Chi-On

Look Like a Shooting Star

世界を変える言葉

 世界を変えるには力が必要だ。どんな正義もどんな理想も非力なら現実の前では膝をつく。どれだけ美しくても、どれだけ慈愛に満ちていても関係がない。
 ただ力のあるものだけが理を説く権利を持っている。
 そのことを俺はずっと前から知っていた。
 知っていて敢えてその真理から目を逸らしてきた。
 数の有利を圧倒的に超越する関羽の蛮勇を目の前で見たときに俺はその真実を無理やりに突きつけられたような気がした。二虎将軍を二人とも一刀のもとに斬りつける、だなんて現実離れした現実が待っているのを知っていたら、俺は師父(せんせい)の命に背いてでも青臭い理想と留守居をすることが出来ただろうか。だなんて無駄なことを考える。
 答えなど最初からわかっている。
 それでもそんな虚妄を考えてしまうぐらいには関羽の戦勝は俺の中で衝撃的だった。
 袁紹軍の圧倒的優位を覆し、悠々と赤兎馬で血の海を横切る関羽の姿が俺の視界に映る。伝令としてこの事実を師父に伝えなければならない。「つばめ」が俺の隣で短く舌打ちするのが聞こえて、俺はやっとその根本的な問題を思い出した。俺を挟んで反対隣りにおられる張遼将軍が笑っているのを見て、この現実は俺の妄想でないことを知る。

「曹操殿が固執される理由がわかりましたな、殿」

 味方であればこれほど心強い方もそうはおられますまい。言って彼は俺の向こうの「つばめ」に視線を送る。挑発しているのだ、とすぐに気付いたが「つばめ」が応戦する気配を見せないのを確かめ、俺は苦笑を零す。

「将軍は以前よりご存じだったようにお見受けしますが?」

 その問いに知っているとも知らないとも答えず、張遼将軍は更に挑発を続ける。
 張遼将軍は礼節の整った方だ。若輩で未だ一人前とは言いがたい俺にでも、師父の副官だからというだけで丁寧に接してくださる。師父と将軍は性格的に言えばちょうど正反対に見えるが、戦に対する根本的な部分で相通じておられた。今までの曹操幕下の将とは一味違ったものの見方をされるので、変則的な師父と上手く噛み合っている。と俺は勝手に思っている。
 だからだろうか。
 彼は師父の弟子たる俺を試すような態度を取ることも少なくはない。
 そして、それは張遼将軍の俺への親愛の情念だということは一々誰かに説明されるまでもなく理解していた。

殿は虎牢関での戦をご存じか?」
「残念ながら。私はその頃、まだ人として不如意でしたので」

 反董卓連合が立ち上がり、ときの権力者である董卓を排除しようという戦いが起きたのは俺がようやくのこと読み書きに難儀しなくなった頃のことだ。その頃の徐州・東海は慢性的な飢饉に苦しんではいたが、まだ悲壮感とは別離していた。その束の間の平穏の中で俺はの養父に慈しみ、守られていた。養父の手のものが伝えてくる情勢の一つとして虎牢関の戦を知ったが、到底現実味を帯びたものではなかった。
 今から遡ること約十年前のことだ。
 俺と「つばめ」が養父にぬくぬくと守られていた。十年ひと昔、という表現が脳裏をよぎる。あの頃は俺も「つばめ」もこんな景色を見ることになるだなんて思いもしなかった。
 今、俺がこの景色を見ていると知れば養父はどんな顔をするだろう。そんなことを頭の隅で考えながら答えると張遼将軍の眼差しが不意に真剣みを帯びた。その鋭い眼光が見抜く先――「つばめ」も俺の答えに反駁したいという雰囲気を滲ませる。
 そして俺は何か墓穴を掘ったのだということを漠然と知った。

殿は時々不可思議なことを言われる」

 それは今ならば人として事足りておられる、という自負ですかな。
 その静かな問いに俺は今相対しているのが曹操幕下古参の将ではないことをようやく思い出した。師父がこの場におられたら、まず呆れられるに違いない。他人の顔色を窺うなとは言われたが、空気を読むなとは言われていない。寧ろそちらの方は積極的に気を配るべきだと俺自身常々思っている。思っているのにこの失態だ。俺が一人前になるにはあとどれだけの年月と経験が必要だろう。その遠景を思いやって俺は一人失笑する。

