All in All

14th. Muito obrigado

 夏は暑い。暑いのはどうしようもないが、その度合いが年々酷くなっていく一方で、常磐津千尋は十三歳なりに地球の未来を心配していた。
 とは言ってもエアコンは使うし、冷凍庫で冷えたアイスクリームも食べる。文明の利器を手放したり、控えたりするほど千尋は博愛精神を持っていないから、地球の心配というのはただの建前だ。地球が壊れたら大変だ、と思うのと同じぐらい、地球と一緒に人類が全員滅ぶのならそれはそれで仕方がないことだと思っている。十三歳の憂慮などその程度だ。
 暑ければ暑いと言う。暑いと言うから余計に暑く感じるのだ、と真田弦一郎は精神論を説いたが、その高尚な理論は千尋の中ではなかったことにされた。
 そして今日も丸井ブン太たちと暑い、やる気がない、を連呼しながら真剣に基礎練習をする。定期考査の朝の状態に似ている、と千尋はぼんやり思った。自分にやれることはやったが、それが十分かどうかはわからない。不安があるから心配だとかもっと勉強をしたらよかっただの言うが、その実の解答には手ごたえを感じていて、でも誰にもそれは言わない。
 それを卑怯だとか姑息だとか思わないぐらいには、千尋もコミュニケーションの複雑さを理解し始めていた。

「柳生、暑い」

 コートでは二組がラリーの練習をしている。千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)はラリーの練習を横目に見ながら、コートエンドの空間を使ってボレーボレーを続けていた。ラリー待ちの一年生たちが、自分も自分もと練習相手に名乗りを上げるので、千尋たちには殆ど休憩時間がない状態だ。
 それを見かねたマネージャーが適度に水分と休養を取るように、とドリンクボトルとタオルを持ってきた。それを受け取って、二時間四十分ぶりに千尋にも休憩時間が回ってくる。
 ベンチに腰かけて冷たいドリンクを喉に流し込む。食道を通る瞬間、ひやりとする感覚がある。清涼感はすぐに馴染んで消え、あとはただドリンクの味だけが残った。
 タオルで顔を拭う。拭っても拭っても顔中から汗が止まらない。水をかぶってきた方が早い、そんなことを思いながら隣でラリーの順番待ちをしている柳生比呂士に話しかけると、彼は穏やかな微笑みを崩すことなく、事実の指摘で返答した。

「三十分間も丸井君とボレーボレーを続けていれば当然でしょう」
「いや、やめどきわかんなくて」
「でしょうね。でも、丸井君は随分とボレーが上手くなったとワタシも思いますよ」
「柳生、お前どう思う?」
「今の段階では丸井君の技術はそこそこで、三十分間ボレーが続くのは常磐津君、君の腕前によるものが大きいでしょうね」
「お前のそういう冷静で客観的なとこ、嫌いじゃない」

 千尋たちと一緒に練習を始める前の丸井はラケットの面の使い方はわかっているものの、力加減やどこにどういう角度で当てるとどうなる、という感覚が伴っていなかった。それは丸井だけが特別に劣っているわけではなく、初心者ならば誰でも当然のように通る道だ。柳生も仁王雅治もその点では丸井と何ら変わりない。
 ボレーボレーが苦手だ、と丸井は言った。
 その言葉通り、丸井のボレーはどこに飛んでいくか皆目見当が付かなかった。この状態の一年生同士でボレーボレーをやれば、当然、苦手意識が生まれる。当たり前のことだ。ボレーボレーが十回続けば御の字。誰もがそう思っている状態で、自分の力だけで前に進むのは極めて困難だ。
 千尋はテニスクラブに通っていたから、コーチの指導を受けている。困難に遭遇したときには大人たちが適切な練習に付き合ってくれた。だから、今の千尋がある。
 それを丸井たちに返すのは恩を売りたいからではない。テニスがどんなスポーツで、どんな楽しみがあるのかを丸井たちと分かち合いたかった。
 だから。

「丸井君が一歩も動かなくても、ちゃんと返球出来る位置にボレーし続ける、だなんてワタシたちには到底無理な芸当ですね」
「コントロールの問題だからな。相手の手元に返すのも、相手が取れない場所に返すのも、もとは一緒だろ」
「簡単そうに言ってくれますね。ワタシたちはボールを面に当てるだけで精一杯ですよ?」
「慣れだ、慣れ。自分の使っているラケットの感覚がわかればお前たちも普通に出来るようになるんだって」

