Chi-On

Look Like a Shooting Star

永遠の別離

 決断を迫られるのはいつだって唐突で、ずっと以前から準備をさせてもらえる機会はそう多くない。
 故国から大陸へ旅立ったときも、養父と死に別れたときも、俺が師父(せんせい)の弟子になったときも。成り行き任せで受動的だと詰られるかもしれない。それでも、俺はその場その場で最善を描いてきたつもりだ。その「つもり」の裏に数え切れないほどの後悔があるが、それは俺一人だけに特別に与えらえているわけではない。誰もが同じように悔い、嘆き、悲しんで苦しんで、それでも生きていかなくてはならないから最善を信じて割り切ろうとする。特別な人間などいない。それと知っても俺にとっては俺だけが特別だ。
 それはきっと師父にとってもそうなのだということを、俺は一度たりとも考えたことがなかった。師父ほどに世界が広くとも、それでも後悔があることを鑑みることが出来なかった俺は多分一生「不肖の弟子」のままなのだろう。
 殿が本拠を許からギョウへと移し、政は事実上河北で行われるようになったのに伴い、師父と俺も城下に新しい屋敷を賜った。許には軍勢の一部が駐屯するのみで、主力の殆どがギョウにいる。
 次の春が来て、雪解けになれば師父と文和の二人は袁家の兄弟を討伐しに出陣することになっていたが、俺と子桓殿にはまた留守居の命が下っていた。子桓殿はそれに不服を感じているらしく、連日俺は呼びつけられて碁を打っている。
 この度正式に奥方になられた甄姫殿とも毎日顔を合わすので「また貴方ですの?」と少々うんざりした顔をされるのだが、それも習慣のようになり、この三日ほどは溜め息を吐かれるに留まっている。その現状を客観的に表現すると甄姫殿は諦められたのだろう。子桓殿の妻になるということは子桓殿と共に俺という配下を持つということだ。
 小言がなくなった代わりに溜め息を吐きながら彼女は「つばめ」を連れて行っては着せ替え人形のようにして遊んでいる。「つばめ」は最初の頃こそそれに抵抗していたが、元々順応力は高い。昨日辺りから甄姫殿とは割と上手くやっているから気に病まないでほしい、というようなことを言っていた。
 朝一番に子桓殿の屋敷に出向き、庶務をこなし、夜半過ぎに師父の屋敷に帰るだけの生活がふた月ほど続いた。
 江南におられた華佗殿がとうとう根負けして殿に出仕し、今では幽興殿とお二人で医務に当たられている。幽興殿のお手伝いをさせていただく合間に華佗殿とも少し喋ったが、殿が仰っているような偏屈さはなく、寧ろ博識を鼻にかけない誠実な方であるように感じていた。鍼を暗器とした俺は侮蔑されても当然だと思っていただけに、華佗殿が俺により高度な知識と技術を説こうとしてくださることには少なからず感銘を受けている。
 そんなある夜のことだ。
 いつも通り、朔と「つばめ」を伴って師父の屋敷に戻ってくる。前庭を抜け回廊を歩いていると俺の部屋の更に奥、師父の部屋に明かりが灯っていた。師父は一旦軍略に没頭すると食事すら放棄するような方だということを俺は知っている。女官や下男では師父のその不健康を注意することは出来まい。俺は「つばめ」を先に下がらせてから師父の部屋へと歩いていく。
 師父の執務室の少し手前まで来たときに俺はその異変に気付いた。
 師父の弟子になってから嗅ぎ慣れた匂い。鼻腔を突く異臭。鈍い鉄の錆たような――血の匂いが薄らと漂っている。戦場や治癒場でならこの匂いがあっても何の違和感もない。だが、ここはギョウの城下で師父の屋敷だ。
 何ごとだろう、と駆け足で部屋に飛び込む。
 慌てふためいた俺の視界に飛び込んできたもの――それは机の上でうつぶせになっている師父の姿だった。

