All in All

16th. 惜別

 いつ頃からだろう。
 漫画を読むのが楽しくなった。音楽の歌詞カードを見るのが楽しみになった。頭ごなしに漢字を嫌って、文字から遠ざかっていた日々がいつの間にか変わっていた。文章を見ても読めない字は減った。漢字は表意文字だ。日本語は文字が読めるのなら細かなニュアンスをその中に感じ取ることが出来る。
 世界というのはこんなにも広かったのだと知って、その世界の一隅にすでに自分がいることを知って常磐津千尋は感慨無量という言葉を体感した。
 立海に来なかったら。三強に出あわなかったら。勉強を避けたままでテニス以外の全てを無視したままだったら、一生経験することなどなかっただろう。
 半年に少し足りない間、毎日漢字練習帳を埋め続けた。全てに正解を答えられなくても、算数のドリルを解き続けた。たったそれだけのことが、千尋の人生を変えた。一人では決して続けられなかっただろう。三強に出会って、特待生の仲間と出会って、一緒に頑張ってきた。頑張ることが出来るのも才能の一つだ。千尋にその才能はないと思っていた。嫌いなのだから頑張ろうとも思わなかったし、続けても結果なんて出ないと思っていた。
 なのに。
 毎日毎日、ちゃんと課題をやったかと確かめられたリ、わからないところを一緒に悩む仲間がいることで本当に毎日勉強が続いた。
 煩わしいと思った日もある。どうして気持ちの沈んだ日まで勉強をしなければいけないのだろうと投げやりになった日もある。それでも、千尋の勉強は続いた。自分だけが休んで、残りの二人に置いて行かれたくなかったからかもしれないし、休むと柳蓮二と幸村精市がタッグを組んで嫌味を言ってくるからかもしれない。
 その、命運を共にしてきた戦友が一人旅立つことが決まったのは二学期が始まる前日のことだった。

「シュウ、お前、今、何て言った?」

 夏休みの最終日まで、立海大学に泊まり込んでの宿題会は続いていた。
 作文が二つとポスターが三枚。千尋の宿題は割と進んでいた方で、合宿二日目で他の部員の手伝いをすることになった。他の部員と言っても、千尋と親交のある部員はそれほど多くない。三強は名実共に文武両道で、初日から手伝い要員だ。千尋があだ名を付けた三人も柳生比呂士が教える側の才能を持っていたらしく、二対一で宿題が進んでいた。結局、千尋の手伝いが必要な部員なんて特待生仲間の千代由紀人(せんだい・ゆきと)と徳久脩(とくさ・しゅう)しかいない。
 雑談を挟みつつ、彼らの宿題を手伝う。
 選択課題である防火ポスターの色塗りが終われば徳久の宿題も終わる。徳久が終わったら千代の宿題を二人がかりで手伝おう。そんなことを言いながら画用紙と向き合う。
 その、会話の途中で徳久が不意に思い出したように言った言葉に千尋は衝撃を受けた。

「だから、スカウト受けたんだらー。アメリカの」

 人徳という言葉を体現した少年が誰も想像しなかった台詞を紡ぐ。
 スカウト? アメリカ? アメリカってどこだ。頭の中が一瞬で真っ白になった。隣で読書感想文を書いている千代の耳に、徳久の爆弾発言は聞こえていないらしい。幸村が薦めた一番読みやすい本を昨日ようやく読み終わって、それから感想文を書いたら「これじゃ要約じゃないか」と言われて幸村に突っ返されていた。文章なんてまともに書いたこともない。なのにいきなり高度なことを求められても無理だ。頭ごなしに否定して、千代お得意の煽りを返す間もなく幸村が煽った。その挑発に乗って「まともな感想文」を志して原稿用紙と戦っている。
 そんな戦いをしている場合ではない。徳久の言葉にはそれだけの重みがある。千尋一人では到底受け止めきれない。なのに、千尋の相棒は書けもしない理想的な感想文という偶像を実像にする為に戦っている。

