. All in All => 74th.(End)

All in All

74th.夢の続き

 結局のところ、常磐津千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)の二人がかりでも幸村精市に一矢報いることすら出来ずにストレート負けを喫する。負けたのに悔しくないだなんていうのは千尋にとっては初めての経験で少し不思議な感じもしたけれど、それでも何か納得する部分があったのは事実だ。
 宵闇の中、実戦で敗北した幸村たちの横に並んで強か頬を殴られても、千尋の両目は光とは別離したままで、この問題が解決するにはもう少し時間が必要であることを暗示する。
 それでも。

「精市。これ、お前に預ける」

 律儀にも羽田空港まで見送りに来てくれた、それぞれにぼろぼろの姿をしているだろう仲間たちを手荷物カウンターの前で振り返る。暗闇の日々が千尋の聴覚を鍛えたから、実は多くを説明されずとも相手の表情の幾ばくかを察する感覚が養われているのだけれど、それを誰かに話すつもりはなかった。
 千尋の保護者兼主治医である大倉初瀬(おおくら・はせ)は薄々そのことに気付いているのだろう。ただ、特段干渉をすることも、その感覚について医学的に研究させろと言ってきたこともない。千尋を完全にアーマッド教授の実験台として差し出したのではない、ということをその事実が婉曲に伝えていると理解したとき、千尋もまた自らの成長を知った。
 イギリスに戻る為にまとめた荷物の一つから、タブレット型端末の入ったソフトケースを取り出す。多分。幸村からしてみれば文明の利器とは一番遠いところにいた筈の千尋から、こんなものを受け取る日が来るだなんて思ってもみなかっただろう。

「ニックは多分、医学生じゃなくてエンジニアになるべきだったって俺も思うんだけど。その、ニックがさ。設定とか全部やってくれて、クラウド?っていうやつで俺が保存した写真がいつでも見られるんだってさ」
千尋。そこはお前じゃないんだから、流石に説明されなくてもわかるよ」
「じゃあ、わかってる前提で行くけど。このタブレット?で見守っててくれよ」

 俺、絶対に帰ってくるから。
 そのときにどの写真がどう良かったのかを聞かせてほしい。
 そう、端的に告げると拗ねたような仁王雅治の声が聞こえた。

キワちゃん、そういう学習意欲があるんじゃったら立海におるときに見せんしゃい」

 そうすれば仁王は何だって教えたのに。写真の技術ではまだまだ後ろにいると思っていたのに、いつの間に並び、そして追い越したのだ。その役割をなぜ異邦の医学生などに譲らなければならなかったのだ、という不満の声に千尋は相好を崩す。

「ハル。お前、いつの間に写真部になったんだよ」
「プピッ。今のお前さんじゃったらテニスでも俺の方が圧倒的に上じゃき」
「まぁそこは否定しねーけどさ、俺って一回負けたぐらいで諦めるようなやつに見えてるわけ?」

 まだ仁王の中に常磐津千尋の居場所があるのなら。
 その場所を埋める為に千尋には何の努力が出来るだろう。
 考えて、一方的に与えられるものを望む戦友かどうかを思い出して破顔する。
 多分、そうではないだろう。それぞれに自立した存在で、お互いを支え合っている。
 そういう、お互いにとって益のある関係だった。それが今、いっとき、調和が取れていないとしても仁王もまた関係の解消を望んでいない。
 見えもしないのに、仁王がふっと笑うのがわかる。

「それは否定も肯定もせんよ」
「いや、しろよ! 否定!」
「決勝で負けた俺はお前さんに説教出来る立場じゃないきの」
「そこはもう忘れようぜ。いや、忘れようぜじゃねーな」
「ええよ、別に。忘れようぜでも、割り切ろうぜでも、俺は別に拒否せんよ」

 まぁ、今、全部のうなったことに気付かんほど、俺も阿呆じゃないちゅうことじゃ。
 その殊更明るい声音に、真実、仁王が全てを手放したいと思っているのを感じる。全てを失った、だなんていう重大な事実を数時間で割り切れるのだとしたら、多分。仁王はもう千尋と同じ道を歩いてすらいないだろう。もっと高次の何か。決して相いることのない人生を仁王が歩いていないからこそ、彼は今、この場所にいる。

