問をし、師父は敢えて説明を割愛した。そして、その巧妙な誘導は浅慮を装った文和の「失言」で形を成す。
 この温情を誰よりも早く察し、子桓殿が高見の見物を決め込んでいるのを苦々しい思いで視界に収めながら、俺は返答を紡ぐ。

「今年の収穫がまだだ、ということを師父は仰りたいのですね」

 現在の備蓄は当初の予定の八割を確保出来ている。しかし、残りの二割を得ることは難しい。本来その二割を収穫する人員を戦線へ連れ出してしまうのだ。年老いた農夫や女子供に働き盛りの男と同じだけの労働を強いることは出来ない。
 そして。
 袁紹は檄文を発した。天下の趨勢を見守っているものの中には曹操軍の不利と見るや攻勢に出るものもいるだろう。かつて徐州動乱に乗じて袁術が蜂起したのと同じように。つまり、殿の治める四州で得られる残り二割を守るためには人員を割かなければならない。戦線を構成する戦力は分散を強いられる、ということだ。
 その状態で八割の戦果を残すことは至難だと言える。
 だから師父は状況をからく見積もった。

「敢えて短く見積もられたのは、袁紹の宣戦布告が想定より早かった、つまり、袁紹の統治が安定している、とお考えになられたからですね?」
「君も少しは戦がわかってきたようだね。その通りだよ。袁紹は足もとを固めてきた。その盤石を崩すことは想定よりずっと難しいだろう」
「なるほど、おぬしらの言い分には一理ある。しかし四か月ではこちらに勝機などなかろう」

 適切な状況判断。驕ることない冷静な分析。
 師父のからい評価を殿が挑発で受け入れる。
 師父はそればかりは私の独断では決めかねると苦笑した。

「関羽殿はどうお考えかな?」

 苦笑いのまま、師父は俺や文和と並んで末席に座っている関羽に話題を振る。当の関羽は表情一つ変えずに、拙者は与えられた戦場で戦果をあげるのみ、と躱す。師父の眼差しがすっと鋭さを帯びて口元から笑みが消える。

「曹操殿、関羽殿に先鋒をお願いしてはどうかな? 場所は――そう、白馬津でどうだろう」

 袁紹のいるギョウから許までの距離を考慮する。明日、俺たちが軍を発し、既に進発しているであろう袁紹の部隊と邂逅する地点を考えれば師父の言う白馬津は妥当な線だ。或いはこちらが先に布陣できる可能性も幾ばくか残っている。袁紹は数に勝る。そして華北四州を平定しているから後顧の憂いはない。それに対して俺たちはどうだ。四方に不安要素を抱え、数でも劣る。精鋭だから、と慢心することは出来ない。実際、袁紹の宣戦布告は盤石を敷いたつもりだったこの幕下に衝撃を与えた。勝てる道理がない、と顔に書いたまま軍議の間に突っ立っている将官すらいる有様だ。
 これでは。
 これでは戦うまでもない。俺たちは――曹操幕下は空中分解というもっとも惨めな散り方をするのは自明だ。だからこそ師父は憤怒を瞳に湛え、静かに場を制しようとされている。
 開戦は白馬津で自らが先鋒、と聞いても関羽は少しも揺らがなかった。
 殿はその提案に今一つ乗り切れないでおられる。
 関羽に手柄を与えれば、貸し借りの清算が終わり、どこにいるとも知れない劉備を探す流浪の旅に出向くのは間違いない。だから、殿は関羽に戦勝を与えるのを躊躇っている。
 それでも。
 初戦に負けは許されない。圧倒的な勝利、それだけが俺たちの勝機を生む。
 その任に相応しい将はこの幕下をもってしても数名しかいない。その、数名の将をもってしても戦局はなお苦しい。下ヒの戦で下った張遼将軍の名を推そうとしたが、隣の文和がそれを視線で制す。
 今は黙って成り行きを見守るのが俺の領分らしい。

