. All in All => 72nd.

All in All

72nd.いつか還る場所

 常磐津千尋の視界はシャッターを切ってからニ時間で閉ざされる。
 この数か月、思いつく限りの治療を施してなおその結論だ。インターバルの二時間が縮むこともなかった。まるでプログラミングされたロボットのようにスイッチのオンオフが切り替わる。千尋が渡英する以前は「テニス」というトリガーでスイッチのオンオフが可能だったのに、今では時限式となっているこの体調のことをアーマッド教授はどんな論文にするのだろう。千尋の体験を元に彼は一体どんな益を生むのだろう。「未来の千尋」を救う為だ、と教授は言う。現在の千尋は救わなくていいのか、と拗ねたようなことを思ったこともある。未来の誰かの為の実験台になりたいと思うほど千尋は偽善的ではない。独善的でもない。それでも。今ここにいる千尋が救われる為には千尋が治療を受けるしかないことぐらいわかっていた。
 だから。
 仲間たちの顔を見れば何らかの改善があるのではないか、だとか、そういう目算がなかったわけでもない。
 結果は三日前から何の進展もない、という脱力しそうな論旨に集約しそうだ。日本に戻ってきても、仲間たちと顔を合わせても、テニスの練習を手伝っても。千尋の体調には何の影響もない、だなんて正直なところ泣きたいぐらいで、このまま本当に立海三連覇の瞬間を暗闇の中で迎えるのだとしたら、それは十分に別離の口実になるだろう。そのぐらい、千尋の胸中は荒んでいた。
 第二試合が眼下で続く。有明コロシアムのスタンド席から見下ろしたセンターコートの中では柳蓮二と切原赤也が悪魔的な試合展開を繰り広げていた。勝つ為には手段を選ばない、だなんて道は幸村精市が病に伏したりしなければ、必要なかったのだろうか。千尋が――千代由紀人(せんだい・ゆきと)が立海を離脱しなければ補えたのだろうか。
 そんなもしもを無限に繰り返しても現実は変わらない。
 わかっている。
 既に起こったことを書き換えることは出来ない。誰がどう望んでも現実はいつだって目の前にしかない。過ぎ去った時間を悔やんでも何も生まれないし、昨日を否定すれば心が荒むだけだ。わかっている。十分すぎるほどわかっているのに、千尋は苦しさで胸が押しつぶされそうだった。
 柳のテニスを知っている。策士の頭脳によって綿密に計算された美しいテニスだ。技術でも心理面でも相手を見透かしてその上を行く、とてもとても格好いいテニスだ。その戦術に何度も翻弄されてきた。返ってくる場所がわかっているのに打ち返せない、だなんて屈辱を何度も味わわされた。柳の想定したコンマ一秒を上回りたくて練習を積んだ。
 その、美しい演算力で描き出す試合ではなく、勝つ為の――勝つ為だけの冷酷なテニスをしているのがわかって、感傷的になっている千尋の感情は揺らぐ。どうして、と、お前はそれでいいのか、を無限に繰り返して、柳蓮二というのが不本意な試合をする選手かどうかを思い出す。柳は――きっと納得しているのだろう。柳だけではない。立海の仲間たちが選んだ答えが非情のテニスだ。わかっている。遠く離れて、中抜けした千尋に口を挟む権利なんてない。
 それでも。
 それでも、願いが叶うならこの場所で見るのは柳の美しいテニスが良かった。

常磐津君?」
「どうした、白石」
「俺は君らのことはようわからへんけど、君ら、ホンマに不器用の集まりやなぁって」

 三連覇の志を掲げるのは何の為か。支えてくれた「仲間」の気持ちに報いる為だ。わかっている。その数多いる仲間の一人に――その上澄みの上澄みに千尋が含まれていて、彼らなりの激励なのだとわかっている。
 安心して帰ってくる場所としてあり続けようとするのは美しくないのか、と白石蔵ノ介の表情が語る。いや、きっと。そんなことはないだろう。
 矛盾を抱えてセンターコートを睨み付ける千尋の毒気を抜いた白石は「そうそう。そういう顔の方が常磐津君らしいてエエで」と笑いかける。そこには傲慢も偽善もなく、彼はただあるべき答えへ人を導いただけなのだと知らせた。