「アメリカって、あのアメリカ?」
「だらー」

 何の意味もなさない質問をしている、と自分で気づいた。
 アメリカにアメリカ合衆国以外の何かが紐づけされているわけがない。アメリカはアメリカだ。日本よりずっとテニスの浸透した国で、強い。経済的な理由からではなく、純粋な向上心で立海のスカウトを受けた徳久が、もう一段上に進むのに躊躇う筈がない。この報告を聞くということは徳久の中では答えが出ている。
 迷っているのか、だなんて野暮な質問をしないぐらいは千尋にも徳久との信頼関係がある。

「行くんだろ」

 ぽつり呟くと徳久が微苦笑で答えた。
 
キワは俺に残ってほしいらー?」
「だから、『行くんだろ』」

 徳久は一度自分で決めたことは絶対に譲らない。彼の中に既に答えとしてあるものを千尋が覆せるかどうかなんて考える必要すらない。徳久は、もう決めたから千尋に話している。

「断る理由なんてないしょ。もっと上が見られるんだらー。キワでも、きっと同じ答えになると思うらー」

 ならない。反駁の言葉が胸中に浮かぶ。それでも、千尋は言葉を喉の奥でぐっと押し留めた。千尋と徳久とは生まれた環境が違う。徳久が当たり前のように持っているものを千尋は持っていない。アメリカにテニス留学をする為に必要な資金、という一番下世話な心配を一番最初に考えた。常磐津の家にそれだけの余裕などない。アメリカに行けば必ず成功すると決まっているなら両親や妹の気持ちを動かせたかもしれないが、そんな保証はどにもない。ある筈がないのだ。だから、半ば賭けのような投資を出来るものと出来ないものとがいる。千尋は後者で徳久は前者だ。わかっている。四月に出会ってから、ずっと、千尋は目に見えない格差を無視し続けてきた。それが目の前に顕現したぐらいで、友人としての気持ちが揺らぐことはない。
 だから。

「シュウ、ウィンブルドンのセンターコートで会おうぜ」
「だらー」

 途方もない夢を語った。世界中に何千何万と存在するテニスプレイヤーの頂点を決める戦いの場で会うなどというのは、殆ど奇跡に近い。それでも、テニスをし続ける限り、誰もが抱く目標だ。ウィンブルドンのセンターコートに憧れないやつなど立海で特待生を務める資格がない。そういうやつは立海ではなく、地元の公立中学にでも進学してなあなあのテニスをすればいい。
 千尋の野望に即座に笑顔が返る。徳久が千尋と同じ目線で戦っている証明を受けて、胸の中にあった羨望と嫉妬とは別離出来そうな気がした。

「いつ行くんだ」
「寮長にはもう話したもんで、明後日には羽田だらー」

 明後日というと千尋たちは二学期が始まって、夏休みの課題を提出して、学生としての本分である学力の試験を受けて、そしてそれからやっとテニスが帰ってくる。その頃には徳久はもうここにはいないのだ、と知って千尋の気持ちが急いた。

「明後日? ダイにはちゃんと言ったのかよ」
「ダイちゃん、宿題で必死だらー。邪魔、出来ないしょ」
「馬鹿だな、お前。言われなかった方が傷つくんだよ。おい、ダイ、お前読書感想文より大事な話があるからちょっと聞け!」

 何、俺、今キワの相手してる余裕ないんだけど。つっけんどんに拒まれて胸ぐらを掴み、「いいから、聞け馬鹿」言いながら千代の額に頭突きをする。そうでもしないと、千代は課題図書から離れられない気がした。

キワ、何なんだよ。割と真剣に痛いんだけど?」
「ダイ、シュウから大事な話がある。聞け」
「何の話? 俺の読書感想文より大事な話?」
キワ、やっぱりダイちゃん忙しいらー」
「いいから、シュウ。言えよ」

 世の中には優先順位という概念がある。読書感想文は確かに今日中に書き上げなければならない。時間がないのはわかっている。それでも、徳久と共に過ごせる時間は残り少ない。新部長である平福から叱責を受けたとしても、宿題の提出が遅れて教員から追加課題を受けることになったとしても、そんなことはいつでも取り戻せる。
 徳久が自分の口で千代に別離を告げる。
 多分、それが今、最優先で行われるべきだ。
 だから。