「関羽よ、おぬしはどう思う」
「白馬津で開戦――となれば二虎将軍のどちらかがおりましょうな」

 袁紹軍には天下に名の知れた名将が二人いる。巷間では彼らを――文醜と顔良の二将を一括りにして二虎将軍と呼ぶ。
 荀イク殿の斥候の話では持久戦を唱えた田豊が投獄され、その意見を支持した沮授も黙殺されているとのことだ。つまり、袁紹は速戦を選んだ。初戦で完膚なきまでに叩きのめし、こちらの形勢を崩してくるのだろう、と俺たちは予測した。
 その、絶対的優位を覆す手札は多くはない。
 師父は関羽にその役目を与えようとしている。
 それは曹操幕下にとってこの上ない戦果であり、関羽にとっては十分な報恩になる。
 それでも。
 たとえ関羽を失うことになったとしても、師父は初戦で得る勝利――二虎将軍を打ち崩し、優勢を均衡に持ち込むという戦果を望んだ。
 殿が難しい顔で唸る。

「文醜にしろ顔良にしろ、あなたならば討ち取るのもそう難しくはないのではないかな?」

 郭嘉、と短い叱責の声が殿から飛ぶが師父はそれを気にするでもなく関羽と対峙した。袁紹軍も決して一枚岩ではないことを荀イク殿が知らせてくださった。だが、こちらの幕下も一丸となっていると言い切ることは出来ない。それでも。師父や文和がいる。殿にも覇者の器がある。
 それを誰よりもよく心得ておられる師父は未確定の戦果を可能性のある勝利に変えようとされている。
 関羽にもそれは伝わったのだろう。
 元来、彼には劉備の中身たる本分しかない。それでも、殿も師父も彼のその中身の向こうに一人の将来ある猛将の姿が映っている。この武を持つ劉備を取り込むことが出来なかった後悔は文字通り後に回せばいい。
 師父の柔和に見えて強かな眼差しと対峙した関羽は緩やかに褐色の瞼を閉じた。
 そして。

「張遼と二千の騎馬をお借りしたい」

 関羽が師父の策を受け入れた。師父の表情が華やぎ、殿の苦笑が深くなる。隣同士のその落差を見ていた軍議の間が束の間の穏やかさを取り戻す。
 関羽の提案は勝利を得る為の最低条件だ。関羽は二虎将軍のどちらが来ても勝つ気でいる。そのことがこの部屋にいる全員に伝わった。名指しされた張遼将軍が驚いた顔をされている。それを見届けて文和に視線を送れば、俺にもわかる道理が師父や関羽にわからない筈がない、と表情で笑っていた。
 勝てないかもしれない戦、ではない。勝つ戦にするのだ、という意気込みが諸将の顔色に映っている。その中で一人、子桓殿だけがつまらなそうにしているのが視界の隅に見えた。

「ではあなたの仮の参謀は私が務めよう」

 師父のその言葉に俺は弾かれたように音源を見る。子桓殿の眉間の皺がより深くなったのは気のせいではないだろう。
 多分、俺の推測が間違っていないのなら、師父は次に俺を伝令として使う、と仰る筈だ。子桓殿はそれを倦厭している。留守居を任される信を彼は理解しているが、俺が彼に先んじて戦場に赴くのは出し抜かれたような気持ちになるのだろう。本当に信などというものがあるのなら、俺も命運を共にしろ、と思っているのだ。
 俺に弁解の余地はない。
 子桓殿の世界で俺は一歩先に出た。その立ち位置から子桓殿を振り返るのは強者が弱者を侮るのと大差ない行為で、どんな言い訳もどんな弁明も意味を成さない。
 師父がそれを理解しておられない、とは思わない。
 それでも。

孝徳、君は私の伝令だ。明日、白馬津に向けて発つから準備をしなさい」

 師父は何の躊躇いもなくその残酷な指示を下した。
 子桓殿の不機嫌は深みを増し、俺は混乱を極めた。
 誰の顔色も窺わない。師父にも殿にもそれを心掛けて接してきた。子桓殿だけを特別扱いする正当な理由などどこにもない。子桓殿が俺を軽蔑しても、どれだけ恨んでも、俺に下された命を拒むことは許されない。
 心の臓がきりきりと痛む。
 それでも、師父は俺に指示を下した。
 俺のあるじは師父お一人だ。
 だから。

