All in All

13th. 長すぎる一言

 理想を持たないで上を目指すことは出来ない。
 どんな形でもいい。今より先を見ているからこそ、成長が出来る。
 誰かにそんな説教をされたわけではないが、常磐津千尋はその根源的な心構えを知っている。
 ただ、知っているのと自分がそうなっているのとは別の話なのだ、ということを理解したのは関東大会の決勝戦でのことだった。
 幸村精市が跡部景吾に宣言した通り、決勝戦のオーダーは両校とも三タテの構えだった。
 常勝立海大のコールの中でダブルスの二試合が終わる。氷帝学園のダブルス二組も強かったが、徳久脩(とくさ・しゅう)と真田弦一郎、部長と副部長というカードを切った立海の敵ではなかった。立海が危なげなく二勝を収め、シングルスになる。
 幸村と跡部。
 一年生ながらに最強の看板を背負った二人の試合は終わってみれば6-2で幸村の快勝だったが、その内容は濃く、千尋はスコアを記録しながらいい勉強をさせてもらったと思っている。登録選手たちが表彰を受けている間に、スコアブックにマッチポイントを書き終えて、添える一言を考えていた。同時進行で二つ以上のことをする、いわゆるマルチタスクは不得手だと思っていたのに、一言を考えながら表彰式の進行に合わせて拍手を送っている自分に気付いて、本当に少しだったが自分自身の成長を知った。
 千代由紀人(せんだい・ゆきと)は真田と徳久の試合を記録した。準決勝で第三試合を千代に譲ったから、順番として千尋が決勝の第三試合を記録しただけのことだったが、千代が不意に不満を漏らす。こんなに面白いゲームだってわかってたら譲らなかった。その駄々をこねているような小さな不満に、決勝なのだから、一番面白いゲームになるのはわかっていただろうと返すと、全国大会の決勝は俺に譲れよ、と言って書き終えたスコアブックをマネージャーの先輩に手渡す為に立ち去った。
 誰が譲るんだよ。遠くなる背中に向けてぽつり呟く。
 その呟きが霧散したころ、千尋の名前が呼ばれた。

千尋、どう? 俺が直さなきゃいけないところ、ちゃんと見つけてくれた?」

 声のした方を振り返る。深紅の優勝旗を携えた部長を先頭に、レギュラー陣が戻ってきていた。顧問の姿がないことを問えば、氷帝の顧問と話し込んでいる、という返答が柳蓮二からある。それはまだ立海へ帰るまでに時間がある、というのとほぼ同義で、幸村が開口一番、千尋のスコアブックの中身を問うた意味を理解した。

「まぁ、お前、二ゲーム落としたしな。直すところ、あるにはある。それより――」
「それより?」
「俺が参考にしたいこと見つかりすぎて、早く練習したい」

 千尋には柳のようにデータを集めることは出来ない。生まれ持った直観力と判断力だけで生きている。それでも、小学校の頃と比べると論理的な思考力が段違いだ。幸村と対戦して負けた小学校の全国大会。あのときは悔しさも小さかったし、冷静に負けを分析出来るほどの知性もなかった。
 こいつは天才だな。
 そう思って諦めていた自分のことを知って、千尋はそこから前に進む道を選んだ。
 だから。
 今、目の前で繰り広げられた八ゲーム。その中で幸村と跡部から学び取ることはとても多かった。立海にいると幸村の徹底したテニスに隙など見つからない、と思ってしまいがちだが跡部はそうではなかった。斬新な切り口で果敢に挑む。その結果、成功した場面と失敗した場面とがあるが、それを千尋自身が実行したらどうなるか。試してみたくないのなら、そいつはそれほどテニスが好きではないのだろう。
 幸村に対して添える一言よりも、自分自身に対して添える一言の方が圧倒的に多い。
 だから、その感覚を忘れないうちに練習をしたいなと思った。
 そのことを馬鹿正直に告げると幸村が苦笑いをする。

「何だい、それだと普段の俺たちからは参考になることなかったみたいじゃないか」
「いや、俺がなんでお前に負けてんのか、跡部見たらわかったっていうか」

 新しい視点を見つけたんだ。
 そう答えるより先に、千尋の後ろから不機嫌そうな声が聞えた。

「アーン? 誰が負けてるって?」
「うわ、跡部。いたのか、お前」

 聞き覚えのある、居丈高な声に振り向くと、そこには不機嫌を顔に張り付けた跡部が立っている。
 誰もお前の負けの話題はしていない、と反論する前に跡部の表情が不敵な笑みに変わった。

