All in All

12th. 福音の形

 生まれながらにして人の上に立つ運命を背負っている。
 常磐津千尋には無縁だと思っていたその手の人間が実在していると知ったときの驚きは今でも鮮明に覚えている。氏素性は勿論、人としての徳を持ち、類稀なる才能をも持っている。非の打ち所がない、と表現するのが最適だと思われる人物に初めて出会ったのは千尋が小学校五年生のときだ。全国大会のトーナメントで対戦した幸村精市。彼がいなければ、多分千尋は決勝戦でそこそこの結果を残すことが出来たはずだ。優勝出来たはずだとは言わない。それぐらいには千尋は自分の実力に対して客観的だった。
 試合の前後でしか知らなかった幸村と同じ学校に通うことになってから、千尋を愛さなかった神とかいう存在も福音を与える対象を持っていたのだと知った。それぐらい、幸村は圧倒的な存在だ。
 その幸村にも弱みがあり、人として揺らぐことがある。ということを知ってからは雲上の存在として扱うことをやめたが、幸村の他にも神に愛された存在がいると知ったときには世の中の不公平を糾弾することを根本的に諦めた。
 跡部景吾との出会いはそのぐらい印象的だった。
 関東大会が始まって、千尋のスコアラーとしての仕事は本格的に忙しくなった。二試合が並行して行われており、片方の試合を千尋が、もう片方の試合を千代由紀人(せんだい・ゆきと)が記録している。シード枠での出場だから、二回戦からだったがレギュラー陣は危なげなく勝利していく。真田弦一郎と柳蓮二、錦先輩と副部長のダブルス二組でいとも簡単に王手をかける。シングルスの試合は特待生の徳久脩(とくさ・しゅう)からで、彼もまた一年生ながら圧勝した。圧勝でも千尋たちの仕事は変わらない。良かった点と改善すべき点をスコアの欄外に書いてマネージャーの先輩に渡す。彼女はそれを受け取るとざっと目を通して、三回戦もよろしくね、と言うだけだったが千尋にはそれで十分だった。次の試合もスコアを書かせてもらえる。選手として求められるのが最善だ。千尋は選手として立海に来た。だから、当たり前のことだが試合で勝って評価されたい。それでも、千尋と千代は一回休みの状態で試合には出られない。だから。せめて。活躍する仲間たちの試合を一番近くで見ていたい。本来なら三年のマネージャーの先輩たちの役割だ。彼女たちには中学の夏はもう二度と来ない。その、夏を預けてもいいと思った。譲ってもいいと思った。千尋と千代にスコアラーの役割を任せて、自分たちはもう一段裏側の役割でいいと思った。その信頼に応えたい。だから千尋は圧勝に見える徳久の試合にも改善点を書き込んだ。
 三回戦もよろしく、というのは千尋が評価されたということだ。
 マネージャーたちの期待を裏切っていない。だから次を任される。
 公式戦を見ているしか出来ない。勝ってほしいと掌を握りしめて祈っても、物理的には何も出来ない。大半の部員の大きな期待を背負って、レギュラー七人は勝利を持って帰ってくる。千尋の期待も勿論、レギュラーには重くのしかかっていることだろう。
 それと同じなのだ。千尋は頭の片隅でぼんやりと理解している。マネージャーは選手ではない。選手と同じようにテニス部に時間を注いできたが、彼女たちが試合に出ることはない。勝って帰ってくる。そう信じてスコアを書く。スコアにかける思いなら多分、部内では彼女たちに勝るものなどいない。その、マネージャーたちの期待を背負うことを重たいだとか面倒だとかそんな風に捉えるほど千尋はテニスに飽いていない。
 寧ろ、光栄だと思う。
 テニスが好きで、好きすぎて千尋の周りから人がいなくなったと思ったこともある。でも、多分。千尋のテニスへの思いが人との縁を繋いだのだろう。
 だから。
 今は、三回戦もスコアラーが出来ることに充足を感じたい。
 二回戦が終わって、立海大学付属中学テニス部の一団は三回戦が始まるまで、散開した。感傷とは決別したつもりだったが、何かの拍子で復活しないとも限らない。一人を選んで飲み物でも買おうと自動販売機を探していた。
 その、道中での出来ごとだ。
 他校では登録レギュラーだけが特別なジャージを着ることもあると聞いたが、立海テニス部のユニフォームは一律だ。全員が千尋と同じジャージを着ている。女子マネージャーたちも上着だけだが同じものを着ている為、出で立ちを見れば誰でも立海だとわかる。
 その意味を千尋はあまり重く考えていなかった。
 初めての大会で順調な滑り出し。それが千尋を余計に迂闊にさせた。
 自動販売機を探しながら、会場を歩く。次の集合場所からは随分離れてしまったと気付いたときにはもう遅かった。千尋の周囲に他校のジャージを着た集団がいる。どこの学校かは関東の地理に暗い千尋にはわからない。ただ、随分と柄の悪い連中だということだけがわかった。

