All in All

3rd. 最上級の侮蔑

 誰にでも勝てる、というのが幸福なのかそれとも不幸なのか、十二の常磐津千尋には判断が出来ない。
 千尋にはそんな才覚はないし、普通に「負け」という概念を知っている。勿論、知識だけではなく実際に経験したこともある。負けた悔しさと勝った充足。その両方を知っているから千尋は戦い続けられた。どちらかしか知らないのなら、それはどちらも知らないのと大差ないだろう。
 だから、勝ったことしかない。そんなやつはいないと思っていた。
 少年漫画の主人公でも、今どきそんなやつはいない。最後に勝つのは主人公かもしれないが、必ず負けて、その悔しさをばねに立ち上がる。それが王道だ。それがセオリーだ。
 なのに、架空の世界にすらいない奇跡的な存在は千尋の目の前に現れた。全戦全勝。小学生と中学生の間にある壁すら認識しない。若干十二歳で――しかも彼は三月の生まれだから十二歳になったばかりに近い――上級生を平然と打ち負かしていく。千尋も当然のように彼には負けた。よくこんな存在がいるものだと、悔しさを通り越して感動を覚える。彼の存在を全面的に肯定している真田弦一郎の気持ちが少しわかった。自分よりも圧倒的に秀でた存在と相対すると、否定も肯定も両極端になる。
 立海テニス部の県大会レギュラー選抜戦は三日にわたって行われている。全てのものに参加資格がある、と部長が言った通り、くじ引きで六つのリーグに分けられ、それぞれのコートで総当たりの試合をする。その戦績を元に、最終リーグ三つの進出者が決定され、更に総当たりの試合が行われる。この結果でレギュラーが決定するが、上位七名は除外される、と聞いて千尋は何を言われているのか、よくわかっていなかった。強い選手がレギュラーになるのが当然だ、と思っていたのが勘違いの始まりだと気付いたのは、予備リーグで全戦全勝の幸村精市との試合に負けた後だった。

常磐津、俺から三ゲームも取るなんて大した成長じゃないか」
「嫌味か、幸村」
「全然。俺はお前が強くなってて楽しかったよ」
「そうかよ」

 そんな会話をしながらベンチに戻る。千尋と幸村の試合は3-6で千尋の負け。取った三ゲームは千尋のサービスゲームで、スコア上、全てがデュースからの辛勝だった。それ以外――特に幸村のサービスゲームは完敗に等しく、千尋の成長より幸村の成長の方が度合いが大きかったことを痛感させられる。特待生を選ぶ基準が間違っている。不意にそんなことを思った。あのスカウトの男は一体千尋に何を見出して、立海へ招請したのか。千尋よりよほど強い幸村の方が特待生にふさわしいのではないか。そんな泣き言に近い感想も湧き上がって来る。
 それでも。
 特待生に選ばれたのは千尋だ。そこから先のことは千尋自身の問題で、負けて言い訳をしているうちはレギュラーの座など遠い。
 いつになれば、この全戦全勝男を倒せるのか。その道のりを想像して、結末が見えなくて、ばかばかしくなって千尋はタオルを頭から被ってベンチの隣に腰を下ろした。
 千尋が割り当てられたこのコートの予備リーグの最終リーグ進出候補には幸村を除くと、二年の特待生の先輩が一人と、三年のレギュラーの先輩が一人いる。それ以外はまず千尋が負ける要素がない。難しい試合になるだろうその三人のうち、幸村には既に負けた。三つある最終リーグに進出するには二敗までがボーダーだ。三敗すると、あとは他のコートの結果次第になる。つまり、千尋は二人いる候補のうち、どちらかには勝たなければならない。今の千尋では
どちらの先輩に勝つにも接戦になるのは目に見えている。体力は少しでも温存しておきたい。
 そんなことを考えながら、試合運びのイメージを作る。
 勝てるイメージを持てないまま試合をしても、ぐだぐだと流されて負けるのが関の山だ。小学生の頃は息をするように勝利のイメージが描けた。だから、一昨年、全国大会で幸村と対戦して、イメージが吹き飛んだときにはかなり混乱した。その負けは千尋のメンタルを弱らせて、そして結果的にほんの少し強くさせた。中学に入って、練習試合で上級生にこてんぱんに負かされた。それも千尋のメンタルを少し強くさせる。
 負けた試合の反省は明日でも出来る。今日の試合に勝つことが大事だ。気持ちを切り替えていると、千尋のメンタルを盛大に傷付けた幸村本人が息ひとつ乱すことなく話しかけてきた。彼とは違って、今の千尋にそんな余裕はない。適当にあしらっていても、声が途切れることはなかった。
 別の選手同士の試合を一ゲーム、そうしてうわの空で会話して、結局、千尋はタオルを払いのける。幸村と向き合って文句を言ってやろう。本気でそう思った。
 なのに。

