All in All

1st. 井の中の蛙

 学校の成績だけが全てではない。
 その台詞を口にしたければ、通知表を四か五で埋めてからでなければ恰好が付かない。ということを常磐津千尋が理解したのは中学生になってからだった。
 地元のテニスクラブでは負け知らず。県大会優勝は当たり前、地方大会もやすやすと突破して、全国大会の常連。優勝こそしたことはなかったが、準決勝まで残ったこともある。通っていた小学校の正門には毎年、千尋の健闘を称える横断幕が掲げられた。
 そんな千尋はちょっとした有名人で、自分は特別なのだと思っていた。このままずっと地元にいて、遠巻きに賞賛され続ける人生が待っていると思っていた。
 井の中の蛙大海を知らず。そんなことわざも知らないぐらい、千尋の成績は壊滅的で、それでも別に構わないと思っていた。
 千尋の人生が、そのレールから外れたのは小学校六年生の秋のことだ。
 他県の私立中学のテニス特待生として進学しないか、という話が突然降ってわいた。勿論、常磐津家の誰もが予想もしていない事態だったので、連日、家族会議が開催される。
 そして。
 常磐津の両親は千尋を他県に送り出すことに決めた。
 地元にいても、千尋の才能を開花させてやることが出来ない、と思ったのが一番大きくて、その次が特待生の条件を満たせば、学費は学校が持つ、と言われたからだった。常磐津家は完全に名前負けした中流家庭で、千尋が全国大会に出場する為の資金を捻出するのが精一杯だったが、その私立中学のテニス部に入れば、資金は必要ない。学校が負担する、というのはかなり影響力の大きなカードだった。
 十二の千尋にはそれがどういう意味なのかはよくわかっていなかったが、もっとテニスが上手くなれる、という端的な希望だけを胸に抱いて、進学に同意した。
 そして季節は廻り、春がやって来る。
 両親が作ってくれた引っ越しの荷物は先週、運送会社に引き渡した。だから手荷物はそれほど大きくはない。入学式の五日前に、特待寮の入寮を済ませるように、との指示だったので千尋は生まれて初めて一人で新幹線に乗った。
 その旅も間もなく終わる。
 飛ぶように過ぎ去っていく車窓の向こうを眺めていたら、目的地まではあっという間だった。見たことのない景色。トンネルを幾つもくぐった。その度に広がる世界は色を変える。期待と不安が同じぐらい千尋の中で渦巻いている。車内アナウンスが、千尋の降車駅の名を告げるのを聞いて、ラケットバッグを背負い、デッキへと向かう。
 新幹線を降りると次は在来線だ。乗り換えを間違えないか。気を揉みながらホームを探す。上りも下りも見たことのない地名ばかりで、千尋はここが生まれ育った故郷ではないことをようやく実感する。
 それでも、どうにか電車の乗り継ぎ、バスに揺られて千尋は新しく通う中学校――立海大学附属中学の特待寮に辿り着いた。
 特待寮は二人一部屋で、三年間、ルームメイトが変わることはないらしい。出来ればいいやつと同じ部屋になりたい、と思いながら寮母の案内で部屋まで歩いた。
 果たしてそこには千尋の荷物と、気の良さそうな長身の生徒が待っていて、軽く自己紹介をした。寮母はそこまでを見届けて退室する。
 その後は、ルームメイト――バスケ特待生で名前は堺町秀人(さかいまち・ひでと)という――と協力して部屋を住める状態まで片付けて、最後に二段ベッドの上下のどちらを使うのかを決めた。堺町が下段を希望したので、特にこだわりのなかった千尋は上段を使うことで納得し、夕食の時間になったので食堂へと向かう。そこでは新入生の歓迎会が催されており、これから三年間、立海の名誉のために奮闘するように、と何度も繰り返し聞かされた。
 寮の設備に慣れたり、一般の生徒たちに先んじて中学校の校舎を見学したり、部活動に仮入部したりしているうちに、あっという間に入学式の日がやってくる。
 新入生代表の挨拶をしたのは、幸村精市という生徒で千尋は軽く驚いた。彼のことは少しだけ知っている。テニスの全国大会で戦ったことがあった。一昨年の全国大会では準々決勝で彼と対戦して、接戦の末、千尋は敗退している。そう言えば、幸村は神奈川の代表だったな、と思い出してここが千尋の生まれ故郷ではないことを改めて知った。
 入学式の挨拶をするのは入試で最も成績の良かった生徒だ、ということは何となく知っている。特待生として入学した千尋は試験を受けていないが、受けたところで一位など取れるとも思えない。勉強が出来て、テニスも強い。神様とかいう存在は割と不公平なのだな、とぼんやり思っているうちに式は終わる。
 この五日でそこそこ親しくなった堺町とは別のクラスだったが、今更人見知りをするほど繊細には出来ていない。誰かと適当に話せばいい、と思いながら教室に入る。
 そこには。