「ハル。阿呆の方がいいことだってあるだろ」
「……お前さんは、そういうところだけはちゃんとしとるんじゃのう」

 呆れるような声だったけれど、その裏には確かに千尋を肯定する響きがあってこの不器用な優しさに何度救われただろうかと懐古しそうになる。
 そのとりとめのない会話に幸村が指針を示す。

「それで? 千尋、俺はこのタブレットで一体何をすればいいんだい?」
「うん。写真は続けるし、多分それしか解決の糸口?がねーらしいから、まぁ暇なときにでも俺の華麗なるイギリス生活を見てくれりゃいいかな」
「由紀人はそれでいいのかい?」
「俺? 俺は三日前、別の端末借りたし?」

 タブレット端末は決して安価ではないし、管理維持にも費用がかかる。それをぽんと何台も出してくる、というのは中学生の日常会話としては些か度が過ぎているだろう。まして、金銭トラブルで実の両親と別離する運命となった千尋であればもっと堅実な人生が必要だ。
 わかっている。
 それでも、千尋もまた享受出来るものを自らの為に利用しないほど清廉潔白ではなかった。

「精市。安心しろ。アーマッド教授の経費は事実上無限なんだ」
「……それは将来の借金を増やしているだけなんじゃないのかい?」
「ま、世にも奇妙な症例が快癒するまで、の論文を書く権利と引き換えなんだから、いいだろ」
「……お前って、そういうところあったよね」
「セイ。こいつはそういうところ、しかなかったと思うけど?」
「ダーイーちゃーん」
「いいだろ。別に。俺もセンスなんてないかもしれないけど、ドイツ生活をここに載せたらいいんだろ?」
「ってことだ。別に、同じ場所にいなくても目指すものが同じなら連絡ぐらい取ればいいんだって気付くのに半年もかかったけど、まぁまだ間に合うだろ」

 人と人との間にある関係はお互いが望めばきっと何度でも結び直せるだろう。しこりは残る。傷も残る。それでも、真っ白で何の汚れもない人生なんて多分どこにもない、というのを千尋千尋なりに理解し始めていた。どれだけつらい記憶しかなくても、それでもここにいたいと願う気持ちまでもを否定しなくていい、ということを大倉とアーマッド教授が教えてくれた。まだここにいたい、という気持ちを幸村たちは否定しなかった。
 だから。

「精市。またな」
「……うん、千尋。また、ね」

 成長期の半年や一年は大きい。その時間を浪費する損失について、千尋はまだ正確に理解出来ていないかもしれない——いや、きっと理解なんて及んでもいないだろう。
 それでも。いつか戻ってくる場所として仲間たちがい続けてくれるとなぜだか信じられた。
 だから。
 空港の中に千尋の乗る便の手荷物検査が開始された旨のアナウンスが響き渡る。今日は——今はここで別離するしかないのだろう。涙涙の劇的な別れなど必要ではない。半年前とは違う気持ちで千尋は大倉に伴われてスーツケースを預けたあと、手荷物検査場へと向かった。

千尋!」
「どうした、精市」
「俺はもっと上でお前のこと、待っているからね」

 立海大学付属中学テニス部に入って、一番最初に彼と交わした宣言のことを不意に思い出した。
 強くなった千尋を何度でも叩きのめすと幸村が言ったのを千尋もまた忘れていなかった。

「——おう、絶対にお前の戦績に土付けてやるよ」
「ウィンブルドンのセンターコートで?」
「はぁ? お前——いや、そうだな。そうする」

 ウィンブルドンのセンターコートで——というのは事実上、世界の頂点を競い合うという果てしのない夢物語だ。それでも。テニスを愛して、愛しすぎて不如意となった千尋と、その千尋を迎え撃つと大言壮語するのが幸村精市なら、きっと絵物語でも幻想でもないだろう。いつか辿り着く未来。そんな類の感覚を残して、千尋は今度こそ本当に日本の地を旅立った。