「部長って皆そういうもんかよ」
「俺? そうやなぁ。幸村君には負けると思うけど、四天の部長としてやったら俺もちゃんとしてるつもりやで」
「謙也、お前の部長、ドヤ顔してるけど?」
「何や、千尋。当たり前やないか。俺らの部長やで? ドヤ顔ぐらい出来て当然やろ」
「……あ、そ」

 皮肉を込めて後ろに座る忍足謙也に矛先を向けると、彼はまるで周知の事実を確認されたかのような顔で肯定した。常識も知らないのか、と言外にある。部長――という存在は千尋の中では三人しかいない。智頭と平福、それから幸村。幸村が部長として立海を率いているのを見たのはたった数か月しかないから、思い出すのは二人の先輩のことが多かった。それでも。確かに、記憶の中の部長たちは皆、一様にドヤ顔の似合う自信家たちで、幸村も決してその枠を逸脱しているとも思えない。
 誰の為にテニスをするのか、という根源的な問題についてはこの場にいる誰一人違う答えを口にしないだろう。自分の為だ。自分がテニスをしたいからコートの上にいて、そうして勝利を掴むために戦っている。その過程で誰かを勇気付けたり、喜ばせたりすることもあるだろうけれど、根源的には自分が勝ちたい、というのが真理だ。
 だから。
 千尋の思う冷酷なテニスも、勝ってしまえば柳は納得するのだろう。
 真っ向勝負を貫き、気力の差で勝ちをもぎ取った真田弦一郎と柳とは違う。
 そんなことを忘れてしまうぐらい、千尋にとっての半年は長かった。
 センターコートの中で起こっていることの貴賤を問えるやつなんてどこにもいない。勝てば勝者で全てが肯定される。勝つ為だけに千尋たちは立海に集った筈だったのに、その根源を失念するなんてこの場所がどれだけ暖かかったのか、今更知ったような気がした。
 千尋の視界では今も柳と切原が戦っている。三タテを掲げて必死に前を向いている。
 なのに、千尋が勝手に失望するだなんてどれだけの侮辱だろう。千尋はそこにいなかったのに、結果だけを見て判じることなど出来ないだろう。今は見守ることしか出来ない。それでも、その権利をもらったのだから、せめてここにいる間ぐらいは心の底から応援するのが筋というやつだろう。
 赤也、負けるなよ。試合にも自分自身にも負けないで最後に笑ってほしい。その思いで今一度常勝立海を叫ぶ。
 白熱の戦いが続いていた。
 そこに、白石からの冷静な指摘が割り込んできたのに驚くほど、時間の経過が早い。

「ところで、常磐津君。俺ら状況がようわからんへんのやけど、そろそろ二時間、経つで?」
「――えっ?」
「――キワ、お前、大丈夫なのかよ」
「いや、今のとこ『そう』いう感じはねえんだけど」

 視界が暗闇に反転するときには独特の感触がある。光がいつもより眩しく見えて視界が広がって、そうして次第に収束していく。眩しさが消える頃には千尋の視界は暗闇だ。その感覚がまだない。それでも、場内の時計は確かに決勝戦の開始から二時間を迎えようとしていた。
 もしかしたら、治ったのか。そんな期待すら抱かせて光はいつも通りに網膜に照射する。

「ダイ。悪いんだけどさ、ここから先、ノープランなんだ」
「はぁ? お前、そのこと保護者も知ってるんだろ?」

 大げさな言い方をするなよ、と千代がむくれる。
 どうなるかわからない。わからないけれど快癒の可能性があるから千尋はここにいることを許されている。
 それでも。何をどうしたって延びなかった二時間を超えたら何があるのか。千尋は勿論のこと、大倉初瀬(おおくら・はせ)も想定の外にいる。今、千尋の身に起こっているのが何なのか。科学的に証明出来る存在は地球上のどこにもいない。
 だから。

「ダイ、初瀬には黙っててくんねーか」

 今、大倉が千尋の視界の持続可能な時間が延長されたことを知ったら、きっと彼は医者の顔になってしまうだろう。このまま安穏と試合観戦を続けさせてくれるとも限らない。大倉のことを信じていないわけではない。寧ろ医師として誰よりも信頼している。だからこそ、千尋はもう少しだけこの現実を伏せていてほしかった。
 そう、願うと隣の相棒は呆れた顔で「馬鹿キワ」と言って千尋の後頭部を叩く。

「そんなことしたらお前、二度と信じてもらえないのわかってるだろ」
「けど、黙ってたら最後まで見てられるかもしんねー」
キワ、お前、自分が何言ってるかわかってないわけじゃないんだろ」
「一生に一回しかねーんだ」