「是(はい)、師父」

 拱手し深く頭を下げる。子桓殿が侮蔑の眼差しを俺に向けているのを知っていたが、敢えてそれに気付いていない振りを通した。隣の文和が苦笑する。師父の隣の殿は高見の見物を決め込んでいた。
 その、不器用すぎるほどの愚直さに呆れ返ったのは何も文和だけではなかったらしい。

「曹丕殿は何か不服の様子。それはつまり、こういうことかな? 曹丕殿にはこの不肖の弟子と二人、私の伝令を務めていただける、という意味に受け取っても?」

 戦勝と美酒と美姫にしか興味がないはずの師父が皮肉を口にする。伝令など誰にでも出来る、と言えば言い過ぎだが、一人前の将たらんと欲する子桓殿にその任を求めるのはあまりにも軽い。その悪逆めいた提案に子桓殿は見るからに顔を顰めた。

「戦勝が確約された場所へ見物に出て行くほど私も暇ではない」

 子桓殿の返答に室内の張り詰めていた空気がほんの僅か、穏やかさを取り戻す。
 それとは対照的に師父と殿の眉間に皺が寄った。その僅かな違和を残し、皮肉の応酬は続く。

「ならば曹操殿とお二人でこの許に残っていただけるのだね?」
「不肖の弟子も今は私の守役の筈。父に断りなく人事を決めるのは過分な判断ではないのか」
「なるほど、一理ある。では曹操殿にお伺いしよう」

 孝徳は私の配下。私の指示を優先していただけるかな?
 疑問の形をした断定に俺は思わず苦笑する。師父は子桓殿を試しておられるのだ。突然に回ってきた曹操殿の嫡男という重責。殿の後継たるに十分な器を育むために俺という心もとない先達を与えられ、自ら学ぶことを強要された。
 俺が子桓殿に教えられることなど、もう残り幾ばくもない。子桓殿は元服し、あとは自ら戦功を得るだけのところまで来られた。本当は守役などもう必要ではない。誰かに手を引かれ、前を目指すだけの日々はもう終わったのだ。
 だから。

「許す。丕よ、おぬしにはギョウ城の攻略を命ずる。、郭嘉の伝令が終わり次第、丕の伝令を務めよ」

 この戦の最終段階、袁紹の本拠を落とす大役を殿は子桓殿に任じた。それを聞いた諸将の眼差しがすっと鋭いものに変わる。子桓殿に役目を回すには彼らが奮闘しなければならない。袁紹が挙兵したと聞いて臆していた気持ちが今、ここで区切りを付けられた。勝てるかもしれない、ではない。勝つ。勝って俺たちは子桓殿に役目を回す。
 その信が子桓殿にも届いたのだろう。彼は鼻先で笑う素振りを見せたが、眦には俺のよく知っている優しさが滲んでいた。

孝徳、私の伝令を務められることを光栄に思え」
「子桓殿が伝えるべき戦果を得られるように祈っています」
「フン、口だけは一人前だな、お前も」

 敢えて付けられた「も」という一音に俺は破顔した。子桓殿の中にまだ俺の居場所がある。師父と彼を天秤にかけて、迷うことなく師父を選んだ俺を子桓殿は許してくれた。師父を全肯定しているわけではない、とかつて子桓殿に嘯いた日のことを思い出す。上を見上げてばかりいるのはつらい。つらいけれど、俺も子桓殿もその先にある何かに価値を見出した。だから、俺は上を――師父を見上げ続ける。子桓殿は殿を見上げ続ける。
 そして。
 いつかでいい。
 俺も子桓殿もお互いに納得出来る立ち位置を見つけたい。
 だから。

「いざ蓋を開ければ宮遠将軍の一人勝ち、などという事態になっても文句は言わないでいただきたい」
「この私がお前の『つばめ』如きに劣ると思うのか」
「踏んできた場数が違いましょう」
「全く、師に似て可愛げのない守役だ」
「子桓殿には及びません」

 俺たちは強がって、嘯いて、何でもないことのように試練や苦難を受け入れて乱世という形のないものと戦っていく。
 軍議の間にはもう悲壮感は漂っていなかった。
 必ず勝つ。その決意が熱を持つ。
 殿が解散の号令を出すと、一同が拱手してめいめい部屋を出ていった。
 俺も「つばめ」と屋敷に戻ろうとした。その背中を師父が呼び止める。

