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All in All

73rd.絶対王者の敗北

 常磐津千尋の人生で幸村精市が一方的に翻弄される試合だなんていうものを見るのは正真正銘初めてだった。しかも年下の中学一年生の選手相手に、だなんて悪い冗談にしても信じがたい。それでも。現実は容赦なく千尋を、幸村を立海を叩き伏して千尋の目の前で全国大会三連覇の夢は消えてなくなった。
 勝って当然だった。
 勝たなければいけなかった。
 負けなど許されない。だのに。立海はこの年、青春学園に敗北して準優勝となった。
 その衝撃の大きさに動揺したが、よくよく考えると千尋たちが掲げていたのは「三連覇」だと気付く。勝利のみが伝統ならその数字はもっと大きくなくてはならない。つまり、千尋たちが立海に入学する前年の大会で立海が敗北を喫したのに他ならず、負けが許されない、と言っていた智頭や平福たちはその実、敗北の歴史を残しているのだ。無敗を伝統としていたと言いながら、それは徹頭徹尾真実だったわけではない。勝てなかった立海も歴史の中には残っている。
 そのことに気付いたとき、千尋の視界がいっそう明るさを増した。何だ、最後まで見たらそれで終わりか。悔しさを噛み締めて、絶望の淵の中にいる仲間たちを励ます権利もないのか。常磐津千尋というのは意外と現金なやつだったのだと知って、最初からそうだったじゃないかと打ち消す。
 隣に座った千代由紀人(せんだい・ゆきと)が声すら漏らさずに涙を流している。その光景すら滲んで、光の向こうに消える。

「ダイ、初瀬を呼んでくれ」
「——お前って本当に都合がいいやつだったんだな」
「今更だろ。って、ああ、お前は知らねーんだっけ」

 千尋がテニスをするとき以外目が見えない状態だった、というとても都合のいいイップスに陥っていたことを相棒は知らない。そういうイップスだった、とは告げたけれど実態を見たことはないから、実感が伴わないのだろう。
 千尋はこの夏、誕生日を迎えて十五になった。真田弦一郎や柳蓮二にやっと追いついたけれど、それは生きている年数だけの問題で、多分、まだ誕生日が来ていない仁王雅治や幸村たちの方がずっとしっかりしている。十五の千尋で守れるものなんてそれほど多くはない。分別のあるような顔をして、大人に近付いたと嘯いて、その実周囲のやさしさに甘えているだけの千尋に出来ることなんて本当に僅かしかないのだとイギリスに渡って実感した。
 だから。

「ダイ。もう一つだけ頼みてーことがあるんだけど」
「何だよ、馬鹿キワ。俺はお前の保護者じゃないんだけど?」

 甘えたいのなら保護者に言え、と言外にある。それでも、暗闇の千尋に音声以上の情報は伝わってこなくて、千代の言うように都合のいい存在になったな、とも思う。
 感傷のままそれぞれの治療先に戻ってもきっと遺恨しか残さないだろう。ときが経てば立海の仲間たちの中にある期待に沿えなかった、という罪悪感はいつかは薄れる。それでも。負けてしまった事実は決して覆らず、思い出の中に傷を残すだろう。
 そんな触れると痛むような思い出を抱えたまま別離して、そうしてあるとき突然に友好な関係に戻れる、だなんて夢を見ないぐらいには千尋にも分別がある。そんな理想論は幻だ。友好な関係を保ちたいのならお互いが歩み寄らなければならない。どちらか一方が不必要な良心の呵責を抱いているのを是とし、自分を定義したいだなんていう歪な価値観はまだ持ち合わせていなかった。

「お前もまだ完治ってわけじゃねーだろ。二人でシングルス、しようぜ」
「——誰とだよ」
「決まってるだろ。たった今、俺たちの前で負けた幸村精市とだよ」
「はぁ? 目も見えてないくせに何言い出すわけ?」

 音声だけの千代はそれでも落胆と苛立ちとほんの僅かの期待感を千尋に伝える。困惑もあるだろう。千代の脚も千尋の目も完治には程遠い。実戦の場に出られないと判断したからこそ治療の為に国すら越えた。その、千代と千尋で何をしようと言うのだ、と揺れる声が響く。
 千代の反対側にいただろう四天宝寺の連中は少し前に青学の優勝を寿ぐ為に離席した。今、ここに残っているのは千尋と千代と、青学にも立海にも関係のない観客だけで、それももう散開の雰囲気を出している。完全に取り残されるのにそれほど長い時間は必要ではないだろう。
 それは決してスタンド席だけに限った話ではなく、選手たちもいずれは帰ってしまう。
 その前に、千尋は関係の修復をしたかった。
 真っ白に汚れていない思い出がほしいのではない。
 お互いが切磋琢磨して、傷だらけになってでも勝ち取ってきた栄光の日々をそのまま明日の糧にグレードアップしてイギリスへ戻りたいだけの一心で千尋は千代に無理難題を押し付けていた。