 月日は巡る。
 立海の仲間たちがW杯に参加しただの戦績はどうだっただの、誰が最後まで残っただのと勇往邁進した報告をタブレットの向こうに見ながら、千尋もまた治療と研鑽の日々を続けた。ドイツにいる千代は同じく渡独していた青春学園の手塚国光に惨敗したのをきっかけに自分のプレイスタイルを変えようとしている。プロになりたいのなら、今のままの千代では限界があると感じているようだった。
 六時間の視界と一時間の暗闇にまで復調した千尋もまた、自然、テニスに取り組むようになった。以前は自慢だった圧倒的持久力も入院期間の長さによって衰え、鍛え直したところで、元々のフィジカル差からくる頭打ちがあり、限界を感じていた。それでも。千尋は典型的東洋人の体格で、どれだけトれーニングを積んだとしてもその物理的な差を埋めることは難しいだろう。
 だから、千尋もまた新しい自分のプレイスタイルを模索している。
 大倉は復調してきた千尋に学校に通うことを提案してきたのだけれど、その転入先が日本人学校ではなく普通のイギリスの公立中学校だと知らされたときに、相変わらず食えない大人だったと再認識した。暗闇の千尋にとって英会話はそれほど苦ではなかったものの、筆記や読解には時間がかかる。勉強内容も日本のカリキュラムとは違っているし、まず、勉強のスタンスというのが母国とは異なっていると知って少し怖じたこともある。
 それでも。
 イギリスのジュニアハイスクールを無事卒業することが出来たとき、千尋は努力が自分を裏切らないことを教えてもらった。ニックや大倉、アーマッド教授や看護師たち。その多くの手助けを受けながらも自分で物ごとを成したとき、千尋の中には手応えのようなものがあった。

「初瀬! 立海の編入試験、受けてもいいだろ?」

 大倉とは当初、そういう約束をした。
 学生の年間スケジュールの概念が違うイギリスにあって、無事中学校を卒業出来たら立海大学付属高校の編入試験を受けて二学期から帰国する。アーマッド教授が論文を書き終えるのにはもうしばらく時間がかかるし、千尋が完全に元の状態まで復調したわけでもない。ただ、通う学校を選ぶ権利だけがあった。
 中ほどの成績を示す書類を突き付けて、帰国の許可を求めると最近ではすっかり見慣れてしまった大倉初瀬が穏やかに笑って言う。

「いいんじゃないかな。僕も約束を反故にする大人にはなりたくないからね」
「——っ! 聞いたぞ! 教授は初瀬がちゃんと説得してくれよな!」
「大丈夫だよ。アーマッド教授も学者なんだ。嘘を吐いてまで君を縛り付ける、だなんて卑怯な真似はしないさ」

 それでも、万に一つの可能性もある。必ず、どれだけ時間がかかっても、千尋の帰国を許可してもらう、と何度も確かめると苦笑いの表情で大倉がハグをしながら千尋の額を撫でる。大倉は日本人の中でもそれほど長身ではない。成長期の千尋はスポーツ選手の卵ということもあってすくすくと育った。今では千尋の方が大倉よりも体格がいいぐらいで、大倉にハグをされるとどうしても千尋が彼をハグしているようにしか見えないのが悩みの種だった。

「で? 編入試験受かったらさ、俺、本籍日本人だけど留学生扱いになるってニックに聞いたんだけど」
「そこはまぁ、大人の事情だから君には少し不便をかけるけど、無理難題を強いるわけじゃないから諦めてくれると助かるよ」
「ってことは手続きも留学生待遇?」
「それは、もう、勿論」
「俺は! そのぐらいで諦めねーからな!」

 英語長文で記載される確認事項を読解することも、英文で出題される編入試験を解くことも、絶対に成功させると誓って千尋の五月は飛ぶように過ぎた。
 そして、願い願った八月末がやってくる。
 千尋の視界は八時間まで延長されたし、インターバルも三十分まで短縮された。大倉はイギリスで得た職分を果たさなければならないらしく、日本に共に帰ってくることは出来ないから、留学生として「ある一家」に預けられることになった。
 その一家というのが——