孝徳、張遼将軍に紹介しよう。付いてきなさい」
「師父、『つばめ』も連れていってもよろしいでしょうか」
「勿論構わないよ。宮遠殿、張遼将軍と会うのは初めてだったかな?」

 張遼将軍は下ヒの戦の折、勝敗を機敏に察し、自ら殿に降られた。俺と「つばめ」、それから子桓殿はその頃、城内で陳宮を捕縛するという任に当たっていたから、帰順の場面は伝聞でしか知らない。
 それでも、曹操幕下にいれば張遼将軍の話は嫌でも聞こえてくる。敗将という立場は「つばめ」も張遼将軍も変わりない。その二人の現状は大きく乖離している。「つばめ」は俺の守将。張遼将軍は五千の騎馬隊を率いる精鋭部隊の将だ。その精鋭のうちの更に精鋭である二千を率い、白馬津へ向かう。
 本来、「つばめ」は最前線で戦える将だ。その「つばめ」を俺と子桓殿の都合だけで守将に留めている。「つばめ」からすれば不満こそ募れど、納得など出来るまい。
 それでも。
 俺は「つばめ」に俺を選んでほしかった。不本意だろうが俺をあるじと仰ぐ「つばめ」のままでいてほしい。それは短期的視点で言えばただ「つばめ」を飼い殺しているだけなのだが、長期的展望ではもっと意味のある配置だ。その一点において、師父や殿をはじめとする幕下の諸官の見解は一致している。
 師父や文和、荀イク殿や程イク殿は殿の時代の軍師だ。子桓殿の補佐をすることがあっても、彼が軍主となる時代には現役を引退しているだろう。師父は軍師の中ではお若い方だが、それでも子桓殿の軍師になるにはお年を召されている。
 俺が師父の代わりを務められれば最善なのだろうが、生憎俺にはそれだけの才がない。だから、「殿が信頼出来る次世代の軍師」という都合のいい存在を見出されるまで、俺に守役を任じた。その俺の配下ともなれば陣営ではそれなりの立場を得ることになる。功名心や名声欲に囚われている将にその役目は任せられない。その点、「つばめ」は心配がない。「つばめ」の俺への忠義は義理ではあるが肉親のそれであるから、邪念を抱くこともないだろう。
 だから、俺たちは「つばめ」に今の境遇を強いた。
 「つばめ」がそれに気付かないほど暗愚だとか盲目だとかは思わない。知っていて、それでも義を通す為に「つばめ」は沈黙している。
 軍勢を率いることもなく、諸将と鍛錬をすることもなく、ただ、俺の身の安全の為だけに存在する「つばめ」に張遼将軍を引き合わせる業の深さを量ろうとしてやめた。そんなことを知っても俺が「つばめ」にしてやれることに変わりはない。

「『つばめ』、君もそろそろこの幕下に馴染んだだろう。共に出陣される方のお顔を知っておくのも君の務めだ」
「私は殿さえお守り出来ればどなたとの出陣でも関係ありませんが」
「『つばめ』、その建前はもういい。後から帰順したのに張遼将軍の方が出世しているのが気に食わないのならば素直にそう言えばいいだろう」
「不服などありません。私は『殿と若君に請われて』この立場を得たと理解しておりますので」

 特定の箇所がやけに強調された返答がある。俺はその言外の主張を受け止めて、苦笑いを師父に送った。師父も「つばめ」の言わんとしていることを理解しておられるのだろう。
 苦笑いのまま、師父は師父の頭のすぐ上にある「つばめ」の頭を撫でる。