「そのジャージ、立海だろ?」
「なんか今年のレギュラー、一年ばっかりなんだって?」
「一年でレギュラーって立海はもう試合捨ててんのな」
「言えてる」
「うっわ、俺らどんだけ弱いと思われてんの」
「えー、ひどくね? なぁ、お前もひどいと思うだろ?」

 上から目線、だとか、傲慢、だとか、勘違いしちゃった一年ぶっつぶしてー、だとか乱暴な会話が千尋の周囲で盛り上がる。何か反論しなければならない。いや、その前にこの連中とは関わるべきではない。さっさと仲間たちの集まっている場所へ戻るべきだ。いや、でも、どうやって。そんなことが目まぐるしく千尋の中で交錯する。
 コートの外では直情径行。
 柳にそう評されたのが突然、千尋の脳裏に浮かんだ。
 嫌な予感がする。手段の如何を問わず、どうにかしてこの場所を離脱しなければならない。焦りが表情を覆う。下品でにやついた周囲が更に下品な顔に変わる。
 まずい。咄嗟にそう思ったときには千尋の左腕は誰かに捕まれていた。

「なぁ、何『僕被害者なんですぅ~』みたいな顔してんだよ」
「あぁ? 俺らが何したってんだよ? してねーだろ? してねーよなあ?」

 左腕を掴む力は理不尽に大きくなる。痛い。振りほどこうとしても、緩む気配のない力に千尋は混乱を極めた。どうしよう。どうすればいいのだろう。
 千尋が彼らに一体何をしたというのだ。
 彼らは千尋に一体何を求めているのだ。
 答えは無だとわかっているのに、どうしてもそこに辿り着けなくて千尋は情けなさで泣き出す一歩手前だ。こんな下品なやつらの為に泣く必要などない。わかっているのに、体は言うことをきかない。生理的に涙を零しそうになって理性で押しとどめる。
 限界の一歩手前でその声は聞こえた。

「関東大会まで来てダセーことしてんじゃねぇよ、アーン?」

 そもそも、てめえらみたいなのが関東大会に出てることが間違いか。
 聞き覚えはないし、語調も決して丁寧ではないが、千尋の耳には凛として届いた。多分、千尋が平静ならば高飛車だと判断しただろう。誰の声だろう、と思う頃には左手を掴む手が緩んで千尋は自由になる。自由になった、と気付いた瞬間、千尋は声のした方に向かって全力で駆け出す。そうするのが一番安全だと本能が告げた。
 千尋が逃げ出したことに気付いた連中の攻撃対象が横やりを入れた声の主へと移る。集団であることが彼らの気を大きくしていた。それに気づいた千尋は空色の瞳の持ち主の背後から集団を観察する。

「何だ、お前。誰に向かって指図してんだ」
「一丁前の口きいてるけどよ、お前、一年だろ」

 人生の先輩に対する礼儀がなってないんじゃねーの。
 両国中央、と書かれたジャージ姿の集団から飛び出してきた言葉に、空色は厳しく輝いて短く鼻を鳴らす。礼儀がなってないのはどっちだ。その少年は臆することなく反論したが多勢に無勢だ。体格の差も大きい。集団心理で気が大きくなっている彼らと真っ向からやり合うには不利だ。そのぐらいのことは千尋でもわかる。水色の袖を引っ張って「お前、助かったけどやめろよ」と小声で制止すると、本人は今度は千尋に対して鼻で笑った。

「立海のくせにてめえの着てるジャージの価値がわかってねえやつはすっこんでろ」
「でも」
「何かしてえなら、さっさとお仲間のところへ戻って、顧問でもコーチでも連れてこい」

 それがてめえに出来る唯一の解決策だ。
 言って、少年は十に近い両国中央のジャージと向き合った。
 何を言っているんだこの馬鹿は。立海の顧問がどこにいるのか、千尋にはわからない。この広い会場内を探し回る時間、一人で両国中央と対峙するのか。それこそ多勢に無勢だ。絶対に間が持たない。そうなったらこの少年が酷い目に遭う。そうとわかっているのに、どうして彼を一人で残しておけるだろうか。
 泣き出しそうだった目頭の熱はもうない。