キワ、セイにとっては傷口に塩塗られてるようなものだと思うんだけど?」
「ダイ、冷静に考えろ。俺とお前で精市に勝てるわけねーじゃねーか」
「はぁ?」

 そうとも。目の見えない千尋と走れない千代の二人がかりで幸村と対戦したところで、決勝の死闘による疲労を加味したとしても勝機など端からない。
 勝てる試合しかしないのか。負けるのが怖くてテニスを捨てるのか。
 その無限の問答については千尋はもう答えを持っている。
 いや、やっと答えを手に入れた、というべきだろうか。
 千尋は——常磐津千尋はAll in Allのテニス馬鹿なのだということをこの帰国が鮮烈に教えた。
 だから。

「ダイ。俺はまだテニスを諦めたくねーんだ」
「てっきり、お前は写真家にでもなるのかと思ってた」

 そのぐらい、千尋の撮った写真は輝いていた、と千代が柄にもなく素直に褒めるのを聞いたとき千尋は思わず噴出する。

「ダイ。俺は、テニスがなかったら多分、ここにはいねーよ」

 きっと、テニスを諦められたのなら帰国することも全国大会の決勝を見届けることもなく、イギリスで治療と写真だけを続けていただろう。強い選手の枠を逸脱していく自分に失望したりもしなかっただろう。暗闇は千尋を容赦なく襲って、その代わりに痛いほどの強さで千尋の好きなものとなりたい自分を教えた。

「ダイ。テニスのことはテニスで語るしかねーんだ」
「二人でシングルス、なんてどうやるんだよ」
「俺はどうせ何も見えねーから、お前が後ろで指図してくれよ」
「俺は走らなくてもいいってことかよ」
「そうだ。お前の戦略で俺が戦う」

 かつて切原赤也の前で披露したアイマスクテニスの応用だ。それは千代のことを信頼しているから——立海黄金ペアだからこそ出来る対戦方法だと千尋は確信していた。
 勝つ為に戦うのではない。勝利の高揚感と同じぐらい、敗北の痛みは次の景色を描いてくれる。
 今までずっと幸村たちがその景色を見せてくれた。
 その恩義を返すべきときがあるのだとしたら、それが今で、最初で最後なのだろうとすら思う。

「ダイ。俺はお前とならどこへでも行けるってまだ信じてる」
「——そういうの、卑怯だ」
「お前はもう諦めたのかよ」
「諦めてたら、こんなとこにいる筈ないだろ」
「じゃあ問題ねーな。ダイ、初瀬に説明する。呼んでくれねーか」
「——お前、そういうとこ、ずるいんだって」

 声音が少し震えている。千代もまた慟哭したいほどの悔しさを味わっていたのだと声が伝えて、ああ、やっぱりこいつは千尋の相棒だな、だなんて安堵した。同じ景色を見て、同じ方を向いて、同じ夢に破れた。多分、千尋の気持ちを共有した相手としては千代由紀人が頭一つ以上飛びぬけているだろう。
 ちょっと待ってて。言って千代の手元から硬質な音が幾つか響く。この音は知っている。携帯電話を操作する音だ。千代が千尋の望みに沿って大倉初瀬(おおくら・はせ)に連絡を付けてくれるのをじっと待っていた。
 数分もしないうちに大倉は千尋たちの座席までやってきて、千尋の無謀な挑戦を聞き届けると大きなおおきな溜め息を零す。

千尋君。本来、僕は医者だからそういうことは認められないんだけど、君の熱意に負けて一回だけ見て見ぬふりをしようか」
「初瀬」
「けど、千尋君。何かあってからじゃ遅いからね。僕も一緒に連れて行ってもらうよ」
「初瀬、お前、テニスとかわかんねーだろ」
「僕は君の保護者なんだよ? 君がそんなに必死になっているテニスについて調べないわけがないじゃないか」

 4ゲームマッチだ。と大倉が断言したのを聞いたとき、千尋は胸の奥が詰まったような感触を覚える。ああ、なんだ大倉はちゃんと千尋の好きなことにも興味を持ってくれていたじゃないか。千尋の話す他愛もないテニスの話題も自分のものとして捉えてくれていたじゃないか。

「初瀬」
千尋君。僕はいつか君の本当のテニスを見せてもらえるんだろう? だったら、ちゃんと君も前に進まなきゃいけないんじゃないのかな」
「——わかってる。わかってるよ、初瀬」