 中学三年の全国大会は人生で一度しかやってこない。仲間たちが三連覇を成し遂げる瞬間は、一生に一度しかない。
 そのときが目の前に迫っていて、千尋の目はまだ映像を見せているのならこのまま最後までここにいたい。ここにいたいと思ってしまったのだ。
 千代の双眸が真っ直ぐに千尋を射ている。それに向き合う気持ちを試されていると感じたから顔を下げない。千尋、お前、何の話してるん、と謙也が問おうとしているのは白石がどうにか留めてくれている。

「本気で言ってる?」
「見てーんだ。出来るだけ、最後まで見てーんだ」
「……だったら、余計に保護者に言えよ」
「けど」
「信じてやれよ。お前の保護者なんだろ」

 それは諦観ですらなかった。
 信じてやれ、だなんて大人に向けて言うような千代を千尋は知らない。千代にとっての大人は皆、疑ってかかってそうしてどうにか騙して利用するだけの存在だと思っていた。なのに、今、千代は保護者を信じろ、と言う。それは彼がドイツで得た何かを暗喩していて、千尋の知らない半年は千代の気持ちすら変えたことを告げる。

「ダイ」
「お前の人生背負って、イギリスまで連れて行ってくれた保護者なんだろ。お前はそういうのを馬鹿みたいに信じてたらいいんだ」

 疑うなと言うのではなく、信じろと重ねて千代は言った。
 千代の眼差しは怒っているのでも、試しているのでもない。ただ、千尋に真っ直ぐに彼の気持ちを伝えようとしている。いつもの千尋なら言えただろう言葉を、千尋の代わりに言っている。
 どうしてだろう。いつからだろう。徳久脩(とくさ・しゅう)が渡米して気が付けば千代が千尋の相棒だった。お互いだけは疑わなくていいと気付いた頃には千尋たちは立海黄金ペアなどと呼ばれて、一人前の選手のような顔をしていた。その頃と何も変わらない強い眼差しで千代が千尋に呼びかける。
 疑うのなんて一秒あればすぐに始められる。
 それでも。

「信じて、傷ついて、それでも信じるのがお前じゃないのか。常磐津千尋

 誰が信じなくても、お前だけは信じ続けろと千代は言う。誰が疑っても、お前だけは信じ続けろと言う。お前にはその強さがあっただろう。そこまで言われて、千尋は千代に叩かれた後頭部が急に熱を持って痛むような感覚に襲われた。

キワ。お前の保護者、探してきてやるからもう少しましな顔してろよ」

 白石。謙也。この馬鹿のこと見てて。
 言って千代は本当に立ち上がる。目の前ではまだ熱戦が続いている。勝利の瞬間は刻一刻と近付いていて、それを見るために彼だって帰国したのに、千尋の容態より大事なものはないという顔をして駆けだしてしまった。

「ダイ――!」
千尋。アホ。お前はここにおり」
「けど!」
常磐津君。俺らは事情がようわからへんのやけど、千代君が優先順位間違えるようなアホやと君は思ってるん?」
「違う。そうじゃない。そうじゃないけど、あいつ――」

 何の為にここにいるのか。必ず勝つと信じた仲間たちの応援より、世界に一人しかいない相棒の体調を慮るだなんて気の利いたことをいつの間に覚えたのだ。それは離れていた時間に千尋にとっても、千代にとっても進歩があって成長があったことを意味している。

千尋。お前が言うたんやろ。ここにおりたい、てお前が言うたんやないか」
「一緒におるんが俺らやったらちょっと力不足やと思うけど、まぁここおってや」
「謙也さん、これ、その人にあげますわ」

 不意に顔も知らない四天宝寺の後輩らしき選手からよく冷えたペットボトルを謙也越しに手渡される。日本にいれば誰でも知っている有名なスポーツ飲料のボトルは暑気の所為からか薄っすらと結露していた。頭を冷やせ、と言外に忠告されているのに流石の千尋も気付く。

「えっと」
「財前すわ」
「財前。ここは、さんきゅ、っていうところなんだろ?」
「さぁ? 俺、直射日光でアタマおかしなっとる人見つけて人道的支援しただけなんで」

 部長、その人タオルでもかけたった方がエエんとちゃいます。素っ気なくそれだけ告げると財前は今度こそ試合の観戦に戻っていく。その声と入れ替わりに千尋の視界が暗転した。視野の喪失とは違う。誰かが千尋の頭に大判のタオルを被せたのだろう。ふわり、と柔軟剤の香りがした。その布地を手繰って顔の正面から外す。「ゲームセット、ウォンバイ柳・切原ペア」の声が聞こえたのはちょうど千尋がタオルを脱いだときだった。

