魂と魄の再会
師父(せんせい)が烏丸討伐に出られてふた月ほど経った頃のことだ。俺はいつの間にか荀イク殿預かりの書記官に任じられていて、子桓殿の守役を務める傍ら、正式な書簡の清書などを請け負っている。荀イク殿は外見に似合わず厳しい方で、与えらえる仕事の量が尋常ではないから、自然と邸に書簡を持ち帰って翌朝までに仕上げる日々が続いた。多分、俺に師父の不在を感じさせないように、という荀イク殿なりの配慮なのだろう。そんなことを子桓殿に向かって語れば、彼は不愉快を顔中で表して、そうして結局は仮眠を命じた。
「孝徳、郭嘉がお前を手放したのなら、お前は私のものだ」
父にも、荀イクにも賈クにも渡さぬ。お前は私のものだ。
子桓殿は何度も繰り返し同じ言葉を口にすることで、それを真実に変えようと試みていた。子桓殿の言いたいことは俺にもわかる。師父と俺は二度とまみえることがないだろう。お互いにそれを予感していた。だからこそ、師父の鷹笛は俺の首から下げられているし、荀イク殿は仮ではあるが俺の上官として振舞っておられる。
子桓殿にとってはそれが面白くないのだろう。守役を任じられて数年。殿から俺を「借りる」という形がずっと続いている。そろそろ本当に俺を配下としたいと思っていても何の不思議もない。わかっているが、俺は師父の弟子でそれは同時に殿の手駒の一つだということを意味している。
「子桓殿、俺は師父が生きて戻られようが、死んで遠くに行ってしまわれようが師父の弟子の座を手放すつもりはない、とずっと言っているだろう」
「ふん、死者に何の口出しが出来る。郭嘉がお前を手放す未来は必定。そうなれば、私は必ずお前を配下にする。逃れられるとは思うな」
「そういう睦言は甄姫殿にでもお聞かせして差し上げたらどうだ。俺を口説いても何の意味も持たない」
「お前たち軍師というのは常々面倒な存在だな。言葉の上で戯れるくせに、言葉ではないもので誠意を示せと言う。だが、私もお前たちの傲慢を嫌ってはいない。大口を叩いたことをよく覚えておけ、孝徳」
私はどんな手段を使ってでもお前を私の軍師として用いる。
断言された決意に俺が折れる日はそう遠くないだろう。これは予感ではない。子桓殿はそういう顔をしていた。
だから。
「子桓殿、半刻経ったら起こしてくれないか。流石に俺も参っている」
「気が向いたら起こしてやらんでもない」
「じゃあ朔。朔に頼むよ」
「おん」
「お前たちは本当に救いようがないな」
半刻と言わず一刻でもニ刻でも寝たいだけ眠ればいいだろう。
労も過ぎれば身を亡ぼす。俺が勝手に自滅していくのを遠巻きに見ているだけなど、子桓殿には認められないのだ。不器用な優しさに触れて、それでも一人でいることの不安定さに戸惑っている俺自身の感情に気付いて、俺は子桓殿の執務室に置かれた長椅子の上に体を横たえた。眠る暇もないほどの仕事を与えられるのも荀イク殿の優しさなのだろう。余計なことを考える時間があれば俺はずっと師父のことを案じてしまう。今はどこにおられるだろう。討伐は上手く進んでいるだろうか。もしかしたら、師父が戻ってこられることがあるかもしれない。
淡い期待を抱いては打ち消して、それでも期待は消えなくて俺はまぶたの裏側に師父の姿を何度も思い描いた。
俺の名を呼ぶ声が聞えたのはそれからどのぐらい後のことなのかはわからない。
最初は子桓殿が約束を守ってくれたのだと思った。なのに違う。この声は子桓殿の声ではない。もっと落ち着いて、それでいて安堵を覚える。よく知った声だ。
暗闇の中でゆっくりと両目を見開く。目を開けてなお、そこは暗闇で、俺はこの国で命を拾ったときのことを不意に思い出した。声はなおも俺の名を呼ぶ。慈しみを含んだ柔らかい声だ。
「孝徳、聞こえているだろう」
私のことが見えるかな。
そこまでが一つながりの音として耳に届いて、そうしてやっと声のあるじに思い至る。
「師父」
それしかない。でも、師父は烏丸の討伐に出向いていて、このギョウにはいない。殿と一緒にお戻りになるのなら、荀イク殿が何か連絡をくださるだろう。なのにそれもない。
師父がお一人でおられる。その意味と理由がわからなくて俺は困惑した。
それでもなお、師父の声は俺の名を呼ぶばかりで姿が見えない。
「師父、どちらにおられるのですか」
「君の思う場所にいる、と答えよう。落ち着いて探せば、君の眼にも見える筈だよ」