 千尋の言う「慣れ」が来るまで、どのぐらいの練習が必要なのかは個人差がある。一か月でラケットの感覚を掴むものもいれば、一年経ってもまだ覚束ないものもいる。それでも、練習を続ければいずれは慣れるし、そこに至るまでに心が折れるのなら、そいつはテニスに向いていなかったということだ。千尋はそう思っている。

「でもまぁ、丸井の集中力が三十分も続くとは思ってなかったな」

 ボレーが苦手だと言っていた丸井はこの数日で驚くほど技術を上げた。手首のしなやかさと瞬発力は生まれ持った財産だ。千尋はどちらも持っていない。だから技術を磨いた。その、喉から手が出るほどほしかった天性の財産を丸井が持っている。このまま彼と練習を続けていけばそのうち特定の分野において、丸井が千尋を追い越す日も決して遠くはないだろう。
 後ろから追い上げられる不安はある。
 それでも。
 丸井とボレーボレーが三十分続いたことに、何となく喜びを感じた。
 そのことをそのまま表現するのは少し悔しい気がして憎まれ口になる。柳生なら微苦笑で流してくれるだろう。そう思えるぐらいには千尋と柳生の間にも信頼関係のようなものが生まれ始めていた。
 丸井、仁王、柳生。彼らにあだ名を付ける日を期待しながら悪口を叩くと、反応は反対隣りから聞こえた。

キワの集中力が三十分続いたことにも俺は感動してるけど?」
「ダーイーちゃーん、お前、またかよ」

 千代だ。また煽ってきている。本当に彼は人の神経を逆撫でするのが好きだな、と呆れながら声の主と向き合う――筈だった。
 なのに。

「あれ? 仁王? ダイは?」

 千代の声がした。あの煽り方は間違いなく千代だ。なのに、柳生から視線を外して振り返った先にいたのは仁王で、千代は反対側のエンドで今もまだボレーボレーをやっている。違和感しかない状況に困惑していると「プリッ」と仁王が呟いた。その擬音語の意味を尋ねる前に「どうじゃ、似とったじゃろう」と彼が言うので、察しの悪い千尋千尋なりに答えの片鱗を感じる。

「なぁ、今のお前?」
「そうじゃ、言うたらどうなんぜ?」
「いや、別にどうとかないけど、ちょっとびっくりした」
常磐津、お前さん、相変わらず馬鹿なんか器がでかいんかようわからん奴じゃのう」
「何が」

 びっくりした、よりもっと他のリアクションあるじゃろうが。
 苦笑いで仁王はひょこひょことベンチまで歩いてくる。そして、千尋と柳生の間にあった一人分には少し狭い隙間に腰を下ろす。
 狭い。素直にそう告げると今度は「ピヨッ」という擬音が聞こえる。

「ええじゃろうが。二人掛けのベンチに三人。常磐津、お前さんどうせすぐにコートからお呼びがかかるき、俺にも座らせてくれてもええじゃろ」
「いや、そういう文句を言ってるんじゃない」
「じゃあどういう文句じゃ」
「このくそ暑いのに三人べったり並んで座るとかいい迷惑なんだよ。座りたいなら座りたいって言え」

 そうしたら俺が立てるだろうが。
 言って千尋はベンチから立ち上がる。黒のリストバンドをはめた千尋の左手が仁王の掌に捕まって、ぐいと引き戻されるが千尋にはもう座る気がない。ぐっと力を込めて拒む。千尋の左手を千尋本人と仁王とで引き合う形になったがどちらかが譲る気配はない。その無駄な攻防を見ていた柳生が「君たちは優劣付けがたいですね」と言ってベンチを離れた。グッドラック。眼鏡のブリッジを持ち上げながら残した台詞が千尋と仁王の反応を奪っていく。一拍遅れでどちらからともなく正気を取り戻し、結局千尋は仁王と並んで座った。

「柳生、行っちまったじゃねーか」
「何じゃその言い草は。雅治君がおるじゃろうが」
「何なんだよ、雅治君は俺と何の話がしたいんだよ」

 投げやりに言葉を返すと仁王の眦が細められる。にっと、効果音の付きそうな笑顔で彼が口にした言葉は決して生易しくはなかった。

「そうじゃのう。お前さんの弁当の中身の話とかどうぜ?」
「知ってどうする」

 仁王が本当に弁当の中身を知りたいのかどうかぐらい、幾ら千尋がトリ頭でもわかる。言外に、昼食時になると三強や特待生でつるんでいることを非難されているのだ。わかっている。わかっているが、千尋はそれを変えるつもりがないから意味が分からないという体を繕って切り捨てた。
 仁王が溜息を零す。