千尋。お前のガッコ、リーチやで」
「まぁ三タテの学校だからな」
「青学しぶといから、そう簡単に優勝出来ひんで」
「でも、リーチだろ?」
「それが甘いんや。お前、そない簡単に青学勝てる思たらアカンで」

 柔軟剤のさわやかな香りの中、千尋は試合を終えた立海の二人のことを目で追った。仲間たちは祝福らしい祝福を与えることもない。立海というのはこんなに整然としたチームだっただろうか。今、千尋の周囲にいる四天宝寺の選手たちのようにもっと喜怒哀楽のある学校だったのに、と頭のどこかで思う。
 
「そうやで、常磐津君。青学、エエ試合するからまだまだ楽しめるで!」
「いや、俺としてはそのままハルが勝ってくれりゃそれでいいんだけど」
「まぁそない言わんと」

 見えへん、が何の冗談か俺らにはわからへんけど、見えてるんやったら一緒に楽しもうや。
 やって、これは中学最後の全国大会やねんから。
 締め括られた言葉に千尋は両眼を大きく見開く。そうだ。中学最後の全国大会だ。一生に一度しかない。だからこそ千尋は帰国を許されてここにいる。

「お前、本当、いい部長だよ」

 仁王雅治が勝ってほしい、と願っている千尋を知りながら、それでも自分たちに勝った青学が優勝すれば何らかの感傷を棒引きに出来ると心のどこかで期待しているのを隠そうともしない。そして、それ以上に「面白いテニスの試合」を何よりも願っている。こんなテニス馬鹿が率いているのだから、四天宝寺というのはきっとテニス馬鹿しかいない学校なのだろう。かつて、立海もまたそうであったように。
 そんな当たり前のことを思い出しながら千尋の興味は次の対戦へと移り変わる。大倉を連れた千代が戻ってくる気配はまだない。次の試合が間もなく始まる。青学の選手のことは柳のデータを少し聞いた程度の知識しかない千尋は実際に彼らと対戦した白石に確認するのが最短距離だろうと思って問う。白石が刹那、泣きそうに笑って、そうしていつもの柔和な表情へと戻ったのには何の意味があるのだろう。

「白石。次のは誰だ」
「んんー。その質問を素で聞いてくる常磐津君のポテンシャルがほんま怖いわ」

 狙ってるにしても狙ってないにしてもオイシイわー。と言われるにあたり、千尋が何らかの地雷を踏んだのを自覚する。千尋はあいにく、上方の生まれではない。田舎中の田舎で生まれ育った。深夜放送では関西の番組の再放送が流れている、と同級生たちが言っていたけれど、テニスがAll in Allだった千尋にテレビを見ているような時間はない。ああ、そうか。だから、千尋は立海でテニスだけの為に生きている仲間たちと過ごす時間が楽しかったのだ。
 そんな千尋の納得を知らない謙也が白石の嘆息を引き継いで説明をくれる。

千尋。白石がギリギリのギリで勝った不二周助っちゅうやつや」
「へーほーふーん」
常磐津君。不二君はめっちゃエエカウンター持ってるから最後まで見ものやで!」
「まぁ、俺、ハルの詐欺?を実戦で見るのって実は初めてだし、不二?のカウンターもお前がそう言うんだったら期待するかな」