「師父!」

 軍略の骨子案が綴られた幾つもの竹簡、右手に納まった筆。机の上にだらんともたれかかった左手――とその掌を染める朱色。
 俺の脳裏には瞬間、最悪の結末がよぎった。

「師父、どうなさったのです! ご無事ですか!?」

 刻限も場所も気遣っている余裕はなかった。部屋の中に飛び込んでうつぶせの師父を抱え起こし、床に寝かせる。まだ温かい。その温度に僅かに安堵する。それでも力の籠らない肢体を動かすのは俺の体格では難しく、苦渋した。苦渋しながら必死に俺は確かめる。師父の体のどこにも傷はない。倒れていた机の上には硯と竹簡があるのみで何か毒を盛られた様子でもない。ではこの血は何だ。幽興殿から教わった医の知識を総動員して俺は師父の異変の原因を探る。唇の端に薄っすらと血が滲んでいるのを見つけたとき、俺の心臓は止まるかと思った。
 臆した気持ちを奮い立たせ、首筋に触れる。確かに脈がある。師父はまだこの世におられるという何よりの証だ。
 ならば俺がすべきことは何だ。
 無礼を承知で俺は師父の夜着の前を寛げ、胸に耳を当てて心音を聞く。規則正しい鼓動が波打っているが、口元からは微かにだが喘鳴が聞こえる。仰向けに寝かせるのは危険だと判断し、再び苦渋しながら師父の体を横向きにした。背中を叩くと口元から気道に残っていたらしい血液が零れ落ちた。
 そして。
 何度か師父が大きくせき込んだ後、ゆっくりと瞼が開いた。師父の視界に俺の姿が映ったのだろう。ご自身の状態を確かめるようにして瞬きを繰り返し、そして師父は口元を拭うことすらせずに言った。

孝徳、見なかったことにしなさい」

 私の身に起こったことは他言無用だよ。言いながら師父が上半身を起こそうとするので押し留める。まだ気道、食道の中には喀血が残っている。無理に起きれば喉を詰めるばかりだ。

「師父、単刀直入にお聞きします。『いつから』でしょうか?」

 触診で俺がわかるのは師父が病まれているのは肺腑だということだけだ。病状を見るにひと月やふた月の病でないのは間違いない。前兆の段階は既に通り越している。幽興殿に見せても、華佗殿に見せても同じ診断をするだろう。師父の病はもう最悪の段階だ。遠からずこの方は亡くなるだろう。予断を許さないほど、師父の体は病魔に侵されている。
 ただ、それが「いつから」なのかだけが俺には理解出来ない。
 師父の弟子として同じ屋敷で暮らしている俺の不注意だ。医術の知識がありながら俺は気付けなかった。俺が前兆を見逃さなければ師父はもっとずっと長く生きられただろう。それがわかったからこそ俺は悔いる。
 体を横たえたまま師父の綺麗な方――右手がすっと伸びてきて俺の前髪を力なく撫でる。

孝徳、君の所為ではないよ」

 私は誰にも気づかせるつもりはなかったのだからね。蒼白の顔でそれでも師父は笑む。いつも通りの自信に満ちた強気の笑みなのに今はそれが色あせて見える。師父の右手の上から俺は両手を重ねた。温もりは確かにある。それでも俺の体温よりずっと低い。
 俺の問いに答えが返らないことを責める気は端からない。
 それでも、俺は師父が全てをご自分で被ってこの世と決別するつもりなのを知った。
 それが、師父が俺にしてくださる最後の思いやりなのだということは疑う必要すらない。

孝徳、君には曹丕殿がおられるから大丈夫だね?」
「嫌です。俺が仕えるのはあなたひとりだ。子桓殿も殿もあなたの代わりにはならない」

 あなたが仕えるから俺は曹操殿にお仕えしているだけです。
 子桓殿が聞いたら激怒するだろう言葉を誰も聞いていないのをいいことに次から次へと放り投げる。今ここで俺が聞き分けのいい弟子を演じれば全ては丸く収まるのかもしれない。
 それでも。
 それだからこそ。