「皮肉も通じんのかい。お前さん、本当に大したもんじゃのう」
「上げながら落とすお前の器用さには負ける」
「おっ、俺の喧嘩、言い値で買うてくれるんかい?」
「勘弁しろ。暑いんだよ。暑いのに無駄なことさせるなよ」
「それが無駄かどうかは俺が決めるき、お前さんは値切り交渉の文句でも考えんしゃい」
「押し売りかよ。二十日以内だ。クーリングオフさせろ」
「知らんでええことは知っちょるのう、常磐津
「いや、知らねーと家庭科の試験で悲惨な思いするだろ」

 いや、それはどう考えてもお前さんとは無縁じゃき、知らんでええことじゃろ。
 急に真顔になって仁王がそう言う。
 上げながら落とす。千尋自身がそう表現した通り、仁王はコートの外ではただの馬鹿でしかない千尋と駆け引きをして楽しもうとしている。
 うだるような暑気の中でそれに付き合うだけの気概はない。さっさと切り上げて練習に戻ろう。そんな決心をしていると千尋の心の底を見透かしたように仁王が「常磐津」と名前を呼んだ。

「何だよ、仁王」
「お前さんにとっちゃ俺たちなんぞ話にならん相手なのかもしれん。それは否定せんよ。じゃけど、俺たちは俺たちで必死なんじゃ。上から目線で『教えてやる』と本気で思っちょるならとっとと去ね」
「お前、本当落差ひどいよな」

 でも、仁王の言い分は多分間違っていないのだろう。
 千尋がどんな目標を持ってここにいるのか、そんなことは仁王には関係がない。ひたすら前を向いて走っている。なのに上から目線で勝手に批判されるのは決して心地よいものではないだろう。千尋にそういう気持ちが少しもなかったのかと尋ねられると完全には否定出来ない。出来ないし、お互いが利用し合うのだからお互い様だと思っていた部分もある。
 仁王はそれを見抜いた。
 だから、怒っている。そのことに今更気付いて、どうすればいいのかの模範的解答を持たないことを知って、溜息が零れた。

「まぁ、お前の言ってることわかる」
「わかったなら――」
「待てって。俺、まだ全部答えてねーだろ。勝手に話終わらせんな」
「俺はお前さんと一緒で無駄が嫌いなんじゃ」
「お前、言ったよな。無駄かどうかは自分が決める。一緒ならわかるだろ。俺も無駄かどうかは俺が決める」
「吠えよったな。無駄じゃない根拠なんぞ聞いてやらん。お前さんの答えとかいうやつ、早よ言うてみんしゃい」

 小学生の千尋ならこの段階で忍耐力が尽きていただろう。
 コートの外では直情径行。その通りだ。感情一つ、言葉一つ、自分で制御が出来ない。不甲斐なさならもう嫌というほど味わった。自らの浅慮が、冗談のつもりの無神経が人を傷つける。そんなことすら終わってからでないと気付けない。
 それでも。
 気付いたのなら前に進める筈だ。立ち止まることを選ばない限り、人は成長の余地がある。後悔も反省も、抱くだけでは何の価値もない。価値ある経験に変えるだけの器を持っている、と千尋は仲間たちに評価された。
 それを今、仁王に示せなければ千尋の成長などなかったのと同じだ。
 わかっている。
 わかっているから、刺すような視線と対峙してぐっと顎を引く。仁王が千尋の答えを待っていた。

「お前が言ってること、わかる。わかるけど、俺はここから出ていく気はないし、お前に遠慮するつもりもない」
「じゃったらどうするんぜ」
「俺と試合しようぜ、仁王」
「は?」
「俺と試合して、それでもお前が納得出来なかったらそのときのことはそのとき考える。お前が納得出来たらそれで問題ないだろ?」
「お前さん、何言うちょるかわかっとるんぜ?」

 全部お前さんの都合じゃろうが。まだわからんのかい。なんで俺がお前さんの都合に合わせにゃならんのじゃ。
 語調荒く仁王が言葉を発する。その勢いに負けそうになって、それでも千尋は両足をぐっと踏ん張った。言葉の上で勝負をしても千尋に勝ち目はない。
 わかっていたから、テニスに託した。練習ではない。試合だ。千尋は全力で対処する。負けたら、とか勝ったら、ではなく納得出来たら、という条件にした。
 千尋の中にはテニスしかない。「All in All」殆ど全部、と柳が評した。その評価は今も変わっていない。だから、殆ど全部でしか伝えられないものがある。千尋のテニスに懸ける思いをぶつけて、それでも仁王が納得出来ないのなら、千尋と仁王が和解するという未来はないということだ。
 だから。
 嫌悪感を露わにする仁王を正面から見据える。
 視線の強さに瞼を伏せたくなっても、それでも気持ちで耐えた。