 立海にはおらへんタイプのカウンターパンチャーやから、勉強にもなるし、な?
 と、どこまでも青学を応援する姿勢の四天宝寺テニス部のただ中にいて、それでも千尋の視界には仁王だけが映っていた。
 仁王と千尋はどこか本質的な部分で似ている。仁王の悪ふざけに乗っかって、実行して一緒に怒られて、それでもまだその無謀な挑戦を辞めない。一緒にいると不必要な遠慮をすることもなく、自然体でいられる貴重な仲間だ。仁王と出会っていなかったら——きっと、千尋は立海大学付属病院で未来の全てを手放していただろう。三強とも千代とも違う。千尋にとって仁王雅治というのは何か特別な意味を持っていた。
 その、仁王の公式戦を見たことがない。千尋の視界が閉ざされるまでは千尋や三強たちが正レギュラーの地位を譲らなかった。部内のレギュラー戦では何度も何度も叩きのめした。千尋は半年前でその場を去り、そしてそれ以降の仲間たちの成長を知らない。
 お荷物の自分が嫌いだった。
 そんな自分すら肯定してくれる仲間が眩しくて羨ましかった。
 前向きに努力している風を装って、千尋は立海で戦うことから逃げ出した。
 どれだけ取り繕ってもそれが事実で、現実だ。
 なのに。
 三日前。帰国した千尋はあたかも昨日も一昨日もずっと立海にいたかのように仲間たちに受け入れられた。その幻想や幻覚を知ってしまった千尋とコートの中との温度差が更に告げる。千尋は既に報われる側の人間で、共に勝利を勝ち取るその内側の存在ではない、と。
 だから、きっとこれは罰なのだろう。
 自分にはテニスしかない、だなんて大言壮語したくせに幸村精市に勝てない自分に勝手に絶望して、勝手に逃げ出した、その弱さへの罰だとしか思えなかった。いつまでも純心に前だけを見ていられればこんな後悔はしなくてもよかったのだろうか。勝てない自分ごと強がって傷だらけの心でそれでも笑っていればよかったのだろうか。
 正しかった答え、なんて逃避の中にしかない。わかっている。それでも。お前のテニスじゃないだろう、だなんて言えば最後、二度と彼らは千尋を視認すらしない。わかっている。それでも、どうしても。もっと輝いていた立海のテニスを思い描いてしまう千尋自身のエゴに反吐が出るほど苛立っていた。

千尋君。そんなに思い詰めた顔で仲間達の試合を観戦する、だなんて言わないでほしいな」
「──初瀬」
「君は本当にテニスに関してだけは生真面目で不器用すぎるよ」

 勉強も人付き合いも食事も行楽も、テニス以外の全てなら器用に受け流せるのにどうして肝心のテニスで躓いてしまうんだろうね。千代に連れられてやってきた大倉が嘆息している。
 
千尋君。君が今、何を思っているのか、には大体心当たりがあるから敢えて言うね。自分で言い出したことじゃないか。最後まで見届けてイギリスへ帰ろう?」
「──初瀬は、それでいいのかよ」
「僕は君と違って全国大会の覇者が誰か、なんてことには何の拘りもないんだ」
「知ってる」

 大倉は最初からそうだった。千尋の仲間たちが来ようが来ようまいが最優先事項は治療で、それ以外を認めたことは一度もない。医学上、千尋の身体に問題がなかったからこそ、千尋はお遊びのテニスをする時間を許されていた。大倉に出来ること、の限界を超えたからこそ彼はアーマッド教授の打診を容れ、千尋に道を選ばせたのだと気付けないほどには千尋もまた幼くはなかった。

「君の健康状態が整うなら、日本だろうとイギリスだろうと、それこそドイツだろうとどこだって構わないし、何なら僕が君の主治医でなくてもいい」
「いや、そこは拘ってくれよ、俺の主治医」
「君たちの一年や一ヶ月は僕たちの時間感覚とは違う、っていう論文を読んだことがあるんだ」
「で?」

 優しくて強くて立場のある大人──大倉初瀬は媚びも諂いもそれどころか悲しむことすらなく千尋を真っ直ぐに見ている。
 そして、言った。

「断言するよ。君の目は君の仲間たちが三連覇を果たしたとしても、きっとすぐにはよくならない」
「なん──」
「君の目が一生治らない、って言ってるわけじゃないよ」

 結論を見届けた千尋の双眸はいずれ光を取り戻すだろう、とすら断言する。その顔色は一貫して同じで、千尋はそこに大倉の本気を見た。
 大倉がこうもはっきりと未来を断言するのは実は珍しい光景だと今の千尋は知っている。イギリスに渡って、見たこともない街の中で聞き取れない言葉の嵐を一緒に過ごしてきた。医者だから頭はいいだろうに、大倉は英語が大の苦手だったと知ったのはいつだったか。千尋の体調が改善する唯一の手段である写真については大倉の方がずっと疎い。カメラはもちろんだけれど、現像をするためのラップトップですら扱いに苦慮しているのを何度も見てきた。
 だから。
 だから、大倉が治るというのなら治るのだ。無条件にそれを受け入れられるぐらい、千尋は大倉初瀬という医者を信じている。
 いつだって千尋の一番の味方になってくれた大人で、千尋の為に人生を投げ打ってくれた恩人がそれを告げるのに少しも嬉しそうな顔をしていない意味を千尋も察して、やっと、自分の選んだ答えの意味を理解した。
 そうだ。
 わかりきっていたじゃないか。それなのに、その事実に蓋をして焦る気持ちのまま決断したのは誰だ。千尋だ。
 だから。

