Chi-On

Look Like a Shooting Star

瞳の奥に秘めたもの

 俺の師父(せんせい)は軍師だがあまり多くを語らない。
 張り巡らされた情報網。一を聞き二十を知る炯眼。一挙一動が齎すその答えを見透かす観察力。その一つひとつを俺は誰よりもよく知っていた筈なのに、時々頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまう瞬間がある。
 今もそうだ。
 師父は何も仰られなかったが、最初から「それ」をご存じだったのだろう。そんな当たり前のことに何も気づかなかった。上手く取り繕えていると思っていた。浅慮で短絡的な俺のその欺瞞を師父はそれと知りながら、それでもただの一言も責めはしなかった。
 河南に冬が訪れ、黄河は雪で閉ざされた。殿と袁紹との長い長い戦は膠着状態を保ったまま、そして春を迎える。束の間訪れたその平穏に曹操幕下は力を蓄えた。夏が来る頃、荀イク殿の斥候が袁紹が病没したことを告げる。それでも殿は兵を動かそうとしなかった。
 領内の統治の強化。糧秣の備蓄。新兵の調錬に騎馬隊の増強。
 山積した眼前の課題を一つずつ、殿は確実に対処し、そして河北が揺るぎだすのをじっと待っていた。殿の展望の中には間もなく河北に動乱が訪れるのが映っている。師父の目にもそれは見えている。子桓殿も直感的なものでそれを認知している。そして俺もまた衰退の風が吹き始めたのを何とはなしに感じ始めていた。
 黄河を渡ってくる流民が増え始めた。というのが最初のきっかけだったように俺は認識している。それからしばらくして降将が何人か現れた。ギョウ城を挟んで血を分けた兄弟が睨み合っている、という報が届き、そして殿が重い腰を上げた。

「丕よ、待たせたな」

 約束通りおぬしにギョウ城の攻略を命ずる。
 開戦から一年に近いときが流れたがその命は今も有効だと殿が告げる。軍議の間にぴりと緊張感が走った。子桓殿はようやくその布令が聞けたと嘆息する。そして、彼は不敵に笑った。

「父よ、本当に私が総大将でよいのだな?」

 それは俺の耳に確認以上の意味を持って届く。子桓殿にとっては喉から手が出るほどほしかった軍功を得る機会だ。曹操幕下が天下に雄飛する。その最たる戦の采配を任される信を子桓殿は誰よりも正確に理解しているだろう。
 臆したわけがない。怖じているわけがない。
 子桓殿は最上の結果を望んでいる。それを手に出来ると自負している。
 だから。

「何だ、この期に及んでまさか怖じたなどとは言うまい」
「まさか。私がこの戦をどれだけ待ち望んでいたか、父が最もよく知っているだろう」
「では何だ。采配はおぬしに一任する。それではまだ不服か?」
「采配の内訳に軍師の指名も含まれている、という解釈でよいか」
「無論だ」

 荀イク、郭嘉、程イク、賈ク。好きな軍師を用いるがよい。
 曹操幕下の名軍師の誰を選んでもいいと曹操殿は明言した。それを言質と取ったのだろう。子桓殿は悪戯に微笑み、そして軍議の間に大きな爆弾を投下した。

「では父よ。私は孝徳の策を望もう」

 その想定外の返答に室内が紛糾する。子桓殿はその蜂の巣をつついたような大騒ぎなど見えていないかのように泰然と振る舞う。指された張本人である俺も、心のどこかでこの展開があるような予感はしていたから幾ばくかの余裕を持って受け入れる。上座に座った師父と殿だけが愉快そうに場の成り行きを見守っていた。

「曹丕よ、それは今少し早い話ではないか?」

 に用兵を任せるのは時期尚早だと元譲殿が一同の混乱を代表して明言した。元譲殿の隣の妙才殿は子桓殿の采配に身を任せる、と表情で語っている。俺の隣の文和は「こいつは驚いた」などと涼しげな顔で静観を決め込んだから、俺の肩を持ってくれる心当たりが一瞬で無に帰す。嘆息してその現状を受け入れた。子桓殿の目は座っている。決して彼がいっときの気紛れや冗談で俺の名を出したのではないということだ。
 白馬津や延津で先んじて従軍した俺に対する当てつけなどという幼稚なことでもないだろう。
 子桓殿は守役でも伝令でもなく、「軍師」としての俺を求めた。
 その意味が理解出来ないほど俺は愚昧ではなかったし、子桓殿も軽薄ではない。
 だから。

「夏候惇将軍、それは孝徳の献策を聞いてからでも遅くはない判断ではないのかな?」

 師父の提案も決して助け舟などという生易しいものではないだろう。
 それでも。
 俺は子桓殿の信を得た。それに報いたいと俺自身が思った。
 その単純で明快で率直な発想に従えばいい、と脳漿の奥で誰かが囁く。俺は、軍議の間に居並ぶ諸官の眼差しと対峙した。奇をてらう必要はない。誰もが納得出来る謀略など今の俺では望むべくもないことを他ならない俺自身が一番よく知っている。それでも子桓殿は俺を望んだ。だから、俺はその信に応えられる策を紡ぎたいと純粋に思った。