「董卓幕下、呂布幕下には聞こえておりませんでしたか? 私は舶来です」

 曹操幕下の舶来の名は有名だ、と以前文和に言われた。ただ、彼も俺とその名が一致するにはそれなりの手順を要したらしい、ということを俺はすっかり忘れていた。張遼将軍はこの幕下に降ってそれなりの月日を過ごしている。俺のことも当然知っている、と勝手に思っていた。だが、それは俺の自惚れだったのだろう。
 実際、張遼将軍は俺の出自を知らない。
 俺の出自を知らずに先の言葉を聞けば、傲慢に映る、ということを俺は完全に失念していた。人は何の労苦も伴わずに人として事足りることが叶うわけではない。だから、張遼将軍は俺の言葉を聞いて自信家だと評した。人として不如意「だった」、つまり現在はその地点を通り過ぎた。俺の言葉は暗に尊大な顔をした。
 だが、実際はそうではない。そんな度胸はまだ俺の中には備わっていない。俺はただ、人として生きる為の最低の条件をこの年になってようやく越したことを伝えたかっただけだ。「つばめ」はそれでは俺の意図が伝わらないことを助言しようとしたのだろう。むつりと不機嫌を顔に滲ませている。
 張遼将軍は俺の自己弁護も、「つばめ」の剣呑さも泰然と受け止め、少しだけ眼差しを緩めた。

「舶来――というと海の向こうからおいでになられた? 私は海を見たことがない」
「東海の更に向こうに大海があります。その遥か向こうに小さな島国があるのですが、そこが私の故国です」
「渡来してこられた、と?」

 問いに首肯した。張遼将軍が思ってもないものを見た、という顔をする。

「漢民族からすれば蛮族の一つなのでしょう。文字すら持たない未開の文化でした」

 匈奴や羌、烏丸と何も変わらない。認めるに値しない低俗な文化。その文化だけを持って俺はこの国に流れ着いた。養父はその俺にこの国の文化を一つひとつ丁寧に教えてくれた。「つばめ」はその経緯を知っている。「つばめ」が何年も前に当然のように習得した文化を、年かさの俺が苦心してどうにか身につけていく様を見るのはどんな気持ちだったのか、俺は結局義弟たちの誰にも尋ねることは出来なかった。
 それでも。
 の養父の教育手腕は優れていたのだろう。
 義弟たちは誰も俺を侮ったりはしなかった。そうしなければ保てないような矜持ならばいっそ捨てた方がましだと、俺も義弟たちも皆そう思っている。
 だから。
 「つばめ」は俺が自らを卑下することを嫌う。「つばめ」の中では俺の立ち位置は敬うべき兄であり、従うべきあるじだからだ。その、篝火にも似た俺の威光が弱まるのは「つばめ」にとってこれ以上ないほどの不利益であり、不興だ。それでも、「つばめ」がそれを言葉にするのを留めているのは、分を弁えているからだろう。
 一つを守る為に違う何かを犠牲にする。俺の謙遜で傷つく何かがある、という責任感が今の俺にはまだ少し重い。
 ただ。
 だからと言って二の足を踏んでいる場合でないのは他でもない俺自身が一番よく理解している。俺は話を元の位置に差し戻した。

「虎牢関の戦は伝聞ではよく知っております。関羽殿は張飛と二人がかりでしたが呂布と対等に渡り合ったとか。しかし、人の口を介した話は尾ひれはひれが付くのが常。誇張されている、と思っておりましたが、なるほど、真にそうであったのだとようやく実感しました」

 曹操殿が固執されるのも、道理。
 そう返すと張遼将軍は子どものように透き通った眼差しで俺を射た。瞳が昼光を受けて煌めく。無骨な方だ、と勝手に思っていたが、存外俺たちと変わらない感性もお持ちなのかもしれない。少なくとも、今の彼の顔はの養父を語るときの「つばめ」と何も変わらない。
 人というのは幾つもの顔を持ち合わせているのだな、と今更ながら知った。