「そりゃいるだろ。俺様もお前の『一言』とやらに興味があるからな」
「えっ、お前、対戦校にそれ訊くわけ? プライドとかねーの?」
「バァーカ、プライドがあるから訊きに来たんじゃねえか」
「えっと、意味が分からない」
「跡部、千尋はトリ頭だから、もっと噛み砕いて説明しないと伝わらないよ」

 千尋、お前と由紀人が一年生のコートに来ていた間に跡部は正面切って偵察に来たんだ。
 幸村が悪戯げに微笑んで言う。その内容が千尋の耳の奥に届いた瞬間、「お前、馬鹿だろ」と声が出ていた。直情径行。十二年間――いや、誕生日が来たのだからもう十三だ。その長い間、千尋を構成していたものが一時間や二時間で変わるわけがない。わかっている。それでも、千尋はまた後悔した。

「アーン? 誰が馬鹿だって? トリ頭の常磐津千尋
「あー、いや、俺のが馬鹿なんだけど、っていうか人のこと言ってる場合じゃねーっていうか」
「大丈夫だよ、千尋。データを取られたぐらいで負けるなら、俺たちは蓮二に全敗だ」

 そうだろ?
 試すような微笑みが問う。幸村が言っているのは当面、彼には負け試合の苦渋を舐める予定がない、ということで馬鹿さ加減の勝負では五分五分だろう。馬鹿は千尋一人ではない、というとてつもなく婉曲な表現に、今度は千尋が苦笑いした。ここにいるのは馬鹿しかいない。馬鹿でなければ、野望に近い理想を追いかけていくことなど出来ない。そう言われているのだ、とぼんやり理解して、千尋は自らの言葉に対する理解力が幾らか向上していることを知る。
 だから。

「精市、お前、選抜戦のスコア見せたのかよ。勘弁しろ」
「だって、ライバル校の部長が正々堂々とデータを取らせろって言うんだよ? こそこそやられるのを排除するのも手間だけど、正面から来るなんてもっと面倒じゃないか。さっさと帰ってもらう為の最善の選択だったと思うけど?」
「どうせ部長が許可したんだろ。っていうか、跡部、お前一年で部長なわけ? 精市並?」

 幸村は三強とは呼ばれても部長の座はまだ手に入れていない。立海は実力主義だが、それが全てではない。体育会系特有の序列もまた確かにあり、幸村が部長に任命されるのは少なくとも一年以上先の出来ごとだろう。
 幸村ですら持っていない「一年生なのに部長」という特別感のある肩書を跡部が持っていると知って、千尋は驚く。今更驚いた千尋を軽蔑するでもなく、跡部は闊達に笑い飛ばした。

「幸村並? ハッ、これだから馬鹿は困るんだ」
「何が」
「人と比べねえと安心出来ねえのか。てめえはてめえだろうが。俺様は唯一無二の存在で、最高なんだよ。わかったか、常磐津千尋
「わかるか。理屈の話は俺じゃなくて、サダとか蓮二にしろよ」
「アーン? 真田? 柳? 知るか。俺様が話してんのはてめえだろうが」
 
 そのぐらいはわかるだろ。
 憤然とした跡部の反論に、千尋はどうすればこの傍若無人な王様を止められるのか、少し考えて打ち消した。多分、跡部と千尋では頭の中身が違う。千尋が跡部を理解出来るのはもっと遠い未来のことだ。だから、多分。跡部も千尋に完璧な理解など求めていないだろう。だから、今、千尋がなすべきことを考える。

「えっと、取り敢えず、何だ。お前、俺の『一言』を聞いたら帰んのか」

 柳が鍛えた思考力で、真田が教えた建設的な答えを探す。何かをちゃんと考える、なんてこと小学校の千尋は一度もしなかった。理屈なんてどうでもいい。自分の気持ちだけが大切で、それが周りにどう影響するのかなんて考えられなかった。
 それでも。
 今の千尋は知っている。
 幸村が、真田が、柳が教えてくれた。自分の力で出来るところまで努力することの尊さを知った今の千尋になら出来る。そう信じられているから、立海の仲間は口を挟まない。その信頼に応えられると思った。だから、自分で考えた答えを口にすることが出来る。
 跡部は千尋と千代が書いた「一言」の付いているスコアブックを見て帰った。レギュラー七人分の試合結果だけではなく、これから七人がどう改善していくのかの指針となる「一言」を見た。レギュラーコートにいなかった千尋と千代の分のスコアはないし、あったとしても跡部は多分見なかっただろう。
 それでも、跡部は千尋のことを知っている。
 千代の方かと尋ねられた。どちらが千尋なのか、あのときの跡部には確証がなかった。それでも、跡部は助けてくれた。多分、どちらでもよかったのだろう。千尋も千代も。二回戦のスコアを書いていた。その時点で、跡部が興味を持った「一言」を書いた選手の顔として理解したはずだ。その、「一言」が両国中央に絡まれている。だから、助けてくれた。それだけのことだ。
 わかっている。
 跡部にとって、常磐津千尋の価値は「一言」しかない。
 だから。
 真剣に考えて答えた。跡部が小さく鼻を鳴らす。