「仁王、負け試合だからって逃げるのかよ」
「随分な吠え方じゃ。テニス初心者捕まえて、手加減なしでリンチする方はそりゃ楽しいじゃろ」

 順当に考えればそうなる。千尋は手加減をするつもりがないから、圧倒的なワンサイドゲームになるだろう。才能の片鱗を見せてはいるが、仁王と千尋とではキャリアが違う。仁王はそれをリンチと表現したが、千尋は言われた後になって納得する。なるほど、その通りだ。
 それでも、千尋は仁王の言い分を全面的に受け入れて、このコートを去るつもりがなかったから煽りに煽りを返す。千代と言葉遊びをしているうちに、人の煽り方というものを千尋も何となく理解していた。

「お前、わかってないだろ。ここは実力主義だ。勝った方が無条件で正しい。それを『俺が勝ったら』じゃなくて『お前が納得出来たら』にしてやってるんだろ」
「はぁ? また上から目線かい。お前さん、ほんに腹が立つ言い草じゃ」
「お前がこのコートの総意、みたいな言い方するからだろ」
「大して違わんよ」
「それは試合が終わった後に聞く。で? 試合するのか? 不戦敗で俺の言い分全部通していいわけ?」

 それは嫌なんだろうと含めると仁王は不機嫌を顔中に貼りつけてベンチに立てかけたラケットを手に立ち上がった。

「俺は絶対に納得せんが、それでもええんじゃな?」
「納得? するよ、お前、絶対」
「おーおー、特待生様は言うことの次元が違うのう」
「で? どうなわけ」
「納得? させてみんしゃい。俺はブンちゃんみたいに軽い男じゃないきのう」

 言質は取った。仁王の険悪な声色に殆どの一年生が練習を中断して、やり取りを見守っていたから、一から説明する手間は必要ない。反対側のエンドにいた千代が呆れた顔で審判台まで歩いてきて「公正なジャッジを約束する」と言って勝手に上った。
 ラリーの練習をしていた四人が外に出て、成り行きを見守っている。
 千尋もベンチから立ち上がって、ラケットを持った。
 一度口にした言葉は二度と取り戻すことが出来ない。だから、言葉を選ぶときには慎重にならなければならない。それは正論だ。でも、大人たちはそこまでしか教えてくれない。失言をしたとき、どう挽回すればいいのか。ケースバイケースで最適解などどこにもない。それでも、一度ぐらいは後悔への適切な処理を教えてくれたっていいじゃないか。そんな風に思う。
 思うのだけれど、千尋はもう幼子ではない。自分のしたことの責任を負わなければならない。ただ、それは裏表で、責任を負えるなら千尋は自らの考えを譲る必要はどこにもない。
 だから。