「俺はあなた以外のあるじなど要りません」

 言わなければならないと思ったから言う。師父は一瞬だけ瞠目して、その次の瞬間には慈しみを含んだ笑みで言葉を返す。眼差しも握った右手も血のりの載った唇も、その全てで師父が俺の善後を考えてくださるのが伝わった。

孝徳、君は私よりも若い。病もうと病もうまいと私は君より先に死ぬのが自然の摂理だ。いずれ来る遠い未来が少し近くなっただけではないのかな? 二つあるじに仕えず、だなんて忠義は『軍師の弟子』には不要だと私は思うのだけれど?」

 それとも君はこの先ずっと私を失った感傷と共に生きていくと言うのかな。
 試すように問われた言葉に俺は肯定も否定もせずにただ「俺はあなたの弟子になりましたが、同時に副官でもあります」と返すと師父はいっそうつらそうな顔をする。知っている。愚直さだけでは人は生きてはいけない。誠実なだけでも苦しい日々を送るだけだ。清濁併せ持たなければ一人前として世を渡っていけないことぐらい、もうとっくの昔に知っている。
 知っているから俺は敢えて言う。

「師父、俺には朔と『つばめ』がいます。今更身を崩すほど嘆くことは許されてはおりますまい」

 曹操殿の御世を肯定する象徴――天狗の朔。朔がいる限り、曹操殿は俺を手放しはしないだろう。それは彼の治世を自ら否定し、他の誰かに天下をくれてやるのと同義だ。だから俺の立場は師父の在不在に関わらず保証されていると言える。
 戦場で俺が命を落とすこともないだろう。「つばめ」の武はそれだけの実を伴っている。「つばめ」は彼女の命に代えても俺を守る。そのあと俺が生き延びられるかはその場にならなければわからないが、そういう事態に出会う確率は限りなく低いと言えるだろう。
 だから、師父が曹操殿や子桓殿に仕え、彼らの為に命と智を使えというのならばそうする。俺にとってはそれが最後の主命だから何と引き換えにしてもその任を果たす。それでも、それは曹操殿や子桓殿への忠義ではない。そんな無為なことを師父が望まないということは他ならない俺が一番よく知っている。
 だから。

「師父、あなたが俺をどう評してどうお使いになるのかはあなたの自由だ。それでも俺の心は――志は俺だけのものだ。俺が忠義を捧げる相手は俺だけが決める。たとえあなたでもそれを捻じ曲げることは決して出来ない」

 だから。
 だから師父はずっと身の回りに予防線を張って特別な誰かを作らないようにしてきた。軍師に感情は必要ではない、と師父は俺に説いた。軍略に必要な謀略を巡らせる為には不必要な足枷を増やすべきではないからだ。その薄氷の上に立つような決意に触れる度に俺は自分の無力さを嘆いてきた。この方が無条件に羽を休められる止まり木になりたいと思ってきた。
 その願いは叶うことなく潰えようとしている。
 それを嘆こうとはもう思わない。俺は師父の安息の場所ではなかったが、それ以外の意味を持った。師父一人しか乗れなかった薄氷の上に俺が乗る余地がある。
 それ以上の何かを望むほど俺は強欲ではない。

「師父、俺はあなたに拾われたばかりの小僧ではありません」

 図体ばかり一人前で知識も常識も渡世術も持たなかった。ただ愚直さと誠実さと勤勉さだけで正面突破するだけの無能だった俺はその場所から歩き出した。前に進む道を示してくれたのは他ならない師父だ。
 師父と出会って志を知った。
 師父に仕えて見せかけだけの永遠を知った。
 俺の世界の中心は師父だった。
 だから。

