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All in All

71st.天日塩の皇帝

 焦るな。焦ったら焦った分だけ未来が遠ざかる。
 わかりきっているじゃないか。今までずっとそれを繰り返してきたじゃないか。
 明日の景色はいつだって突然に塗り替わって、心を試す。二時間の自由があるだけまだ幸福なのだと割り切ろうとしてきた。ずっと、ずっと自分だけが不幸ではないと説き伏せて前を向いてきた。
 「All in All」だなんて格好を付けても常磐津千尋は十五の子どもで、結局自分で解決出来ることには限界がある。下を向くのが怖かった。下を向いたら、二度と顔を上げられないような、強迫観念に囚われて一人でやせ我慢をしてきた。
 負けるのはいつだってつらくて、苦しくて、だから、負けないだけの努力をしようと思ってきた。
 負け知らず、だなんて孤高を気取っているのではない。千尋はちゃんと知っていた。勝てない相手がいることも、その背中を追うことが出来る幸福もちゃんと知っていた。
 だから。
 イギリスから帰国して三日後。全国大会の決勝戦が開幕するという宣言を聞きながら、仲間たちが二時間で勝利を勝ち取ってくることを信じて千尋はシャッターを切った。手探りの状態で写真が一枚メディアに書き込まれる。それを契機に千尋の視界には光が戻る。第一試合は真田弦一郎だ。エンドに立つ、威風堂々たる姿をもう一度ファインダーに収める。耳に届く音が、常勝立海大のコールが懐かしい。このままここにずっといたい。そんな思いすら抱かせて、真田の試合が始まる。

キワ。お前、本当に信じたわけ?」
「何を?」
「立海が二時間で優勝する――っていう絵物語」
「ああ、うん。それか」
「関東大会の決勝と同じ相手なんだろ」

 セイの手術に合わせようとして間に合わなかったどころか負けたって聞いたけど。
 その話題について立海の中では半ばタブー視されているから、こうしてメインスタンドの一般席にでも座っていなければ口にすることも憚られる。千尋も千代由紀人(せんだい・ゆきと)も立海テニス部の部員ではない。そのことを理由に関係者席には入れてすらもらえなかった。
 だから、一般席の入場券を正当な手続きで買った。大陸の向こう側にいても座席の予約が出来る、だなんてインターネットというのは本当に世界を狭くしたのだと実感する。千代の席と千尋の席が隣同士なのは、千代のチケットと大倉初瀬(おおくら・はせ)のチケットを交換したからだ。事情を汲んだ大倉が絶対に離席しないことを条件に千代を隣に座らせてくれた。

「――信じてるわけじゃねーよ。でも、最悪、写真だけ撮れりゃ、後でまた見れっかなって」

 勝つという志を信じた、とでも言うのだろうか。意気込みだけで勝てるのなら人生に挫折などという概念はなかっただろう。関東大会で一度負けた相手に勝つだけでも困難なのに、どうして二時間などという短時間で勝てるだろか。そういう、生易しい相手ではない、と柳蓮二も自ら口にした。
 それでも。

「見てることしか出来ねーなら、信じてるって言うぐらい別に自由だろ」
「お前、本当。変わらないんだな」
「仕方ねーだろ。ダイ、お前だってそうじゃねーか」

 本当ならあそこにいたい。あの、コートの上で先陣を切って勝利を呼び込むのが千尋たちの役割だった。その思いはきっと一生消えることがないだろう。敗北の屈辱よりも、弾き出されて何の力にもなれない無力感の方がいっそ酷いと千尋たちは感じていた。
 関係者ではない、というのは本当に無力だ。
 見守っているその他大勢の一人。その中の一つになってでも、ここにあれることを千尋は確かに僥倖に感じていた。約束に間に合わなかった。何の助けにもなれない。それでも。それでも、今、このとき、この場所にいて同じ理想を得る瞬間を共有出来る。志を曲げたのではない。折ったのでも棄てたのでもない。何も変わらない志を掲げて――勝利の瞬間に同席したい。だから、千尋はここにいる。その為に必要なことがあるのだとしたら、今は多分。写真を撮ることなのだろう。

「ダイ。間に合わなかったらお前が教えてくれ。何が起きてて、どうなってるのか、お前の目を通してでいい。俺もちゃんと最後まで一緒にいてーんだ」
「――お前のそういうところ、嫌いだった」
「ダイ?」