、お前の献策を聞こう」

 元譲殿の左目は下ヒで失われた。黒い眼帯の下には窪んだ眼窩しかない。それでも、その不在の筈の左目が俺の本質を見抜いているような錯覚に襲われた。あまりの覇気に俺はぐっと息を呑む。それでも。俺は答えなくてはならない。二度、瞬きを繰り返す。深く息を吸った。丹田で吐き出す。元譲殿の隣の妙才殿と視線が交錯した。その柔らかな眼差しに見守られて俺は胸を張る。表情一つ変えずに、文和が俺の背を誰にも見えない位置で叩いた。誰も助けてはくれない。それでも、俺の答えを待ってくれる人がいる幸福が俺の胸中を満たした。

「夏候惇将軍が仰りたいのはギョウには未知の危機が残っている、ということでしょうか」
「それもある。が、そもそもお前は一体どういう心算で進軍するつもりだ」

 子桓殿が大将なのは揺るがない。俺が軍師を務めるのなら「つばめ」も随行するだろう。それ以外の要素はまだ決まっていない。逆に言えば、俺と子桓殿がそれを決めるのだとも言える。
 そんな当たり前のことを元譲殿が問うているのではない。
 元譲殿が知りたいのは、俺がどんな戦を描いているかということだ。
 だから。

「袁譚、袁煕、袁尚。この三子がギョウ城の覇権を巡って睨み合っていることは夏候惇将軍も既にご存知のはず」
「荀イクの斥候もそのように報告したのだからそうだろう」
「ギョウ城には今も袁煕の妻子が残っております。それを口実に袁煕がギョウ城に入ろうとしていることは?」
「無論、承知している」
「では袁譚と袁尚の間の溝が最も深く、袁煕が弟と共謀していることは、いかがでしょう」
、俺はお前に戦況を順を追って説明しろと命じた覚えはないが」

 知っている。元譲殿も妙才殿も、この軍議の間におられる諸官は皆、俺の口にした事実を知っていることを俺も承知している。
 袁家三子の骨肉の争いを天下は皆固唾を呑んで見守っている。見守ることは誰にでも出来るから、それ自体には大きな意味はない。趨勢が決する頃に兵を挙げ、適当な理由で以って勝者に与するのが最も安全で利が大きい。
 だが、それは天下の覇者の戦ではない。
 華北四州を併呑する戦をするのなら、袁家三子、その全ての首級を揃えるのが最上だ。
 そして。

「私と子桓殿には策があります」

 多分、この大陸がどれだけ広くともこの手を打てるのは俺と子桓殿しかいない。殿でも師父でも叶わなかった。それを今から詳らかにする、と前置くと子桓殿が不敵に笑った。お前がただのうのうと暮らしていただけではないと証明して見せろと言われた気分だった。

「ギョウ城の攻略にときは必要ではありません。一昼夜。それで十分です」

 そして状況が許すのならば、俺たちは無血開城を目指している。
 そう明言すると軍議の間は再び紛糾した。寝言だとか妄言だとか、これだから若輩者は困るだとか異口同音に俺の言葉を否定された。生まれて初めてまともに献策をしたのに、こうも頭から拒否されると少し泣きたい気分になる。
 それでも。
 子桓殿の眼差しに宿った光と、俺の胸中に積もった現実だけは誰にも否定させない。
 軍師は否定される為の献策をすることもある。というのは師父の書記官を務めているから承知している。俺が今提示した言は捨て駒ではない。だからこそ、否定の言葉を一身に浴びるのは正直なところ耐えかねる。だからと言って泣き言で誤魔化して尻尾を巻いて逃げ出していい場面かどうかぐらいは幾ら俺が浅慮でも理解出来る。
 耳を切り裂く幾つもの反対意見をそれでも正面から受け止める。
 元譲殿が怒り心頭と言った憤怒の表情でさっと右手を掲げた。室内はそれを見届けて一斉に口を噤む。静寂ですら身を切るほどだと、俺は知る。
 
「その根拠のない自信はどこから来た」
「根拠ならあります」
「どこにだ」
「師父。あなたにはもう全ておわかりかと思いますが、私の口から申し上げた方がよろしいでしょうか」

 上座で笑みを張り付けて場の成り行きを見守っている俺の二人のあるじに問う。お二方とも既に俺の言わんとしていることに気付いただろう。俺も子桓殿もこのお二方を出し抜けるだなんて夢のようなことは期待していない。
 だから。

孝徳、その策は君の策だ。最後まで自分で責任を持ちなさい」

 そう突き放されることもまた想定の内側にある。
 射抜くような元譲殿の隻眼に対峙する。俺はもう一度息を大きく吸って、そして言葉を音にした。

「今、ギョウ城に詰めている将官は全てこちらに降る手筈となっております」

 その証文がこれに。
 俺は懐から灰色の布を取り出して広げる。そこにはかつて袁紹配下だった猛将の名が二十に少し足りないだけ記してある。華北にはもうこれだけしか力のある将はいない。諸官は俺の示した証文の署名を見て言葉を失っていた。それが袁家への同情か、或いは俺のような下官に調略されたことへの憐憫かはわからない。
 それでも。
 ここに名を記した十数人の将と彼らが率いる軍団の命運は俺の両肩に載っている。その重みは決して忘れていないし、この結果を得る為に本意を曲げてくださった方への恩義も忘れていない。
 だから。
 俺はこの策を現実のものとし、俺に命を預けると決断したことを後悔させないだけの働きをする責務がある。