「最初からそう言ってるじゃねえか」
千尋、俺も聞きたいな。千尋が見つけた、新しい『一言』」

 レギュラー選抜戦のスコアには両方の選手に「一言」を書いた。それと同じことを求められている。無理をする必要はない。千尋が思ったままを言えばいい。
 それでも。

「蓮二、一言じゃ無理なんだけど」

 どうしても「一言」に出来そうにない。助け船を求めると柳が千尋の言葉の裏の裏の裏を探って結論に達しないようだった。

「何がだ、キワ
「いや、だから、精市と跡部の試合見た感想。一言じゃまとめられないから、俺の言うこと、お前がまとめてくれよ」
「その話は長いのか?」
「えっと、取り敢えずプレイスタイルってあるだろ?」

 テニスのプレイスタイルは大きく分けて四つある。
 手堅いプレーを続けて、相手のミスを誘う「カウンターパンチャー」、攻撃に重点を置いた「アグレッシブベースライナー」、ネット際での攻防に長けた「サーブ&ボレーヤー」、そして全てに満遍なく対応出来る「オールラウンダー」。
 立海で言えば幸村と柳、それから千尋がカウンターパンチャーで、千代がサーブ&ボレーヤー、真田と徳久がオールラウンダーだ。それぞれにはそれぞれの相性があり、じゃんけんのように三竦みの関係があるとは言い切れないが、プレイスタイルごとに対処が違ってくるのもまた事実だ。
 決勝戦での跡部を見るに、彼はオールラウンダーだろう。
 オールラウンダーというのは一見、欠点がないように見えるが、逆を言えば突出した武器がないという弱点も持っている。だから、相手がミスをする瞬間をじっと待っているカウンターパンチャーと戦うと決め手に欠けることも多々ある。
 幸村と跡部の八ゲームはそれを体現していた。決勝戦の三試合で最も長いプレー時間。ポイントが移った数も桁違いで、デュースアゲインを何度聞いたのかはスコアブックに記録していなければ誰も思い出せないほどだ。
 そこまでを一息で説明すると、柳が興味深そうな顔をして「それで?」と続きを促す。

「跡部はオールラウンダーだろ? サダもそうだ」

 でも、幸村と対戦して二人の試合は同じ運びにはならない。
 実力の差は勿論あるだろう。お互いのことをどれだけ知っているか、という差もある。
 それでも、千尋は跡部と真田の違いが別の場所にある、というのを伝えたかった。
 柳は千尋の言葉を待っている。
 要領を得ない話し方で、聞いている方が疲れてしまわないか。そんな不安もあったが、千尋は柳の根気と自分が持っている評価を信じて言葉を続けた。

「シュウ、お前が教えてくれたあれ、何だっけ」
「あれって何のことだらー?」
「RPGのゲームあったろ。自分のキャラの職業選んで、育ててくやつ」
「あー、『戦記』のことだらー」
「そうそう、それそれ。テニスもあれっぽいとこあるよな」

 戦記、というのは徳久が紹介してくれたゲームのタイトルだ。本当は「何とかかんとか戦記」という長ったらしい名前があるのだけれど、特待寮では「戦記」で通じる。簡単で短い時間でプレイするタイトルが多い昨今、「戦記」のように腰を据えてじっくりとプレイするタイトルは珍しい。その珍しさが特待寮の中では小さなブームを生んでいた。
 だから、少なくとも徳久と千代にはこの表現で意図したことが伝わるだろうと思っていた。だのに、二人は顔を揃えて不思議そうにする。