殿。私はあの方の武と出会い、真の武を知ったのだ。敵も味方も超越して、私はあの方を尊敬している」

 尊敬している、と張遼将軍は言うが、このままときが流れれば彼と関羽はいずれ敵対するだろう。敵も味方も超越して、その武を追いかける。武を磨き、頂を目指し、その先でいつか関羽と刃を交えることがあれば、そのときには彼を倒し、張遼将軍は自らの武で最強の名を継ぐ。それだけの覚悟があるのだということは知れた。俺の隣でそれを聞いていた「つばめ」にもそれはわかったのだろう。「つばめ」が何かを言い出す気配を察し、俺は手のひらを上げることで制止した。

「張遼将軍、関羽殿が帰陣されます。関羽殿がこの後どうなさるのか、将軍にはよく分かっておいででしょう」
「袁紹軍の後衛に劉の旗がありましたな」

 大河のこちら側から見ても対岸の奥に劉の旗が棚引いているのは間違いなく見て取れた。渡河してきた袁紹軍の兵たちを薙ぎ払い、二虎将軍を首級に変えた関羽にそれが出来なかったとは思わない。戦果は十分。報恩も十分。そして、彼は帰るべき場所を見つけた。
 俺が関羽でもこの幕下を離れる決意をするには十分だ。
 袁紹軍の歩兵たちが慌てふためいて大河に飛び込んでいく。関羽と赤兎馬はそれを泰然と見守っている。戦いは終わった。関羽は殲滅を望んではいない。
 だから。

「敵は退きました。関羽殿はこの幕下を離れます。将軍も兵をまとめ、本陣にお戻りください」
殿はどうなされる?」
「私は関羽殿から首級を二つ、お預かりしてから鷹を飛ばします」

 それが俺の伝令としての役目だ。俺に兵をまとめることは出来ない。その役目は張遼将軍が負っておられる。
 だから。

「『つばめ』、行こう」

 俺は不服さを残す「つばめ」を促して、栗毛の馬首を翻した。河原に染み付いたどす黒い血痕を見ると戦の惨憺たる側面を直視せざるを得ない。これが戦だ。これが現実だ。わかっている。この暗澹たる光景を幾つも越えた先に俺や殿の思い描いた泰平がある。
 関羽はいずれ敵として俺たちの前に立ちふさがるだろう。
 張遼将軍は敵味方の別なく関羽を尊敬していると言った。たとえ敵であろうと尊敬していると言った。その高潔な理想がどこまで保たれているのか、本当のところ、俺はそれほど信じてはいない。
 軍師・郭嘉の弟子だからかもしれない。その立場で多くの人間を見て来た。益さえあればそれでいいと思っている人間は昨今珍しくはない。益を益足らしめる部分は個人差があるが、概ね一般的な損得と変わらないだろう。俺は師父の弟子であることに誇りを持っているし、師父が俺に策謀の為に死ねと仰ったら多分命を棄てることが出来るだろう。「つばめ」にしてもそれは変わりない。
 それでも。
 殿と師父が袂を分かつ日が来たら、俺はどうするだろう。
 国益の為に師父を討つことが出来るだろうか。思想の為に戦乱を長引かせることに耐えられるだろうか。
 多分、俺にはどちらも出来まい。それがわかっているから、確固たる意志で自らの理想を貫こうとされている張遼将軍が眩しくて、羨んでいる。疑うことで自分自身の均衡を取ろうとしている。そのことが誰かに指摘されるまでもなく分かっているから馬鹿馬鹿しくて虚しい。
 その程度のことで一々揺れているのは未だ人として不如意だからだ。そう思う反面、この究極とも言える命題に即答出来る器を持つものがどれだけいるのだと反駁する。
 軍師の弟子というのは何ごとにつけても面倒臭い生き物だと再認識して、ひとり前を向く。己の未熟さを恥じるのは戦が終わってからでも十分に間に合う。
 それに。

「『つばめ』、君がいてくれてよかった」
「私など何のお役にも立っておりません」
「何、ただの独り言だ。それが届く相手がいるというのは幸いだろう?」
「殿がそれでよいのであれば私は構いませんが」
「ではこの話はここで終わろう」