「シュウ、ダイのルームメイトはお前しかいないんだ。一人残されるやつの気持ちも考えろ。いなくなってから、後悔してもきっと遅いんだ」
「だから、キワ。何の話なんだ。残される? 遅い? 俺がまたレギュラー選抜戦を欠場するって話?」

 そんなのあり得ないから、やっぱり俺は読書感想文に戻るから。
 言って千代の意識が課題図書に戻ろうとして千尋の手を払う。ダイ、と再び千尋が声をかけようとするのと前後して「ダイ、聞いてほしいらー」と徳久が真剣な声色で言った。千代の意識がそちらを向く。徳久の声には緊張が混じっていた。千尋に話したときにはなかった力みに、徳久の中の優先順位を何となく察して、千尋は拗ねたくなる。何でも気軽に話せる相手として選ばれたことを誇ればいい。わかっているのに、やっぱり寝食を共にするルームメイトの方が大事だと言われればいい気がしない。
 人間関係は偶数が理想だ。
 人は同時に二人の相手を常に公平に接することは出来ないから、最善は一対一になる。一対一の組み合わせ、つまり偶数でいる方が人間関係を円滑にする。四人なら一対一が二組になるだけで、あぶれるやつはいない。でも、三人一組だとあぶれるやつが出てしまう。だから、三人一組の特待生と幸村たち三強。つまり六人の組み合わせは偶数で、だからこそ上手く成り立っていた。
 特待生の三人だけになると、どうしても同室の二人の方が上手く嚙み合う。そのことはわかっていた。わかっていたから、千尋は千代の煽りに付き合ってきた。
 置いて行かれたくなかったのだ、と今更になって行動の理由を知る。
 千代にも徳久にも置いて行かれたくなかった。
 徳久が、強張った顔で千代にスカウトの報告をしているのが右から左へと流れていく。泣きたい。不意にそんなことを思って、馬鹿だなと自分を否定した。
 テニスの腕前も、仲間としての価値も、学業の成績も何もかも中途半端。
 一番になりたいのに何の一番にもなれない。
 感傷が千尋を襲って虚無感だけを植え付けて連れ去ってしまう寸前、その声は聞こえた。

千尋、防火ポスター進んでないよ?」

 シュウと話し込む為に、お前をここに置いてるんじゃないんだけど。
 傲慢で不遜な声が聞えたとき、千尋の心がすっと軽くなる。
 俯いていた顔を上げると、そこには幸村がいた。自分の絵の具のパレットと絵筆を持って、手のかかる弟でも世話するような顔をした幸村と視線が交錯した瞬間、泣きたいという感想が霧散する。理屈はわからない。ただ、幸村が千尋に声をかけた。それだけで救われたような気がした。

「精市」
「何だい、そのお化けでも見たような顔。俺、まだ両足あるんだけど」
「俺もあるよな」
「おかしなこと言うなよ。あるに決まってるじゃないか」
「いや、何となく、なくなった気がしたんだ」

 変なやつだな。言って笑う幸村を見ていると千尋のつまらない感傷が段々と薄まっていくのを感じる。幸村は一番をたくさん持っている。幸村ほど一番を持っているやつなんて、この狭い国のどこを探してもそう多くはいないだろう。
 千尋が幸村に勝てることなんて殆どない。殆どないのに、幸村と一緒にいて無駄な劣等感を覚えることはない。寧ろ、その背中を追う為に歩いて行けるとすら思う。
 だから。

「精市、シュウがアメリカ行くってよ」

 話し込んでいる徳久と千代を置いて千尋は幸村にその事実を伝えた。千代には徳久が伝えるべきだと思った。幸村にもそうするのが筋だが、今、千尋が告げても問題ないような気がした。
 だから言う。幸村は千尋の言葉に少し驚いて、それでも彼は穏やかな笑みで受け入れる。言ってもよかったのだ。その結論を得て、失われそうになっていた千尋の自信が少しずつ戻ってくる。

「シュウが?」
「うん、明後日」
「随分急だね」
「全国大会の決勝見て、声がかかったんだと」
「へぇ、じゃあ俺にもそろそろ声がかかるかな」
「シュウに言えばいいだろ。『俺もくっ付いて行っていいかな』って」
「冗談。俺は自分の評価で戦いたいんだ」
「まぁ、その方がお前らしいか」
千尋こそ、言えばよかったんじゃない? 『俺を置いて行かないでくれ』って」