「そう。それなら私も心が痛まなくて助かるね。けれど不服がない、と真実証したいのならば、その眉間の皺をどうにかした方がいい」

 優しく、幼子に説くように師父が言った。その言葉と柔らかく頭を撫でる手に「つばめ」は僅かに苦痛を表す。

「郭嘉殿、私は子どもではありません」
「それは子どもの言い分だ、ということをあなたも知っているだろう?」
「殿、殿も私を子ども扱いなさるのですか」

 一縷の望みを託して「つばめ」が俺を見た。それを俺は一刀両断する。

「『つばめ』、俺も昔は齢を重ねればそれだけで大人になれる、と夢見たものだ」
「殿!」

 言外にお前はまだ子どもだと返すと即、「つばめ」から抗議の声が上がった。
 かつては俺も夢見た。時間の流れが自動的に俺を成熟させてくれるだとか、何もしなくても、何の意識もしなくても、息を吸うように自然に大人になれるだとか、そんなことを本気で信じていた。けれど、それは現実ではなかった。大人になるには相応の努力と経験が必要だ。そのことを俺は養父の死と師父の導きで知った。
 その結果、俺は一つの真実を手に入れている。

「安心するといい、『つばめ』。俺もまだ子どもの範疇にいる」

 俺が庇護するべきものは今二つある。朔と「つばめ」だ。その二つを余すことなく守りきるだけの力量は今の俺にはまだ備わっていない。備わっていないが、その為の努力を惜しむつもりはない。
 だから。

「俺も君と同じ土台の上だ。功を焦る必要はない。俺は師父に俺の速度で歩むことを許していただいた。俺も君に同じことを求めよう」

 君は君の速度で俺の為に仕えてくれないか。
 言った瞬間、師父の手のひらの下で居心地悪そうにしていた「つばめ」の動きがぴたりと止まった。憤慨しているのか、と思わせるほどの時間を置いて「つばめ」が小さく嗚咽するのが聞こえた。

「殿は、卑怯です」
「主にどういう点で?」
「そのようなことをお聞きになる時点で、相当」
「その返答を寄越せる時点で君は十分強いと俺は思うよ、『つばめ』」

 「つばめ」が手の甲で目元を拭い、それでもなお濡れそぼった眦で俺を射る。
 その眼差しの向こうはもう揺れていない。真っ直ぐに俺が映っていた。

「殿がお命じになれば何でも致します。ですが」
「が?」
「殿がご自身を侮られるのが悪癖だということも十分承知しております。その上で申し上げたいのですが」

 ですが、が二度続いた。俺の知る限り、「つばめ」は不必要に遠慮をする性質ではない。寧ろずけずけと正論を口にするあまり、人から距離を取られるような性格をしている。そして、「つばめ」は俺が心を配らなければ出来なかった「他人の顔色を窺わない」という難題を生来の素質で簡単に乗り越えた。
 そのことを俺も師父も知っている。
 だから。
 師父は「つばめ」の頭からすっと手を引いた。

「言いよどむ必要はないよ、宮遠殿」
「殿も郭嘉殿も、卑怯です。どうしてお二人とも私に『守れ』とお命じになるのですか」

 同じ守れでも、どうして守って死ねと仰ってくださらないのですか。
 力なく呟くように漏れた声に俺と師父は顔を見合わせて笑った。

「『つばめ』、その答えは君が一番よく知っているのじゃないか?」
「知りません」
「宮遠殿、つくづくあなたは孝徳の義兄弟だね。一見、正反対に見えてあなたたちはとてもよく似ている」

 只管に前を向こうとしているところも、自分の信念が一番大切だと臆面もなく言えるところも、見かけ通り頑固で譲るべき余地に気が付けないところも。

「本当によく似ていると思わないかい、孝徳

 晴れやかな笑顔で師父が俺を見る。半泣きの「つばめ」は不意打ちの現状を把握出来ない、という顔をしていた。この数年間の付き合いで、師父のこの笑みを一刻も早く消したいのならば、俺が不器用なりに返答を紡ぐのが一番効果があるということを知っている。俺は軽く溜め息を吐いた。