「お前、何中?」
「見てわからねえやつに名乗ってやるほど俺様は優しくねえんだよ」
「お前ひとりで何人相手すんだよ、残していけるわけねーだろ」
「だからてめえは馬鹿なんだ」
「何が」
「この程度のクズを相手するのに、てめえの協力なんて必要ねえんだよ」

 そうだろ樺地。
 言って少年は頭上高く右手をかざし、指を鳴らす。
 するとどこから出てきたのか、少年より頭一つ以上背の高い少年が姿を見せる。その体格の見事さは千尋の乏しい語彙力では表現出来ない。それでも、体格の大きな少年の登場は両国中央の士気を下げるのには十分役立った。
 おい、行こうぜ。誰からともなくその逃げ口上が聞こえて、両国中央が一人ふたりと去っていく。立海、覚えてろよ。最低の捨て台詞が聞こえた瞬間、千尋の中で緊張の糸が切れた。足元が急におぼつかなくなって、後ろに倒れそうになる。
 歩道の上に倒れこむ痛みがやってくるのを覚悟した。
 なのに、千尋の身体は誰かの手によって支えられて地面とは別離している。
 そして、千尋を支えた両腕がゆっくりと身体を抱え起こしてシューズの底が歩道の上に立った。ぶっきらぼうだが、労りを含んだ声が空色の少年から聞こえる。

「腰抜かしてんじゃねーよ、常磐津千尋
「えっ?」
「てめえの名前だろうが。それとも、お前が千代由紀人か?」
「いや、俺、常磐津の方であってるけど」
「だったら問題ねえだろ」

 それとも何か問題あったのかよ。
 その問いには首を横に振ることで答える。少年は大袈裟なやつだと言って笑う。その強かな笑顔に幸村の笑顔が重なって見えた。瞬間、千尋は理解する。空色の少年は千尋とは違う、選ばれた存在だ。
 どこの誰かもわからない。どんなテニスをするのかもわからない。
 信じていいのか、彼が千尋を救うまでが筋書きで騙されているのかもわからない。
 それでも確信した。空色の少年は人の上に立つ為に生まれてきた存在で、千尋とは同じ土台の上には立っていない。威風堂々。王たる風格すら持ち合わせている。この空色が人を陥れる為に、こんなつまらない茶番を企てる必要がどこにあるだろう。彼が望みさえすれば千尋を含めた万民は彼に平伏する。それだけの器だ。その覇気を宿した双眸に、千尋は三強たちに似た安堵を感じる。
 九死に一生のところを助けられた。せめて恩人の名前ぐらいは聞いておきたい。
 名前は、と尋ねようとしたところで、遠くから千尋の名を呼ぶ声が聞えた。

千尋! 無事かい? 連中はどこに行った?」
「精市、どうして、ここがわかったんだ?」
「氷帝のジャージ着たやつが教えてくれたよ。それで? 千尋、怪我はない? 何もされなかった?」

 血相を変えた幸村が千尋の無事を何度も確かめる。多分、今、幸村の脳裏には「あのとき」の後悔が蘇っている。仲間の無事の為なら自分の安全など容易く放棄するということを千尋は身をもって証明してしまった。幸村に同じ後悔を二度させるところだった、と知って千尋は自らの浅慮に気付く。せめて。千代と二人で行動していれば結果は違ったかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えていると、空色の少年が「そいつ、左腕掴まれてたぜ」と言わなくてもいいことを証言してくれた。途端、幸村の表情が一変する。遅れてきた三強の二人と特待生二人が、幸村の怒気を察して溜息を吐いた。

キワ、お前不注意すぎ」
「ダイちゃん、キワは悪くないらー」
「そうだな、キワは道を歩いていただけだからな」

 悪いのは絡んできた連中だ。柳の言葉に千代はもう一つ溜息を吐いて、お前、貧乏くじ引くの得意だろ、と遠い目で千尋を見た。
 千代にはわかっているのだ。この後、千尋に絡んだ連中がどうなるか、わかっているから溜息を吐く。別に千尋は報復も制裁も望んでいない。それでも、彼らには憤りを感じているし、空色の少年には感謝している。
 だから。