常磐津千尋、誕生日は七月十三日、右利き、血液型はA型で努力タイプ。得意なショットは――」
「そういや、お前も神奈川だったな」

 去年の全国大会三回戦で対戦した選手がいた。戦果は千尋が辛勝。準決勝進出。その準決勝で東京代表の選手に負けて、千尋の全国大会は幕を閉じた。
 目を閉じているのか開けているのかよくわからない容貌に、女子と見間違うほどの真っ直ぐな長髪。身長は千尋よりも少し高い。名前を思い出そうと努める。その努力を先回りして彼は言った。

「お前って――」
「お前は『お前って確か、栁?』と言う」
「出たよデータ何とか。それってお前のクセ? 試合だけじゃなかったのかよ」
「試合で生きるデータを生み出すには常日頃から何ごとも把握しておいた方が有利だからな」
「で? 栁で合ってんの?」
「正解だ。これから三年間、よろしく頼む」

 特待生だろうが、レギュラーの座は譲らんがな。付け加えられた一言に、千尋の中で対抗心が生まれる。千尋に負けたくせに。言いそうになって何とか留まる。柳はそれすら見通していたかのように不敵に笑う。

常磐津、成長期の一年の大きさを思い知るといい。俺は同じ相手に二度負けるつもりはない」
「言ってろ。データか何だか知らねーけど俺は一度勝った相手に負ける趣味はないんだよ」

 追随など許さない。相手が強くなるのなら、千尋はそれ以上に強くなる。負けた悔しさは選手を育てるが、勝った充足はそれ以上に選手を育てる。柳が何を思っているのか、どんな努力をしたのかは知らないが、負けることをよしと出来るほど千尋はテニスに飽きていない。
 だから。

「ぜってーお前にも負けねー」
「『まずはレギュラー争いだ』とお前は言う。同じ部に所属したら常磐津、お前のデータは取り放題だ。俺は必ずお前に勝てるだけのデータを集めよう」
「データに限界があるって証明してやる」
「それはそれで楽しみだな。その命題の証明、期待している」

 悪口を叩き合う。昨日の敵は今日の友かもしれないが、好敵手という範疇から逸脱することはないだろう。親しむが慣れ合わない。それを態度で示し合い、千尋と柳はどちらからともなく破顔する。そして、千尋は右手を差し出した。