「仁王、泣いても笑っても一セットしかねーからな」
「そりゃ俺の台詞じゃろうが。どんなつもりかは知らんが、泣くのはお前さんに決まっちょる」

 言葉で牽制をしながらネットを挟んで向き合う。「フィッチ?」の声に「ラフ」と返す。ラケットは表を向いて綺麗に倒れた。千尋のサービスから始まることが決まる。「コートは?」と問うと「こっちでええよ。どっちでも俺には何も出来んじゃろうしな」という刺々しい言葉が返ってくる。
 審判台の上から千代が「ザ・ベストオブ・ワンセットマッチ、常磐津サービスプレイ」のコールをした。瞼を伏せて、ボールを強く握る。何度かバウンドさせて、そして中空高くトスした。千尋の中の一番いい高さで両足を強く蹴る。オールラウンダーでも、サーバーでもない千尋のサーブはそれほど武器にはならない。それでも、ベストを狙った。スイートスポットに当たったボールが小気味のいいインパクト音を立てて相手コートへ向かう。仁王が捕球体勢に入ったが今のファーストサーブは全力だ。シングルスコートの一番外側を抉るように打ち抜く。当然、仁王のラケットは届かない。「15-0」千代の声が聞えた。
 千尋が本気でサービスを打つというのはそういうことだ。
 初心者の中で少し才能を感じる。その程度では千尋のサービスをラケットで受けることも出来ない。サービスエース四本で第一ゲームは終わり、仁王のサービスゲームになる。敢えてリターンエースを狙わずにラリーに持ち込む。千尋はコートの中では心理戦に長ける。ポーカーフェイスを取り繕って、必死にラリーから抜け出そうとする仁王の体力をじわじわと奪った。今、リターンエースで決めるより、もっと後のゲームで――体力の減った後半のサービスゲームでリターンエースを決められる方が、心理的な疲労が大きい。わかっていたから敢えてやった。性格が悪い。もっと清廉潔白なゲームメイクをすることも出来たが、千尋はそれを選ばなかった。
 千尋の掌の上でいいようにもてあそばれている。仁王にもそれが伝わったのだろう。彼の眼差しが一段と険悪になる。それでも、千尋は精神的な攻撃をやめない。いつまで続くかもわからないラリーがどれだけ苦痛なのかは千尋も知っている。知っているから敢えてやった。仁王にはゲームを落とす権利すらない。どんな甘い球でも手本通りに仁王に返した。スマッシュ一本でさっさと楽になどしない。屈辱に仁王の表情が歪む。
 結局、第二ゲームは十五分という長い時間をかけて千尋がラブゲームを達成した。
 この時点で、仁王に体力など残っていない。
 第三ゲームは敢えて仁王のラケットの届く範囲を狙った。返球は出来る。ただ、大体全部がホームランで結局はエースという結果を残す。第四ゲームも第五ゲームもラブゲームで第六ゲームもこのままなら千尋の完全試合が成立する。
 完全に息が上がった仁王と、呼吸の整った千尋
 千代が淡々とコールをする。一年生の大半はもうそろそろ終わってほしい、と願望のように思っている。リンチ。仁王が言った単語が脳裏に蘇る。その通りだ。それでも、千尋が本当に完全な勝ちを求めれば、こういう駆け引きに躊躇わない。それが真剣な勝負だということを伝えたかった。
 だから。
 悲壮感漂う段階まできて、千尋はリターンエースで決める。四球目のエースが決まり、千代が「ゲームアンドマッチ、ウォンバイ常磐津」というコールをするその瞬間をめがけて、仁王は得意げな顔で言った。

「お前さんら、見てみんしゃい。一年の中で一番マシな俺でこのザマじゃ」

 普段の千尋と千代がどれだけ手を抜いているのか、考えなくてもわかるだろう。そんなことを仁王が吠える。何を言い出すんだ、と思ったが、試合の感想は仁王に一任した。今更、感想の好悪に文句をつけるつもりもない。千尋は審判台を降りた千代と二人、仁王が何をするのか、黙って見届ける。

「お前さんらもわかっとるじゃろう。こいつら、ここにいてええ選手じゃなかろ」

 もっと上の世界で戦える、大したやつらじゃ。
 仁王のその言葉に「All in All」を伝えようとしたはずの自分の意図とは別に、千尋が仁王の掌で踊っていたことを知る。
 最初から、この展開を求めていたのは千尋ではない。仁王だ。千尋の性格を適切に把握して、どうけしかければいいのか、仁王は見抜いていた。安っぽい挑発に乗って、全力の勝負を持ち掛けさせる。そうすれば、一年の部員は必ず気付く。千尋と千代が今までどのぐらい手加減をしていたか。千尋たちにどんな価値があるか。自分たちの相手をする為に留めおいていい選手かどうか、眼前に突きつけられて何の躊躇いもなく首を縦に振れるやつなんていない。仁王の中ではそのこともわかっていた。わかっていて、無様な試合を演じた。
 その、器の大きさをまざまざと見せつけられて、千尋は千代の背中を誰にも見えない角度から強く叩いた。千代の方からも殆ど同時に接触があって、流石はダブルスのパートナーだなと小さな感動を覚える。

「仁王」
「何じゃ、お前さん、本気でやって今更後悔かい」
「違う。俺は後悔しなきゃならねーことなんて一つもない」
「じゃったらもっと顔を上げんしゃい。俺はお前さんの練習相手にもならん。お前さんらの足を引っ張って、それに気付かん振りもしとうない」

 優しいお前さんにはわかるじゃろ。
 言って仁王はとびきり優しく笑う。
 その笑顔の意味がわからないほどには千尋も馬鹿ではない。千尋はこのコートに残りたいから全力を出した。仁王は千尋たちをあるべき場所へ戻したいから全力を受けた。
 結果と意図には何の不満もない。事実を否定して、願望を肯定したいと思うほど、千尋は現実を倦厭していない。
 それでも、仁王の笑みは雄弁に語る。
 仁王たちが千尋と対等の勝負をするときは今ではない。もう少し先の未来のことだ。そのときまで、千尋と千代はあるべき場所で戦っていてほしい。追いつくべき目標は遠ければ遠い方がいい。そんな希望を含んだ優しい笑顔に甘えていいのか迷う。千代が「キワ、どうする?」と答えの決まっている問いを口にして、そうしてやっと千尋も自分の気持ちと正直に向き合った。