「あなたがご自身の命より、一瞬の軍略を選ぶと仰るのなら俺はそれを否定しません。否定出来るだけの何をかを俺は持ち合わせていない」

 それでも、俺は本当は師父に一秒でも長く生きていてほしい。一瞬でも長く、一言でも多くの言葉を受けていたい。
 だから。

「せめてあなたに残された時間に俺がいることぐらいは許していただけないでしょうか」

 これぐらいの我がままだけは許してほしい。そう願えば師父の朱に染まった――もともと喀血の量は多くなかったのだろう、既に乾いて手のひらに張り付いている――左手が俺の頬を撫でた。子どもにするのではなく、かと言って女性を触る艶めいた手つきでもない。ただ、そこに俺の輪郭があるということを確かめるだけの柔らかな仕草に俺の視界が滲んでいく。
 師父の白い唇が俺の名を紡いだ。
 そして。

孝徳、私は君という唯一無二の存在に出会えたことを誇りに思っているよ」

 君を遺して行くのは惜しいけれど、君と生きた十年は決して無駄ではなかった。君はもう自分の足で立って歩いて行けるだろう。
 始まりのあの日。師父は俺に言った。俺が俺の速度で歩くことを認める、と。
 その約束はずっと守られていた。この方が誠実でないなどと評する輩は所詮その程度だ。師父は誰よりも何よりもご自身の言葉に責任を持っておられる。師父が軽薄だと思うのは見る側に厚みがないからだ。殿もそれを知っておられるから師父はずっと曹操幕下の軍師を務めている。
 俺はその郭奉孝の唯一の弟子だった。
 その名に相応しいだけの実は得られなかったかもしれない。
 それでも。
 俺はこの広い世界でたった一人の師父の弟子であることを誇ってもいいのだと師父は言う。

孝徳、湯を持ってきてくれるかな?」

 私は烏丸討伐を終えるまでは決してこの命を諦めはしない。どんな無理を強いてでもその結果を得ると決めている。
 だから。

「それまでの間、私の全てで君の願いに応えよう。副官としての君に命じるよ、孝徳。私の軍略をその耳で聞き、その脳漿に貯え、そしてその筆で書き留めてくれるね?」

 感傷に浸るにはまだ早い。師父はまだここにおられる。喪失の痛みを嘆くのは師父がおられなくなった後で十分だ。
 俺は無言で頷き立ち上がる。こんな夜半では女官や下男たちはもう休んでいるだろう。幸い、俺は湯を沸かす術を知っている。豪族の養子であった頃には到底知り得なかった、それでも一人で生きていく為には不可欠な技術を手解きしてくださったのも師父だ。
 俺の中にはこんなに師父の存在が根付いている。
 回廊を歩いているうちに仔犬の姿の朔がすり寄ってきた。朔は――天帝の御使いたる彼はこの運命を知っていたのだろうか。知っていて俺を独りにさせない為に俺の前に現れたのだろうか。
 朔が言葉を発しない以上その問いに対する答えは知る術すらないが、それでも運命という定めがあるのなら、俺は最後までその意図に抗おうと決める。永遠などない。絶対もない。だから俺たち軍略家は世に必要とされる。覆せない決定に諾々と従うのなら、俺は軍師の座を求める資格すらない。
 厨に辿り着いて湯を沸かす準備をしながら俺は朔に言う。

「朔、君は先に休んでいていいよ」
「おん!」

 仔犬の姿で朔は俺の申し出を拒んだ。成獣の姿では漆黒に変わる朔の瞳だが、今は名の由来である桜色をしている。その薄桃色が暗闇の中でなおはっきりと見える。そう見えるのが俺一人だと知ったとき、朔のあるじが俺で間違いがないことをようやく受け入れた。
 朔は言葉を発しないが俺たちの言葉は十分に理解している。そして、彼は彼の判断で生きている。命じられることを諾々と受け入れているのではない。
 今も、朔は俺の言葉を拒んだ。
 多分、朔には俺の心中が察せられるのだろう。一人で置いていていいと思わない。だから、共にいることを選んだ。
 それを頑なに否定しなければ自己を保てないほど俺はもう幼くはない。
 だから。