 審判が試合の始まりを告げる。ボールをバウンドさせる音が聞こえて、千尋は緊張感を伴うのに隣に座った相棒はこちらに一瞥もくれないでまるで独り言のように告解を始めた。
 嫌いだった、ということは今は嫌いではないのだろうか。
 そんな楽観を抱いて、それでも千尋はファインダーから視線を外せないでいる。
 シャッター音が無関心を装って何度も何度でも響いた。
 千代の眼差しもまたコートの中を見ているはずなのに、声音がどこか遠くから聞こえるような気がした。

「自分はちゃんとしてるってさ、マウント取られてるみたいで、俺なんかよりお前の方がずっと物分かりが良くてさ。優等生なわけじゃないのに、皆お前のことはちゃんと評価してて、じゃあ俺って何? ってずっと思ってた」

 優劣は比較から生まれる。荒唐無稽なほどかけ離れたものを比較する馬鹿などいなくて、結局は身近なもの同士を比較する。千尋にとっても千代にとっても、お互いが一番先に比較される対象だった。そのことは千尋も承知している。一番近くにいる、一番頼れて一番憎い、一番大切な比較対象だ。
 そのことに千代が倦んでいたことをどうして今、告解するのだ、と思う。

「けど、お前といるときが一番楽しかったって今になって思うんだ」
「たまたまだろ。テニスが出来たっていうだけで」
「そうじゃない。お前って本当に自己評価だけは低いよな。本当。いっそ引くぐらい」
「るっせーな。どうせ鈍感だよ」
「けど、俺はそういうお前のこと今は嫌いじゃないんだ」

 その、柔らかな声音に千尋ははっとして、隣を見た。千代が眩しそうな顔でセンターコートを見下ろしている。その表情には曇りがなくて、彼が偽りやいっときの誤魔化しを口にしているのではないと伝えた。

「お前ってさ、サダと一緒なんだ。鬱陶しくて、馬鹿で、ひたすらに前向きで、自分につらくあたって――なのに一緒にいると凄く安心する」
「弦一郎には負けるだろ」
「そう? 俺には同じレベルに見えるけど?」
「――誰の試合まで見られるのか、わかんねーけどさ。教えてくれよ。絶対、教えてくれよな、ダイ」

 人徳を褒められたかったのではない。テニスで強くなりたかった。ただその思いだけで千尋は郷里を離れて神奈川に来て、そしてそれを諦めきれなくてイギリスにまで行った。
 諦められないのだ。テニスを――テニスを通じて得た仲間のことを諦めたくない。
 だから。

「見られる間に必死に写真撮っておけよ、馬鹿キワ

 千代が視線すら寄越さないで全力に近い力を込めて背中を叩いた。その衝撃に思わずシャッターを切る。バックハンドで返球した真田がブレて写った。それはそれで味のある写真になるだろう。だから、構わずに次の写真を撮った。
 均衡した試合展開が続く。この調子では二時間では到底間に合わないだろう。立海の伝統――三タテだとしても、勝利の瞬間は見られない。それでもいいと思った。熱球を追いかけるこの場にいられるのなら、それでもいいと本当に思えた。
 ファインダーの向こうで真田が厳しい表情をしている。その口元が少し緩んでいて、彼もまた試合を楽しんでいるのを教えた。頑張れ、だなんてどうして言えるだろう。何の気休めにもならないのはわかっていた。頑張るのは真田――だけではない、立海の選手たちだけで、千尋はそれを見守ることしかできない。そして、真田にこれ以上頑張れ、というのはあまりにも傲慢だと気付いてしまった。誰かに叱咤されなくても、応援されなくても、見守られなくても、真田は彼自身の願望として勝利を求めている。
 その為に身を削り、息を荒げて必死にコートを駆け続けている。
 だから。
 千尋に出来るのは真田の奮闘を写し取ることだけだ。
 真田が全霊をかけて挑んでいる記録を残すことだけだ。
 わかっていたから、千尋はファインダーの向こうを何度でも覗いてはシャッターを切った。
 知っている。知っているんだ。
 真田だけじゃない。立海の仲間は皆誇り高くて、勝負の瞬間に本当に全てを懸けているということを。
 そして、彼らは千尋が帰ってくるのを待っている。
 写真はそのときの手土産になるだろう。
 海原祭の夜に。四天宝寺との共同合宿の休憩時間に。勝敗も優劣も全部忘れて笑いあったとのときのように。
 一生に一度しかない中学三年の全国大会の写真はきっと千尋たちをつないでくれるだろう。
 望遠レンズの向こうで真田の咆哮が聞こえる。一時間以上にもわたる激戦の末、真田がとうとう勝利した。対戦相手である青春学園の手塚は負けてもクールで、涙一つ見せやしない。それでも、勝ったのは真田だ。まずは一勝。ただ、その一勝はきっとこれからの真田をずっとずっと支えてくれる。そんな予感すらした。
 目が見えているうちに真田の勝利を祝福したかったけれど、大倉とは離席しないことを条件にこの座席にいる権利をもらった。離れられない。自分の分を弁えていたのではない。千尋の目が再び見えなくなったら、困るのは千尋ではない。千尋の周囲が一番困窮する。大倉とは離れた席に座った以上、仲間たちの足を引っ張るような真似はどうしても出来なかった。
 だから。