キワ、意味がわからないんだけど」
「えっ?」
キワ、俺もわかんないらー」
「えっ?」

 何がわからないのかがわからない。
 テニスと「戦記」だ。同じようなものだと言う以外に何を説明すればいいのかわからない。困惑していると柳が「キワ、もう少し噛み砕いて説明してくれ」と助け船を出してくれる。何を噛み砕けというのか尋ね返すと、柳が一つひとつ質問で答えてくれた。

「まず、キワ。『戦記』というゲームを俺たちは知らない」
「えっ? 蓮二、お前『戦記』知らねーの?」
キワ、しょうがないらー。特待寮のゲーム機、古いもんでレンちゃんたちは多分持ってないんじゃないかに」
「えっ? 『戦記』って昔のゲームなのか?」
「だらー」
「そっか」

 それなら仕方がない、と気持ちを切り替えて千尋は「戦記」の概要を説明する。
 世界観はファンタジーで、仮想の国家の住人の一人としてプレイヤーはキャラクターを操作する。十種類ぐらいの職業があり、プレイヤーは自分で職業を選ぶのだが、選んだ職業によってステータスに補正がかかる。それとは別に、レベルアップする度にポイントがもらえ、それをどのステータスに割り振るかを決めることが出来る。
 そこまでを説明すると柳は「2000年代によくあったゲームジャンルだな」と言ってどこか納得した様子だった。

「で、俺が言いたいのは、プレイスタイルとステータスの関係なんだけど」
「『プレイスタイル=ステータス』ではないのか?」
「どっちかって言うと『プレイスタイル=職業』で、『技術=ステータス』みたいな?」
「何となくお前が言いたいことがわかってきた。続けてくれ」

 柳が促して、周囲が千尋の拙い説明に耳を傾けている。
 結論を焦りたい気持ちを抑えて、千尋は自分の中にある感覚を説明することに努めた。
 ゲームのステータスは「かしこさ」だとか「ちから」だとかそういう項目だが、あまりにもファンタジックな要素を除けば千尋たち現実の人間にも該当する要素がある筈だ。
 テニスで言うのなら「素早さ」、「パワー」、「コントロール」、「スタミナ」、それから「メンタル」の五つぐらいが妥当だろう。

「で、全部合わせたら十点満点、みたいな」
「オールラウンダーなら全てが二点ずつ、というわけか」
「そうそう」
「だが、キワ。それではプレイスタイル毎に点数が固定されてしまうのではないか?」

 少しずつ伝わる千尋の壮大な比喩に仲間たちが反応を示す。

「だから、『プレイスタイル=職業』で、『技術=ステータス』になるんだ」
「職業の補正があっても、ステータスの割り振りはそれぞれ違う。キワの言う『戦記』にはレベルがあるだろう。レベルが上がるごとにステータスの上限が増える」
「うん、最近のやつで言う『限界突破』とかそんな感じでさ、満点の点数がどんどん上がっていくって考えたらどうよ」

 そして「限界突破」を出来る回数は「才能」という要素によって決まる。
 プロになれるのは何度も何度も「限界突破」してステータスを高めたやつだけだ。千尋にその可能性があるのかどうかは、ゲームではないから実際に試してみるしかない。この場にいる他のやつにしてもそれは同じだ。
 そんな根底の根底のことを話したいのではない。
 千尋は幸村と跡部の試合を見て、幸村と真田の試合とは違うものを見つけ出した。
 そのことを、「一言」として伝えたい。

「中学の全国大会の出場候補の満点が十だとするだろ? 精市はもうこの時点で『限界突破』して十五ぐらい持ってる。多分、シュウもそうだ」
「俺? 俺は普通だらー」
「お前、選抜戦全勝だったろ。俺とダイが休んでる間にお前も『限界突破』したんだ。蓮二、お前はどう思う」
「その見解は非常に興味深いな」

 では、お前の言う弦一郎と跡部との差は何なんだ。
 柳に問われて、千尋は出発地点を思い出す。それだ。その説明をする為に遠回りの比喩を始めたのだから、語らないわけにはいかない。

「『オールラウンダー』ってことは二人とも全部『二』だろ? でも同じじゃないんだ。同じじゃない理由を考えたら『ステータスが違う』が一番しっくりくる。二人とも『パワー』寄りだけど、ほかは跡部が『コントロール』、サダが『メンタル』に加点されてる。だから、サダと精市の試合は割とすぐ終わるけど、跡部と精市の試合は長引く。精市は『カウンターパンチャー』の補正があるから、『メンタル』に関しては精市の得意分野で、そこで勝負するならサダにはつらい試合にしかならない」