 俺は一人ではない。共に道を歩むことの出来る朋輩を持った。朔を守り、育て、「つばめ」と共に戦場を駆ける。師父の弟子として生きることを許された。これ以上を望めるだけの器ではないことを他でもない俺が一番よく知っている。
 瞑目し、そして瞼を開いた。血生臭い戦場には何の変りもない。
 ただ、関羽と赤兎馬だけが朱に染まる水面を見つめている。
 俺は懐から二枚の正絹を取り出し、広げる。「つばめ」が下馬し、その絹を預かって関羽の傍らに寄り、首級が顔良と文醜であることを確認してから丁寧にくるむ。白の正絹は見る間に紅に染まるが、誰もそれを精査しない。「つばめ」が自らの長槍の柄に二つの包みを結び付けて乗馬して俺の傍らに戻る。
 その一連の流れを見届けた関羽は参謀の伝令程度の俺に静かに目礼して戦場を離れた。
 関羽はその足で許まで取って返し、劉備の妻子を連れて今一度出奔した。殿は執金吾に目こぼしをするように指示した為、元譲殿が一日遅れで怒髪天を突く勢いで追跡に出たが、とうとう関羽に追いつくことはなかったという。
 袁紹は白馬津での思ってもみない痛手に出鼻を挫かれ、一旦兵を引いた。速戦を諦め、家臣団の元の主張であった持久戦に持ち込むのは想定の範囲内だったが、それでも戦がひと月、ふた月と長引くにつれ、こちらの陣営では少しずつではあるが士気が下がり始めていた。
 師父の伝令として前線に詰めていた俺や「つばめ」もその変化を確かに感じている。
 灰色の殿の鷹が俺のいる野戦砦の上空で高く鳴いたのは師父が予想した糧秣の限界を迎えるまでそう長くはない頃合いだった。
 俺は物見台から駆け下り、午(ひる)の光射す幕舎の前で鷹を下ろす。その逞しい肢に巻かれていたのは天子様より殿だけが使うことを許された紅の正絹だった。慌ててそれを解き、鷹を軒に留まらせる。物見台の下で待機していた「つばめ」が駆け寄ってきたので、厩から栗毛を連れてくるように指示した。どうして殿の直筆の文が届く。俺への指示なら師父を通すのが道理だ。殿がその序列を軽々しく無視したとはとても考えられない。曹孟徳というのは小さな采配一つ、その意味をきちんと捉えられる方だ。だから、殿が俺に紅を送ってくる以上、俺は相応の覚悟をもってそれを読むしかない。
 栗毛と黒鹿毛が幕舎の前に並び、「つばめ」が殿、と困惑気味に声をかけてきた頃には俺は自らが負った命運を両肩で受け止めていた。

「『つばめ』、今から官渡へ戻る」
「しかし、殿、間もなくこの陣の軍議が始まります」
「紅が来た。この幕下にそれよりも優先する色はないはずだ」

 「つばめ」の言う通り、間もなく定例の軍議が始まる刻限だ。今、この陣の主は荀攸殿で、俺は彼の采配を仰がなければならない身だ。それでも、紅――軍主である殿の指示は何よりも優先される。そのことを言えば「つばめ」は即座に理解した。
 そして「つばめ」は栗毛の手綱を俺に手渡す。自らもまた得物を手に黒鹿毛の背に跨り、俺の乗馬を待っている。

「朔、君も来るんだ」
「おん!」

 幕舎の前で蹲り、様子を窺っていた朔に声をかけると彼も俺の指示を理解したのだろう。懐に入るだけの小ささに変化する。それを確かめ、胸元を緩めると朔がぱっと飛び込んできた。殿の鷹もその空気を察し、俺の肩につかまる。猛禽と禽獣の両方を携える俺は猛獣使いにでもなった気分だ。そんな意味のない自虐をかき消し、俺は手綱を強く握った。
 慣れた動作で栗毛の鞍に跨ると陣の裏手へと向かう。この延津の砦には兵糧を運ぶ為の通路がある。曹仁将軍が糧秣を運ぶ部隊を警護する為にそこに詰めておられる筈だ。今日は輸送のない日だから、将軍に一言断れば安全に官渡にある本陣へ戻れるだろう。
 果たして裏門には曹仁将軍がいつも通りの険しい顔でおられ、俺たちは通例に従って下馬する。この延津の砦では間もなく軍議が開かれる、ということを諸将方は皆認識しておられる。その中、師父の弟子であり、この戦いの最前線の伝令として配置された俺が裏門から外出しようとするのに違和を感じない方はこの幕下にはおられまい。