、何をした」

 灰色の布とそこに連なる十数の名を睨み付けながら元譲殿が俺に問う。
 俺に呪術が使える筈もない。
 理を説きました。そう答えると元譲殿はますます不愉快そうに顔を顰めた。

「お前はこの半年、曹丕の守役としてこの官渡で過ごした。違うか?」
「相違ありません。私はこの砦から一歩も外に出てはおりません」
「ではなにゆえ、ここにこれだけの名が連なっている」
「理を説きました。私はそれ以外は何も致しておりません」
!」

 諸官の動揺と憤りのままに元譲殿が俺を叱責する。どんな謀略を使えばこの結果を出せるのかと問われているのは理解している。それでも、俺は軍師の弟子だからそう易々と手の内を晒すわけにはいかない。
 返答に窮していると上座の師父がふっと笑った。

「許攸殿だね?」
「是(はい)、師父。許攸殿には随分とご無理を強いてしまいました」
「なるほど、君も実に軍師の弟子らしくなったものだ」

 許攸殿は君の頼みなら一筆添えるぐらいのことは決して拒まなかっただろう。
 その言葉の通り、俺は無理を許攸殿にお願いした。彼の諫言を必ず歴史に残すと誓った。それと同じ口で俺は許攸殿を利用した。彼の方もそれぐらいは想定の範囲内だったのだろう。溜め息を一つ吐かれたが許攸殿は十数枚に及ぶ降伏勧告に丁寧に署名してくださった。それを袁家の将には見慣れた筈の許攸殿の鳩で何度かに分けて飛ばした。
 袁紹の後を継ぐ息子がいなかったというのが一番の理由だっただろう。内政も外交も無視して兄弟で後継を争っているだけの無実に飽いていたというのが多分次の理由だ。そして、河のこちら側で殿が堅実に政を推し進めていたのも影響している。そこに許攸殿からの――かつて彼らのあるじに諫言をする為だけに名を汚し、敵方に降った憎いが敬うべき知識人からの降伏勧告だ。諸将は二度か三度、文のやり取りをするとこちらに靡いた。
 但し、この水面下での約定には幾つかの限定的な条件が含まれている。
 子桓殿が軍主を務められることが一つ。俺が子桓殿の副官を務めることが一つ。
 そして。
 俺たち二人の武略と智謀が真に降伏するに見合うことを示せなければ、証文は焼き捨てられることになっている。
 その最後の部分まで、俺はこの場で詳らかにするつもりはなかったし、多分師父もその辺りは察しておられるのだろう。子細な降伏条件などを指摘される気配はない。
 ただ。

「次からはこういうことをする前に、『一応は』私に裁可を仰ぐのだね」

 そうすれば、失策であったときの泥をかぶってくださる。という含みがあって俺は苦笑した。師父はそういう方だ。特別な相手を作ることを嫌っている。いつか失うそのときに痛みを感じるのが嫌だからだ。それでも師父は認めた相手をその価値の分だけ受け入れるという人としての徳をお持ちだ。軍師の弟子として至らない部分の多い俺だったが、それでも俺が研鑽を積み、少しずつこの幕下にあって意味のある存在に変わろうとしているのを懸念されている。その心遣いに甘えきってしまいたくなかったから、俺と子桓殿は二人で勝手な謀略に挑んだ。

孝徳、それで? どなたに軍を率いていただくのだい?」
「李典将軍と楽進将軍に歩兵を二千ずつ。張遼将軍に騎馬を二百」
「そう。あくまでも君は無血開城出来る、と踏んでいるのだね」
「これ以上こちらの優位を示せば、城内では混乱が生じるでしょう。私は無益な戦をしたいとは思いません」

 派兵する戦力が少なすぎるのは俺も承知している。だが、一昼夜でギョウを落とすのなら速戦が求められる。だから、俺の献策は寡兵となった。俺が名指した三将はどなたも速戦に向いている。行軍に耐えられないだとか、不得手だとかいう問題はない筈だ。
 そこまで確かめて、師父はふっと表情を緩める。

「夏候惇将軍、孝徳の献策には利がある。と私は思うのだけれど?」
「郭嘉」

 弟子を甘やかすな、と強い叱責の意味を込めて元譲殿が師父の名を呼んだ。
 師父はそれぐらいのことでご自分の考えを改められる方ではない。
 師父の中で俺の謀略は意味を持った。だから、俺の策を支持する。ただそれだけのことなのだが、俺の中では最上の評価を持つ。その至福を味わうのは、俺の策が成功したのちのことになるから俺はまだ喜びと抱き合うわけにはいかないが、それはもう遠い未来のことではないだろう。

「丕よ、おぬしの望んだの策、確かに利があろう」

 師父の隣の殿が一同を抑える形で静かに告げる。孟徳。怒鳴り声が飛んだが、殿もそれしきのことで心揺らぐ方ではない。

「ギョウをそのまま手に入れられるというのなら、文句のつけようもあるまい。だが」
「策が成らなければ私は囚われの身となる、というのだろう?」
「そのとき、わしはおぬしを救わぬがよいな?」