「君はもう『立海の常磐津千尋』に戻ることはないんだ」
「初瀬が『立海大学附属病院の大倉初瀬』に戻れないから?」
「僕たちは自分でその道を選んだんだ。今更、都合のいい部分だけ元通りになんてならない」

 君は君が失ったものと向き合って初めて、その不調を乗り越えられる。
 優しい声が千尋の心をそっと串刺しにする。知っていた。帰ってくる、だなんてただの願望で、そんな簡単に実現出来ることではないと知っていた。知っていたのに、千尋は目の前の問題を一足飛びに解決しようとした。一度出て行って仕舞えば二度と戻れない場所になる、という現実から目を逸らして、ただ昨日とは違う明日に希望を見出そうとした。その、報いだ、という思いが胸を絞る。わかっている。仲間たちもわかっているのだ。「立海の常磐津千尋」は二度と戻ってこない。だから、優しく受け入れられた。いっときの客人をもてなすのにどうして断罪などするだろうか。お前が逃げ出した場所はお前などおらずとも輝いていると見せつける為に柔らかく接された。知っている。千尋はもうこの場所で戦う権利すらない。だから、こんな場所で──立海応援団の中にすら入れずにスタンドから試合を見ている。
 多分、千代も気付いているだろう。彼もまた同じ道を辿った同士だ。戻れない場所で足掻いている。それが一人ではない、と知れたからこそ彼は千尋に微笑むのだろうし、千尋の身を慮ってくれる。この場所にいて、その疎外感を背負っているのは千尋と千代の二人だけだ。二人だけが異物で、腫れものだった。

千尋君。君の仲間はとても誠実だと、僕は思う」

 掲げた志を折ることなく掲げ、その旗を千尋や千代に見届けさせ──報いる為に切磋琢磨している。勝っても負けてもこの時間は今このときだけで、だからこそ彼らは勝利だけを貪欲に追い求めていた。中学三年生にあるまじき律儀さだ。本当に、大したやつらと肩を並べていたのだなと実感して、千尋の瞼は少しずつ熱を帯びる。

「初瀬。最後まで見たいんだ」
「それは君の気持ち次第じゃないかな」
「ここにいていいだろ?」
「それも──」

 千尋次第じゃないか。そんな回答が返ってくるより先に、千尋の座っている座席ががん、と硬質な音を立てて揺れた。
 後ろに座っていた謙也が座席を蹴ったのだ、と気付くのに一拍必要だったけれど、今度はその意味がわからない。どうして、謙也がこんなにも苛立ちを顕にしているのだろう。そんな躊躇いを外へ押しやったままで、謙也が吠える。

「何や、さっきから聞いとったらエライ上から目線やな、あんた」
「謙也、お前、何いきなりキレてんだよ」

 困惑を抱きながら振り返ると見たこともないような顔をした謙也が半身を乗り出していた。白石が静止しようとしているが、到底止まりそうになはい。すんません、この人一回火ぃ着いたら何しても無駄なんすわ。財前がひらひらと手のひらを振って更なる諦めを千尋に強いてくるのが、なぜだか逆に面白かった。
 
千尋、お前もお前や。何、一方的に諦めさせられよるんや。もっと粘るんがカウンターパンチャーやないんか?」
「いや、医者相手にカウンターも何もねえだろ」
「それやそれ。医者や言うんやったら患者に希望与える存在でおれ、っちゅーねん」

 諦めろ言うて平然としとるような医者やったら辞めてまえ。俺はそないなやつは医者やて認めへん。啖呵を切った謙也が厳しさで大倉を射た。そういえば、彼は医者を目指しているのだった、と思い出した頃には大倉と謙也の睨み合いで間に挟まれている千尋は双方の出方を窺うのに忙しくて、いつの間にか感傷のようなものは吹き飛んでいた。

「謙也。別に、俺、諦めてはねーんだけど」

 視線で威嚇し合っている二人の間に割って入るのは少し気が引けたが、このまま不毛なすれ違いを繰り返しても何の実利もない。それだけはわかっていたから、口を開く。
 謙也が訝ってこちらを睨み付けたけれど、それに怖じるほど千尋も弱くはなかった。