常磐津千尋だ。女みたいな名前だけど、よろしく」
「柳蓮二だ」

 柳の右手が千尋の右手に重なり、力強く握手を交わした。その手のひらから伝わる、ごつごつとした感触が真実、柳が努力を重ねてきたことを物語る。対戦相手として一度会っただけの柳のことを、それでも信じられると直感した。彼と過ごす三年間、あるいは高校、大学と続いていく十年間はきっと充実したものになるだろう。
 そんな予感を覚えながら、決められていた席に座る。男女混合名簿に基づいた座席表だったので、千尋と柳の席は離れていた。女子ではないのだから、別段、べったり一緒でなければ安心出来ない、ということはない。それでも、無言で担任が来るのを待てるほど千尋は大人ではなかったので、後ろの座席の生徒に話しかける。
 そうこうしている間に担任が現れて、解散になる。委員や係を決めるのは明日以降で、部活見学も明日だ、と伝えられたがスポーツ特待生の千尋にはあまり関係がない。テニス部の練習は今日もあると聞いていた。
 割り当てられた廊下のロッカーからラケットバッグを取り出し、下足場へ向かう。
 既に雰囲気に慣れ始めたテニスコートへは、渡り廊下が続いている。六面あるコートでは上級生たちの練習でインパクト音が響いていた。
 フェンス沿いにコートサイドを歩く。部室棟の三階にテニス部の部室があり、そこに千尋のロッカーもある。一年生の間は共同ロッカーを使うのが普通だが、特待生である千尋ともう二人の新入生は既に専用のロッカーが与えられていた。着替えを済ませ、ラケットを手にコートに戻る。一年生の中で、今日は千尋が一番乗りらしく、他の二人の姿は見えない。上級生たちに挨拶をしながら、コートに入った。
 千尋が到着したのを見ていたらしく、真ん中のコートから声が飛ぶ。この声はテニス部部長の声だ。

キワ、準備運動終わったらこっち来いよ」
「部長、その『キワ』っての何とかなりませんか」
「特待生一号の方がよければそうする」
「何すかそれ。俺たち戦隊もののヒーローっすか」
「うん? 三号がよかったのか?」
「いや、そういう問題でもないっす」
「じゃあキワでいいじゃないか」
「いや、あの」
「うん、だから、お前はキワだろ?」

 不毛な会話がループしている。この部長に呼称に対する常識を求めるのがいかに無駄な行為なのかは、五日接するだけで十分に理解出来たが、それでも千尋を「キワ」と呼ぶ相手は初めてで、どうすればその奇妙な呼称から離れられるのか、その答えばかり求めている。溜め息を一つ吐き出す。半年の我慢だ。部長は三年だから、全国大会が終われば引退する。そう自分に言い聞かせて、準備運動を始める。残り二人の特待生もその頃には姿を見せていて、結局三人でロードワークに出た。
 特待生といえども、三人はまだ仮入部の段階で立海テニス部のジャージは持っていない。それぞれ自分で買ったジャージを着ている。初日は体操着だったのだが、どうせ自主練のときにはジャージが必要だという結論に達して、三日前に三人で都市部まで行ってジャージを買った。だから、同じメーカーの色違いのジャージを着ている。
 そんな三人で外周を走っていると不意に千尋の名前が呼ばれる。

常磐津

 自慢ではないが、親族以外で千尋と同じ苗字を持っている相手に出会ったことはない。そのぐらい個性的な苗字だ。だから、別の誰かを呼んでるのだとかいう心配をしたこともない。その苗字が呼ばれる。千尋は声のした方を向いた。

「柳――と、幸村?と誰だ?」

 速度を緩めた千尋の視界には、同じクラスの柳に新入生代表の幸村、そして気難しそうな顔をした誰かがいる。二人の特待生に三人目を知っているやつがいて、千尋は気難しそうなやつの名前が真田だということを知った。

キワ、あの三人と知り合い?」
「お前らまで『キワ』かよ」

 一様に足を止めると、特待生たちがめいめい声をかけてくる。
 その呼び方は部長に影響されたもので、千尋はげっそりとした。
 遺憾の意を呈すると二人は顔を見合わせて笑う。

「部長がそう呼んでるんだから、合わせるのが筋だろ」
「わかった。卒業するまでにお前らにも変な名前つけてやる」
「無駄な意気込みはいいから。キワ、幸村たちと知り合いなのか?」

 その問いに、何と答えるべきか考えていると幸村が張り付けたような笑みを浮かべて近づいてくる。

常磐津、覚えてるかい? 俺だよ、幸村精市」
「一昨年の準決勝で当たった幸村なら十分覚えてる」

 あの時はどうも。
 千尋がそう言うと、後ろの二人が勝手に両手を合わせている。

「あー、キワ、ご愁傷さま」
「俺はまだ勝ったとも負けたとも言ってねーだろうが」
「えっ? キワ、不戦敗?」
「だから! なんで俺が負ける前提なんだよ!」
「嫌だな、常磐津。全国大会二連覇の俺が誰かに負けるわけないじゃないか」
「お前もかよ! 事実だけど、そういうときはもっと低めの態度取れよ! ぶっちゃけ初対面だろ、お前!」