「どうするも何も。このコート追い出されたら行くとこないだろ」
「だよな。レギュラーの足、引っ張るのわかってて向こう戻れるわけないし」

 二人で顔を見合わせて笑う。
 心のどこかで自分たちが特別だと思っていた。上から目線で「教えてやっている」と思っていた。何かを与えられる立場だと思っていた。
 その小さな優越感と別離しよう。今は特待生も一般生もない。経験の差も、技術の習熟度も関係がない。千尋と千代はここにいる。その現実は決して変えられないし、特例を作れるほど千尋たちに特別な価値があるわけでもない。
 だから、千尋は千代と一緒に心の底から微笑む。
 想定したのとは別の方向へ進もうとしている現状に、仁王は声を荒げた。

常磐津、千代、わかっとるんじゃろ?」
「仁王。俺たちは一度決めたことを簡単に覆して、自分たちだけがいい思いをするのなんてごめんだ」
「じゃけど」
「けど、も、でも、もない。仁王、俺たちはここで戦うんだ。キワと俺とで決めたんだ。お前たちの迷惑になるなら、ずっとコートエンドでいい。ここにいさせてほしい」
「千代、お前さん、それでええんぜ?」

 もちろん。
 二人、答えを躊躇わず揃えて返す。やっぱり、千尋と千代は息の合ったパートナーだ。そんな感触を得て拳と拳を突き合わせた。
 仁王、諦めろよぃ。
 柔らかな声が仁王を押しとどめる。ブンちゃん。仁王が焦った声を出す。

「諦めろよぃ。そいつら、お前が思ってる以上に馬鹿みたいじゃねぇか」
「本物の馬鹿だ、と常磐津君が身をもって示してくれたのに、これ以上確かめるのは些か礼を失しているとワタシも思いますね」
「柳生、お前さんまで何を言うちょるんじゃ」
「ワタシたちでは相手にならない、と君が思うのならワタシたちも相応の努力をすればいいのではないですか? それとも、仁王君。君はワタシたちにはそれが出来ない、とでも思っているわけではないでしょう?」

 もしそうなら、それは我々に対しての最大級の侮辱だということには気付いていますか。
 柳生が穏やかな声で問う。仁王が返答に詰まって、丸井に助け舟を求めたが、それもまた穏やかな笑みで拒まれた。

「仁王、諦めろって。頭の中テニスしかないテニス馬鹿からテニス取り上げんのなんて絶対無理だぜぃ」
「別に、俺はそんなことは言うとらんぜよ」
「おんなじなんだよぃ。こいつら、馬鹿だから特例作ってもらうのなんて絶対認めねぇし、今更準レギュラーの先輩差し置いてレギュラーの練習相手に立候補とか出来ねぇんだって」
「ですから、我々がレベルアップして、少しでも退屈な練習から脱するのが最も合理的な選択でしょう」

 そういうことでしょう、常磐津君。
 柳生が眼鏡のブリッジをくい、と持ち上げて千尋たちを見た。

「柳生、流石頭のいいやつは話が早いな」
「君が、それだけの馬鹿だということを六ゲームも使って丁寧に説明してくれましたからね」
「ってことで、俺とダイはここに残るから。お前も覚悟しろよ、マサ」
「何じゃ、それは」
「お前雅治君だろ? マサ。順当でいいじゃねぇか」

 それとも、ハルの方がよかったか、と千尋が問うと隣の千代が話に乗ってくる。

「ハル、俺とこいつもダイとキワでいいから」

 お前、ハルでいいだろ。
 千代がそう締め括って苦虫を嚙み潰した顔の仁王が「好きにしんしゃい」と諦観を提示したところで丸井と柳生がコートエンドからやってきて、仁王の両側から話に口を挟んだ。

「じゃあ俺たちはブンとヒロかぃ?」

 丸井ブン太と柳生比呂士だから、順当にいけばそうなる。それでも、言葉遊びに慣れた千尋は敢えて変わった区切り方を探す。
 そして。

「ルイでいいだろ」

 まルイだからそれでいい。
 勝手に決めて口にすると千代が隣で溜息を零す。

キワ、それだとフランスの貴族に聞こえる」
「えー、ルイでいいだろ」

 割といい名前だと思うんだけど。言うと丸井は苦笑して「まぁ、ブンより言いやすいしいいんじゃねぃ」と受け入れたようだった。
 それを見ていた柳生が紳士然とした彼らしくもなく、好奇心丸出しで眼鏡の奥で双眸を輝かせる。

キワ君らしい拘りですね。ではキワ君。ワタシの名前はどうしますか?」
「ダイ、どうする」
キワ、お前の野望だろ。好きなように考えたらいい」
「ダイ、お前、まだそれ根に持ってんのかよ」