さぁ、孝徳。私の姿が見えるころではないかな。
その声に導かれるように意識を収束させる。一面の黒の中、ぼんやりと光が集まっている場所がある。そこに意識を向けると、光の粒子が少しずつ人の形を成し始めていた。
何度か目を瞬かせる。暗闇で瞬きなど意味がない。わかっていたがそうした。
無意味にしか思えない行為を繰り返すと、暗闇の中に師父の姿がぼんやりと浮かんでいるのに気付く。そこに意識を向けると師父の姿はいっそう鮮明さを増して、とうとう俺の目にもはっきりと見えるようになった。
「師父」
「孝徳、息災で何よりだね。君とこんなに長い間隔たれていたのは初めてだったけれど、存外、君は平気に見える」
「平気なわけがないでしょう。どうせここは夢の中だ。俺があなたにお会いしたいという気持ちが生み出した幻影を見て、そしてどうにか安堵しようとしている。これのどこが平気だと言うのです」
淡い薄紅色の光に包まれた師父が俺の返答を聞いて穏やかに微笑む。知っている。これは俺が求めた幻だ。それ以外である筈がない。だから、俺は自分自身の弱さに心底苛立った。幻の師父は俺の望む答えを紡いでくれる。わかっている。あまりにも虚しい一人芝居であることを認識して、俺は夢の中でそっと溜息を吐いた。師父の笑みがいっそう深くなる。
「孝徳、安心するといい。ここは君の夢の中だけれど、私は幻ではないよ」
「おっしゃっている意味がわかりかねますが」
「私もよくはわかっていないのだけれど、順番に説明しよう。私は昨日、ギョウに戻る帰途で落命した」
曹操殿が荀イク殿に向けて鷹を飛ばしたのも昨日だから、今日には君たちもこの事実を知るだろう。
あっさりと、何でもないことのように師父が爆弾発言を繰り返す。
落命した、というのはそれほど驚かない。医術をかじった俺の見立てでも師父に残された命はそう長くなかった。寧ろ、任を終えて帰途に着くまで命があったことの方が奇跡だとすら思える。
ただ。
「では、やはり師父は幻だということにはなりませんか」
「広義で言えばそうなのだろうね。ただ、どうやら君以外には見えないし、声も聞こえていないようだよ」
ここに辿り着くまでに殿、文和、張遼将軍と声をかけてみたが誰も反応しなかったから間違いがない、と師父が断言する。どうやって俺に辿り着いたのか、と尋ねると「朔がいるだろう」という答えが返ってきた。
「孝徳、私はあまり信心深い性質ではないけれど、君はよく知っているだろう。人は何で構成されているのかな」
「肉体と、魂と魄、のことでしょうか」
「私の肉体はもう既に役目を終えた。そこに再び宿ることは不可能だろうね」
「では俺が今見ている師父は魂と魄、だとおっしゃるのですか」
「そうだね。多分、私は今、鬼(ゆうれい)と呼ぶ存在なのだろう」
「鬼? ですか」
鬼というのは魂でも魄でもない、と俺は認識している。魂魄は肉体を離れると姿かたちを変えて巡るが、その循環から漏れ出たものが鬼だ。巡ることも浄化されることもなくただ留まる。魂としても魄としても由来を失っているから「鬼」と呼ばれる、というのが一般論だ。
師父がその、鬼であるというのは荒唐無稽な話にしか思えない。
それでも、多分、師父は生前ご自分で否定してきたことを受け入れようとしている。そうなってしまって初めて認めることが出来る、というのは皮肉な話だ。
ただ。
「どうして、俺なのです」
殿も文和も張遼将軍も、師父の存在には気付かなかった。
なのに何百里も離れた場所にいる俺には師父の声が届くのか。その理由が知りたくて問う。鬼となった当の師父が一番困惑しておられるだろう、ということが今の俺の中からすっぽり抜け落ちていた。人に問うまでに思考しろと何度も繰り返し説かれた。そのことを忘れて問う。
師父は「理由は二つ、かな」と困ったように笑って答えてくださった。
「君が『舶来』であることと、朔の存在だろうね」
天帝の御使いである朔の神気は何百里という距離を隔ててもわかる、と師父が言う。生前の師父には朔の神気など少しも感じられなかったが、人の人としての所以を失ってみれば、これほど強烈に輝いている光も少ないのだそうだ。
その、朔の神気に引き寄せられて師父の意識は俺の元へと辿り着いた。無意味だと思いながら眠る俺の名を読んでみた結果が今だ。多分、舶来である、というよりは俺の生まれた部族の血脈が人ならざるものと縁を結ぶのだろう。朔が俺の傍らにいるのも、師父の姿が見えるのもそこに起因している。