「師父のその抜かりなく両方に釘を刺していくところは確かに卑怯だと思います、俺も」
「褒め言葉として受け取っておくよ」

 守りたいものの為に命を賭すのは一見難しく思えるが、実は一番単純だ。大切だとか、命よりも重いだとか綺麗な言葉を吐いて、全部相手に押し付けてしまえばいい。俺は相手の為に何かを「してやった」と思い込めれば命を棄てることはそれほど困難ではないのだ。こんな乱世ならば尚更簡単な部類に入るだろう。
 けれど。
 残された相手がどうやってこの後生きていくのか、という点まで考えが及んでいない。命を懸けて守られたという負い目は誰が拭う。一生、守ってくれた相手やその周囲のものに後ろめたさを感じながら生き続ける苦悩は誰が癒す。
 誰かの命の上に成り立った安寧に心から浸れるのは後ろめたさのないものだけだ。
 俺は養父上の命の上で生きている。一生、そのことを忘れることはない。「つばめ」がかつて俺を非難したのは間違いではない。「つばめ」にとっては実父の命がかかっているのだ。それを奪う権利は誰にもない。それでも、「つばめ」は俺を容れた。俺を容れたが、未だに殿とは一線を引いているところがある。
 その殿は――曹操殿は腹心と実の息子の命の上で生きている。殿はその不幸を吐露されないが、それを殿に強いたのは「つばめ」だ。恨む相手と恨まれる相手が表と裏で重なっているこの不幸を何と呼ぶべきか、俺は知らない。
 知らないが、乱世にはそんな不幸が幾つも数え切れないほど転がっている。
 その一つひとつに拘泥し、自分が一番不幸だと主張することにどれだけの意味があるだろう。多分、そんなことをするより、乱世を終わりにする方が余程建設的なのだと、殿はそう思っている。師父も俺も「つばめ」自身ですらもそれを理解している。
 だから、俺たちはここにいる。
 ここにいて、一日でも早く泰平の世に出会えるように刃を振るっている。
 百人を救うために一人が犠牲になるのが正しいのかどうか。その答えに俺はまだ辿り着いていない。辿り着いていないけれど、歩き出した。全てを知らなければ戦えないというのなら、本当にそれが道理なら、この世に戦など起こらない。
 人は真理を手にしなくても、誰かを傷つけることが出来る、この世で一番愚かな生き物だ。

「『つばめ』、君がほしいのならこの首はいつでも君にやろう。君の父上を見殺しにしたのは他ならない俺だ。俺以外の誰も、その咎を責められる筋はない」

 それでも。

「君はこの幕下に降った。降将が評価されたいのならば、軍主の目に留まる働きをするしかない。その、機会を奪ったのは俺だ。隠しきれないほど不満があるのなら、或いは殿の采配に納得が出来ないのなら、君は俺の首を持って袁紹に降るといい」

 その小さな権利を「つばめ」は持っている。
 そう、言えば。

「だから殿は卑怯だと言うのです」

 そんな風に仰られて、すぐに御首頂戴する、などと言えるほど殿が憎くて仕方がないのなら、私はもうこの幕下にはおりません。
 静かに、自分自身に言い聞かせるように「つばめ」がそう答えた。眦の端にまた雫が盛り上がっている。子桓殿の前では気丈に振る舞っているが、俺の前では今まで通りの泣き虫の「つばめ」が残っているのが、俺には嬉しかった。その感想がやや歪んでいることは他ならない俺自身、よくわかっている。

「それで? 張遼将軍に会いに行く決心は付いたのか?」
「そんなことを一々決断しなければならないほどには子どもではありません」
「師父、張遼将軍の元から戻ったら、『つばめ』を姿見の部屋に連れて行ってもよろしいでしょうか」

 それは言外に「つばめ」を正式に幕下へ迎え入れる、ということを意味している。師父が大らかに笑って、好きにしなさい、と仰った。「つばめ」は意味がわからない、という顔をしているが、俺と師父のやり取りに「つばめ」なりに感じるものがあったのだろう。少し緊張感を帯びた顔で俺たちを見ていた。
 その躊躇を顧みることなく、師父は回廊を歩き出した。俺もその背を追う。

「『つばめ』、行こう」

 その先にある何かを俺も「つばめ」も子桓殿もいつかは手に入れる。
 そのときに揺らがない自己と出会えることを願いながら、大人になりきれない俺たちはずっと苦難の道を歩き続けるしかない。
 黄河を挟んでの長い長い戦いの幕は切って落とされた。
 天下を臨むにはこの戦いを制するしかないことを誰もが理解している。
 それでも。
 倍半分の兵力と糧秣で容易く勝てる戦でないことも同様に誰もが理解していた。
 白馬津で二虎将軍の二人ともが待ち構えていることを知るのは数日の後のことになる。
2014.09.13 up