「書記官殿、どうかなされたか」
「官渡より火急の報せがありました。私と宮遠将軍は本陣へ一旦戻ります」

 なるほど、それで。曹仁将軍がゆっくりと中空を見上げた。先刻、殿の鷹が飛翔した経路だ。将軍は今日は任がないが、それでも状況分析は怠っておられない、というのをその動作が物語る。
 曹仁将軍は俺たちの来た方――中央の幕舎を見やって問う。

「軍師殿には断ってこられたのか?」

 この延津における軍師は荀攸殿だ。荀イク殿、師父、文和は本陣のある官渡でそれぞれ策謀を巡らせている。打開策を講じるのが先の三人の務めで、荀攸殿は防戦に強いことから前線の指揮を任じられた。
 俺の所属は仮に荀攸殿の監督下になっており、砦を抜けていくのなら彼に一言断る必要がある。
 だが。

「礼を失しているのは承知の上。お断り申し上げる時間すら惜しい状況です」
「ならば軍師殿には某からお断り申し上げよう」
「ご厚意、大変ありがたく頂戴いたします」
「宮遠殿がおられるならば道中の危険はないと思うが、くれぐれもご注意めされよ」

 言って曹仁将軍はさっと右手を高く掲げた。門兵がそれを見届けて木戸にかかっていた閂を外す。俺と「つばめ」は再び乗馬し、そして曹仁将軍に小さく頭を下げた後は、馬を潰さない程度の全力疾走を始める。栗毛と別離したくなかった、という本音もあるが、延津に戻る足がなくなったのでは元も子もない。馬が――俺にも乗れる相性がよくて、脚の速い馬が幾らでもいるというのなら話は別だが、この国においては馬は大切な財産だ。そう簡単につぶすなどというのは軽率すぎると言えよう。
 疾駆すると延津の砦はあっという間に視界の後方に流れ去る。
 官渡には一刻ほどで到着した。少しずつ弱まる秋の日射しに俺たちの戦が深刻を極めそうになっているのを実感する。本陣に辿り着くなり鷹は天空に飛翔した。恐らく鷹匠のところへ戻ったのだろう。
 本陣の天幕をくぐる。その向こうでは空気が張り詰めていた。急ぎ本陣に帰参せよ、とだけあったがそれなりに逼迫した事態になっていることは予想していたが、この空気は何だ。殿と三人の軍師、そして守将である于禁将軍が顔を突き合わせて睨み合っている。一言でも何かを呟けばその眼光は一斉に俺を射るだろう。
 その、畏怖と不安が俺の胸中に去来する。
 それでも。

「殿、孝徳、延津より帰参いたしました」

 背後に「つばめ」、懐に朔を従えたまま怯懦に暮れることは許されない。
 俺は胸を張って幕舎の中に参陣の挨拶を響かせた。想定通り、十の瞳は一斉に俺を射る。その中で最も早くいつも通りを装ったのは軍主である殿だった。その切り替えに促されるように師父、荀イク殿、文和、そして于禁将軍がほんの少しだけ穏やかさを取り戻す。
 最初に口を開いたのは師父だった。

孝徳、中へ入りなさい」
「是(はい)、師父」

 俺は右手で持ち上げていた幕布を潜り、空間の内側へ入る。後ろの「つばめ」もそれに従って幕内に入った。それを見届けて殿が俺の名を呼ぶ。

、苦労だった」
「はっ」
「おぬしを呼んだのは他でもない。その才、今一度わしの為に使ってほしいのだ」

 俺が持ち合わせている才はそう多くはない。暗唱の才。書画の才。そして師父が言う根気強さ。それぐらいしかない俺が殿の戦に役立てることがあるとすれば、おそらくは暗唱の才だろう。
 だが、その才を使うにはまだ時期が早いというのが俺の見立てだ。
 この才が日の目を見るのは戦の勝敗が決する時――殿の勝利が確約され、天下に対し袁紹の不利を知らしめるときだ。その時が訪れる実感はない。それでも、殿の眼差しの奥には獰猛な光が宿っていた。

「と仰られますと?」
「郭嘉、あれを」
「許攸殿。待たせたね、あなたの望む条件がやっと揃ったよ」

 師父が両手を軽く叩き合わせる。その合図に従って陣屋の反対側から昏い眼差しの男が一人現れた。風体からするに文官なのだろう。それなりに気品のある立ち居振る舞いをしているが、許で見かけたことはない。
 その、見知らぬ高官らしい男は俺と師父とを交互に見て言った。