だから、ここは俺の夢の中で間違いはないし、師父は落命されている。
それだけは決して揺らがない事実だ。
「鬼、というのは心残りがあるものの末路だ、と俺は理解しています」
「曹操殿の覇道の終わりを見ずに死んで、心残りがないものなどいはしないよ」
「では悪来殿や曹昂殿も鬼になられたのですか?」
「さて。それはどうだろう。少なくともこの正殿には私と朔以外の人ならざるものはいない、と思うのだけれど」
「俺は宗教家ではないので、儒者も浮屠もあまり興味がありません」
「知っているとも。華佗殿が君に親切にするのも、結局は自らの教理を説きたいからだ。信仰心を持たないものは色に染めれば容易く落ちる。君もそのことを理解しているから、中立を保っているのだろう」
「殿は道教を重んじておられるようですが、あれはあれで面倒な連中だと俺は思っています。思っていますが、師父が鬼になられた以上、道教の教義には一理ある、と考えるのが妥当なのではないでしょうか」
「全く、孝徳。君の順応能力の高さだけは本当に目を瞠るものがあるね」
私が幻ではない、ということをこうも短時間に受け入れるだなんて、本当に器が大きいか、でなければ本物の馬鹿でしかない。
師父がそう言って嘆息する。
嘆息しているのに口元は緩やかに弧を描き、充足を示していた。
郭嘉の弟子になりたい、などという輩が馬鹿でない筈がない、と反論するとそれは一理ある、と言って師父は今度こそ満面の笑みを浮かべる。
「孝徳、私はもう君に触れることは出来ないけれど、君の導であることは出来るつもりだよ。もっとも、君がどれだけ拒んでも私が君にしか見えない以上、私はここから去るつもりもないから、覚悟しなさい」
「もとより、それが師父の弟子、ということだと承知しております」
師父の試すような言葉に、俺は胸を張って答えた。師父は穏やかに微笑んで、その決意が固まっているうちに目を覚ましなさい。君が望むとき、私はいつも君の眼前に現れよう。そう締め括って再び光の粒子となって霧散する。
師父が纏っていた薄紅色の光は朔の神気だ、と今頃になって気付く。
それはつまり、朔の神気が見える方には師父の姿も見えるのだ、ということなのだけれど、未だかつて朔の神気が見える方に出会ったことがない俺はそのことをあまり重みのある事実だとは受け取っていなかった。
師父が霧散した暗闇が少しずつ薄くなる。
微睡から浮上して、そうして光の感覚を受け取った頃、子桓殿が俺を呼ぶ声が聞える。
「孝徳、荀イクから文を預かった。危急につき、文を読み次第本殿へ来るように、と言っていた」
瞼の向こうに明るさを感じながらゆっくりと両目を開ける。眦がぱりぱりとした感覚を生み出す。手の甲で目元をこすると粉上のものがつく。眠りながら泣いていたのだ、と気付いて今いる現実と、先ほどまでの幻のどちらが真実だ、と瞬間躊躇う。
考えても結論が出ないことに気付いた俺は、師父、と誰にも聞こえない声の大きさで鬼を呼ぶ。その声に応えて子桓殿の机の前に師父が生前の姿のまま顕現した。
「孝徳、何かな」
その声に子桓殿は反応を示さない。そこまでして、やっと俺は師父が本当に鬼になったのだ、と理解する。師父の姿が突然現れれば、如何に子桓殿の肝が据わっているといえども少しぐらいは慌てる筈だ。それがない。つまり、師父は本当に俺にしか見えていない。
となると、荀イク殿の危急の文の内容など決まっている。殿の鷹がギョウに着いたのだ。つまり、師父の死を告げる文が子桓殿に預けられた。
師父自らによって、あらかじめ死を告げられていた俺だったが、文を受け取ることで改めて現実を突き付けられたような気がして胸の奥が詰まる。荀イク殿の整った字で「郭嘉病没」とだけ記された文を子桓殿にも見せなければならない気がして手渡す。瞬間、子桓殿の表情が凍る。
「孝徳」
「何だ、子桓殿」
「落ち着いている場合か。一刻も早く荀イクのところへ行け」
「子桓殿、慌てて荀イク殿のところへ駆け込んでも師父は生き返ってくださりはしない」
「それでも、行け。これは忠告ではない。私からの命だ」
敬うべき相手を未来永劫失ったのだから、職務などどれだけ後回しにしてもいい。