 軽口に軽口が返ってくる。その、軽口の一つが千尋の中の核心をついてほんの少し、言葉に詰まった。置いて行かないでほしい。本当はいつもそう思っている。同じ場所で戦いたいという気持ちと、取り残される焦燥との間でずっと揺れている。
 幸村にはそこまでが見えているのだろうか。
 考えてどちらでもいい、と思った。
 見抜かれているのなら体裁を繕うだけ無駄だ。自然体でいてもいい、と婉曲に告げられた。その不器用な優しさに気が付けないほど、千尋と幸村の間の距離は遠くない。
 特待生の中で徳久と千代は同室で特別な相手だ。
 でも、三強も含めた六人になると同じレベルで戦っているのは幸村と徳久で、戦友としては幸村が特別な存在だ。その幸村が唯一対等に勝負が出来る仲間の喪失を惜しまない理由がない。幸村は幸村で惜別を味わっている。
 だから。

「いいんじゃねぇの、お互い、ウィンブルドンのセンターコートで会えれば」

 強がりを言った。前向きを装って、理想論を吐いた。確固たる自信なんて何もない。そうなればいいな、程度の願望だ。わかっていたが、敢えて言った。
 未来を決めるのは現在の自分の努力だ。
 そのことに気付いた。千尋は女子ではない。いつもべったり一緒でなければ信頼関係を疑ってしまうような情緒は持ち合わせていない。
 どこにいても、同じ場所を目指しているのなら、いつかはどこかでまた再び会うこともあるだろう。それが千尋たちの友情であり、信頼だ。
 だから。

「来年、お前がいなくなっても同じこと言える。俺たちが目指す場所なんて決まってるんだ。そこで会えるのが最高の再会じゃねー?」
千尋の癖に偶にはいいこと言うじゃないか。でも、そうだね。皆同じ場所を目指してる。それに」
「それに?」
「次に会うときは敵同士だろ? 全力で叩き潰せるじゃないか」

 幸村が最高の笑顔で言う。
 彼の頭の中では自分が既に世界で戦える選手だということになっている。その自信はどこから来るのだ、と反駁しそうになってやめた。幸村の自信がどこから来ているのだとしても、彼の誇りは決して揺らがないし、それだけの実力を伴っているのだから、態々指摘するのは単に野暮なだけだ。

「お前、本当にブレねーな」
「嫌だな、千尋。そんなに褒めなくていいんだよ?」
「褒めてねーんだよ!」

 定型句となったやり取りをしていると、沈痛な空気を纏っていた徳久と千代がつられて笑顔になる。特待寮の部屋割りは三年間変わらない。テニス特待生が三人から二人に減っても、千尋と千代が同室になることは決してない。千代は明日から一人で行動する。それでも、戦い続けると決めたと彼の表情が物語っていたから千尋は無理やりにでも笑顔を作った。遠方に別離する徳久に残る印象が涙では物悲しい。いつでも帰ってきてもいい。その、圧倒的ホーム感を覚えていてほしくて千尋は笑った。

「だもんで、イッちゃん。俺、宿題やらなくてもいいらー?」
「そんなわけないだろ。始業式は明日。宿題の提出日も明日。シュウ、お前が羽田に行くのは明後日。わかるよね?」
「イッちゃん、目が笑ってないらー」
「うん? シュウ、何か俺はおかしなことを言ったかい?」
「……キワ、ポスターの続き手伝ってほしいらー」

 氷点下の笑顔に睨まれて、徳久が降参の意を表する。
 徳久の宿題で残っているのは防火ポスターだけだ。それもあと少し色を塗れば完成だから、それほど時間はかからないだろう。
 明後日の今頃は二学期の実力考査を受けているから、羽田へ見送りに行くことは出来ない。半分より前のボーダーと戦う仲間が一人減ることを惜しみながら、それでも、それは徳久が前に進んだ証なのだからと受け入れる。
 色々な経験を与えてくれた千尋の夏が間もなく終わる。