「朔。君の気が向いたらでいいから、師父も背中に乗せて差し上げてくれないか?」

 師父の人生の最初で最後の一度でいい。天狗の背中は決して乗りやすいとは言えないが、十年弱、共に過ごしてきた神話の生き物に触れる機会があっても誰も文句は言えないだろう。朔が背に乗せるのはあるじである俺と、まだ幼かった子桓殿だけだ。今では一人前になられた子桓殿を背に乗せることはもうない。朔は人を乗せる為に育ったのではないと言外に主張しているのか、最近は成獣の姿になることを頑なに拒む。
 朔のその好悪を知っていて敢えて言った。朔はおんとは鳴かずにうーと低く唸っている。迷っているのだ。朔には感情がある。朔も師父と永遠の別れをする未来を嫌悪しているからこそ、迷っている。
 燃える深紅の毛並みの頭を軽く撫でた。
 強制はしない、とその手のひらで伝える。朔は俺が面倒を見ているが俺のものではない。だから、朔が本当に忌避するなら俺はそれ以上の言葉を重ねない。
 水瓶から桶を満たすだけの水を汲んで火にかけた。鍋から白い湯気が立ち上りつつあるのを確かめて俺は竈から鍋を外す。柄杓で掬って桶に戻し、水瓶からもう一杯柄杓で水を足して人肌ぐらいにぬるめ、白布を携えて厨を後にする。
 師父の部屋に戻ると、まるで何ごともなかったかのように師父が机の前に座っている。師父。短く声をかける。竹簡を覗き込んだまま師父がすまないね、と返答した。

「何か食べられますか?」

 その問いには静かな笑顔が返ってくる。

「君の作る夜食は何年振りかな?」

 許の都に広い屋敷を賜った頃から、俺たちは衣食住の何一つ困ることはなくなった。炊事も洗濯も掃除もしない。全部他人任せで、本音を言えばそれが逆に煩わしかった時期もある。自分たちの思うように暮らすことが出来ない不自由さにもやっと慣れてきたばかりだ。
 師父が身罷られたら俺はこの広いギョウの屋敷を手放さなければならないだろう。
 俺の俸禄ではこの屋敷を維持することが出来ないのだからそうする他はない。
 その未来が来ることを俺も師父も覚悟した。
 だから、師父は俺の心積もりを試す。

「腕はなまっていないつもりですよ?」
「食材は残っているのかい?」
「有り合わせで作るのが師父流だったでしょう」

 その受け答えは及第点だったのだろう。師父が竹簡を机の上に置く。

「折角だからいただこう。でも孝徳
「薬膳のようなものは遠慮する、でしょう? 病人扱いされたくないと仰るのなら俺と同じものを用意しますよ」
「君は変わったね」

 出会った頃の君は一を聞いたら一しかわからなかった。今の君は少なくとも四か五がわかっている。

「もう十年あれば、君も十を知ることが出来るだろう」

 そうなれば君は名実ともに私の後継になれる。
 師父は目を細め、来るか来ないか判然としない未来を思い描いた。
 その、一抹の感傷を肯定すれば師父はお喜びになるだろう。
 それでも、俺は自らに背きたくはなかったから否定の言葉を口にする。

「要りませんよ、そんなもの」
「どうしてかな? 向上心だけが取り柄の君にしては珍しく消極的な発言だね」
「凡夫であるからこそ見えるものがある、ということを師父はご存じではない」
「随分と安い挑発だね? その意図は何なのか釈明を聞こう」
「誰の発想をも上回る策というのは先手必勝の策です」