 だから、跡部が幸村に勝つ為に必要なのは『スタミナ』で、真田に必要なのは『素早さ』だ。幸村が今後も勝ち続けたいなら、『メンタル』の値は既に十分だから『カウンターパンチャー』としての攻撃力を高める『パワー』を伸ばすのが一番理に適っている。
 どうだ? 割とまともな着地点になったろ。
 周りにいる六人に説明の終わりを告げると、誰からともなく、六本の腕が伸びてきて千尋の頭と言わず体と言わず、好き勝手な場所を軽く叩かれた。何度も何度も叩かれた。その叩き方の柔らかさからして、非難されているのではないと知る。

「いや、お前ら、普通に痛いから。なんか最初よりどんどん痛くなってるから!」
キワ、お前それ、一人で考えたのか?」
「ダイ、お前に言わなかったんだからそうに決まってるだろ」

 一人で考えた。徳久に教えてもらった「戦記」の攻略方法を書いたwebページを見て、自分のキャラクターを育てながら人生というゲームには人の数だけ分岐した目標がある。そのことに気付いたときに千尋の中で世界が広がった。
 テニスにもプレイスタイルがある。得手不得手もある。
 それでも、勝つやつは強い。三竦みだとか相性だとかそんなものを超越して、真っ向から打ち破るのが千尋の理想だ。
 でも。
 理想は理想でしかない。
 勝てるならどこまででもあがく、という執着心が千尋には足りていない現実と向き合った。「カウンターパンチャー」である千尋が「メンタル」で劣るのなら勝てる勝負は今後減る一方だ。今まで勝つイメージとしか思っていなかったことをゲームになぞらえて理解した。
 誰かに聞いてほしかった気もするが、確信がなかった。
 その、最後の一押しをしたのが幸村と跡部の試合だ。
 二人の試合を見ていて、思った。自分の考えはもしかしたら意味があるのかもしれない。だから仲間たちに聞いてほしかった。柳ほども論理的に説明することは出来ない。総合的な分析も出来ない。でも、千尋一人では何の価値も持たない考えのかけらを意味のあるものに変えてくれる存在がいるのだとしたら、それはやっぱり幸村たちだろう。
 信じていたから言った。
 千尋の計算とは違って、跡部という不確定要素がいたが、千尋の拙い分析を人一倍喜んで評価してくれているのはどうしてだか、跡部だった。

常磐津千尋。お前、やっぱり面白いやつじゃねーの」
「何が」
「おい、柳。てめえがこいつにデータテニスを教えたのかよ」
「自分の武器を譲ってやるほど俺がお人よしに見えるのか、跡部」

 だよな。言って跡部は「立海に飽きたらいつでも氷帝に来い。なかなか面白い『一言』をありがとよ」と千尋の肩を叩いて樺地という少年と共に立ち去った。
 何なんだよ、あいつ。跡部の言葉の意味も行動の意味もわからなくて、千尋は一人困惑する。褒められた、という感覚には遠い。でも、多分。跡部は千尋を評価した。それは幸村が神童の偶像を崩していることから察する。

「精市、俺、お前のそういうとこ嫌いじゃない」
「どういう意味だい、千尋
「やっと見つけた仲間を評価しているのが自分だけじゃないのが気に入らないっていう独占欲?」
「随分な言いようだね、千尋。ちょっと天狗になってるだろ」
「いや、お前ほどじゃない」

 だってそうだろ。お前がいなかったら、俺はこんな七面倒臭いことは考えようとも思わなかったし、多分それだけの思考力もなかった。
 だから、幸村はそんなに不安と親しくする必要はないのだ。そう伝えると幸村が軽く両目を見開いた。

千尋、お前はどこまでわかっているんだい?」
「多分、お前が思ってるほどはわかってねーよ」
「セイ、こいつ馬鹿だから。思い付きで喋ってるから深い意味とか多分ないし、立海に飽きるとか跡部の方が気に入ったとかあり得ないし。それに」
「それに、何なんだい由紀人」
「俺もキワも簡単に仲間捨てるとかそこまで人として劣ってない」
「ダイちゃん、俺もそこに入れてほしいらー」

 じゃあシュウも。じゃあって何だらー。そんなやり取りを聞いていた幸村の両目はゆっくりと伏せられて、再び開いたときにはいつもの不敵さが宿っていた。そこに矛盾なく穏やかさをたたえて、幸村が言う。