 曹操幕下にあって殿の後継者たろうとしている子桓殿が最前線に出る、というのはそういう危険を十二分にはらんでいるということだ。子桓殿の首級には価値がある。それに目が眩む将もいるだろう。今、殿の後継者を奪えば天下の覇権はもう一度袁家のものとなると考えるものがいないとは誰も明言出来ない。
 そのことは俺と子桓殿との間で、もう数え切れないほど精査した。
 少しでもいい、その危険を遠ざけるだけの努力はした。
 失う将も兵も少ない方がいいに決まっている。俺が献策した布陣はそういう意味合いも持っていることを殿も師父もご存じだ。
 この三将なら、失策が決定した瞬間に最上の善後を考えてくれるだろう。その確信が俺にも子桓殿にもある。
 だから。

「無論。この首の意味も知らずに戦場に出るほど私は幼くはない」
、おぬしもよいな?」
「心得ております」
「それでもおぬしらはギョウを無血開城させると言うのなら、わしはもう何も言わん。おぬしらの信ずる通りにせよ」

 主命が下った。子桓殿の指揮官としての素養と、俺の策謀が意味のあることだという証明を懸けて河北での最後の戦いが始まることがここに宣言された。
 元譲殿はまだ幾ばくか不満の残る顔をされていたが、主命では背きようがない。舌打ちをして、それでも俺たちに向ける眼差しがほんの少しだけ緩んだ。


「何でしょうか、夏候惇将軍」
「生きて戻れ」
「是、必ず生きて再びまみえます」

 ふん、と鼻先で笑われる。それは俺たちが未だ力なきものだと認識されているからだ。元譲殿は師父にこういう遠慮をしない。俺もいつかそうなれる日が来ればいい、だなんて他人事のように願ううちに軍議は先へ進んだ。俺が名指した三将のそれぞれが任務を承服し、明日の日暮れとともに官渡を発つことが決定する。
 官渡の砦の一角に作られた俺と子桓殿の寝屋の前では「つばめ」が待ち構えている。命が下ったことを告げると「つばめ」は朔を残し、厩へと消えた。多分、「つばめ」には明日と明後日の段取りがあるのだろう。「つばめ」を伴って最前線へ出て行くのはこれが初めてだから緊張しているのかもしれない。
 そんなことを考えながら俺と子桓殿は進発後の打ち合わせの為に兵舎へと向かう。三将にお目にかかり、挨拶をすると彼らは三者三様の受け答えをした。
 あんたの策、いける気がするぜ。何かそんな予感がするんだ。
 と言ったのは李典将軍で、彼は俺に名指されたことを何とも思っていないようだった。
 この命に代えても若君と軍師殿をお守りいたします。
 と言ったのは楽進将軍で、彼ならば真実危機が訪れても身を挺して守ってくれるだろうことを予感した。
 殿はもう少し清廉な策を献じるかと思っていた。
 と言ったのが張遼将軍だ。清廉な策などない、と答えると「郭嘉殿の弟子というのもあながち間違いではなかったようだ」と闊達に笑い飛ばされ、そこまでが彼の意図した受け答えであることを察したときに、俺は幾ばくかの不安に襲われた。ただ、彼はそれもお見通しのようで「人を守る策というのは上策だ。恥じることはない」と背中を押されてしまった。
 そんな一日があっという間に過ぎ、俺たちは黄河を渡り、華北の地を踏む。
 殿があれほどまでに希っていた華北の地を最初に踏むのが俺たちだというのはそれだけで何となく誇らしく思えた。夏が終わろうとする寂寥感に満ちた荒野を駆け、ギョウの城下へと踏み入れると、そこは真実廃墟となる一歩手前でどうにか生をつないでいる様子だった。城門は打ち破られ、既に城郭としての所以を失っている。官吏らしき男もいるにはいたが、俺たちの進軍を止めるでもなく喜ぶでもない。ここには終焉しか残っていないのだろう。大通りを抜け、城の正面へ向かう。その道中、予め内応していた袁家の将が少しずつ合流した。李典将軍と楽進将軍は城郭の外で待機している。今城内にいるのは子桓殿と俺、「つばめ」と張遼将軍の二百だけだ。降る条件を満たせないのならすぐにでも首級に変えてやろうと言わんばかりに袁家の兵が俺たちを攻囲する。
 その威圧感など微塵も感じさせない端正な顔で、子桓殿は下馬し、正殿に向けて宣言した。

「旧時代の栄華は見届けてやった。城を明け渡せ。そうすれば命までは奪わん」

 子桓殿の居丈高な宣言に攻囲はどよめく。それを泰然と受け止め「それとも今更私に降ることを拒む正当な理由でもあるのか」と続けるところに俺は彼に覇者の風格の一端を垣間見た。
 袁家はもう長くはないだろう。攻囲している将は皆それを切実に感じている。降将となることを拒むだけの気概はもうない。だた、それでも、何の抵抗もせずに諾々と受け入れることが出来ない程度には彼らにも袁家の将としての自負がある。子桓殿はそれを承知の上で逆なでした。
 その、どよめく攻囲を抑えたのは思ってもみない声だった。