「はぁ? 今の流れでなんでそないなるねん。お前の精神構造どないなっとるんや」
「いや、別に一般的だと思うんだけど?」
「全部諦め、言うてこの医者言うてるやないか」
「いつだよ。初瀬は俺に諦めろなんて言ったこと一回もねーよ」
「ほな、さっきこの人が言うたんは何やねん」
「多分、最後まで足掻く覚悟もないくせに中途半端な期待してんじゃねーっていう、お説教?」

 大倉初瀬というのは終始一貫してそういう「わかりやすそうな顔をしているわかりにくい大人」なのだと千尋は理解している。根の部分では千代の同類なのだろう。一つ違いがあるとしたら、大倉は千代より人生を長く過ごしている分、立ち居振る舞いが少しだけやわらかいことだろうか。
 いつだって目の前の問題に真摯に取り組んでいて、いつだって千尋の気持ちを確かめようと努めている。千尋の明日が明るいことを誰よりも切実に願っているくせに、明確な答えを何度でも確かめようとする。

「初瀬。初瀬もさ、立海三連覇、見届けて行ってくれよ」
「そうだね。僕も『あの』幸村君がどんなテニスをするのか、見てみたいな」

 大倉は病に伏した幸村しか知らない。復活を遂げて、三連覇の為に奮闘する幸村を知らない。
 幸村のテニスは本当に圧倒的で格好良くて千尋たちの頭上高く、その空を飛んでいく。特別な必殺技も勝ちパターンもない。ただ、圧倒的に強いだけの幸村精市のテニスを大倉にも見て帰ってほしいと思うけれど、その願いが叶わない方が千尋の幸福を色濃くする。

「無理だろ。精市まで回んねーし」

 嘆息と共にその予定調和を願えば空気を読んだ白石が口を挟んできた。

「せやから、常磐津君。青学、そないヤワやないで?」
「白石。立海のこと何見くびってるわけ? 『俺たち』が負けるわけなんてないだろ」

 そうだろ、キワ
 願うように祈るように千代が千尋を見遣る。その切なる眼差しには立海の千代由紀人としての自尊心が宿っていた。ああ。そうだ。そうだったんだ。二度と同じ場所に戻れなくても、千尋と千代が立海の仲間だった過去は決して消えはしない。同情や憐憫もあるだろう。線を引いて区別をされることもあるだろう。
 それでも。

「常勝立海なんだ『俺たち』は」

 勝つ為だけに神奈川に集ってきた。最強の看板を背負って戦ってきた。その事実は誰にも覆せはしないだろうし、今、それを疑う必要すらどこにもない。信じて待っている。その歓声が届く瞬間を待ちわびている。その千尋や千代のことを仲間たちがどう思っているのかすら模範的な答えを持たないだろう。
 一人ひとり違う。
 今と次の瞬間でも違う。
 一瞬で入れ替わる感情の機微を全て伝えられなければ信じられないほど千尋たちは弱くなどなかっただろう。
 明日を信じ、今を戦う。
 それだけが不文律で、立海の絶対のルールだ。
 だから。この試合の終着点がどこであっても、千尋と千代は見届けて「帰ら」なくてはならない。それを仲間たちに望まれているのだと知っているからには。
 必ず帰る場所だ。今と明日と来年でその位置情報が変わっても。三連覇の夢を蚊帳の外で見たとしても。ここが、ここだけが千尋の帰ってくる場所だ。

「初瀬。見えなくなったらダイに連絡させる。絶対に約束する。だから」

 信じてほしい。立海が勝つ瞬間を、千尋が不要と切り捨てられる瞬間を、それを全力で今、望んでいる千尋自身を、信じてほしいと願う。大倉は千尋の最後の答えを聞き届けると泣きそうに笑って、幸運を祈る仕草を残して自分の座席へと戻っていった。
 センターコートの中で勝敗が決する。天才に勝てなかった悪友が澄ました顔でその実嗚咽しているのを感じたけれど、それでももう視線を逸らそうとは思わなかった。三タテではない。それでも、三連覇まであと一勝。残っているのは立海白金ペアと幸村だけだ。思い切り戦って、勝ってくるのを祈るしかないはがゆさを噛み締めながら、千尋の視界はまだ光と共存している。