「見て、常磐津。あのショット、いいよね」
「けど、その後の処理が甘い。俺なら、あそこでパッシングして崩す」
「うーん、それもいいけど、ドロップで更に引っ張ってって言うのも悪くない?」

 幸村はコートの中の試合を嬉々として分析している。自分ならこうする。そうならなかった場合、何が違うのか考える。それを自然と楽しんでいるのが伝わってきて、千尋は幸村と自分との違いを何とはなしに察した。その余裕がほしい。強請るのは簡単で、だからこそ千尋は負けじと分析に自分の考えを差し挟んだ。
 千尋は脇を抜いて一発でポイントを得る方を選んだが、幸村の回答は今、ポイントを得るのにはこだわらず、この後の試合展開も含めて、相手の体力を奪いつつ、自分のペースを守るという長期的視野に基づいたものだった。

「鬼畜か」
「普通だよ。三日間、試合があるなら最後に勝てるように戦わなくちゃ」
「いや、普通に考えてお前ならそこまでする必要ないだろ」
常磐津、知ってるかい?」

 ライオンはウサギを狩るときも全力を尽くす。
 特に自慢げでもなく幸村が言う。ああ、そうだな。お前はそういうやつだよ。胸中で納得して、千尋はその感想を吐露することなく飲み込んだ。
 それに、と不意に幸村の言葉が続いた。

「このまま勝っていけば、俺はレギュラーにはなれないだろうしね」

 全戦全勝を疑わない。その自意識が過剰なのかそれとも真実なのかは彼と過ごしていけばいつかの未来にわかるだろう。既に半分以上答えは持っている感触があったが、千尋の自尊心がそれを受け入れない。絶対に敵わない相手だと認めたくない。いつか必ず勝ってみせる。
 だから、今は好敵手としての立場を譲らない。
 まずは最終リーグに残って、芳しい成績を残す。
 ただ、千尋にはもう一つわからないことがあった。

「それなんだよな。どうして上から七人除外なのかわかんねー」

 強いものが試合に出る。全国大会はリーグ戦ではない。トーナメント戦だ。一度でも敗北すればそこで試合は終わる。上位校に入れば負けても次の可能性は残るが、立海テニス部が目指すのは全国大会での優勝だ。今年は必ず優勝を、と誰もが思っていた。
 その為にも、出来るだけ強い選手をレギュラーにするのが普通だと千尋は思っている。
 だのに、千尋の疑問を聞いた幸村は驚いた顔を隠しもしなかった。

常磐津、それ、本気で言ってる?」
「え? 本気だけど?」
「お前って本当にテニス以外は度外視してるんだね」
「いや、普通に煽りとかいいから」

 呆れられている、というより憐れまれている、というのが幸村の語調から伝わる。
 ただ、それは彼にとっては悪辣な冗談で本当に蔑まれているのかどうかの区別は出来る。
 多分、幸村の世界には千尋ほど短絡的な思考を持っている人間がいないのだろう。
 少しだけ困った顔になった幸村が問う。

常磐津、テニスプレイヤーにとって一番怖いのは何かわかってるかい?」
「負け?」
「負けにも色々あるだろ。力及ばず負けるのはいい。次があるから」
「いや、よくないだろ」
「いいんだよ。次があるなら、そのときに戦えばいい。でも」
「でも?」
「故障したら『次』はいつ消えるかわからない」

 一番、怖いのはテニスプレイヤーとしての未来を失うことだと幸村は言った。
 運動部に入れば誰もが思う。もっと練習をしたらもっと上手くなれる。確かにそれは一つの真理だ。練習もしないで上達することは出来ない。実際、千尋たち特待生も立海テニス部の練習に参加したり、自主練をしたりすることで多少の成長はした。これからも練習は続いていくから、将来的にはもっと強くなる可能性が残っている。
 けれど。