「静まりなさい」

 正殿の遥か高みからその凛とした声が響く。

「あなた方は誇り高き袁家の将の筈。侵略者に大きな顔をされて怯えるなど私が許しませんわ」

 それとも、あなた方は私にその首を差し出すとでも仰るの?
 袁家の家色である金色を身に纏った美女が正殿の正面に立っている。そこから侮蔑の眼差しで俺たちを見下ろしていた。その、あまりにも堂に入った立ち居振る舞いに彼女が敗将の妻子であることを忘れそうになる。あそこにいるのは誰だ。瞬間的に記憶した袁家の家系図を手繰る。女性の容貌は多くは語られない。それでいて、俺の脳漿にはその情報がそれなりに詰まっているのは明らかにあるじである師父の所為だ。師父は大陸全土の美姫を記憶しているらしい、ということを知ったとき、俺はこの方もある意味ではとても記憶力に秀でた方なのだなと妙に感心したことをまだ忘れてはいない。
 その、あるようでない知識を探る。袁家には美姫と名高い女性が一人いる。袁紹が次男・袁煕の妻、甄姫。彼女がその傾国の美女なのだろうと疑う必要がないほど、正殿の前に立った女性は美しく、気品があった。
 その傍らに立った痩身の将に見覚えがある。俺の認識が間違っていなければ、彼は子桓殿に降ると書した将の一人――張コウ将軍その人だ。延津でも何度か彼の姿は目にしている。その、張コウ将軍と二人、供も連れずに正殿の前へ出てくるからには抗戦を選ぶつもりがないのだろう。
 それでも「つばめ」と張遼将軍が子桓殿の前後を固める。
 二人の背中を制したのは子桓殿ご自身だ。

「お前たちは下がれ」
「だが、曹丕殿」
「総大将の命だ。下がれ」

 子桓殿の身を案じた張遼将軍が反駁する。子桓殿はそれを再び否定して前へ――正殿に続く階段へと向けて一人歩き始めた。「つばめ」と張遼将軍が慌てて後を追おうとする。それを眼差し一つではね付けた。なるほど、流石は殿の子だ。覇気が違う。
 攻囲していた袁家の将がその道程を阻もうとする。それを切り開くのは多分、俺の任だろう。そう判じ、俺は息を吸った。
 そして。

「袁家諸将の方々、道を開けていただきたい。我があるじは段上の方に目通りを所望されている」

 害意はない。ただ会って言葉を交わすだけだ。女性相手に一方的に首を刎ねるような真似もしない。それを俺が保証する。軍師の言葉は武器だ。だから俺はそれを行使する。疑うのならば俺を捕えればいい。敵地のど真ん中に少数で乗り込んできた時点で、多勢に無勢だ。今更、袁家の諸将を卑怯だの愚劣だの何だのと嘲るつもりはない。

「この首に懸けて。方々の案じておられるようなことは起こりえないと誓おう」

 だから今は道を開けろと言う。
 俺の言葉が届いたのか、それとも段上の甄姫殿に臆したのかはわからないが、子桓殿の眼前に道が出来る。子桓殿はその人垣の合間を悠々と渡った。そして、何の合図も取り決めもなかったが、子桓殿が階段を上り始めるとその道は綺麗に消え、元の通りに攻囲された。
 それとは引き換えに張コウ将軍が階段を降りる。
 どうやら先方も一対一での対話を求めていたらしい。段を降りきって攻囲の一部に紛れ――ようとしたがその体躯では到底混ざり切ることもなく、彼の表情はよく見えた。
 張コウ将軍とは都合、文を三度交わした。最初の返事はつれなく、武人としての美学が語られていた。だから、俺はこの方が話せばわかる将であることを知った。二度目の返事は俺の美学を問うていた。だから、俺は俺の生き方を答えた。その文への返答はなく、証文に小奇麗な字で張コウの名があった。だから、俺は俺の美学が彼の中でどういう処理をされたのかを知らない。知らないが、どうしてだか、俺と彼との間には一種の信頼関係があるだろうことを疑う気になれなかった。
 あなたが殿ですか、と眼差しが語る。それを眼差しで受けた。この方は曹操幕下にあって輝く将だ。その確信が俺の眼差しを輝かせた。
 そんな俺たちのやり取りなど知らず、段上で二人だけの駆け引きが始まる。
 四半刻ほどお二人は言葉を交わされ、子桓殿が一人で段を降りてこられる。
 そして。

「宮遠、この戦の成否はお前に託すこととなった」
「子桓殿、なにゆえ『つばめ』なんだ?」
「今からそれを詳らかにする、とあれは言っているな」

 意外だという顔をしたのは曹家袁家双方変わりなく、それでも俺たちは一様に頭上から降ってくる凛々しい言葉を待った。

「みなに尋ねます。みなは袁家と曹家、どちらに仕えることを望みますか」

 突然の問いに袁家諸将は返答に窮している。どちらに仕えることを望む、だなんてもう何日も十何日も前に彼らは意を決した。そのことを甄姫殿は子桓殿から既に聞いただろう。聞いただろうに敢えて問う。自らの耳でその結論をもう一度聞くことを望んでいるのだと誰もが理解した。
 甄姫殿は袁煕の妻だ。彼女を前にして袁家を見捨てる、という決断をする気概がないのならここで曹家の嫡男である子桓殿を捕えよと言っているのと大差ない。
 誰か一人が口を開けば、その後に続くのは平易だと言える。
 その、最初の一人になるのはやはりというか、道理というか、俺と対峙し華やかな笑みを浮かべたままの張コウ将軍だった。

「姫、私はここにおられる曹丕殿に処遇を委ねようと思っております」
「それは私や袁煕様に対する背信だということはあなたも理解しているでしょう?」
「ええ。ですから、姫が真実袁煕様に添い遂げる、と仰るなら私は今から姫の敵になりましょう」