 今までになかった戦略は誰にも見抜かれない。防衛策を取られることもない。それが軍師として最上の勝ち方だということを俺も知っている。圧倒的な勝利は味方は勿論、下ってくるであろう敵の損耗も最も少なくなるからだ。
 ただ、万人を欺く策が俺に備わっているかというと概ね無理だという判断を下すしかない。俺は軍略家としては平凡な才しか持っていないだろう。
 ただ、それゆえに俺に見えている側面があるというのもまた事実だ。

「師父が描いても何の効力もない策でも俺が描けば違う形を持つこともある、というのが現実です」

 同じ内容の策でも描くものが違えば効果が違う。
 俺は俺の策の強さと弱さを知っている。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。何度も繰り返し唱えた孫子の一節だ。

「俺は俺に出来ることをします。ないものねだりで道を踏み外す青さはもう俺にはありません。他人と比べずとも確立出来る自己を俺はあなたから教わりました。下を見て暮らすわけではありません。俺は、俺と向き合って前を向く強さを知っています。だから、俺はあなたの代わりになりたいとは思いません」

 師父のお荷物になっていることを恥じた過去を思い出す。
 その評価を払拭したいが為に無茶を演じ、師父の心に傷を負わせた。
 そんなことをしても、しなくても俺という個には何ら変わりがないのに、結果を焦っていた。あの頃の俺は師父と並び立ちたいという僭越な願望で生きていた。
 今は。

「俺が凡夫であるがゆえに見えているもの、にも価値がある。そうでしょう、師父」

 そう、言えば師父は泣きそうな笑顔になった。長安で見たのと同じ顔だ、とぼんやり思う。そして俺は知った。師父もまた死にゆく己の運命を嘆いてる。

孝徳、君はやはり変わったね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「まったく、いつの間にそんなにふてぶてしくなったのかな」

 昔はもっと従順で可愛げがあったのに。
 言って師父は湯と布を運ぶように言う。俺は少しぬるくなった湯を師父の傍らに置いて、夜食の準備をする為にもう一度厨へ向かった。厨に残っていた幾ばくかの食材で俺は手早く夜食を作り、師父の部屋に戻ると既に血のりを拭い終え、夜着を整えた師父が待っていた。
 そうして俺と師父は小腹を満たし、次の戦の準備へと突入した。
 師父に師事し始めた頃と同じに、師父が次から次へと思いつく謀略を速記文字で書き留める。竹簡はすぐに机の上をいっぱいにして、それでも足りなくて幾つかは床に寝かせる。

孝徳、ここはやはり三つ前の案の方がいいのだろうね」
「俺としては七つ前の案も捨てがたいのですが」
「では両方保留にして新しい案を考えよう」

 そんなやり取りを夜を徹して続け、朝日が昇る頃、俺は三つの清書を作った。
 師父はそれを携え、出立の準備をしている。
 華佗殿の診療を一度受けてみては、という進言は黙って首を横に振ることで否定された。ひと月ふた月の延命処置など受けたくはない、という言葉が俺に終焉を実感させる。
 誰にもこのことを明かしてはならない、と厳重に口止めされた。せめて殿にはお教えした方がよいのではないかと言えば、曹操殿も見て見ぬふりをしてくださるだろうから意味がない、と師父が答える。
 釈然としない居心地の悪さと戦っていると部屋の中からおん、と低い声が聞こえた。朔だ。しかも成獣の姿をしている。

「朔?」

 どうしたのかと問うより早く、朔が出てきてそして器用に師父の上着を咥えると深紅の背中に乗せる。
 そして。
 朔は黙って回廊を歩き始めた。ギョウの城下でも騎馬が許されるのは有事だけだ。朔は馬ではないがその規律は適用されるだろう。朔自身もそれを理解している。前庭を抜け、門前まで来て、彼はすっと地面に伏せた。
 師父は困ったように笑いながら門の脇に降り立つ。