「立海のレベルで、県大会なんかで一番強い選手を使うのはリスクしかないじゃないか」

 立海テニス部の過去十年間の戦績は千尋も知っている。県大会優勝は当たり前。関東大会も優勝で、全国大会でも準決勝以上が普通だ。それなのに最初から一番強い選手を使う必要はない。試合数が増えるにしたがって、故障するリスクも増える。本当に勝たなければならない場面で上位七名を使う。
 そこまで説明されて、千尋はようやくこの部活のシステムと合理性を理解した。

「ああ、なる。そういうこと」
常磐津。全然納得した顔、してないけど?」

 理屈を理解するのと、感情で納得するのとは別の問題だ。千尋は馬鹿だから合理性の重要性がわからない。無駄の何がいけないのだろうとすら思う。要は顧問たちが、立海の勝つ可能性を大きくしたいのだ。県大会から始まって、関東大会、そして全国大会。全部勝てばいい。戦略的布陣がどうした。強いものが戦って勝つ。その簡潔で明瞭な事実より、千尋を納得させる理屈はない。
 本当の勝者というのはそういうものだという偶像が千尋の中にある。
 多分、この偶像を描かせたのは幸村だ。颯爽と勝っていく。その力強さを否定出来るやつがいるなら、出てくればいい。千尋の至らない弁舌で何度も何度でも否定してやる。
 だから。

「お前だって試合出たいくせによく言う」

 テニスという競技は一人では出来ない。対戦相手がいて、その相手に勝つことが目的だ。練習試合は、本当の試合で勝つ為の準備であって最終目的ではない。広義的に言えば、レギュラー選抜戦だって試合だが、ここで勝つことで充足するようなやつは別の、もっとレベルの低い学校にいた方がずっと楽しめるだろう。
 幸村が勝てない相手はいない。それでも、幸村は本当の試合を求めている。そうでなければ、もっと適当な試合をすればいい。彼の実力なら、適当に拮抗した展開、という欺瞞を演じることなど容易いだろう。
 だのに、幸村はそうしない。
 そのことが幸村の心中を何より雄弁に語る。幸村は全力で試合をして、そのうえでの勝利を求めている。結果が6-0でも7-5でもいい。試合をして勝ったという結果が必要なのだ。
 馬鹿で要領を得ない千尋ですらその事実を認知している。聡明な幸村本人が、何も気づいていないなどということはあり得ないだろう。
 煽るように言葉を返す。
 隣に座った幸村が複雑な表情を見せた。入学して以来、初めて見る幸村の困惑に千尋は小さく動揺する。

「当たり前だろ。自分が試合に出なくて、それでも学校が勝つならいい、なんてやつは立海に来たりしない」

 常磐津、それはお前も一緒だろ。
 常勝立海。その王者としての風格に惹かれたものがここにいる。実力もないくせに、勝利の余韻だけを味わおうとした新入生は、四月二週で退部した。技量が追いつかない。練習に付いていけない。こんなに苦しい思いをする為に部活に入ったのではない。適当な気持ちで立海の練習を続けることは出来ない。気持ちで負けたやつは去った。今、ここに残っているのは技量が伴わなくても、現時点では全敗を喫することが確定していても、それでも上を目指す意思のあるものだけだ。
 一年生である幸村や千尋に負ける上級生もいる。それでも、上を目指すテニスをしている彼らは、千尋たちに負けたことを屈辱だとは思わない。次に勝利する為の良薬だと思える。そういうものしか、立海テニス部には残っていない。
 だから。

「皆、勝ちたいと思ってる。今度こそは自分がレギュラーだと思ってる。一般生も特待生も関係ない。それなのに、勝てる試合でわざと負けて、上から七枠の計算をするのが相手にとってどれだけの侮辱か、お前にだってわかるだろ」