 私は私たちを見捨て、自らの利のみを貪る方の為に命を散らすことが出来ません。
 はっきりと、そう明言して張コウ将軍は子桓殿の前に歩み出る。そして拱手し、最敬礼を取る。彼は今、その言動で以って子桓殿に忠節を誓うことを示した。
 周囲の袁家諸将はそれを固唾を呑んで見守った。
 そして。

「甄姫様、姫様のお気持ちはお察しいたしますが我々は我々を拾ってくださる方の為にこの命を使いとうございます。晩節を穢さず、美しいまま幕を引く。それも我々家臣の務めではないでしょうか」
「お黙りなさい! 詭弁など不要です。みなが殿を見捨てると申すなら私は一人でも殿の為に戦います」
「姫!」

 俺たちを攻囲していた袁家諸将が異口同音に張コウ将軍を支持する。そして俺は知った。俺が許攸殿の名を使って内応者を作らなくても、この国の家臣は正しい判断が出来ただろう。俺の策はそのきっかけを作っただけに過ぎない。手のひらの上で思うように転がせている――だなんて俺にはまだ夢のまた夢だ。
 それでも、俺の策は功を奏した。
 ギョウ城の守将の悉くが曹家を支持した。つまり、この城は間もなく誰一人傷つくことなく子桓殿のものになる。
 甄姫殿は多分聡い方だから、その結末がもう見えておられるだろう。
 それでも、妻としての義を全うしようとされている。見かけだけではない。真実美しい方だと感服した。
 その、俺の一時の気の緩みを見抜いたのかどうかはわからないが、甄姫殿は震えることのない毅然とした声で告げる。

「こうなるとわかっていて私は何もしないままでした。その咎も誰かに罰せられなければならないのは明白。ですから、曹丕殿。先のお約束を果たしていただけますかしら?」
「無論。私に拒む理由もなければ」

 言って子桓殿が戸惑う俺たちを一喝する。

「聞け。ここにいる姫君は私たちが真実天下を擁するに足るか、自らの手で確かめたいと言っている。ゆえに――宮遠」

 子桓殿の眼差しが「つばめ」を射る。その眼差しには一片の曇りもない。
 俺と「つばめ」で必死に隠している真実を知っているのだということがわかった。わかってしまった。「つばめ」はまだそれに気付いていない。

「私がどうしてそこで指名されねばならぬのです」
「お前が曹操幕下唯一の女武将だからだ」
「子桓殿!」

 半ば叫ぶようにしてその名を呼んだ。
 お前は知っていただろうと眼差しで非難される。知っていた。知っていたとも。三、四年離れていたぐらいで家族の見分けが付かなくなるだなどということはあるまい。少なくとも俺にはわかった。「つばめ」は燕(エン)ではない。燕の双子の妹で家四子・鴎(オウ)だ。男と女の双子は似ないのが普通だ。それでも、二人とも中性的な面立ちで年を重ねれば似通った美男美女になるであろうことは誰もが想像した。
 だから最初は「つばめ」が本当に燕なのかと思いもした。燕と同じ系統の具足を身に着けていたし、槍術の型も本当に燕に似ていた。それでも、「つばめ」と過ごす時間が長くなればなるほど、俺の中の疑惑は確信に変わっていく。泣き虫で怒りっぽいのは燕ではなく、鴎だ。不安を一人胸の内に秘め、奥歯を噛み締めることで耐えるのも鴎だ。
 知っていて、それでも燕を名乗る「つばめ」に問い質すことは出来なかった。鴎が燕になりたいのなら、真実彼女が兄の代わりとして生きたいのなら、俺がしてやれることは限られている。
 黙認だ。
 気付いていない振りを通す。「つばめ」を燕として扱う。の血縁者を知っているものはこの幕下には俺一人しかいない。それを利用した。
 誰にもそれは見抜かれていないと思っていた。俺の――軍師の弟子の守将など権力闘争からすれば埒外の存在だ。誰にも迷惑はかけていない。その判断が甘かったということを眼前に突き付けられて俺は狼狽した。
 俺は俺の守将を守らなければならない。たった一人の配下ですら守れない官に何の価値がある。たった一人の家族も守れないで、一体どうやって国を守ろうと言うのだ。
 仮とはいえ、あるじである子桓殿の采配を否定しようとしている俺の愚を、俺がこの手で守ろうとした「つばめ」自身が攻囲の前へ進み出ることで止める。「つばめ」は全ての責を一人で負おうとしている。

「『つばめ』、君は燕だ。間違いない。俺が保証する。だから――」
「殿、私は偽りを申しました」
「『つばめ』、口を噤むんだ」
「いいえ、殿。これ以上殿にご迷惑をおかけするわけにはまいりません」

 若君は女の私に何を望んでおられるのでしょう。
 俺の制止など聞こえなかったと言わんばかりに「つばめ」が言う。刹那、俺の脳裏には別離の二文字が明滅する。また、俺は何かを失わなければならないという予感が俄かに湧いて、俺は強か打ちのめされた。
 子桓殿は前に進み出た「つばめ」を従え、再び開けた道を通り、段上へと赴く。
 甄姫殿がそれを見届け、状況に取り残された俺を説き伏せるように言葉を続ける。