千尋。お前、目ェ見えへんようなったって?」
「――謙也?」
「何や。やっぱり嘘やん。白石、これが目ェ見えてへんやつの顔か」
「せやから、言うたやん、俺。常磐津君は『今は』目ェ見えてるけど、そのうち見えへんようなるって」
「アホか。未来予知やないんやからそんなことないやろ」

 でも、事実やんな。常磐津君。
 疑問の形をした肯定の言葉が投げかけられて、千尋はその音源に瞠目する。
 大阪・四天宝寺中学の白石蔵ノ介と忍足謙也だ。去年の全国大会で会ったきり、ずっと音信不通になっていた縁の薄い友人たちの登場に少し驚いて、そうして、青春学園に準決勝で敗北したのが彼らだったなと思い出した。

「お前ら、ちょうどいいとこに来たな」
「嫌やで。立海(てき)に塩送ってこいとか、俺は嫌やからな」
「いや、別に塩送んなくてもあいつらなら天日塩作れるだろ。お前と違って」

 試合を譲って三年の夏が終わった賢人からは多分想像も出来ないだろうけど。と悪口を放つと謙也の顔が苦笑で彩られる。

「ほら、見てみぃや、この千代君二号。めっちゃ元気に見えるで、俺」
「まぁ元気には元気だって。最初から」
「最初から元気、ちゅう顔やないくせに強がらんとき。常磐津君、俺らは自分で負けたから思うんやけど」
「『青学めっちゃ強いで!』か?」
「そうや。そやから、解説、もう二人おってもエエやろ?」

 言いながら、白石は千尋の後ろの席に座った。そこはしばらく空席だったのに、と思っていると青学の様子を見に行ったらしばらく話し込む羽目になっただけで四天宝寺の仲間ももうすぐ揃う、という説明が求めてもいないのに降ってくる。そう告げた白石の表情には欺瞞も同情もなくて、千尋は彼らもまた千尋の対等な友人のカテゴリ内にいたのだということを教えた。
 
「白石」
「どうかしたん? 常磐津君」
「俺、あと一時間も持たねーんだけど」
「うん。柳君づてで乾君から聞いたで」

 今の試合、一時間ちょっとかかったもんなぁ。難しい展開なってきたな。
 その言葉には暗に千尋の目が二時間しか持たないことも承知の上だという雰囲気が滲んでいて、千尋は表面上ですら取り繕わなくていい、という白石の優しさを感じさせる。三日の間に情報が伝播しきっている、という事実の前に千尋は苦笑するしかなかった。
 
「俺とダイ、絶対ここにいなきゃなんねーから、目が見えなくなったらさ。お前と謙也であいつらにそう伝えてくんねー?」
「『常磐津君、目ェ見えてへんからもっとド派手に試合したってくださ~い』て?」
「いや。俺はずっとここにいるから、だけでいい」
「ほんま、君ら規格外やなぁ」

 それだけでエエん?
 その問いには首肯で返す。白石が少しだけ歯がゆそうに笑って、それでも彼もまた千尋の願望を容れてくれた。

「けどな、常磐津君。そんなん言わんでも幸村君ら、疑ってもないと思うで?」
「疑ってもなくても、言った方がいいこともあるだろ」
「――二連覇の王者は言うことがいちいち格好エエなぁ」
「違う。今日、三連覇の王者になるんだっつの」
「青学、そんなヤワやないで?」
「弱くない相手と立海がどれだけ戦ってきたと思ってんだよ」