 小学生の時に対戦したのは事実だ。でも、そのときは試合をしただけで会話をするのは今が初めてだ。だから、もっとお互い緊張感のある会話から始まるべきだ、と千尋は思っている。なのに、そう思っているのは千尋だけで、残りの四人は既に気安い会話をする雰囲気になっている。この場にいて、千尋と同じように堅苦しさを求めているのは真田と呼ばれた生徒一人だけだと気付く。

「おい、お前、真田とかいうお前! お前も何とか言えよ!」
「うむ、幸村の言い分は的を射ているな」

 全国大会二連覇なのだから、幸村に負けなどあり得ん。はっきり、きっぱりとそう断言されて、唯一の味方だと思っていた真田に助けを求めるのも無理だと知る。
 何なんだ、今日は厄日か。そんな現実逃避をしようとすると、今度は柳の声が追い打ちをかけた。

常磐津、お前が『厄日』という概念を知っているという事実にはいささか驚いたぞ」
「柳、俺はまだ何も言ってねーんだけど?」
常磐津、試合中のお前のポーカーフェイスは実に厄介だが、日常のお前は直情径行だ。これもまた一つ新しいデータだな」

 言って、柳が手元で何かをメモ書きした。
 逃げ場などどこにもないと知る。それならそれで、流されてしまうのが一番楽だ。プライドはある。常磐津千尋という人格もある。それでも、流れに逆らう時と流される時の区別ぐらいは出来る。多分、テニス部部長に「キワ」呼びをやめさせるのと同じぐらい、この五人の会話を遮るのは不毛だ。

「で? 何。俺たちロードワークなんだけど」
「そう邪険にするなよ、常磐津。明日からは俺たちもチームメイトじゃないか」
「いや、その前にお前ら全員、敵なんだけど」
「違いない。キワ、お前、意外と現実的なやつだな」
「意外とは余計だ」
「俺は誰にも負けないよ? お前たちは勿論、先輩たちの誰にも負けないさ」

 嫌味を感じさせない爽やかな笑顔で幸村が言う。中学生と小学生の間にある壁の高さに戸惑っていた千尋たち特待生組は、幸村の笑顔を見て一様に呆気に取られる。顔を見合わせて、そして結局は誰からともなく噴出した。
 幸村の整った顔が難色を示す。

「何だい? 人が真面目に言ってるのに失礼だとは思わないのかい」
「いや、別にお前を笑ってるんじゃない」
「そうそう。キワも俺たちも若干へこんでたから」
「お前がおかしいんじゃないさ、幸村。俺たちは俺たちが恥ずかしい」

 全国制覇を掲げて特待生として入学した。誰にも負けないという自負があった。それをたった五日で滅多打ちにされて、中学テニス界の厳しさを知って、正直なところ臆病になっていた。
 幸村の笑顔を見ていると、彼は現実を知らない、と思う憐憫より、自分たちが何を怖がっていたのか、という滑稽さが身に染みる。
 だから。

「明日、お前たちが来るのを楽しみにしてる」
キワ、そろそろ戻らないと」
常磐津、俺はお前のテニス、好きだよ」
「試合に負けたのに?」
「これから、もっとずっと強くなるんだろう? そうなったお前をもう一度叩きのめすのも悪くないとは思わない?」
「随分いい性格で。でもまぁ、立海の先輩たちは大体そんな感じだから、お前ならすぐ馴染むだろ」

 じゃあ、また明日。
 言って千尋たちはロードワークに戻る。
 四月の風はともすればまだ冷たく、冬の名残がある。それでも桜は咲いて散っていくし、学校生活は始まっていく。青く晴れ渡る空の下、千尋たちの足音が規則的に刻まれて消える。立海大学付属中学校の外周は長い。その道のりを走りながら、今日の練習に向けて気合いを入れた。部活が終わったら、自主練をしに行こう、と誰からともなく口にする。負けたままをよしと出来るほど勝負に飽いてはいない。
 千尋の厳しい中学生活が始まろうとしていた。