「女だからというだけの理由で戦をただ黙って見ているだけ。というのにはもううんざりしておりますの。曹丕殿のが仰るには曹家には武器を持って戦う女性がおられるとのこと。その方の武が真実、力であるのなら私はそれに従います」

 ですから。

「宮遠殿。あなたが私に勝っていただけますこと?」
「あなたが私と戦われるというのか」
「女同士です。手加減はなさらないでくださいね」

 言って甄姫殿は鉄笛を取り出した。華やかな宝飾の施された笛だったが、見た目に騙されると痛い目を見る。あれは暗器だ。幽興殿の講義で耳にしたことがある。鉄笛は音の波すら敵を薙ぎ払う力に変える、と。
 「つばめ」は槍術の使い手だから間合いの広さでは若干の優位性がある。それでも音が形を成すのなら、油断は許されていない。未知の武器と戦う緊張感が「つばめ」に灯った。子桓殿がそれを見届け、「それ」は私のものにするゆえ、不必要に傷つけることは許さぬ、とのたまってからゆっくりと段を降りた。
 そして。

「では、参りますわよ」

 子桓殿の足が段を降りきるのを待って、段上の二人は得物を構え――そして、激闘が始まる。俺には武はない。だから、武で勝敗を決するという二人の間に割って入ることは出来ない。「つばめ」が己の武と生まれ持った性別に誇りを持ち、その矜持の為に戦うのなら、俺が口を挟むべきでないことも知っている。況して、「つばめ」が勝てば甄姫殿はこの城を明け渡し、諸将の降伏も認めるというのなら、個人の感情など拘る理由にならない。
 俺は軍師として派兵された。「つばめ」はその守将として随行した。
 勝利を得る条件に俺たちの存在が望まれるのであれば、全力でそれに応えるのも信の一つだ。
 わかっている。俺たちがやっているのは碁打ちではない。本物の戦だ。子桓殿の両肩には数え切れないほどの人の命が載っている。
 それでも。
 口を開けば子桓殿を責めてしまいそうで、俺はただひたすらに唇を噛み締めることしか出来なかった。
 子桓殿と俺、張遼将軍とその配下二百。張コウ将軍をはじめとする袁家諸将。数多の視線が見据える先で、二人の女性が武を競う。
 その張り詰めた静寂の中、袁家の兵が一人、そっと俺の隣へと歩み寄り耳打ちする。

孝徳、君は相変わらず一人で全てを背負おうとしているのだね」

 聞き慣れたその声に俺は弾かれたように隣を向く。そこには兵卒の衣を纏った師父がおられた。何をなさっているのです、と問う前に師父の見かけほどは美しくない武人の指先が俺の唇を遮る。

「宮遠殿のことは私も曹操殿も承知していたよ。君に偽りを求めるのは多分この世では宮遠殿ぐらいのものではないのかな」

 愚直な俺に輪をかけて愚直な「つばめ」。その「つばめ」以外は真実を知りながら知らぬふりを通していた、という秘密の開示に俺は目を剥く。殿も師父も、元譲殿も妙才殿も、荀イク殿も文和も。子桓殿も、多分朔も。皆知っていて、俺の欺瞞を許してくださっていた。家族を守りたいという気持ちを我がままを認めてくださっていた。
 多分、甄姫殿もそれをご存じだろうね。
 知っていて、敢えてそれを詳らかにした。
 何の悪意があって、と瞬間思う。
 そして、俺もやっとその結論に到達した。
 彼女は――甄姫殿は男として生きる「つばめ」の武を認めた。女を捨て、武の道に生きる「つばめ」の存在を評価した。それでも。甄姫殿は女として戦う矜持があるから、「つばめ」の武が男であろうと女であろうと揺るぎないことをこの場で示そうとなさっておられる。
 そして。
 師父はたったおひとりで、供も連れず、俺にそれを知らせる為だけに袁家の兵に埋伏しておられた。
 その信の何と重いことか。師父の纏う、華やかさの欠片もない防具が俺の視界でじわりと滲みだす。
 知っていた。知っていただろう。郭奉孝というのはそういう方だ。
 何にも興味がない顔をしておられる。謀略に浸り、酒を浴び、美姫を愛で、そしてそれ以外には何の価値もないと豪語する。それでも、師父の世界の片隅に俺がいることを俺は知っていただろう。疑ったこともない。俺を認めるというのも謀略の一つだと嘯いたこともある。それでも、俺は知っていた。師父が真実「俺」を認めているということを。
 女性には特別の配慮をする師父に――「つばめ」が女性であることを知っている師父に俺の守将を任じさせたのは誰だ。俺だ。俺に力があれば、師父はそんな身を切るような真似をしなくても済んだ。それでも、師父は「つばめ」を俺の配下に任じた。俺に殺気を放つ「つばめ」が裏ではそれを望んでいたからだ。