キワ、左腕を出せ」
「サダ、お前も怒ってんのか?」
「俺はお前が無事ならそれで構わん。ただ」
「ただ?」
「俺や幸村たちの為にお前が割を食うのは許せん」
「サダ、それは十分、怒ってるの範囲だと思うんだけど?」

 一年生なのにレギュラーとして出場していることが許せない。そんな内容の因縁を付けられた。万全の体調だったら、千尋も妬まれる側だっただろうか。不意にそんなことを考えて打ち消す。もしもの話など不毛だ。千尋はスコアラーとしての役割しか持っていない。
 両国中央の彼らは千尋のことを知らない。利き腕も知らない。それでも、神奈川の覇者である立海のジャージは千尋の所属を雄弁に物語る。テニスは紳士のスポーツだ。本当にそう信じてきたわけではないが、礼節を重んじるスポーツだと思っていたし、千尋はその範疇で戦いたいと今も思っている。
 恨み、妬み、嫉み、僻み。
 そんな感情を持つぐらいなら一分一秒でも長く練習する。
 立海が関東大会でも第一シードを得たのは県大会の成績が評価されたからだ。その、県大会を戦ったのは千尋だ。千尋の戦績は「部」が持って行ってしまって、評価されていないと思っていた。
 なのに。

「お前たちが持ち帰った勝利を姑息な手段で地に貶めようとするなど断じて許せん」

 それが、レギュラー選抜戦の勝者が期待を背負う、という言葉の本当の意味だと真田が静かに怒りながら言う。千尋の左腕のジャージを捲りあげて、二の腕にくっきりと手形が付いているのを確認した真田が、すっと帽子のつばを下げた。

「真田、どう?」
「三タテでは当然ぬるい」

 真田の返答の意味がわからずに首を傾げるが、千尋の反応には誰も気を留めることなく会話は進んだ。

「跡部、どこの選手かわかるかい?」

 跡部、と呼ばれて空色の少年が軽く鼻を鳴らす。空色の少年の名前は跡部というのだ、と理解するのが先で、彼に口止めをしなければならない、と千尋が気付いたのは跡部が証言してしまった後のことだった。

「『両国中央』だ。俺様の記憶が間違ってなきゃ、次の試合に『勝てば』三回戦でお前らと当たるだろうぜ」
「そう。千尋が世話になったね。この借りは決勝戦で返すよ」
「ハッ、借りだと? 見返りなんざ最初から求めてねぇよ。決勝戦で手を抜きやがったら絶対に許さねえから、全力で来い」
「あれ? 手加減でもしてもらえると思っていたのかい? 俺は真っ向勝負をしようって言っただけなんだけど?」

 相変わらず自意識が過剰だね。
 お前ほどじゃねえよ。
 跡部と幸村の視線が、一瞬だけ交錯してすぐに離れる。
 そして。

「樺地、行くぞ」
「ウス」
常磐津、今後も保護者が必要ならそいつらに頼め。俺様がいつでもいるとは限らねえからな」

 聞き分けのない子どもに説いて聞かせるように跡部が言う。
 その、上から目線過ぎるアドバイスに腹立たしさよりも、何とも言えない愛嬌を感じた千尋は苦笑を浮かべた。踵を返してこの場を離れようとしていた跡部の足が止まったのは多分彼なりの優しさの表現なのだろう。

「えっと、跡部だっけ?」
「跡部景吾様だ。二度とは名乗ってやらねえからきっちり頭に叩き込んでおけよ、バァーカ」
「素直に礼ぐらい言わせろよ、お前の方が馬鹿なんじゃねぇの!」
「それだけ元気なら大丈夫だな。さっきの情けねえ面、二度と見せんじゃねえぞ」
「本っ当に礼の言い甲斐がないやつだな、お前!」
「言ったろ。俺様は見返りなんて求めてねえんだよ」

 知っている。さっき、跡部本人がそう言ったのだから、勿論千尋も聞いていた。それでも、幸村に言ったのとはほんの少し違うニュアンスに千尋の表情が綻ぶ。知っている。彼のこの強かな自信は期待を背負う意味を知っている顔だ。
 だから。
 千尋は笑顔を引っ込めて真顔で言う。

「決勝戦でお前が負けるの見届けてやるよ」

 それが俺の仕事だからな。
 言わなかった部分も跡部に伝わった感覚があったから、千尋の左腕を絶妙な力加減で掴んでいる真田の手をゆっくりとはがした。真田が弾かれたように千尋を見る。大丈夫だ。怪我ではない。このぐらいなら明日になれば元に戻る。
 真田に、というよりも寧ろ自分自身に言い聞かせる為に、千尋は平静を貫いた。
 行こう、と千尋が言うのと跡部の足が再び動き出すのにそれほど差はなかった。今度こそ二度と振り向かないで、跡部と樺地と呼ばれた少年と共に去っていく。