「朔、ありがとう」

 神獣の背中に乗れるというのは存外悪くはないものだね。
 背から降りた師父が朔の頭を撫でる。師父がこの大きさの朔の頭を撫でるのは恐らく初めてのことだ。いつもの朔ならもう仔犬の姿に戻っていてもいい頃合いだろう。それでも、朔は成獣の――朔本来の姿を保っている。多分、朔は師父に言いたいのだろう。もう少し先の未来で待つ別離と、その先に残される俺を守ると言う誓いを込めてただ黙ってされるがままにしている。

「君たちは戦乱の世に生まれるべきではなかった、と私は思っているよ」

 限りない優しさを持ち、僅かの間の生を必死に輝かせようとしている。そう言った師父は眩しそうに眼を眇め、朔の頭を二度、軽く叩いた。正確にはぽんと押さえた。
 知っている。俺も朔も戦乱の世に生まれるには純朴すぎる。人を傷つけることに躊躇い、欺くことに胸を痛める。それでも現実から目を背けたくなかったから俺たちは自分に課された運命と戦っている。もっと穏やかな世に生まれれば、俺たちはもっと別の生き方が許されただろう。
 それでも。

「師父、俺たちはそれでもあなたに出会えてよかったと思っています」

 だから、師父と永遠の別離を迎えても俺たちは生き続ける。その意味を誰かに与えられなければ見いだせないほど無垢ではないし、愚昧でもない。
 朔が低くおんと鳴いた。

「俺はあなたの代わりにはなれませんが、それでもあなたが俺の師であったことは未来永劫消えることもない。だから」

 あなたはあなたの志のままに生きて、そして命の限り謀略に溺れていてください。
 さようならは言わない。突然に知らされた終わりを拒んだりもしない。
 師父が言った通りだ。俺たちは見せかけだけの永遠を持っているが不老でも不死でもない。だから、師父はいつか俺を残して先に死ぬ。俺はそれを何十年先だと認識していたが、現実が少し早くやってくるだけのことだ。結果は何一つ変わらない。
 悲しくない筈がない。つらくない筈がない。
 それでも朔は失われるあるじのあるじに礼を尽くした。
 肝心の俺が泣き濡れているのでは話にならない。
 だから。
 殿の屋敷へ向かい、通りを歩き始めた師父の背をただ黙って見送る。
 ギョウには今日も朝が来た。明日も明後日もその先もずっと繰り返しそれは続いていくだろう。師父とその朝を迎えられるのは残り何度か。その答えは誰も知らない。
 ただ朝だけがやってくる。
 成獣の姿から仔犬の姿に戻った朔が俺の脛に頭を擦りつけてきたのをきっかけに俺たちは屋敷の中へと戻る。
 今の俺に出来ることをしなければならない。今日の碁は子桓殿の一人勝ちだろうなと想像して嘆息する。子桓殿にも甄姫殿にも「つばめ」にも、師父の身の上に起こっていることは言ってはならない。それが師父の下した決断だから、俺はそれを見守る。見守るという決断を俺は下した。
 決断を迫られるのはいつでも突然で、心の準備などさせてもらえない。
 今の俺は最善を選べただろうか。その結果すらまだ見えない。
 ふた月後、殿は自ら軍勢を率いて烏丸の討伐に発った。
 見送りに出た俺に殿はちらと目配せをしたから、多分、殿も覚悟されているのだろう。師父は二度とこの地を踏むことがない。師父からは何かがあれば、と鷹笛を渡される。それは俺に師父の鷹を譲る、という意味に他ならなかったから一瞬躊躇した。それでも結局は受け取る。師父が俺に残してくださるものを拒む意味がわからなかった。
 ご武運をお祈りしています。遠ざかる背中に呟くようにその言葉を投げかける。
 聞こえる距離ではないだろうに師父が不意に振り向いて笑った。
 これが俺の見た最後の師父の笑みだった。
2015.01.01 up