 上位七名になったら、次の七人に黙って県大会を託す。必ず、勝ってくると信じて託す。それがレギュラー選抜戦の勝者に課せられる義務だ。関東大会の前にはもう一度レギュラー選抜戦がある。今度は上位七名が本当のレギュラーになる。実践という圧倒的に中身の濃い経験をした県大会レギュラーと戦って、そこで負ければその選手の実力はそこまでだ。一度も公式戦に出ないまま夏の大会を終える。
 立海テニス部の部員数は多い。多いと言っても百人単位の部員を抱える東京の私立中学ほどではないが、公式戦に出場出来る限られた人数から言えば圧倒的に多い。
 コートの外で公式戦を応援するだけの部員というのは必ず存在する。
 そうなるとわかっている相手を憐れむのは容易い。適当にいい試合を演じるだけの実力が幸村にも千尋にもある。そうして、適当にいい試合をさせられた相手が本当に喜ぶのか。公式戦に出る為に負けを演じて、それで相手は納得出来るのか。
 幸村はそれを侮辱だと表現した。
 その表現は千尋の胸を抉って消える。

「お前、凄いな」

 不意にそんな言葉が千尋の唇から零れる。本当に、心の底からそう思った。若干十二で、どうしてそんな先々のことまで考えられるのか。素養と人としての器の違いをまざまざと見せつけられて、千尋は舌を巻いた。
 根本的に立っている土台が違う。
 幸村に勝つ、という言葉の意味がわからなくなって、それでも彼にそうと悟られたくなかったからポーカーフェイスを続ける。ベンチの横に二人。並んで座っている。そう言えば対等の存在であるように聞こえるが、千尋は幸村と自分との間には目には見えない距離があることを知った。

常磐津、それは嫌味?」

 十分ほど前に千尋が問うた言葉が返って来る。
 千尋が幸村との間に距離感を覚えたのを幸村は察している。コートの外では直情径行。柳蓮二にそう評されたのを不意に思い出した。ポーカーフェイスを気取ったが千尋の心情など幸村には容易く見通せるのか。そう思ってまた距離感を覚える。
 それでも。
 敵わない相手だと線引きをしたくない。いつか千尋が幸村に勝つ日が来る。辛勝でも何でもいい。タイブレークの末の勝利でも何でもいい。何でもいいから彼に勝ちたい。
 その気持ちには何ら変わりがなかったから、千尋はもう一度表情を作りなおして答えを返した。

「全然。倒す目標は凄い方が達成感あるだろ」

 幸村がそうしたように千尋もポジティブな返答を選ぶ。幸村が一瞬だけ息を呑む。そして、何でもなかったかのような自信に満ちた笑顔で言う。

常磐津、最終リーグでも俺が勝つから達成感は当分諦めなよ」
「言ってろ。俺は絶対にレギュラーに残るんだよ」
「その言い方だと八位以下が確定してるけど?」
「お前、本当に息をするように煽るよな」
「いい加減嫌になった?」
「最初から嫌な感じだよ、お前。でも」
「でも?」
「もう一度だけ言ってやるよ。倒す目標は凄い方が達成感あるんだ」

 だから、千尋は幸村に怖じたりしない。遠慮もしない。敬遠もしない。
 直情径行の何が悪い。正面からぶつかって、何度も心が折れそうになって、それでも何度でも立ち上がり続ける。傷だらけかもしれない。諦めたくなる日が来るかもしれない。
 それでも。

「俺がお前に勝つまで、絶対に誰にも負けるなよ幸村」

 その日が訪れるまで膝をつかない。決して俯かない。涙を流すのは勝利の歓喜だけでいい。
 だから。
 次の試合の準備を始めた幸村の背に喜色が滲んでいることを視界の端に捕えて、千尋は自らを鼓舞した。最終リーグ進出者候補の二人の先輩に負けない、という戦意はまだ捨てていない。その為のイメージを描く。
 自分で言った通り、一分の手加減すらない幸村の試合が始まる。圧倒的なワンサイドゲームを眺めながら、思う。千尋の戦いはまだ始まったばかりだ。焦ることはない。
 心地よく響くインパクト音と審判のコール。
 千尋はこの空間が好きだ。だから、まずは勝利のイメージを描く。そして、それを実行に移す。負けた試合は引きずらない。反省して傾向と対策を打ち出せば次へ進む。
 今はまだ遠い、幸村の背が雄弁に語る。追って来い。同じ高さまで上って来るのを待っている。だから、千尋は下を向かない。
 必ず追いついてやる。
 その決意が勝利を呼び、レギュラー選抜戦の初日最後の対戦で三年生レギュラーを相手に7-5というスコアで勝つ。番狂わせだと周囲はどよめいたが、唯一、幸村だけが納得していたのを千尋はまだ知らない。