そんな響きが含まれていて、俺は子桓殿の優しさを改めて知る。為政者に感情などは不要だ。理と利を求めるのが最優先で、その過程で生まれる感情など切って捨てなければならない。俺は子桓殿にそうあることを滾々と説いてきた。彼はいつか、人の上に立つ存在になる。そのときに判断を誤ることがあってはならない。
子桓殿にその理が伝わっていない筈がない。
それでも、子桓殿は俺の職務よりも優先すべきものを勝手に見つけてしまった。
「宮遠をここへ」
俺の守将である「つばめ」はここから三つほど房(へや)を隔てた場所で甄姫殿と談笑をしたりして過ごすのが常だ。子桓殿の執務室に控えていた女官が「つばめ」を呼びに行ってしばらくすると本人が顔を出す。彼女の隣には甄姫殿も控えていて、この二人は中々上手く交流をしているのを確かめる。
「お呼びでしょうか、若君」
「甄、しばらく宮遠を借り受ける」
「もとより『つばめ』殿は我が君の配下ですわ。私に構わず、もっとご自由にお使いくださいませ」
「無論だ。宮遠、そこの馬鹿ものを一刻も早く本殿へ連れていけ」
「承知いたしました」
「『つばめ』、君は関係がない。俺なら一人で行けるから、甄姫殿とご一緒させてもらうんだ」
「若君のご様子を見るに事態は一刻を争う模様。殿は肝心なところで判断を誤られる性質であられるので、僭越ながら本殿までご一緒させていただきたく」
言って「つばめ」は俺を俵でも担ぐかのようにひょいと持ち上げる。
身長、体格、膂力。どれ一つをとっても、俺は「つばめ」に劣る。男に生まれたのに情けない、と思うことも勿論ある。
それでも。
「『つばめ』、君は本当に斉の子だな。一度言い出したことは決して覆さない」
「殿にだけは言われたくありません。では、若君、後のことはお任せください」
言って「つばめ」は俺を担いだまま本殿へと向けて足早に歩きだす。
甄姫殿と話すようになってから、「つばめ」は香を用いるようになった。多分、彼女はその手で殺めてきた数多の命を、血生臭さと別離しないことで贖っているつもりだったのだろう。そのことを責めるつもりはないし、そうしなければ生きながらえることは出来なかったのだと理解しいてる。
それでも。
俺を担いだ袍(ほう)に薄っすらと馴染んだ女性らしい香りが「つばめ」の充足を伝える。人は死んでしまえば二度と戻ってくることはない。斉の養父も義理の兄弟たちも、師父もみんなそうだ。
師父の場合、鬼となって俺の目に映っているからその一線を越えた感覚が乏しいけれど、それでも俺はいつか実感を伴って知るだろう。師父は死んだ。俺以外はもう二度と師父とまみえることもない。
その意味を知る頃、俺の運命がどう変わっているかは今はまだ知る由もない。
ただ。
「『つばめ』、師父が亡くなられた」
「そんなことだろうと思っておりました。殿、本殿に着くまでに泣き止んでくださいませ」
「不甲斐ないあるじですまない」
「義兄上の人生はいつも過酷ですね。大切なものが出来ると必ず失ってしまう」
「形あるものはいつか失われる。わかっているんだ。わかっているんだが」
「私は郭嘉殿にそれほど思い入れはありませんが、よき方でした。まして恩師であるのなら、今生の別れを嘆くのを嗤うものは決していい死に方をすることもありますまい。本殿まで十分に泣かれればいい」
「『つばめ』、ありがとう」
人として生れ落ちた以上、いつか、必ず死が待っている。失われない命などない。そんなものがあるのなら、この世は腐っている。見てくれだけを繕って、姿見の部屋で偽りの外見を手にして、それでも待ち受ける死からは何ものも逃れられない。
わかっている。わかっていた。
師父は俺よりも年上だったから、俺より先に亡くなるのが当然だ。
わかっていても、別離を淡々と受け入れることは出来ない。
それでも。
死したのちも師父が俺の元に留まっておられるのだから、何も失っていない。そう思うことも出来る。出来たけれど、俺の涙腺は別離と対峙した。
これから先は俺は俺の力で戦乱の世を生きていくしかない。
師父に助言を乞うことは出来る。それでも、師父は俺と朔にしか見えない幻だ。実体のないその存在に出来ることは高が知れている。
ここからが俺の人生だ。
決意を泣きながら受け入れて、「つばめ」が回廊を渡る。
そんな俺を師父に寄り添いながら朔が見つめていたことは、俺も「つばめ」も気付いてはいなかった。
2017.02.12 up