「サダ、俺、本当に大丈夫だから」
「弦ちゃん、取り敢えず戻るらー。話、帰ってからでも出来るしょ?」
「……シュウ、お前はそれでいいのか」
「俺はキワの気持ちの方が大事らー」

 今、一番困ってるのキワらー。だもんで、立海のみんなのとこ戻って、ゆっくりさせたい。そう思うのは俺のわがままじゃないしょ。
 徳久ののんびりとしているのに、妙にはっきりとした口調で殺気立っていた一同の空気が少し穏やかになる。徳久のこういう気遣いの出来るところは羨ましいな、と他人ごとのように思う。千代がわざとらしく咳ばらいをして「キワ、お前、どうする」と尋ねてきたので、集合場所に戻りたい旨を伝えた。

「まぁ、千尋がそういうなら」
キワ、自動販売機を探していた、と聞いたが?」
「ああ、うん。甘いもの飲みたいなって思ったから」
「幸村、シュウ。先にキワと戻っていてくれ。俺は蓮二とダイとで飲み物を調達してから戻る」

 柳の問いに馬鹿正直に答えて、千尋の後悔はまた加速度的に増した。馬鹿だ。本当に千尋は馬鹿だ。そんなことを言えば真田がどうするか、なんてわかりきっている。なのに千尋は後先考えずに馬鹿正直に答えてしまった。
 要らない。一緒に帰ったらいい。
 そう答えても真田たちは既に結論を出していて、今更千尋の遠慮など聞いてくれる状態ではない。
 どうして。不意に目元が熱を帯びる。
 どうして、自分はこんなに人に迷惑をかけることしか出来ないのだろう。自己不全感に襲われて、どうしようもなく情けなくなる。コートの外では表情一つ取り繕うことすら出来ない。もう少し器用だったら、周囲に迷惑をかけることもなかった。
 そんな誰の責任でもないことの責任を感じていると幸村と徳久が彼らよりも少し低い位置にある千尋の頭を軽く撫でた。

千尋、いいんだよ別に」
「そうそう、弦ちゃんたちは好きでやってるらー。気にするのは逆に失礼だもんで、キワは俺たちと帰るらー」

 それとも、キワはもう俺たちとは一緒にいたくないらー?
 問われて千尋は首を横に振って否定の意を伝える。一緒にいたくないのは寧ろ徳久たちの感想だろう。千尋は彼らから一方的に心配してもらってばかりだ。
 テニスの腕前でも一段劣り、成績では比べるべくもなく、人としての徳など論外で、なのに千尋の周りにはこんなに思いやりのあるやつらが揃っている。
 千尋は人の上に立つ器ではない。それは知っている。
 それでも、今、新しい事実を知った。
 秀でた才能だけが神の福音ではない。心の底から千尋の気持ちを慮ってくれる仲間がいる。それもまた千尋の財産だ。その財産を育み、守るのが千尋の義務であり、許された少ない権利だ。
 だから。

「サダ、俺、オレンジジュースが一番好きなんだ」
「100%か」
「いや、それより薄いやつでいい」
「うむ。心得た」

 すぐに探して帰る。言って真田たちの背中は遠ざかっていった。その背を少しの間見守って、そして千尋は両脇で待っている友人たちに声をかける。

「精市、シュウ。戻ろうぜ」

 言って千尋は真田が捲りあげたジャージの袖を戻す。
 関東大会の三回戦で戦う相手が両国中央でない、と知るのはあと二十分後の出来ごとだ。ジュースを買いに行った三人が、両国中央の相手校に徹底的な攻略法を伝授した、と知って改めて彼らを敵に回したくない、と思うまでのカウントダウンはもう始まっている。
 人の上に立つ器はそれほど多く求められない。千尋には逆立ちしても手に入らないその器を望むより、今持っているものを守りたいと思った。
 三強と特待生たちが跡部のチームメイトである氷帝学園中等部の誰かから報告を受けて、血相を変えて飛び出した。それを丸井や仁王の口から聞いて、千尋は自らの幸福を知る。
 なんだ、神様とかいうやつも満更でもないな。そんなことを思いながら飲んだオレンジジュースの味はいつもよりも少し優しかった。