 四月のことだ。千尋の名前が呼びにくいと部長が個性的なあだ名を考えた。それは瞬く間に先輩たちの間に浸透して、千尋は自分の名前が最初からキワだったかのような錯覚を起こしそうになった。そのときに千尋は決めた。仲間たちにも個性的なあだ名を付けてやろう。
 そのことを八月に入った今も千代が覚えていることを指摘すると表情一つ変えずにさらりと答えが返ってくる。

キワほどじゃないけど、自分で始めたことなんだから責任取るのが筋だろ」
「筋、なぁ」

 筋と言われても、責任を持って変わった名前を付けますとも言えず、千尋はしばらく頭を悩ませた。
 そして。

「ヤギだな」

 ヤギュウの頭から二文字を取る。その名前を一人で納得して告げるとすかさず隣の千代が横やりを入れてきた。

「白ヤギ? 黒ヤギ?」
「ダーイーちゃーん、早速かよ」
「名前で遊びたいの、キワだけじゃないんだって」

 ヤギと言えば白か黒かだ。そんな断定が聞こえて千尋は自分のネーミングセンスを棚に上げて千代を批判したい衝動に駆られる。それが音にならなかったのは、自制心が勝ったからではない。名前を付けられた本人の感慨深そうな声が先に聞こえたからだ。

「ヤギ、ですか」
「ヤギが嫌ならヒロでもいいけど」
「いえ、ではワタシは白ヤギの方で是非」

 穏やかな微笑みが千尋の思い付きを確かに肯定する。千代のお遊びまで肯定するその懐の深さに千尋と千代は顔を見合わせて、一瞬だけどんな反応をするのかで悩んだ。

「そのこころは?」

 反応が出てこない千尋たちをよそに仁王が含みのある笑顔で問うた。
 柳生はレンズの向こうで緩やかに眼差しを細めて「仁王君にしてはいい質問ですね」と言って一つ咳ばらいをする。
 そして。

「『Shiro-yagi』のSを省けば『Hiro-yagi』つまり、ヒロ、ヤギ。ヒロシ・ヤギュウであるワタシには相応しい名前ではないですか?」

 そうでしょう、キワ君。
 同意を求められても、千尋の考えはそこまで深くない。千尋は発想の瞬発力だけで生きているから、論理性を伴った弁論とは縁遠い。センスがいいか悪いかは別として、思いつく速度だけが自慢だ。
 だから、千尋は柳生の返答に込められた思慮に感動する。

「すげー、俺、そこまで考えてなかった」
「俺、適当に言ったのにヤギって一瞬でそこまで考えるんだ。頭いいやつって本当にすごいな」
キワ、ダイ、お前さんらほんに考えなしで喋っちょるんじゃのう」

 呆れたように仁王が笑う。馬鹿にされているのではない、侮られたのでもない。仁王は千尋と千代がやっと身に着けた国語力で遊ぼうとしているのを純粋に受け入れた。考えなし、とは心外だ、と表情で答えるとやれやれという表情が返ってくる。
 仁王たちに名前を付ける日に思いを馳せた。それが今日、すぐにやってくるだなんて思いもしなかったから千尋は現実の複雑さと意外さの前で少しだけ躊躇している。千代にしてもそうだろう。仲間が増える予感はあったが、それが今であるという実感が遠い。嬉しさと、これから先の楽しみと、そしてほんの少しの驚きとで言葉が出てこない。
 今、目の前にあるものが幻ではないと何度も確かめて、胸の内で生まれたものを転がす。そうすることで、千尋は現実と願望との間にある溝を埋められるような気がしていた。
 沈黙を続ける千尋たちを置いて、丸井たちの軽口は続く。

「まぁ、そういうことだからよぃ。これからもよろしく頼むぜ、キワ
「結局、俺が踊っとったんかお前さんが踊っとったんかようわからんことになったもんじゃ」
「仁王君。踊る阿呆に見る阿呆という言葉を知っていますか?」
「要は全員、阿呆っちゅうことかい、柳生」
「そうですね。同じ阿呆なら踊らにゃ損、と続きますし、全力で踊ってはどうです」

 全力で踊る。その言葉に三者三様に肯定の反応を示しているのを見て、千尋の中でもやっと言葉が生まれた。

「お前ら、それでいいんだな」
「いいも何も、お前さんが望んだ展開じゃろうが」
「いや、俺が思ってたのはもっと手前だったっつーか」
「何じゃ。段階すっ飛ばされたのがそんなに不満かい」
「いや、そんなことない。俺たち、ここにいていいんだよな」