「師父、俺は――」
孝徳。見届けるのもまた君の言う信の一つだ。もう勝敗は決する。最後までその目で見届けなさい」
「是、師父」

 師父の言葉の通り、甄姫殿の鉄笛が弧を描き、弾き飛ばされる。「つばめ」は息一つ乱さず、得物を失した甄姫殿に穂先を突き付け、言う。

「姫君、これであなたは満足か」
「ええ、十分です。では私はお約束通り、あなたのあるじに降りましょう」

 皆も見届けたでしょう。曹家は袁家よりも勝る武をお持ちの様子。降るのに決して恥じることなどありませんわ。
 その宣言に俺の周囲はどっと湧く。ギョウはこうして無血開城された。
 子桓殿の命を遵守したから甄姫殿はかすり傷程度のしか負っておられない。役目は終わったとばかりに「つばめ」が段を降りてくる。それと入れ違いに子桓殿が段を上り、そして、彼は甄姫殿をその両腕で確かに抱き留めた。

孝徳、誇りなさい。君と曹丕殿の策は価値のある策だった」

 君をいつまで私の副官に繋ぎとめておけるのかな。ほんの少し、師父の眦が切なさを帯びる。師父が望むのなら俺はいつまででもその任を受ける、ということはもう随分昔に宣言した。それを疑っておられるのではない。それでも、師父は俺の向こうに将来の一端を見た。
 それをこの場で取り沙汰すよりも早く、俺が師父に問わねばならないことがある。

「師父、『つばめ』はどうなるのです」
「どうにかしてほしいのかい?」
「軍法会議にかけるのなら、俺一人にしてください。俺は『知っていて』、『つばめ』を用いました。『つばめ』に非はありません」
「それはどうだろう」

 その主張は多分、通らないのではないかな。
 師父が困ったように笑う。その視線の先に叱られた子どものように打ちひしがれる「つばめ」の姿があった。

「『つばめ』」
「殿、私の非は私が負います。殿は『何もご存じではなかった』」

 けれど、願うことが許されるのなら。「つばめ」は「つばめ」のままでいることを望んでいる。それは問うまでもなくわかる。
 だから。

「配下の非は上官の非だ。君もわかっているだろう、『つばめ』」
「殿、私は――」

 もう「つばめ」と呼ばれるだけの権利はないのだと彼女は頑なに否定する。その自己否定を見ていられなくて、俺は師父の隣から駆け出す。俺よりも余程がっしりとした体躯の「つばめ」を抱き留めて、そして、俺は言った。

「君は『つばめ』だ。君はもう燕である所以も、鴎である所以を失っている。そうだろう? 宮遠将軍」

 あのとき、命を棄てると言った彼女に幼い子桓殿は言った。一度死んで新たに生まれなおせ。その言葉をもう一度「つばめ」の耳に吹き込む。
 燕でもなく、鴎でもなく、俺は「つばめ」を求めているから真実などどうでもいい。偽りなど最初からどこにもなかった。俺は俺の身を案じる宮遠将軍を欲している。
 そう、言えば俺の頭上で雨が降った。
 怒りっぽくて泣き虫の「つばめ」は俺の為に生きていてくれる。それ以上の意味はまだ求めない。と言えば俺の後背で師父が悪戯に笑う。

孝徳、それは求婚の申し入れかな?」

 まだ、ということは将来はそれ以外の意味を求めるという意味だろう?
 鮮やかに笑う師父の思ってもみない反論に俺は顔を真っ赤にしながら己の身も立てられない分際で妻帯しようとは思っておりません、と「つばめ」から身をはがし、何とか反駁すると今度は別の方向から追い打ちが飛んでくる。

殿の軍略はこの戦で示されたと思っているが?」

 違ったのであろうか?
 張遼将軍がいわくありげな笑みを浮かべて俺の肩を叩く。
 そして。

殿の軍略。宮遠殿の武勇。お互いを支え合うのにこれほどまでに美しいものもありません。ああ、何という素晴らしい愛!」
「張コウ殿もそう思われるか」
「そうだね、やはりここは曹丕殿の婚礼と孝徳の婚礼を共に行うべきだと曹操殿にお願いしておかなければならないだろうね」
「師父! 将軍方もからかうのはおやめいただきたい!」

 その反論までが予定調和だったのだろう。
 まだ半べそをかいている「つばめ」と、耳まで真っ赤になった俺の二人を置いて、ギョウの城下は祝福の空気を帯びる。勿論、俺にではない。子桓殿と甄姫殿のお二人への、だ。
 甄姫殿が子桓殿へ「我が君、とお呼びいたしますわ」と声をかける。
 それを合図に兵たちは城下へと消えていく。正式に降伏する為の準備に入ったのだ。投降の証である甄姫殿は子桓殿に導かれて乗馬する。それを見届けて、俺は師父と二人栗毛の背に乗る。
 師父は何も仰られなかったが、多分俺の成功を寿いでくださっているだろう。
 ギョウから官渡へ戻る。道中、ギョウの近郊で潜伏していた袁煕が捕縛されたとの報せがあったが甄姫殿は顔色一つ変えることはなかった。彼女を含めた血族の全てを見捨てた男には興味もない、という意味なのだろう。
 戦乱の世を生きる女性の強かさを改めて知り、そして、帰り着いた官渡では「つばめ」の性別について不問に処してくださった殿の器の大きさもまた改めて知った。
 四世三公の袁家が没し、華北は曹操殿の所領となる。残る華南へ進軍するにはまだ時期尚早で、もうしばらく内政の拡充を続ける必要があるだろう。山積する問題を一つずつ解決しながら、曹操幕下は少しずつ大きくなっていく。
 その立役者の一人である師父が、俺たちの誰にも明かしていない秘密があることを知るのはまだもう少し先のことになる。
2014.11.23 up