 王者だ。ディフェンディングチャンピオンだ。そういう矜持がないわけではない。そうある為に犠牲にしてきたものだってある。それでも。勝者はいつも一人で、その頂を目指して誰もが足を進める。負けた白石たちは勝った青学に希望を託した。優勝校に負けたのなら、それはそれで仕方がなかったことになるから、というのもあるだろうし、来年への糧にもなるだろう。自分たちを超えていったものを応援するというのは、トーナメント形式の試合ではそう珍しいことでもない。
 それでも。

「白石。負けるから見捨てる、とか、勝てなかったから価値がない、とか、あいつらが思ってんなら俺はきっとあいつらをぶん殴らなきゃなんねー」
「まぁ、負けたやつは強制的に鉄拳制裁の掟になったんだろ? じゃあ俺も負けたやつ、殴る権利あるよな」
「ちょお待ちや。君ら、えらい攻撃的やな。ここは! 神聖なる! 有明コロシアムやで!」

 暴力沙汰は勘弁や、と白石ががっくりと肩を落とす。

「大丈夫大丈夫。死なない程度に、な?」
千尋。それ今のお前が言うても洒落になってへんから止めーや」
「謙也。洒落で人を殴れるほど、俺はまだ人生棄ててねーんだけど?」
「洒落やないんやったらもっと止めーや。お前と幸村君らやったら、殴らんでも友情成立するやろ」
「それについては否定しねーけどさ」

 それでも。殴ってほしいときってあるだろ。
 ぽつり千尋が呟いた声に、白石と謙也は二人して頭を撫でてくる。あまりにも大切なものを撫でるかのような手つきに、千尋は自分が今、どんな顔をしているのか、少し不安になった。

「取り敢えず、次の試合が終わって、目、見えなくなってたらそのときはよろしく頼む」
「三タテの出身がよう言うわ」
「だって、そうなったら肝心の優勝シーン見れねーってことだろ?」
「ほんま。それが一番エエて顔しながら言いなや」

 まぁ、お前がほんまに目ェ見えへんようなったら考えるわ。
 言って謙也は千尋の額を指先で弾いた。快活に笑う健康優良児を見ていると、彼は彼なりに千尋の心配をしてくれているのがわかる。
 一番いいのは謙也の言う通りだ。三タテで勝ってドヤ顔の仲間たちを寿ぎに行く。その瞬間がもっとずっと未来の先で――この二時間が終わり、暗闇の二時間すら超えてもう一度視界を取り戻せた時だったらいいな、と思ったのは否定しない。その為には仲間たちには一試合を二時間でこなしてもらう必要があり、持久力自慢の千尋やジャッカル桑原ではないのだから、無理難題だ。わかっている。全ての要件が満たされる状況なんてあり得ない。誰かが誰かの為に割を食うのがこの世界だ。
 それでも。

千尋。そない立海が心配なんやったら、ちゃんと声出したり」

 意外と、スタンドの声ってあそこでも聞こえるもんやで。
 だから、自分の存在を軽んじたりしないで、自分の今出来る精一杯で関わっていけ、と謙也が言うのを聞いたとき、心のどこかで千尋は白旗を上げた。この友人は一体どこまでが見えているのだろう。そういえば医者の息子だったな、ということを何とか思い出して、人を救うのに老若男女は関係がないのだと知った。謙也も、大倉も、アーマッド教授も、ニックも。人を――千尋を救う為に惜しみない情熱を注いでくれる。
 だから。
 折よく響き始めた常勝立海大のコールに声を重ねた。隣の千代も苦く笑いながらそれに追随する。
 コート上には次の試合の選手――柳と切原赤也の姿が現れて、そうしてぐるりとスタジアムを見ているのが見える。
 そして。
 
キワ先輩! 立海は三タテっす!」

 切原が何の屈託もない顔でそう笑ってこちらを見たとき、負ける未来なんて一ミリも描かない立海級の後輩の名前を腹の底から叫んでいた。
 全国大会決勝戦の第二試合が間もなく始まろうとしている。