 実感を伴わない展開に気持ちが置いて行かれそうになっている。このコートに残って頑張りたくて仁王に試合を挑んだ。仁王の挑発は千尋たちへの気遣いで、怒りも憤りも本意ではなかった。そのことを知っても、まだ感情が追いつかない。
 千代と二人、審判台の前から動くことが出来ない千尋に向けて、三人はこれ以上ないほどの笑みを見せて、そして言う。

「当たり前じゃろうが。お前さんたちからは盗まにゃならんことが山ほどあるきのう」
「そうそう。やっとボレーの面白さがわかってきたのに、今更一抜けた、なんてナシだろぃ」
「ですから、君たちにはここにいてもらわなければなりません」

 全国大会が終わるまで、このコートにいてもいい、と言われる。
 このコートで一緒に戦ってほしい、と言われる。
 一か月、ここで過ごしてやっと自分たちの居場所になった感覚で胸の中がいっぱいになる。鼻の奥がつんと痛い。でも、今は泣くときではないからと理性で押し留めた。
 隣の千代も同じような顔をしている。仰ぎ見なくてもそれはわかった。今一度、千代の背中を叩こうと思った。その瞬間に、二人の後ろから聞きなれた朗らかな声が聞える。

キワ、よかったらー。そういうときは『ムイト・オブリガード』だらー」
「シュウ?」
「シュウだけじゃないよ。一年生のコートで面白いことやってるって、先輩たちが教えてくれたんだ。俺たちもお前の試合、見てた」
「精市まで、何やってんだよ」
キワ、実に興味深いデータが取れたぞ。お前は一か月前よりもずっと強くなっている」

 球速、ショットの正確さ、体力、フェイントのタイミング、そして。
 一息を挟んで柳蓮二が言う。

「全てのフォームが一か月前よりずっと美しくなった。お前の言った通りだ。基礎練習は決して無駄にならない」
「まして誰かに教えるともなればその技術の正確さは必須。お前たちがこのコートで得たものは次の選抜戦で必ずや武器となろう」
「だってさ。よかったね、キワ、ダイ」

 そうでなくちゃ、選抜戦で戦うときの楽しみがないじゃないか。
 あっけらかんと幸村精市はそう言って笑う。自主練で毎日、得意な分野の練習をする。千尋たちの成長なら、その中でも十分に感じているはずの彼らがわざわざ一年生のコートまで来て告げる意味ならわかっている。幸村たちは他の一年生たちが不必要な遠慮をしない為に今、気付いたような顔で説明してくれた。回りくどい優しさに千尋と千代は顔を見合わせて苦笑する。
 立海に来てもう四か月目だ。この学校を選んでよかった。心の底からそう思う。
 勝ちを追い求めて、一緒に戦っていける仲間に恵まれた。本当の本当に「立海の特待生」であることを誇りに思える。それだけの意味を知った。
 だから。

「ルイ、ハル、ヤギ。明日から、こいつらも一緒に昼飯にしようぜ」
「たまにはいいこと言うよな、キワ。賛成、俺もそれがいいと思う」

 たまには、は余計だ。そんなことを言っていると徳久脩(とくさ・しゅう)が駆け寄ってきて両腕に千尋と千代を抱きこむ。
 先ほど彼が口にしたカタカナ語の意味を問うと「どうもありがとう、だらー」という返答がある。

「『Muito obrigado』、ポルトガル語で感謝の意を表す」

 柳が更に詳しい説明をくれたが、千尋はその説明に両目を瞬かせた。

「ポルトガル語? シュウ、なんでポルトガル語?」
「俺の生まれた街、日本で一番ブラジル人の多い街なんだらー。だもんで、ちょっとぐらいならわかるんだに」
「お前、意外と色んな才能あるな」
キワ、そこ、感動するところじゃないから」

 取り敢えず、苦しいからこの腕放せよ、シュウ。
 千代が表情を変えずに陳情するが、徳久には届かない。
 キワ、ダイちゃん、よかったらー。何度も繰り返して無邪気に笑って、結局は三強に引きずられるようにしてレギュラーコートに連れ戻される。
 最後まで笑みを崩さなかった徳久に呆れていると、「お前ら、ほんっとうに飽きねぇなぃ」と丸井たちに笑われる。
 そんな、平凡で突拍子もなくて当たり前の毎日が明日からも続いていく。
 全国大会はもうすぐだ。関東大会と同じ、深紅を手に入れる為にどんな苦難が待っているのかはまだわからない。それでも、明日を信じられると思った。
 暑い夏はまだ当分終わりそうにもない。