「貴殿が舶来殿か」

 訝しげに俺を射るその眼差しに怯むことは許されていないのだということを直感する。曹操幕下の舶来。張遼将軍はご存じではなかったが、この文官はそれを知っている。知っているのなら俺の風評も当然知っているだろう。
 そのうえで彼は俺に何かを求めた。
 失態は今、許されてはいない。

「いかにも。東海を越えて来た舶来、というのは私のことです」
「舶来殿は文言を諳んじるのに人並みならぬ才をお持ちだと伺ったが」
「ええ。万能ではございませぬが、そのような才を持っております」
「その書画の才も一際独創的であられる、と?」
「少しばかりは」
「で、あるのならば私の望みは叶えていただけそうですな、曹操殿」

 許攸と呼ばれたその男が落ち着いた顔で殿に声をかける。殿は苦笑し、最初からそうすると申しただろうと零した。
 そして殿が俺を上座へ手招く。「つばめ」が不服そうな空気を醸したが、俺はそれを無言のうちに留めて上座の師父の隣へ近づいた。

孝徳、紹介しよう。こちらは袁紹幕下、許攸殿だ」

 その肩書きに俺は一瞬瞠目する。袁紹幕下の文官が何の用だ。曹操軍と袁紹軍は今更和睦を申し入れてくるような関係ではない。どちらかを滅ぼすまで続ける、とお互い見定めた筈だ。その志が容易く揺らぐとは思えないし、曹操軍の糧秣は間もなく限界を迎える。そのときにはどれだけ口惜しい思いをしようと俺たちは一旦退かざるを得ない。袁紹はそれを知っているだろう。だから、大河の向こうで泰然と構えている。
 では、許攸は何をしに来たのだろう。
 結論が出ない。
 結論は出ないが、師父が俺を紹介した。礼を失するわけにはいかない。
 俺は拱手し軽く身を折った。

孝徳、と申します」
「許攸だ。貴殿の才は遠くギョウでも響いている。我が殿も――袁紹もこのような才を持てばもう少し箔が付いていたのかもしれんな」

 もう私がお諫めするにはこれしか手段がない。
 哀愁を湛えた眼差しで許攸が小さく呟いた。その、身を切られるような切実さに俺の鼓動が跳ね上がる。彼が求めているものの重さに気付いたからかもしれないし、そこに俺の未来の可能性を見たからかもしれない。
 許攸が何をしに来たのか、問う前に師父が口を開いた。

孝徳、許攸殿は袁紹軍の兵糧庫の場所を教えてもいい、と仰っておられる」

 何の前置きもなく、まるでそうするのが当然であるかのように師父が言葉を紡いだ。その、内容の重大さに俺は目を白黒させる。兵糧庫の場所を教える、というのは袁紹軍の基盤を崩すことになるだろう。兵糧庫の場所がわかった。わかったがそこから兵糧を出すのを監視するだけで何もしない、だなんてことはあり得ない。わかったのなら、俺たちがするべき行動は一つだ。その糧秣の悉くを焼き払う。士気を下げ、持久戦を不可能にする。それでいてこちらの兵糧はまだ残っているから、ここから先の戦は圧倒的に曹操軍の有利になる。
 それが袁紹に対する裏切りなのか、それとも最後の諫言なのか、俺にはわからない。
 わからないが、結果は一つしかない。

「それはこちらに降ってこられる、という意味に取ってもよろしいのでしょうか」
「大意ではそうなるだろうね。ただ、許攸殿はその為の条件として君を求めた」
「どのような意味ででしょうか」

 これを尋ねるのは愚問だと自分でもわかっている。
 わかっているが、どうしても信じられなかった。長年仕えて来たあるじに最後の諫言をするのに選ばれる責任の重さが俺の思考を阻む。
 師父は困ったように笑い、答えてはくださらなかった。
 代わりに師父の向こうの文和が言葉を紡ぐ。

「あんたに証人になってほしいのさ」
「何の」
「私利で袁紹軍を売るわけじゃない。大義の為にすべきことをした。袁紹はここで幕を下ろすのが一番綺麗に終われる。それを見届けて、あんたの才で後世に語り継いでほしい、ってところだ」
「わしがそれを約した。、おぬしであればわしの生死に関わらずそれを遂げるだろう、と許攸は思っておる」