 この保護者は百度ありがとうを告げるより、きっと、たった一度の満面の笑みの方にこそ喜びを見出してくれるだろう。
 だから。

「初瀬、本当の俺のテニスに戻る為の最初の一歩だ。絶対に勝てないけど、呆れるなよな」

 見えもしない保護者兼主治医の大倉に笑ってみせる。馬鹿キワ、強がるなよ。と千代に背中を叩かれたけれど、その力加減の弱さに泣きたい気持ちが加速度的に増す。こんな優しい激励を受けて、蹲って泣き濡れる為に千尋は生きているわけではないと自負していた。

「そうかな? 君の目の前で君の絶対勝者が敗者になったのを見届けたばかりじゃないか」
「今の俺じゃ精市に勝てる要素がねーよ」
「それでも君は戦うんだろう? 保護者としては前向きで建設的で上昇志向があって実に喜ばしい限りだね」
「初瀬。絶対、なんてどこにもねーんだ」
「なのに君は『絶対に戻ってくる』とか『絶対に勝てない』っていう言葉を多用しているけど?」

 それはきっと絶対がない世界に生きる自身への鼓舞だ。絶対なんてどこにでもない。今の次の瞬間を知っているやつなんてどこにもいなくて、それでも明日というのは今日と地続きで荒唐無稽な未来にはならない。
 それを教えてくれたのは他でもない大倉初瀬だ。
 諦めなければ——完全にその希望を捨ててしまわなければ、どんな形かはわからなくても、道はいつか開ける。そのことを誰よりも何よりも信じてくれた大倉にこそ見ていてほしいと思った。

「じゃあ行くか! ダイ」
キワ、俺はお前の盲導犬じゃないんだけど」
「大丈夫、大丈夫。こう見えて真っ暗の人生には慣れてんだ」

 聴覚だけを頼りに道を歩くことが出来るようになったのはいつだったか。主に仁王が千尋の盲導犬状態だったな、とふと振り返る。彼は正直ではないけれど、不親切でもなかった。仲間だけに見せる素っ気ないやさしさに何度救われたのか、千尋の両手では数えきれなくなってからどのぐらいの時間が経つだろう。
 日本語の生活圏で培ったその感覚も英語圏に行けばゼロからのやり直しだと気付いて絶望を抱いたこともまだ覚えている。
 ただ、今は母国に戻ってきて、千尋の耳には鳴れた言語が飛び交っているから、きっと迷わずに立海の仲間たちのもとへと無事辿り着けるだろう。そんな目算をしながら、千代と大倉とが立てる音を頼りに前に進んだ。
 登ったり下ったりを繰り返して大勢の参集する場所に辿り着いたとき、千尋を迎えたのは仲間たちが息を呑む空気だった。もっと殺伐としているかと思っていたけれど案外そうでもない。終わってしまったことをぐずぐずと引きずらない、千尋の仲間の姿は今なお変わりなかった。

「精市、傷心中に悪いーんだけどさ、俺に4ゲームくれよ」

 大倉は4ゲームマッチだと言った。それは4ゲーム先取を意味していて、決して4ゲームきりの試合だというわけではない。大倉がその勘違いをしている、だなんて思うほど千尋も保護者を甘く見ていなかったから、彼の意図するところは伝わっている。
 それでも。
 千尋は知っていた。4ゲームマッチで今の千尋ならストレート負けの結末しか待っていないという現実を。そして、顔の見えない戦友が今、どんな態度で千尋に接したらいいのか、に苦慮していることも千尋はやっとわかるようになった。
 しばらくの沈黙の後、引き絞るような声で幸村から返答がある。

「——今の俺なら、お前でも十分に倒せる、とでも言いたいのかい?」
「いや、俺は負けに来たっつーか、一応は復帰したお前と違ってこちとらまだまだ病気療養中なんだっつの」
「じゃあ、何なんだい?」
「俺の保護者にテニスしてるとこ見せてから帰ろうと思って?」
「どうして肝心なところで疑問形なんだい、お前は」
「いいじゃねーか。泣くのは晩飯食ってからでも間に合うだろ」

 で? 負けたら殴られるんだろ? そういう青春っぽいことは俺も混ぜてくれよ。
 出来るだけ虚勢を張ってそう言った。頭のおかしなやつだと思われただろうか。いや、千尋が規格外の存在だということを立海の仲間は知っているだろう。また始まった、程度で受け止めてくれるといい。願いを載せて殊更明るく宣戦布告をすると集団の向こうから「お前さん、どこまで阿呆なんじゃ」とぼそり呟く声がする。何だ、仁王はまだ知っていなかったのか。千尋は底抜けの馬鹿だ。テニスに関われば寝食の全てを放棄するレベルの馬鹿だ。
 テニスを好きなやつに悪いやつなんていない。本気の本気で断言してしまうテニス馬鹿の千尋に心底呆れかえった声が届く。