「ヤギ、そう言えばお前んち医者だったな」
「おや? 殆ど一年ぶりの友人に向ける挨拶ですか、それは?」

 羽田空港に迎えが来る、とだけしか大倉が教えてくれなかったから、千尋はてっきり別の顔を想像していたのだけれど、実際に待っていたのは柳生比呂士その人で、相変わらずの紳士ぶりで本当に高校生か、と噴出しそうになる。
 気恥ずかしさを率直に表現出来なくて、これから二年半の間、世話になる友人に何と声をかけていいのか悩んだ末に当たり前の事実の確認をすることしか出来なかった。

「いや、何か普通に話の流れ的に精市の家かな、ぐらいのつもりだった」
「幸村君のご両親ではキミのフォローは十分に出来ないでしょう?」
「でも、また、なんでお前んちに」
「ワタシの父も医学の徒です。治療困難な症例の患者に興味があって問題でも?」

 その日本語が美しいまでの反語であると理解して、千尋は自身が立っているのがグリニッジ標準時刻の島国ではないことを痛感する。ここは日本だ。千尋が生まれ育った、不自由な自由の国だ。
 だから。

「ヤギ。俺、お前のこと何て呼べばいいんだ?」

 柳生を短縮してヤギ。ただそれだけで名付けたあだ名は柳生の家族と暮らす中で幸を生まないことを、彼から指摘される前に気付く。だから、敢えて問うた。新しい関係を築き上げるなら相互理解がある方がスムーズだと十六の千尋は理解していた。

「キミの好きな呼び方で構いませんよ。今度はワタシにどんな名前をくれるのですか?」
「比呂士、とヒロの好きな方はどっちだ?」
「ではヒロで。ようこそ、キワ君。キミに新しい立海を見せられるこの日を皆楽しみにしていたんですよ」

 ではささやかながら、今日は特別に真田君の自宅でキミの歓迎会がありますので。
 言って柳生が光を通さないグラスの向こうで微笑むのが伝わってくる。
 かつて憧れた、千尋が持っていて当たり前だった日常が千尋の帰国を歓待してくれる。その、僥倖を感じながら、千尋は満面の笑みを返す。
 千尋の視界に映る日本は少し変化したけれど、それでも懐かしさを与える。
 柳生の口から出てくる懐かしくて大切な名前の一つひとつを噛み締めながら、千尋は柳生の背を追って空港を出ていく。希望に満ちた羽田空港を見るのは正真正銘初めてのことで、こんなにも美しい景色だったのかと知って改めて故国の温もりを感じる。
 十四の千尋が手放した景色とは違うかもしれない。
 同じものを取り戻したのではないと知っている。
 それでも。
 そうだとしても。
 ここが新しい始まりの場所で、千尋はまだ明日を見ることが出来る。
 All in All——殆ど全部を賭して得たものを今一度両手に掴んで、新しい景色を描いていく。その権利を、千尋は確かに得たのだ。
 だから。

「行こうぜ、ヒロ。皆待っててくれてるんだろ?」
「ええ、それはもう、勿論です」

 順風満帆でなければ評価に値しないのか。
 清廉潔白でなければ息を吸うことも許されないのか。
 その命題に否を突き付けて、千尋は前を向く。
 転んでも、くじけても、負けても、傷付いても、失敗しても、諦めさえしなければいつか未来の絵図を見ることが出来る。その症例の一つとなる日はまだ遠いかもしれない。
 それでも、千尋は知ってしまった。
 一緒に苦難を戦ってくれる仲間がいれば、人は驚くほど強くなれることも、それを甘えとは呼ばないことも知った。だから。柳生が手配していたタクシーのトランクに荷物を詰め込み、そうして聞き慣れた真田家の住所を目的地と告げるは千尋の新しい始まりの形だろう。
 千尋は落ち着きなくタクシーの後部座席で柳生と他愛のない世間話を重ねる。
 仲間たちと再会するまで残り数十分。八月の暑気の中、夢の続きが始まろうとしていた。