 文和が過大評価を次から次へと持ち出した末に、殿がその後を継ぐ。
 許攸はその一連の説明を瞼を伏せて黙って聞いていた。彼が異を唱える様子もない。
 ということは彼の望みというのは文和たちの言うところで相違ないのだろう。
 ただ。

「買い被りです。私はそれほどの人格者ではありません」
「それに戦乱の世を上手く渡っていける保証などどこにもない、と君は言いたいのだね?」

 その通りだ。
 未だ軍師の副官として不如意な部分のある俺が五十年先を生きている保証などどこにあるだろう。たとえ生きていたとして、そのときに俺の言葉はどれだけの重みを持っているだろう。史書に残す文言に選ばれる可能性、というのを精査しようとして放棄した。そんなものは夜空を彩る星々の灯りよりなお小さい。
 師父はそれをご存じなのだろう。
 だが。

孝徳、先を安んじて考えないのは君の美点だね。常に最悪の可能性を考えている、小心者の君らしい心配の仕方だ。けれど」
「けれど?」
「私と、賈クと宮遠将軍と朔の庇護を受けている君にそう易々と死に急ぐ場面が訪れるとでも思っているのかな?」

 師父のその言葉にはほんの僅かだが確かに怒気が混じっていた。
 師父がいる。文和がいる。「つばめ」がいて、俺は朔を守らなければならない。
 そして。

孝徳、お前は私の守役だろう。そのお前が身を崩すのを私が黙って見ているとでも思っているのか」

 「つばめ」の横の幕が持ち上がり、その不機嫌な声が飛んできた。俺は弾かれたようにその音源を見る。子桓殿が静かに激していた。
 知っている。俺はちゃんと知っている。
 俺がこの幕下にいる為に多くの方が心を砕いてくださっていることを俺は知っている。だから、僥倖だとか天啓だとかそんな言葉で括ってしまうことがどれだけの不敬なのかも知っている。知っているが俺は何年経っても身の丈にあった自信を持つことが出来ない。何かの拍子で躓いて、つい周囲の顔色を窺おうとしてしまう。
 他人の顔色を窺うのをやめる。師父と交わした一番最初の約束を守ることすら覚束ない。
 それでも。
 それでも、俺は自分の道を自分で決めた。
 だから。

「許攸殿、私でよろしければ必ず、誓って、貴殿のお言葉を遺しましょう」

 俺は俺を評価してくれる方々の思いを踏みにじりたくはないから、胸を張る。強がりでもいい。ただの嘯きでもいい。それでも、張った胸に相応しいだけの矜持を持っていたい。
 だから。
 許攸が朗々と紡ぎだす口上を決して忘れないと誓う。殿が天下の覇者となり、いつか遠い未来に史書が編纂されるときに俺の言葉がそれだけの価値を持つ為の努力をすることを約する。
 世界を変えるには力が必要だ。
 許攸の持ってきた経ったひとつなぎの言葉には間違いなく、力があった。不義かもしれない。あるじを思うのなら沈みゆく船に残り、共に命果てるべきなのかもしれない。決して美しくはないと知りながら、許攸は離反を決意した。その決断に理があるのか、道に沿っているのかは俺たちの誰も知らない。ただ、彼の言葉には力があった。それだけのことだろう。
 夜の帳が辺りを包む頃、烏巣に火の手が上がった。
 大河を挟んでの殿と袁紹との戦はこれで戦局が覆り、三日と経たないうちに袁紹はギョウへ撤退した。殿は敢えてそれを追わず、河南に留まる。大敗に衝撃を受けた袁紹が病の床に就いたというのは荀イク殿の斥候が知らせて来た。袁紹には彼の軍を引き受けるだけの嫡男がいない。一族郎党での内部分裂が始まるのは目に見えている。だから、殿は敢えて華北へ進軍する時期を遅らせ、領内の穀物の収穫を優先させた。
 曹操殿と荀イク殿は戦局を覆す情報を持って内応してきた許攸に相応の人事を計らったが、許攸本人が隠遁を希望したので政の舞台からは消えた。
 幕下はそれで一旦落ち着き、やがて来るギョウ城の攻城戦への備えを始めた。
 世に言う官渡の大決戦は殿の戦勝が決まった。天下を競う大舞台へ殿が一番乗りで名を轟かせる。その意味も俺はまだ知らない。
2014.10.26 up