「格好の悪いところ、見られちゃったな」
「精市、一つだけ言う」
「何だい、千尋
「お前たちが教えてくれたことだ。期待を預けられる相手はそう簡単に変わらない」

 幸村たちが全国大会の初戦でぼろぼろに負けても、それは別に期待を裏切ったのではない。千尋たちが逆立ちをしても敵わなかったレギュラーが負けるのなら、それは立海のレベルがそこまでだったと知るだけのことだ。一番怖いのは負けることではない。幸村自身がそう言った。その通りだと千尋は思う。未来がなくなってしまわない限り、勝利はいつまでも追い求められる。負けのない人生はない。七人のレギュラーには勝利を望んだ。でも、負けたくらいで軽蔑するほど千尋たちは人としての道を踏み外してはいない。
 だから。

「強いやつとつるみたいんじゃない。俺は、お前たちと全国大会に行きたいんだ」
「セイってさ、頭いいのに馬鹿だよ。ぽっとでの跡部がちょっと格好つけたぐらいで、俺たちが一緒に戦ってきた相手のこと忘れると本気で思ってるんだから」
「だよな。お前たちのスコアじゃなきゃ『一言』とか考えなかったっつーの」
「言えてる」

 見ていることしか出来ない千尋と千代が見つけた試合に参加する方法が「一言」だ。同じコートの中に気持ちを預けて、一緒に戦ったつもりでスコアを付ける。だから、改善点も思いつくし、よかったプレーには思い入れもある。
 幸村の対戦相手がたまたま跡部で「一言」のことを知っていた。千尋はそのことを知らなかったから、跡部の為の「一言」は後付けだ。彼のプレーを見て、真田の改善点に気付いた。ただ、それだけのことなのに幸村は早とちりをしている。

「で? 精市。何が不満だ。俺たちは『立海の特待生』っていうことに誇りを持ってるんだけど?」
「うん、ちょっとだけそれを忘れてた。ごめん」
「ったく、精市はしょうがねーやつだな。しょうがねーから、アイス一本で忘れてやるよ、自販機の」
「あ、キワ。じゃあ俺も便乗する」
「イッちゃん、俺も俺も!」
「シュウ、お前は『こっち』側じゃないか」

 でも、まぁいいか。
 苦笑いで幸村が嘆息する。じゃあ、俺たち三強がお前たちに一本ずつアイス、献上させていただきます。わざとらしくかしこまった声を作って幸村が会話を締め括る。勝手に頭数に入れられた真田と柳が微苦笑でそれを受け入れたところで、部長が各自気を付けて帰宅するようにとの指示を出すのが聞こえた。

キワ、お前が見つけた『戦記』流のデータテニス、俺が完成させよう」
「うん、頼む。やっぱお前じゃねーと最後まで詰まんねーし」
「ただ」
「ただ?」
「ステータスが五つ、十点満点、というのは流石に杜撰すぎるな、キワ
「仕方ねーだろ、俺のトリ頭で頑張った方じゃねーか」
「まぁそういうことにしておこう」

 柳が穏やかに笑って、徳久の背中が駆け出す。アイスクリームの自動販売機はこのコートの外周にあったのを千尋は覚えていた。
 人には得手不得手がある。それでも、理想を追い求めていくのならいつかはその壁も越えていかなくてはならない。全ての理想を達成することが出来る器を持っているかどうか、今の千尋には知る由もないがそれでも、一度掲げたものを下げる意味なら知っている。試合の勝ち負けではない。自分に負けたら目標は一生届かない。
 だから。
 試合に負けた悔しさなら、何度でも返上する機会がある。
 試合に出られない悔しさも、きっと同じだろう。
 悔しさは勝つ為の原動力になる。柳が有言実行したその言葉を反芻する。
 大丈夫だ。千尋にはまだ未来がある。その未来と別離しない為に今出来ることをしよう。明日からはまた一年生のコートでの練習だが、進むべき道なら少しは見えた。基礎の基礎をやって、自主練をして、そうして新人戦に臨むまでの千尋の戦いはもう始まっている。
 掲げた志を下げない。それぐらいしかプライドをかける場所を知らない。
 馬鹿でトリ頭の自分と戦いながら、それもまた心地よい緊張感だと思える千尋の器の大きさを自分で決めてしまいたくはない。中学生の理想だと笑われても、それでも、夢を見ないで生きたくはない。そのぐらいの感傷なら許されているだろう。誰にも確かめなかったが、アイスクリームを一緒に頬張った仲間たちにはこの気持ちは伝わっている。
 その感触だけを残して、千尋の関東大会が終わった。