「自分から殴られに来るやつなんて俺の人生、お前が最初で最後だと思うよ」
「オンリーワンか! いいぜ、上等じゃねーか」
「馬鹿キワ。俺も巻き込んでるの忘れてるだろ」
「ってことで、ひと組目の馬鹿に付き合ってくれよ」

 4ゲームでいい。その間に千尋はきっと伝えられるという自信があった。勝ち負けと同じぐらい自分の感情にも価値がある、ということと、決定的で絶対的な敗北を喫しても明日を生きていけること。そして、そんなことぐらいで人は人に失望したりしない、ということをきっと伝えられるだろう。

「俺に勝ったやつが負けたらさ、俺がやっても負けるってことだろ」
「──相性の問題かもしれない」
「いや、無理だろ。全方位的にお前の方が俺の上位互換だし」
「意外とお前の方が天衣無縫になれちゃったりするかもしれないじゃないか」
「無理だろ」

 その即答に一同がざわつく空気になる。All  in  Allの千尋はテニスを愛して愛しすぎて不如意と化していた。テニスのことが好きな気持ち、という条件的には天衣無縫の極みに至れるだけの素養があるのかもしれない。
 ただ。

「俺は立海の常磐津千尋なんだ。楽しさだけの為にここにいるわけじゃねーってこと」

 勝つ為の戦力として立海に在ることを許されていた。傲岸不遜も、圧倒的優遇も千尋が勝利を──ひいては立海の名誉を勝ち取るための代償で、対価だった。それを喪失してなお立海の仲間が仲間なのだとしたら、千尋もまた天衣無縫の極みに至ることはないだろう。
 純粋にテニスを楽しんでいた小学生の千尋はもうどこにもいない。
 人の期待を背負って、命運を託した仲間の祈りを預かって戦うということを知ってしまった。
 だから。

「精市。俺たちがお前に勝てねーんだとしたら、俺たちはお前たちと一緒に負けたのと同じだ」
「手加減はしてあげなくてもいいみたいだね」
「それでこそ、俺たちの幸村精市だろ?」
「──お前なら届くよ、きっと」
「必要ねーな。そんな何かに頼らなきゃ勝てねーようなやつにはなりたくもねーし」

 そういうところは何も変わってないんだね。切なさを帯びた挑発の言葉には乗らない。そうだ。何も変わっていないのだ。いつか。近い未来のいつか。千尋が再び視力を取り戻したら。そうしたらきっとまたここへ戻って来られるように善処することを誓おう。同じ場所ではなく、仲間たちもまた進化した新しい場所に共に立てるように最善の努力を尽くそう。
 だから。

「精市。お前はお前の道を貫けよ」

 孤独と隣り合わせで、つらさに満ちた毎日で、けれどその中に価値を見出していく。そんな幸村精市の道をこのまま進んでほしい。
 そう願うと「当然じゃないか」と震えた声音で返ってくるこの瞬間を目視出来ないことが一番の不便だと感じながら、千尋は少しずつ自分が手放したつもりで酔っていた悲壮感と別離出来そうだと確かに信じられた。

千尋。お前には本当に敵わないなと思うときが俺にもあるよ」
「馬ー鹿。そういうことは三連覇してから言えっての」
「お前も戦犯の一人なんだってこと、ちゃんと覚えておいて欲しいな」
「うん。今、覚えた。だから、次はインハイ三連覇を目指そうぜ」
キワ。なんで勝負も始まってないのにお前たちだけで満足しそうな雰囲気なんだよ。蚊帳の外にするぐらいなら、俺、ドイツに帰りたいんだけど」

 そんな千代の小さな苦情を耳朶に受け取って千尋は顔も見えない筈の幸村と満面の笑みを交わす。
 だって、そうだろう。この道は──今、苦渋の思いで対面したこの道こそが千尋たちの三年間の結果で、そして次の三年へと続いている希望の道だ。誰かの所為にして責めたいのなら一瞬あればいつでも出来る。自分だけを正当化して溜飲を下したいのならそれも一瞬で出来る。それでも。千尋たちは今、選んだのだ。明日から先の研鑽の日々と、マイナスからの再出発が始まるまで僅かのカウントダウンを残しているだけだ。
 負けたらそこで全てが終わると思っていた。
 実際、負けて千尋たちの夢は破れて消えたけれど、それでも誰も命を落としたわけでもない。命ほど大事な矜持はずたずただ。それでも生きている。生きてさえいれば明日の向こうの絵図を描くことが出来る。
 そんな当たり前の現実を千尋たちに教えて、夏の日は少しずつ暮れようとしていた。この決勝戦の少数派である勝者──真田たちに鉄拳制裁を受ける未来を待ちながら、千尋と千代の最初で最後の二人でシングルスを戦う4ゲームが始まる。